放り投げられた
「一体どうされたんですか、らしくない……。マ、確かに、あなたは興味があることと魔法に関すること以外なんて、覚えていられないような人だけどさぁ。人に興味なんてないけどさぁ。俺の名前も忘れてしまったなんてヒドイです。俺はノアですよ、ノア・エヴァンズ。一か月と十五日前からあなたの
「や、うん。うん……そう、私は、アリシアだ。アリシア……それであなたはノアだ」
「ほんとに大丈夫ですか?」
蓮がブツブツと呟いていると、黒髪の青年――ノアは心配そうに顔を覗き込む。そして差し出した手のひらを動かし、蓮の顔の前に指を四本立てた。
「何本に見えますか」
「よ、四本?」
「じゃあこれは」
「三本……」
「これで?」
「……な、七本?」
「うん――。よし、合ってます。どこか具合の悪いところは?」
蓮は目を閉じて呻いた。夢だ。きっとこれは夢なんだ。
「頭が、痛い。ちょっと、ぼーっとして」
「あたま」
ノアは怪訝そうな顔をしながら、蓮の手を引いて立ち上がった。彼はそのまま勝手知ったる自分の部屋のようにキッチンへと向かい、迷いなく戸棚を開けた。この部屋の住人であろう一方の蓮は、所在なく廊下をうろついていた。
「少し待っていてください。コーヒー、淹れてきます」
「こ、こーひー?」
「ええ。コーヒーですよ。……俺はやめた方がいいと思いますけど、頭が痛い時はいつも飲んでいたじゃないですか。『コーヒーは安定剤だ』って」
「えっ、頭が痛い時にコーヒーって飲むっけ……」
「何か言いました?」
「い、いや、えっと! ――じゃあそれで、お願いします!」
がしゃん。何かが割れて、蓮は肩を跳ね上げた。
「お、おねがい、します……?」
ノアは手にしていたカップをフローリングの床に落とし、真っ青な顔で振り返った。カップは陶器特有の硬く高い音を立て割れ、破片が足元に散らばった。
「だ、大丈夫ですか!? 今、掃除機かなにかを……ちょっと待って、あれ、どこにあるんだろ」
慌てて辺りを見渡した蓮だったが、はた、と動きを止めて、もう一度ノアを見る。
ノアは目を見開いたまま蓮を凝視して固まっていた。「だい、じょぶ、ですか……って?」と、さも初めて耳にした言葉みたく、茫然と片言で呟いている。
蓮の背筋に冷たいものが走った。反応を間違えたのだ。この青年は敬語を使っているのだから、もしかしたら蓮のほうが立場が上なのかもしれない。
「あっ、いや、お願い」
「お願い……」
「う、うん」
蓮が曖昧に頷くと、ノアはさらに眉間の皺を深める。蓮の言動を不自然に思っている表情のまま、その手はくるりと宙で円を描いた。「【レヴィス・アステ】」――そうノアが言葉を紡いだ次の瞬間、割れたカップが元通りの姿に戻って、ノアの手に収まった。
蓮は驚きのあまり声を上げそうになり、とっさに口に手を当てた。床を見れば破片の一つも転がっていない。時間を巻き戻したかのように元通りのカップだ。
「インスタントでも? あ、そっか。インスタントしか無いんでしたっけ」
そう聞いたノアは、蓮の答えを聞かないうちに手元で瓶のふたを開け、またもう一振り手をリビングに向けて振った。
――いったい、何が起きてるの。
わぁ、と心の中で蓮は小さく驚きの声をあげてから、その言葉を失った。
まるで強盗にでもあったかの部屋が、みるみるうちに綺麗になっていった。足元に散乱していた本が浮かび上がり、本棚に向かってゆっくりと飛んで行けば、粉々に割れた陶器の破片が集まって、大きな花瓶に戻る。倒れた椅子や机はひとりでに起き上がり、天変地異を起こしたかのような部屋の中身が定位置に収まっていった。
「どうぞ」
いつの間にか目の前に立っていたノアが、すっとカップを差し出していた。突然目の前にいるものだから、蓮は半歩後ろへ下がってしまった。
先程見た摩訶不思議な光景は、幻視だったのだろうか。それとも、早く受け取れと言う表情でカップを差し出す青年が見せたマジックだとか。もしかしたら今このカップを受け取ったら、中身が零れるのではないか――。蓮は指先を震わせながら、そっとカップを受け取った。カップは割れなかったし、普通のカップだった。
「このカップ――」
「ン、ああ、すみません。落としてしまって。でも、もう元通りですよ?」青年は何でもないように言った。
「そ、そうみたいね。あ、ありがとう」
蓮は口に染みついたお礼の言葉を、どもりながら言うことしかできなかった。するとどうだろう。ノアは、まるで目の前にいる幽霊の存在を改めて認識したかのような表情を、顔に張り付けていた。
「い、いえ……。どういたしまして……」
二人の間に、微妙な空気が流れていることだけは感じる。
一体全体、この身体の持ち主は、この人にどんな態度を取っていたのだろう。見当もつかないし、全くもって分からない。もう訳が分からなかった。
訝し気な視線から逃げるために、蓮は両手で持ったカップを口に運んだ。近づけたコーヒーの茶色の水面には、ぼんやりと別の顔が映っている。悪い夢を見ている気分なのに、カップは熱を持っているし、口に付けたコーヒーに舌がヒリヒリと痛んだ。夢ではない証拠を、はっきりと突き付けられていた。
戸惑いから抜け出せない蓮を置いてけぼりに、ノアが口を開く。
「そうだ。シア、招集がかかっているんです」
「しょ――招集?」
蓮は首を傾げた。しょうしゅうって、なに。そう聞き返してしまいそうだった。
「そうです! そのコーヒーを飲んだら、早く準備してくださいね。そのまま現場に行きますが、まず服を着替えて……。何着かありましたよね。俺は外で待っていますから」
そう言い残して、ノアは素早く部屋から出て行った。
蓮はまた静かになった部屋を見渡した。
この部屋に人が住んでいたという気配は、まるでなかった。手にしていたカップを置きにキッチンに行けば、一度も使われていないような調理器具が整然と並べられている。戸棚や格納庫の中はすっからかん。冷蔵庫のような冷たい四角い箱があったが、中には何が入っているのか分からない瓶が数本だけ残されていた。
よく見れば、あの摩訶不思議な力はこの部屋の至る場所に存在していた。
窓際に置かれた棚の上にある小瓶の中には、見たこともない石の結晶が置かれている。花を象る水晶が柔い光を明滅させ、息をしているのだ。何かの花と分かるものもあれば、蕾もある。その形も色も、大きさもバラバラだったが、淡い彩の光が溢れていた。
「わっ……、すご……。いや、なんなの、これ」
その隣にある木が、小さな葉をふるりと震わせた瞬間。見事な黄色の花がぽっと咲く。
にゃあ、と声が聞こえて振り返れば、ベッドボードに置かれていた金色の猫の置物が、その前足を出して背をしならせた。本の表紙に描かれる絵は映像のように動いているし、壁に掛けられた小さな絵の中では、夕日を背にした大草原の中で、少女と老婆が嬉しそうに手を振っている。
絵に向かって小さく手を振り返してみれば、少女は身をかがめて花を摘み始めた。差し出された花束を微笑ましく眺めると、絵の中の少女の手から花束が消えた。ぽん、と音がする。振り返れば、机の上の花瓶の中に、少女の持っていた花束が生けられていた。
この光景は、まるで物語のよう。そう、例えば――。
「魔法みたいだ……」
蓮の混乱が一つ、糸をほつれさせた。一つの真相が透き通るように心の中に入ってくる。
ここはきっと、そういう世界。蓮の生きていた世界とは別の場所。あの人が――この身体の持ち主であるアリシアが生きていた世界。
その世界に、たった一人、放り投げられたのだ。
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