許してもらえるわけ






『れ――蓮、俺だよ、優翔だ。その、ごめん。本当に、許してもらえるわけないけど……、ごめん』


 優翔は蓮の返事を待っている。言いたいことだけ言って。蓮は小さく呼吸を整えてから、重たい口を開いた。


「それだけ?」

『あ、……いや』

「それだけなら、私もう、切る」


 それしか言葉が出てこなくて、蓮は唇を結んだ。


『――待って、待ってくれ』

「なに」責めるように鋭く、蓮は聞き返す。

『――その……理由を……本当に悪かった。こんなに忙しいことになるなんて思っていなかった』


 切羽詰まった声に、蓮は眉をひそめた。隠し切れていない狼狽の色が手に取るように分かる。

 傾けたスマホの向こうからは喧騒が聞こえてくる。通勤時間の息の詰まるような駅のホーム、大勢の人でごった返した集まった神社のお祭りのような。おかげで優翔の声が聞き取りづらい。

 けれども、ある一つの声だけははっきりと聞こえてきて、蓮のスマホは手から滑り落ちそうになった。


『ね~ぇ~、ゆうちゃん? 誰と電話してるのぉ? もぉ電話なんかしないでよぉ~!』


 艶かしい女の甘ったるい声が聞こえて。耳から伝わる全神経がザワリと深いな痺れを伝えて。目の前が真っ暗になって。めまいを覚える。


「……ねぇ、今……どこにいるの、優ちゃん?」と、蓮は冷たく言い放った。


 ひゅっと短く喉を鳴らし、言葉に詰まったような雰囲気が漂ってくる。優ちゃん、なんて、蓮は呼んだ事もない。『ちょっと待って』と言われ――もしくは電話の向こうにいるヒトに言ったのかもしれない――場所を移したのか、あの声も喧騒もなにもかもが聞こえなくなった。


『今のは俺のことじゃなくて』

「……そっか。それで、他に要件ある?」

『ああ。その……来週、会えないかな』


 静かにそう切り出した優翔に、蓮は心の中で唸った。――今の声は誰。そう聞いて仕舞えばよかったのに、臆病にも蓮は言葉に詰まった。


『話したいことがある』

「……いいよ」蓮がすぐに返すと、電話口の向こう、優翔が驚いた様子に小さく声を溢した。「私も話したいことがあるの」

『わ、分かった。その……』戸惑った声音の返事に、一拍を置いて、『時間、また連絡する』と優翔は続ける。蓮はその反応に遅れた。本当に連絡をしてくれるか、と。でもこれが最後なのだと思えば、信じても信じなくても、行きつく結論に変わりはない。

「……うん」

『ありがとう、蓮』

「ううん。じゃあ、切るね」

『蓮、本当にさっきのは違う。本当だから……』

「分かった。……分かったから」


 耳からスマホを離して、蓮は赤い通話ボタンを押した。反対の手、握りしめたビニール袋がカサリと音を立てる。何度も約束を破った相手を信用できるはずがないのに、心のどこかでまた信じたいと思ってしまう自分がいる。


 ――蓮にはまだ、未練があった。未練が糸を引いていた。本気で、好きだった。


 この気持ちが、ずっと噛み続けたガムのように細長くいつまでも伸びきってデロデロに引き延ばされてもなお、優翔のことが諦められなくて。


 向こうがどう思っているのかなんて分からないけれども、もう優翔の中の蓮は、忙しい予定の二の次――もしくは三の次になっているに違いなかった。自分を優先したほしいわけじゃない。忙しいのならそう言ってくれれば、蓮だって子供じゃないのだから、理解できる。


 あくまでも電話を取る前までは、そう思っていた。けれども――。


「……あー。うわき、か。まぁ、そんなもんだよねぇ」


 蓮はスマホを握りしめて、天を仰ぐ。


「バッカみたい。未練タラタラじゃん……みっともないなぁ、わたし」


 今の泥沼のような関係になるまでの思い出が、蓮を縛る。鼻の奥がツンとなって、目の縁から零れ落ちそうな涙を拭い去った。何がいけなかったのだろう。そう考え始めると、自分の心に刻まれた引け目やコンプレックスが、むくむくと溢れ出てくる。


 蓮は歯を食いしばって走り出した。

 気持ちを断ち切るように。走って走って、さながら繋がれた鎖を引きちぎって逃げ出した獣のように、目的もなく走った。いつまでも縋っている自分が情けなかった。初めて抱いた恋心が潰えたと分かっても、それが完全に消え去ることはなかった。


 自分の部屋に帰って、蓮は着替えもせずに布団に倒れた。携帯も鞄も全部布団の上に放り投げ、そのまま仰向けになって、築数十年以上の安家賃アパートに残った天井の染みを眺める。


 部屋はいやなくらい静まり返っている。心にぼかりと、穴が空いた。

 刻々と寂しさが胸をつかみ、どっと寂しさが溢れ出す。泣きたくもないのに、こめかみを熱いものが伝っていって、蓮は両手で顔を覆った。


 ――なんでこんなに悲しいの?


 手のひらの隙間から涙が流れていく。止めたいのに涙は流れ続けた。蓮はしゃくり上げながら、身体を丸めて小さくなった。


「う、ぅっ……うう……っ」


 深い失望感に襲われて、何もできずにいる。ただただ悲しかった。捨てられた。捨てられたんだ。まだ好きだからこそ、自分が惨めで惨めで仕方なかった。





 *****





 ――あつい……それになんだか……うるさい……

 ――あっつい……頭が痛い……

 ――あれ?

 ――へんな匂いが……

 ――なんだろう、何かが、燃えてるような……


 泣いて寝てしまって、目頭と頬が焼け付いたように痛んでいた。腫れぼったく開かない目を擦りながら、蓮は身を起こす。視界がやけに暗く、赤い。


「あ……え、……まっ、か?」


 ごうごう、燃える赤い炎。

 鼻につく、嫌な匂い。

 ぱちぱち、全てが焼ける音。

 肺に突き刺さる、熱い波。


「か、火事!?」


 蓮の眼前に、火の海が広がっていた。


「うぁっ、ああ! にげ……ゲホッ!」


 煙を吸い過ぎてしまったのか、ひゅうっ、と喉の奥でイヤな空気の音がする。

 クラクラとする頭を抱えながら蓮は口元に服の袖を当てて、玄関へと身体の向きを変える。窓から外を見ると下から黒い煙が巻き上がり、何も見えなかった。飛び降りることはできそうにない。

 彷徨う足を立て直しながら蓮は階段へと急いだ。離さないとでも言うかのように黒煙が体にまとわりつき、目の前が霞んでいた。


「ひっ――あ、あと――うッ、ヒュ!」


 廊下にはまだ火の手は回っていなかったが、熱い空気と煙が充満していた。天井や壁をちらちらと這う炎を避け、蓮は部屋から足を踏み出したが、その時、煙の奥から、それは聞こえてきた。


 子供の泣き声と、弱々しい女性の声。

 

 二階の一番端の部屋――蓮の右前の部屋には、おばあさんと小さな子供が二人で暮らしていた。ほがらかに笑う優しそうな老齢の女性と、いつもすれ違うと元気に挨拶をしてくれる男の子。複雑な事情があるのか、子供の母親と父親の姿を見たことはなかった。


 いつだったか、「何歳?」と聞いて、「よんしゃい!」と三つ指を立てて教えてくれた時のことを思い出す。頭の中にあどけない笑顔がよぎり、蓮は考える暇もなく隣の部屋の扉を開けていた。


「だ、れか――だれかっ、ゲホっ、います、か……!」


 煙が一段と勢いを増した。咳込みながら問いかけると、同じように引きつったか細い声で、「たすけて」と聞こえてくる。見た限り蓮の部屋と同じ間取りだ。声は奥の部屋から聞こえてきた。

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