第2話【救い / Salvation】

あなたは死んだの、あの青い炎で




【第2話 救い / Salvation】





「目が覚めた?」


 蓮は瞬きを繰り返した。一回はゆっくりと、二回、三回目は少し早めに。瞬きをするたびに、視界が明瞭になっていく。

 目の前の女の存在は幻ではなかった。黒服を着た女は前かがみになって、仰向けに寝ていた蓮の顔を覗きこんでいる。


「ねえ、起きてる?」


 鈴音みたいな涼しい声が響く。蓮は青紫の瞳から視線を離さず、緩慢な動きで、首を縦に振った。


「そう。それなら良かった」


 波打つ濡れ羽色の髪を肩から流れ落とし、女は自身の上体を起こしていく。蓮が立ち上がろうとして手を付くと、カツンと靴のヒールを鳴らし、女は黒のパンツスーツに包まれた細い足を後ろへ数歩動かした。


 蓮は眩しさに目を細めた。あたり一面が、気が遠くなるほどに白かった。雪景色のよりも無機質な空間。その場では蓮と、目の前にいる女ただ一人だけが、白以外の色を持っていた。

 立ち上がろうとしたが、足は石のように固まって動かない。蓮は動かない足に、ほぅと溜息を吐き出した。


「い、息が……イタッ!」


 まるで久しぶりに空気を吐き出した様な違和感を感じると、つきん、と頭に痛みが走る。蓮は両手で頭を抱えた。

 

「――わ、わたし死んだ? えっ、し、死んじゃったの? だって、だって火が――!」

「ええ、そうよ。あなたは死んだ」

「え?」

「あなたは死んだの。あの青い炎で」


 目の前のひとは冷淡な声音で告げた。

 

「わたし――わたし」


 身体の奥底がぐっと下へ引っ張られ、その一番深い所から、悲しみがぐつぐつと湧き上がってくる。突き刺さるような悲しみに、蓮は胸を抑えた。

 記憶が匂いや音とともに甦った。――喉に刺さる黒煙。轟々と燃え盛る炎。全てを思い出す。朝陽の顔が浮かぶと、鼻の奥がツンとして目頭が熱くなった。死んだ――、死んだんだ。その事実が受け入れられなくて、頭の中までもが白く塗りつぶされてくる。


「わ……わたしやっぱり死んじゃったんだ……はは、あはは」


「なぜ笑うの?」不思議そうな問いかけだった。「人を助けて自分が死んじゃうなんて、馬鹿みたいだった? 死にたくなかった? もっと、生きていたかった?」


 美しい目の前の女性の顔には、微笑みも冷笑も哀れみも、何一つない。さながら精巧な人形のように、乾いた表情で口を開く。


 ――うらやましいわ、あなた。


「え……」


 最後の言葉はよく聞こえなかった。蓮はその声の主をちゃんと見上げて、改めて息を呑み込んだ。

 女性は闇に解けてしまいそうな程のブラックスーツを見に纏っている。肩には金糸の刺繍があしらわれたこれまた真っ黒なローブを軽く羽織り、その裾を足元で引き摺っていた。


 彼女は、蓮が今までに見たことないほど、美しい女性だった。モデルのような均整の取れた手足に、透き通った雪膚せっぷの肌。ほんのり赤く色づいた潤う唇。ゆるくウェーブのかかる艶やかな黒髪は、曲線の美しい胸元に掛かっている。


 何より一際を引くのは光の加減で色味を変える青紫の瞳と、スっと伸びた背筋だ。それが彼女の凛とした雰囲気を醸し出している。テレビや雑誌、インターネット上で褒められている人たちなんて、足元にも及ばない。大輪の牡丹のように、綺麗なひと。


 思わず息をついてしまいそうな所を踏みとどまって、蓮は目覚めてこのかたの疑問を口に出す。


「あなたは、神様? でもここは、えっと……あの世、ですか?」


 死ぬ以前であれば、死ねばどうなるのか、想像もしていなかった。天国や地獄があると信じていたわけでもなかった。


 もし本当にがいるとしたら、「そうだったのか」くらいには理解ができる。生きている人間の誰もが知り得ない秘密を知れたのなら、それは胸が高鳴るけれども――……その存在がぴしりと黒スーツを着て、豪華なローブを羽織っているなんて、誰が想像できるだろう?


「うーん」


 蓮の戸惑いも緊張も余所に、女はどこか困った様子で首を傾げた。初めて、蓮は、氷のようなその顔に感情が映ったような気がした。


「どこかと言えば説明が出来ないけど、少なくとも『あの世』――死後の世界かしら、そういう場所ではないわ」

「あ、あの世じゃない? じゃあ、天国か、地獄……」

「その『てんごく』、とか、『じごく』、という場所でもない。ここは私たちの世界。私たちの魂の中」

「た、たましい?」


 蓮は困惑した。魂とはなんだ。よく分からないことを言い始めた女は、数歩前へと足を出して、まだ立ち上がれない蓮の前に屈む。

 不思議な虹彩の瞳と視線が合い、蓮はドキリと肩を揺らした。同時に目の前の女のことが恐ろしく思えてきて、逃げるように肩を仰け反らせる。


「誰かを助けて、自分は死んで、あなたは後悔してる?」と、女は蓮の顔を覗いて問うた。


「こう、かい?」


「そう、後悔。あの時、すぐに逃げればよかったの。部屋を出た時、声を聞いた時、クローゼットを動かそうと思った時、天井が崩れた時。いくらでもあなたが生きるための分岐点はあった。そこで違う道を選んでいれば、あなたは死ななかったのよ。もちろんその代わり、あの子供と女性は死んでしまったかもしれないけどね。だから、もしあなたがあの分岐点に戻れるとしたら、あなたはあなたが生きるために、やり直したい?」


 蓮は口を閉ざした。心の中に風が通るように、彼女の言葉が入ってきた。

 当然やり直したかった。戻りたい。生きたい。死にたくなかった。まだ、やりたいことがたくさん残っている。


「私、死にたくなかった。でも……」


 ――そう考えれば考える程、心のなかに「だけど」と、気持ちを覆すものが現れる。

 それは蓮の後悔を波打ち、何処かへとさらって行く。だから、後悔はあっても、その行動を、気持ちを、後悔とは名付けたくはなかった。それが蓮の答えだ。


「私は、やり直しても、きっと同じ道を選ぶ。誰かを助けたことに絶対後悔なんてしない。目の前で転んでいる人がいたら、私は手を差し出すことをためらいたくない」


 青紫の視線を強く見つめ返す。長い間、視線が合わさった。

 どれほどの時間、二人で見つめ合っていただろう。まるで時間が止まったように蓮は感じた。


 先に目を逸らしたのは女だった。彼女は長い睫毛で下瞼に影を作り、目を伏せた。


「……じゃあ、もし、私があなたに助けてほしいってお願いしたら、あなたは私を、助けてくれる?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る