どうしたい?




「えっ、……えっと」


 蓮は慌てて聞き返した。


「助けてほしいの?」


 彼女は視線を移ろわせ、ゆっくりと頷いた。


 その表情は、後に続けようとした言葉を一生懸命探していた。

 まるで迷子の子供みたいで、氷のような仮面の奥に助けを求める誰かがいると蓮は思えてならなかった。それまでに感じていた女の姿が、この短い間で、少しずつ変わってきていた。


 蓮は迷いながら手を伸ばした。そしてそっと、膝の上に置かれていた白い指先に触れた。


「わ、私にできることがあるならもちろん……あっ! だけど、私にできそうにないような、ムリなお願い、とかは、ちょっと……」


 そう付け加えながら女の顔を見やると、女は顔を上げて、きょとんと、蓮のことを見つめていた。無表情だと思っていたその顔には、よくよく見れば小さな変化がある。突然の表情の変化に、蓮は言葉に詰まってしまった。


「……助てくれる?」と、女は掠れた声をさらに震わせた。


「う、うん。でも一体、なにを?」


「ほんとのほんとに?」


「えっ、ほ、本当だよ! あ、でも私……あなたの言う通りなら死んじゃってるみたい、だけど……それ、でも」


 いいのなら、と。蓮の言葉が終わる前に、彼女はその目を大きく見開く。そして、仮面のような表情をわずかに崩し、小花をほころばせたかのよう美しく笑った。


「ありがとう、レン」


 笑顔を向けられた途端、蓮の心臓は水面を跳躍する魚のように、どっと飛び上がった。


「――あ、う、うん。どう、いたし、まして」


 女の笑顔には不思議な力があった。まるで心のうちに抱いていた感情を吸い取り、いっぱいになっていた胸のつかえを取り除いていく、そんな力だ。悲嘆、困惑、苦痛、後悔、懐疑。彼女のその笑顔を見た途端、全てが何か別のものに取って変わってしまったような心地になって、蓮は自分の胸に手を当てた。


「大丈夫。心配しないで」


 つまるところそれは、安堵だった。その笑顔に見惚れてしまった蓮の不安は遙か遠くに吹き飛ばされて、静かな声だけが鼓膜に響いていた。


 絶世の美女と言うのは、目の前の人物のことを指すのだろう。


 頭の隅のほうで、蓮はそんなことを考える。足のつま先から頭の上の艶やかな黒髪の一本までもが、洗練されたように支配されている。その全てが、まごう事なき神からの恩恵が、彼女という人間を創り上げているのだ。


(ああ、やっぱり綺麗な人だな)


 もし、誰かの人生や運命の道を全て狂わせてしまう美女がいるというのなら、それはきっと、目の前の人のことを言うのかもしれない。


 目を離せずにいた蓮は、随分と間抜けな顔をしていたのだろう。薄い微笑みを浮かべてから、彼女は、蓮が触れた手とは反対の、その白い陶器のような指先をすっと伸ばした。


「まだ、消えたくないのね」

「え?」

「死にたくないって、言ったわよね。大丈夫。あなたは、は、まだ死なないわ」


 氷のように鋭く冷たい彼女の指先が、蓮の頬に触れ、頬骨の上を親指で撫でてゆく。まるでその形を愛おしく確かめるように、そっと慈しむように。


「私も、あなたを助けてあげる。さあ、選んで。あなたはどうしたい?」


 彼女はひどく不格好な笑みを浮かべていた。それが蓮の記憶に残る、彼女の最後の表情だった。




 *****





 ぐん、と引っ張られた。


 身体は自らの意思の制御下になかった。全身が痙攣を起こしている。手足はまるで動かず、びくんと身体が何度も飛び跳ねた。皮の下が痛みを帯び、熱いものが駆け巡って、内側が焼き切れてしまいそうな熱を持つ。肢体が引き千切られた。そう蓮が錯覚するほどの痛みに侵されている。


「あ……ガ、アッ、ぅく、……みっ、みず、水……!」


 言葉にできないほどの喉の渇きに襲われ、喉の内側が締め付けられて鋭い痛みが走る。口内には唾液も無く、乾いて干乾びた砂漠のようで、蓮は喉を掻きむしった。水。水が欲しい。水が。


 蓮は朦朧もうろうとする意識の中で、何とか立ち上がった。視界は何重にも歪んで見えていた。ぐるぐると景色が回って、今、自分が何処にいるのかも定かではないのに、身体は水を求め続けている。


「ぁぁあああああ――ッ!」


 蓮は身悶え、のた打ち回った。ふらつく身体が手当たり次第、周囲のものに打ち付けられた。呼吸ができない。空気を求めるように口が動く。それなのに肺は動いていない。喉が焼け付く。


 死んでしまう――ちがう、死んだ。死んだのに、なぜ。どうして。痛い、痛い、痛い! 助けて、助けて。おばあちゃん。朝陽、だれか、助けて――


 ゴトッ、ガシャーンッ――大きな音が頭上で聞こえた。


「あ――、うグッ!」


 音が耳元でぜ、その次の瞬間、熱いものが頭から流れ出た。頭に生じた痛みは脊椎せきついを走り、身体を上から下へ駆け巡った。


 蓮は立ったまま頭に手を当てた。歪んだ視界の中が真っ赤に染まる。どくどくと体温が失われていく。生暖かな熱が米神こめかみを伝い、瞼の上を滑り、耳の裏へと流れていった。前後も上下も左右も不覚になって、身体を支える力が失われていく。


 そして、視界は黒く染まった。



 ――はっと身体が起き上がる。


 蓮は深い眠りから突然叩き出されて覚醒した。そこには微睡みも睡気も倦怠感も存在していなかった。


 座り込んだまま、蓮は呆然と自分の周囲を見渡した。


 窓を隠すように引かれたカーテンの隙間から、柔い光が漏れ出ている。外は明るいのに、室内は仄暗く暗然と静寂に包まれていた。床一面が散々な状態でなければ、とても整った部屋であったはずだ。それこそ、誰も暮らしていない、生活感のない、モデルルームのように。


 統一感のあるシックな部屋の中は荒らされたようにぐちゃぐちゃだった。物が落ち、椅子と机がひっくり返り、本棚は倒れていた。誰かが荒らしたのだろうかと蓮は思った。


 けれども床に散った赤い点と、その中で割れていた陶器の破片を目にした時、蓮はその考えを止めた。――血? 触れるとそれはまだ乾いておらず、蓮は白い指先に合わせて床にすっと線を描いた。陶器にも赤染みが付着している。誰の血だ。自身の頭や身体には痛みがない。周囲を見渡しても、蓮以外の人の気配はなかった。一体、この場所で何があったというのだろう。


「――ここは、どこ」


 疑問を口に出して、蓮は自分の口を抑えた。

 今のは誰の声。柔らかくて、鈴のような声。聞いたことのある声質だが、自分の声とはまるでかけ離れていた。


「え、あ……こえが」


 しかりと、触れた先の喉が震えている。蓮は自分の体温が、さーっと下へ抜けていくのを感じた。


 急いで立ち上がろうとして、視界にウェーブのかかった黒髪が揺れた。自分の髪色ではないことに気が付いて、蓮は慌てて鏡を探した。ゆっくりと立ち上がり、洗面台へと向かう。何故だか、蓮は、


 洗面台に向かえば、勝手に頭上のライトが明かりを灯した。そして照らし出された洗面台の鏡に、見覚えのあるスーツ姿の女がいた。


「だれ」


 艶やかな黒髪と青紫の瞳をした女。彼女が、鏡の中から、蓮を驚きの表情で見返している。


 蓮は目を丸くして、ぺたぺたと自分の顔に触れた。頬を引っ張って、口端を上げて笑ってみて、髪を持ち上げ、ぐるりとその場で一回転をした。


 すると、鏡の中の美しい女も、同じ動きをする。


「なんで!?」


 そう叫べば、鏡の中の女も同じ言葉を口で形作った。蓮は恐ろしくなって、洗面台からヨロヨロと離れることしかできなかった。


「あ、あの女の人? そんなっ、まって、まってまって――そう、そうだ! たしかあの時助けてって言われたんだ。それで、わたし、わたしは……なんで!?」 

 

 予想もしていなかった出来事が生じている。どれだけ考えても、この現象に対する答えは見つからない。

 蓮は座り込んで口を開けたまま、ただぼんやりと洗面所の床を眺めた。どこか暗闇に一人で放り出され、訳も分からないまま時間だけが過ぎて行くような気がした。考えれば考えるほど、わけが分からなくなって、一体全体、何が起きたのか、考えること自体が億劫になってきた。


 身体を見下ろせば、スタイルの良い身体がそこにあった。自分の貧相な身体ではないことは確かだった。


 もう一度鏡を見ようとして、今度は洗面台に置かれていた小さな手鏡を手に取った。やはりそこには別の顔が映っている。蓮は言葉を失って、へなりとその場に座り込んだ。


 これは、悪い夢だ。


「どう、どうして――どうしたら」


 頭が空っぽになった時、外から物音が聞こえた。足音が近づいてきて、どこかの扉が開く。誰かが部屋に入って来たのだ。


「シア、いますか、シアー! 一時間前に招集がかかって……わっ! なんだこれ、すっごいな。空き巣か?」


 若い男の声が近づく。顔を上げると、洗面所から見える廊下を黒髪の青年が横切って行く。真っ黒なスーツを着ていて、いかにもには見えなかった。


 青年は部屋の惨状を目にしたのだろう。驚いた声を上げて、もう一度、「シア?」と誰かの名前を呼んだ。蓮は座ったまま後ずさった。その拍子に洗面所の下の扉に背中がぶつかり、上から白いボトルが落ちてきて、ごとりと音を立てた。


「ああ、そこに。どうしたんです、座り込んで。それにひどい汗だ」


 青年が顔を覗かせて優し気に笑ったが、すぐにその視線は壁際の床に向かった。視線を追うと、そこには白く丸い錠剤が散らばっていた。錠剤に見覚えはなかったが、良いものではないような気がして、蓮は身体をさらに縮めた。


 その様子を見た青年が、仕方ないな、という表情で、座り込んだ蓮に視線を合わせてくる。


「もしかして、またやってしまったんですか。悪い夢でも? だけど薬は一つずつだって言われていたじゃないですか。それとも、新しい実験をしてたんです?」

「……わっ、わたしは」蓮は何と言っていいか迷い、口をつぐんだ。

「シア、立って、まずは着替えましょう。もしかして帰宅してからずっとその格好だったんですか?」


 紳士みたく、青年は膝をついて手を差し伸べた。シアと呼ばれていたのは、紛れもなく蓮だ。その手と青年の顔を何度も往復して見ていれば、黒髪の青年は端整な顔を怪訝そうに歪めた。


「具合が悪いんですか。困ったな、イーサンに連絡を……」


「えっと、あの」


「はい、どうしたんですか。そんなにかしこまっ――」


「あなたは、誰?」


 蓮は混乱した頭を抱えたまま、青年の言葉を遮った。青年は大きく目を見開いて、「冗談だろ」と、独り言と思える口調で唖然と呟いた。







 _______

 *今回は字数多めでした。すみません……!(´;ω;`)

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