新しい私、こんにちは
途方に暮れてソファの背もたれに手をつくと、柔らかな感触に手を取られた。触れた手の下に、見覚えのあるローブが掛かっていた。
「この服……ん?」
ローブを持ち上げると、白い便箋が一枚、蓮――アリシアの足元にひらりと落ちる。
真白の表面には細い線で宛名が書かれていた。知らない文字だと眉を寄せた瞬間、黒い線は躍るように弾け、別の文字へと組み代わった。アリシアは不思議な感覚に目を回した。刻まれた文字は直線の多い文字に変わっていく。日本語だ。
アリシアはすぐさま手紙の封を開けた。手触りの良質な白い便箋が二枚、中に入っていた。
折りたたまれた手紙を開き、まず一番上の行に記されていた文字を見て、アリシアは目を見張った。〈新しい私へ〉という書き出しから始まっていた。誰に宛てた手紙であるのかを考えなくても、視線は自然と下の行へと移っていた。
『〈新しい私ヘ〉
まず初めに言っておくと、この手紙を読めるのは私だけ。そしてこの手紙を読むあなたは、もう私になっているということね。
新しい私、こんにちは。
私の名前はアリシア。アリシア・ミシャル・ハイン・リベラ。魔法使い。そしてこれはこの先あなたの名前になるものだから、よく覚えておきなさい』
「そう、そうだ……私はアリシアって名前で……――まって、魔法使い? 私も魔法が使えるの!?」
アリシアは腕に掛けていたローブを見つめた。確かに、想像にあるような魔法使いが身に纏っているローブにも、見えなくもない。それに、先程の青年――ノアも、摩訶不思議な力を使っていた。
「もしかして浮いたりする、とか?」
どきどき、と心臓が波打つ。魔法が使えるなんて、夢みたいだ。そう期待に胸を弾ませて、物の試しにアリシアは「浮けっ」と声を飛ばして見たものの――何も起こらなかった。
「そっ、そりゃ、そうだよね! あは……はは……」
一気に顔が熱くなる。急激に恥ずかしくなって、アリシアはローブをソファに掛け直した。
『――今のあなたはどのような存在なのかと言うと、私の身体の中に、あなたの魂が入っている状態なの。魔法を使って、私の魂と、あなたの魂を
「魂を置き換えたって、どういう……」
『なぜこの手紙を書き残したのかというと、あなたに伝えたいことがあったから。
まず一つ目、これはとても大切なことなのだけど、私あなたにとても感謝している。感謝してもしきれないくらい感謝してるわ。本当に、私のことを助けてくれてありがとう。
もしよければ、その身体は自由に使って。なんでも好きなことをして。この部屋や、ここにある物、私の資産の全て、何をしても構わない。これから大変なこともあると思うけど、あなたの第二の人生が良いものになることを願っているわ』
冒頭部分にはそのような内容が書かれていた。
アリシアは手紙から顔を上げて、木枠に
しかしどのような事情があって、身体を受け渡せたことに感謝し、助けられたと礼を言うのか、アリシアにはさっぱり見当がつかなかった。この身体に入っているのが
ふと、洗面台に落ちていた錠剤を思い出して、アリシアの背筋に嫌な予感が走った。若い女性が大量の薬剤を摂取する機会とは、どのような場合だろう。病気か――はたまた、自分の命を絶つための――。
「――自殺」そう思い至り、けれどもアリシアは首を横に振った。「もしかして……死んじゃったの? 自分が死にたかったからなの? や、でも……そんなのは考えすぎだよね……」
アリシアは途方に暮れていた。こんな状況になるなど誰も想像できなかっただろう。――元アリシア以外は。
全ては彼女の思惑の内、手のひらの上で転がされている。蓮は彼女を助けるとは言ったが、少なくともそれは、身体を貰い受けるという、得体の知れない奇怪な出来事を念頭に置いて同意したわけではない。――とりあえず、アリシアはそのまま先を読み進めることにした。
『二つ目、あなたを支えてくれる召喚獣が部屋にいるわ。私が契約しているけれど、きっとあなたにも有効であるはず。
その子なら、身の回りの世話も、なにもかも、あなたを助けてくれるでしょう。今は眠っているから、右端の本棚の一番右上にある本を開いてみて』
「しょ、召喚獣」
アリシアは手紙から顔を上げ、本棚に目を滑らせた。本棚には
「ははっ、映画とか漫画とかゲームみたいな世界」
アリシアは一番右端の本を手に取った。古書を思わせる重厚な書籍はずっしりと重たく、表紙に描かれた文字や絵は擦り切れたように掠れていた。
「『汝の名を告げよ』――って、なにこれ」文字が自動で組み代わり、辛うじて読めるタイトルにアリシアは首を傾げた。「汝って私のこと? えぇっと、私の名前は、アリシア。アリシア……えー、……ミシャル……ハイン、リベラ? うーん、外国の人みたいな――」
名前だ、と口に出そうとしたその時。心臓のあたりで何かが熱く
アリシアは閉じていた目を開いた。
本は風に
今度はページ同士の隙間から
「ちょ、ちょっとまって、まぶしっ――!!」
【おはようございます、御主人。約一週間ぶりに我が
「わっ、な、なに――えっ、なにっ!? なんなの!?」
【新鮮な反応をありがとうございます。だけど……、おやおや? なんだか若返りましたか、御主人】
「こえ!? めちゃくちゃ良い声が聞こえるけど――ま、前がみえない!」
【これは失礼いたしました。ボク、久しぶりの外界につい気が
低く落ち着いた声が何処かから聞こえてくると、次第に目映い光が弱まり始めた。アリシアは恐る恐る薄目を開く。今だ目の奥がチカチカと点滅しており、
視界の端で、丸くふわふわとした白いものが揺れた。
手の中にあった本の表紙は真っ新となり果て、奇妙な題名も掠れた絵も、綺麗さっぱり消えている。その代わり――代わりと言っていいのか――アリシアの目の前には、小麦色をした丸い生き物が浮かんでいた。
身体は犬のようだが耳は兎のようにピンと真上に向かって立ち、身体を覆う毛の量は犬のものよりも随分と柔く盛り上がっている。細身の見た目であれば狼や狐の如く格好の良い姿であろうに、丸いフォルムがなんとも残念に思えてならない。かろうじて、少し餌を与えられすぎて肉付きが良くなりすぎた、犬。
まずアリシアはそう思った。そう思ったものの、そうは思えなかった。
何しろ綿毛のような尻尾は身体の倍ほど長く垂れさがっている。そして背中には、小さな羽が二つも付いているのだ。
そこへさらに、目の前の存在は、アリシアに通じる言葉を喋っているのだ。人と意思疎通をすることができる。――それはアリシアの知る、『犬』ではない。
「――へ、へんなせいぶつ」
浮遊していた生物は目を見開いて、ぐっと顔をアリシアに近づけた。
【へんな生物!? いくら御主人であってもヘンと言われる筋合いはありませんとも。ボクにはきちんと『アンバー』という名がありますし、ボクはれっきとした
「ゆうよ、くれ……? へ、へんなせいぶつが、しゃべってる……」
【喋りますし喋れますとも。あなたが喋れるようにしてくれたじゃないですか】
アリシアが今日何度目かにもなる絶句の状態で固まると、頬を膨らませて憤慨した小麦色の生物が白い鼻頭をスンと動かして、アリシアの匂いを嗅いだ。そして、その大きな金のドングリ
【もしやあなた、御主人ではない?】
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