そこに、美しい女性がいた




 


 そこには子供が一人、泣きながら何かを引っ張っていた。

 隣の部屋の男の子が、蓮の顔をひどく安心した様子で見上げた。その子の近くには人影があった。倒れた箪笥に、腰から下を挟まれた小柄な女性がうつ伏せに横たわっていた。


「ぬ、ぬけだせないんです。足が悪くて」


 丸見えとなった隣室には、既に火と煙が回っている。早口でそう言った女性は、いつも杖をついて歩いていた。右足が悪いと言っていたことを、蓮は思い出す。


「お願いします、そ、その子を――」

「お、おばあちゃん!」


 女性は焦燥した表情で蓮を見上げた。蓮はすぐに、男の子の口に近くにあった布を当てて抱き上げ、まだ煙の回っていない反対側の壁際に下ろした。


「な、なにを……うぅっ! その子を、つれてって……!」

「いやだ!」男の子が叫ぶ。

「煙、吸わないようにして!」蓮は口に当てていた腕を離して声を上げた。「ヒュ――ぅっ、ま、まだ、大丈夫ですから!」

「でもっ……」

「どこか怪我を?」

「う、ぐ……っ。た、たぶん、もう足が……」


 女性はその問いに、表情を苦痛に歪め、挟まれた自分の足の方を見遣る。もとから悪かった足だが、もしかしたら折れてしまっているのかもしれない。

 蓮は奥歯を嚙み締めた。大丈夫だなんて、簡単に言ってしまったけれど、その選択が正解なのかも分からなかった。もしかしたら子供だけでも助けた方が良いのかもしれない。


 けれど、見捨てて行くことは、蓮にはできなかった。蓮は力のかぎり、倒れた箪笥を持ち上げた。


「ぐっ、うぅぅ……ッ! も、う少し……!!」


 ずしりとした重みが手のひらから腕へと伝わる。歯を食いしばって力を籠めると、なんとか箪笥が数センチ上へと持ち上がった。助けないと。もう少し、もう少しだと思うと、力が十倍にも二十倍にも膨れ上がる。


「一気に上げますから、せぇのっ!」


 掛け声に合わせて箪笥を持ち上げる。何とか女性が這い出そうとしていると、壁際にいたはずの男の子が祖母の腕を力強く引っ張った。体が大きく外に出た。蓮はもう一度力を込める。


「――で、でたわ!」

「おばあちゃん!」


 蓮が箪笥から手を離せば、重たい音を立てて床に落ちる。這い出した女性の右足は真っ赤に染まっていた。見るからに歩けそうにはない。それを女性も分かっているのか、困ったように笑う。


「ゲホッ――ゲホ、つかまってください。急ぎましょう」


 怪我は右足だけの様子で、蓮は女性の右肩を支えて立ち上がり、左手に子供の震える手を繋いだ。いや、もしかしたら自分の手が震えていたのかもしれない。男の子が蓮を煤けた顔で見上げて、「おねえちゃん、ありがとう」と、場違いな笑顔を浮かべていた。


「ありがとう……本当にありがとう……」


 祖母のほうも蓮の肩口でずっとお礼を言っていたが、その表情は暗く見えた。煙を大量に吸ったのか、喉からはひゅうひゅうと掠れた息がずっと漏れ出していて、お互いゲホゴホと咳込む回数が増えてきていた。


「お――ゲホ、ゲホッ! う、……お礼は、あとで……!」


 部屋中の物が、腕を拡げた火中に掻きこむようにして飲みこまれていく。目の前の扉も、炎に舐めとられていた。

 空いた手で口元を抑えながら、なるべく身体を低くして、三人は部屋の外に出る。廊下の壁を、炎が音を立てて這いずり回っていた。


「おねえちゃん、早く!」

「待って、すぐ――」


 よかった、まだ崩れてはいない。そう思った瞬間、頭上から軋む音が聞こえてくる。蓮の全身に、ぞわぞわとした予感が走った。


「なっ……あ、危ないっ!」


 そう叫んだ瞬間、目の前が真っ暗になった。

 何が起こったのか分からないまま、耳の中がキーンとして、しばらく間、蓮は音のない世界にいた。

 熱風と煙が巻き上がり、蓮は女性の頭を抱えて蹲る。煙が喉を刺した。目の前の天井が、大きな音を立てて落下した。あ、――あの子は? 


「――おねちゃんっ、おばあちゃん――ケホ、ゲホゲホっ」


 もう前もまともに見えない状態で姿を探すと、崩落した瓦礫の向こうに小さな姿が見える。蓮は安堵に肩を落とした。


「――あ、よ、よかっ……こっ、――はやく――」


 階段に近い男の子に早く行けと呼びかけてようとして、蓮は喉に手を当てる。まずい、息が苦しい。早くどうにかして――……そう感じ取った時、肩にグッと重みがかかった。ぐったりと蓮に体重を預け、女性は意識を失ってしまっていた。


 そんな、と蓮は心の中で言った。


 足を踏み出せば鋭い痛みが走った。気付けば踝の上がぶつりと切れていて、血がだらだらと流れている。


「う……、く……」


 蓮は、肩からずり落ちそうな女性を支え直して歩き出した。崩れた瓦礫を避ければ進めなくはない。いけるんだ。もう少しだ。もう少しなのに――。酸素が足りないのか、意識が朦朧としてきていた。ぐらぐらと世界が揺れて、視界を格子状に区切る線の中が、一つずつ黒く塗りつぶされていく。


 視界の半分以上が黒くなっていた時、遠くに大きな人影が二つほど見えた。


 子供じゃない。甲冑のようなシルエットが見えて、その人がこちらに走ってきているような気がした。良かった。子供はもう一人に抱えられていた。もう少し。その人の方に向かって歩いているのに、距離がどんどん伸びていくような気がしてならない。


 バチバチと燃える赤い炎と瓦礫の間をなんとか通り抜けて、あと少しだと足に力を入れたその時。どすん、と足元が揺れた。

 蓮は体のバランスを崩した。身体の重心が、一気に下へと引っ張られた。


 ――あ、あれきっと、救助の人かな。


 ふと、頭のどこかで、シルエットに対する答えが呑気に導かれていた。

 咄嗟に、蓮は肩にあったもう一人分の身体を思い切り前方へ突き飛ばした。突き飛ばしたと言うより、投げ飛ばした。どこにそんな力があったのか、おそらく、あれが火事場の馬鹿力というのだろう。


「うぁっ」


 反対に自分の身体は後ろへと倒れていった。

 体を打ち付ける衝撃を待てども、いっこうに痛みは現れない。ぼやけた視界の中で、あのシルエットが蓮に手を伸ばしている様子が見える。

 ――あ、足場が崩れたのか。ふと、また頭のどこかで、蓮は自分の状況を他人事ひとごとみたく理解する。


 こんなことなら、もっといいアパートかマンションに住んでいれば、床も天井も崩れなかったかもしれない。防災設備がしっかりとしているところ。住なら今度はそこにしよう。それには家賃が払えるだけの稼ぎがないとだけど、と思って、蓮はぐっと上がってきた涙を堪える。

 

 世界から音が消えた。

 轟々と立つ炎も、軋む建物の音も、外から聞こえるサイレンの音も、自分の呼吸さえも。すると、記憶が、体の奥底から燃え上がった。ゆらゆらと揺らめいて、下から上へ溢れ出す炎のごとく、次々と蘇えっては消えていった。


 ――蓮に、母は最初からいなかった。三歳の時、父は蓮を置いて家を出て行った。

 誰もいなくなって、捨てられて、蓮の家族は母方の祖母だけになった。祖母は優しい人だった。高校卒業までは共に暮らしていたが、蓮が大学に進学してすぐ、役目を終えたというかのように亡くなった。病気だった。


 二十年間の出来事が、フラッシュバックのように、点いたり消えたりを繰り返す。

 もういない祖母。大学の友人。バイト先の同僚。憎たらしい優翔。そして――、唯一無二の朝陽。ああ、サトセンのレジュメ送ってないや。そんなことを考えている余裕もないはずが、時間が、ひどくゆっくりと流れていく。


『誰かの手を取って、誰かに寄り添える、優しい人になって』

『蓮、いつも笑顔を忘れずにいるのよ』


 死ぬんだ。そう改めて考えると、祖母の言葉が泡のように弾けた。蓮が押しやったおばあさんと子供が無事に助かっているといい。蓮はただそれだけを願った。


 ……あ。


 背中に衝撃が走るその瞬間、熱い波が全身を包む。赤く染まった視界が、気が付けば青く色付いていた。青の紫陽花、遠く晴れ渡る空、透き通った青海原。どこまでも、青い炎。


「青い――」


 ぱちん、ぱちん。視界の隅が黒ずんだ。ぱっと世界が白く光る。

 ぱちん、ぶつん。耳の奥で何かが切れた音。そして視界が暗転した。何もかもが消え、意識は、暗闇の底へと沈んだ。


 



*****





 真白の四角い部屋。そこに、美しい女性がいた。


 輝きを消したタンザナイトの視線が、蓮をじっと捕まえて離さない。

 神様かと思ったそのひとは、皺ひとつないブラックスーツを着ていて。

 その上に、これまた闇に溶けてしまいそうな金刺繍の黒いマントを羽織っていて。


 そして、そっと、蓮の顔を覗き込んでいた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る