第3話
ナミは遊郭を出ると、うろうろ心細げな顔などしてその辺をうろついてはいなかった。
ナミは昨夜寝る前に心を決めていた。
とにかく海を見に行こう。
いつかは必ず死ぬのだ。あとどれくらい寿命があるか知れないが、この辺でウロウロしていて人に馬鹿にされたり石を投げつけられて野垂れ死ぬくらいなら砂浜のある海を見に行こう。
「子供の頃、お婆ちゃんが話して聞かせてくれたっけ。若い頃、一度だけ海を見た事があるって広い砂浜があってその向こうに青い青い大きな海があるって。そこに波がザー、ザーと押し寄せて、それは見事だった。一日中見ていても見飽きなかった。お前のナミという名前はネ、海の波からとったんだヨ。ナミにもいつか海を見せたいネー。お婆ちゃんはその海を思い出すように話して聞かせた。自分の名前は海の波からとったんだ。」
いつもそういう思いがあったのだ。海がどっちの方向でどれだけ遠いか全く見当がつかないが、あちらこちらで人に聞きながら、もう何日歩いたろう何十日も歩いたような気もする。あっちの軒先、こっちの物置の陰で眠って沢山握って貰ったおむすびも二日間で無くなってしまった。
おカネさんとおかみに貰った餞別は少しずつ、少しずつ節約して使ったが、何を食べるにもお金がかかりいつの間にか懐の小袋にはもうお金が無くなってしまった。
おまけに途中で履き替えたおカネがくれた草履までボロボロになって今にも足から離れそうだった。
道路は石ころのゴロゴロあるでこぼこ道だ。草履がなくては海までたどり着けるかどうか解らない。
どうか神様、仏様、観音様、本当にいるのでしたらどうかどうか、私を海まで歩かせて下さい。ナミは必死な思いでお願いした。
その時、ナミの頭の上でカウカウカウカウと鳴く海鳥の鳴き声がし始めた。
あれはカラスや雀や鳩の声じゃない。きっと海鳥の声だヨ。きっと海にいるカモメという鳥だヨ!
きっとそうだ!
やがて潮の香りがして来た。これが海の香りだ。ナミはくたびれた草履の事も忘れて下り坂になっている所を駆け下りた。
そして、ついに見た。広がる青い海、なんて広いんだろう。これが海なんだ!
とうとう海に来たんだ。おカネさん!
私は海についたヨ。本当に海についたんだ。
目の前にどこまでも砂浜が広がっていた。
亡くなったお婆ちゃんが言っていた通りだった。死ぬまでに行けそうもないと諦めていた海にとうとう辿り着けたんだ。
浜に下って行く途中で小川を見つけた。水を手にすくってゴクゴク飲んだ。
冷たくって美味しい!砂浜に降りて行って海の見えるそこの砂浜にゴロンと寝転んだ。
ああ、もういいヨ。いつ死んだっていいヨ。神様、仏様、観音様。ありがとうございます。いつでも私の命をお召しになって下さい。ナミはそこに寝転んで疲れから眠ってしまった。
暫らくして目が覚めて、落ち着いて周りを見回した。
その先に小屋らしきものがあるのに気が付いたのだ。
それがここだって訳。」
お婆は語り終えて猫のおカネさんを見た。
猫のおカネさんはお婆の膝に体をぴたりとつけて眠っている。
「なんだい、おカネさん眠ってしまっていたのかい。あんたと同じ名前のおカネさんの優しい所を話してあげたのに聞いていなかったんだネ。」と言うと、猫のおカネさんは耳をピクピクさせた。しっかり聞いていてくれたのだろう。
「今夜は何て穏やかな波の音なんだろう。私は今、幸せだヨ、本当に幸せだヨ。懐の中には赤ん坊がスヤスヤ眠っているし、猫のおカネさんは優しくって頼りになる。私には大事な命が二つもあるんだヨ。村の人達も親切にしてくれるし、私は今、本当に幸せな気持ちで生きているんだヨ。」戸の隙間から見える夜空に向かって話しかけた。
星がキラキラ瞬いている。あんまりきれいで何だか泣きたくなる。
「会いたいネー、おカネさん。ここは良い所だヨー。人の心も空気もみんなきれいで、あそことは別世界なんだヨ。おカネさん、あんたは“やり手”として遊女達ににらみを利かせて皆から恐がられているが、本当は心の優しいあったかい人なんだ。ずるい事の嫌いな純粋な人だったヨ。私達本当に気持ちがぴったりの友達だったよネ。私はネ、あの頃もおカネさんのいい所解っていたけど遠く離れてここに来て、あんたのしてくれた事をよく思い出すんだヨ。本当にありがとうネ。もう会えないかネー。最後にもう一度、会いたいネー。」
お婆がそう言うと、眠っている猫のおカネさんがここにいるよと言うように目を覚まして、「ツルルルルー」と鳴いた。
お婆は猫のおカネさんに向かって話した。
「おカネさん、この赤ん坊は不思議な子だヨ。ナミに運ばれて来たのか、観音様が私に授けて下さったのか、はたまた竜宮城の乙姫様の子か解らないがとにかく私に授けて下さったんだ。子供を産めなかった私に託して下さったんだヨ。私はネ、この子を死んだお婆ちゃんが私を可愛がってくれたように育ててみようと思うんだヨ。私のお婆ちゃんは私が七歳の時に亡くなってしまった。あの時は悲しくて悲しくて心細かった。
私はこの“小波”にそんな悲しい思いはさせないヨ。私はこの子が大きくなるまで、この子が大人になってどこかのいい人のお嫁さんになって可愛い子供を沢山産んで、立派なおっかさんになるまで死なないヨ。絶対、この子を置いて死なないヨ。私は長生きするんだ!この“小波”からお婆は長生きだと笑われるまで長生きするんだ!私は小波を見ているとネ、小波はもうとっくに死ぬ筈だった私の生まれ変わりだと思うんだヨ。私はまだ死んじゃいないけどネ。もう一度、最初っからやってごらん、そう言って観音様が私に与えて下さった私の生まれ変わりのような気がして仕方がないんだヨ。右の脇のほくろも一緒だしネ。私はこんなにきれいな子供ではなかったけれど、私がこう生きたかったそんな生き方をこの子にさせてあげたいんだヨ。皆から愛され自分も周りの人々を大事にして心優しく生きて行く、そんな人になって欲しいんだヨ。だからおカネさん、私に力を貸しておくれ。この子はこんなに、きれいな赤ん坊だ。きっと美人で賢くて明るくて気立てのいい、そんな娘になるに違いないヨ。ああ、その日が目に見えるようだ。ネエ、おカネさん。お婆のこの気持ち解るだろ?」と言うと、猫のおカネさんは同意するようにまた、「ツルルルルー」と鳴いた。
お婆の心の中には初めて将来に対する夢というものが芽生えたのだ。
それからのお婆は何事に対しても前向きになった。
今までよりも一生懸命浜辺を拾い歩きしたし、小波はおカネさんに見て貰った。
おカネさんはしっかり子守をしていてくれた。
それとお婆の評判を聞きつけて、隣の村や遠くからも人が訪ねて来るようになった。
すると、この小さな小屋では駄目だと、村の男達が小屋の隣にちょっとした板張りの家を建ててくれた。それはあれよあれよという間に出来上がった。
部屋は二間あり、一つは訪ねて来たお客を通して相談に乗る部屋と、もう一つはお婆と小波と猫のカネさんが住む部屋だ。それにきちんと煮炊きの出来る勝手と風呂場と隣には厠も作ってくれた。
これからは少しぐらいの嵐が来たって大丈夫だ。
お婆はかかった費用を気にしたが、村人達は「お婆婆様は村にとって大切なお人だ。これからだって村人に何かあったらお婆婆様に相談出来る。そう言って皆は喜んで少しずつ金と木材を出し合って力も貸してくれたんだ。」と言った。
「金の事は何も心配する事はないから、お婆様は村人の為にも孫の赤ん坊の為にも長生きしてくれヨ。」と口々に言い合った。
お婆は村の人々の好意に甘える事にした。
小波はスクスク育って行った。
お婆に相談に来る人、来る人から可愛いネと言われ、また実際お婆の欲目ではなく、きれいで愛らしく成長していった。
ある日、相談に来た一人の女の人が帰る時、「お孫さんの親御さんはどうされました?」と聞いた。お婆はその事はいつか聞かれるだろうと覚悟をしていた。
将来の小波の事を考えれば、迂闊な事は言えない。
人からは事情があって孫を預かっていると見えるだろう。今はまだ小さい小波だが片言の言葉を話すようになって来た。いつかお母さんはどこにいるのと聞いて来るだろう。
お婆はその女の客に、「私には一人娘がおりまして、娘には夫婦約束した相手がおりました。上の方に許しを乞う為、都に上がる途中に思わぬ事故に遭い亡くなったそうです。娘はその時すでにこの子を身ごもっておりまして、この子を産んだ後、産後の肥立ちが悪く亡くなってしまいました。後で娘から赤子を託されて来た使いの者がそう言っておりました。」とお婆はその女の人に話した。
女の人は、「さぞ無念だったでしょう。お婆婆様が娘御の傍にいたならきっと助けてあげられましたのに。」と言った。
「いいえ、いいえ。私にはそんな大きな力はありません。全ては観音様の御心のままに私共は生かされているのです。」とお婆は答えた。
お婆は女の人にそう話しながら、本当に自分には美しい娘がおり、赤子の小波を産んで死んでしまった。そんな気がして来るのだった。
ある日、以前鮑の貝殻を沢山持たせた男の甥だという者が訪ねて来た。
名前を弥吉と名乗ったその若い男は細工師だという。
正直で優し気なその男は、仕事も顔も年齢も違うがお婆の知っている弥吉と同じ名前でお婆はすぐに親しみを感じた。
「お婆婆様が下さった鮑の貝は、どこの貝よりも見事な七色の鮮やかな美しい貝です。私はあの貝殻のお蔭で数々の作品を作る事が出来ました。近ごろは認められて大きな仕事の注文が来ました。これもお婆婆様から頂いた鮑の貝のお蔭です。叔父からお前も一度顔を出してお礼を言って来るようにと言われて来ました。」
若者はそう言って、お婆に感謝しお礼を言った。
お婆は自分の拾った貝がこのように役に立って喜ばれているのが嬉しく、「鮑の貝殻ならあの後も集めて貯めてありますヨ。どうぞどうぞ宜しかったら全部持って行って下さい。」と男を元の掘っ立て小屋に連れて行った。そこにはお婆が貯めた貝殻がまた、山となっていた。
男は大変喜んで背負い箱にいっぱいの貝殻を入れた。
そして、「これは私の気持ちですので少ないですが、お納め下さい。」と言ってお金を差し出した。
お婆はこの貝殻を売る気持ちは全く無かったので、「私の拾い集めた貝が美しく生まれ変わるんです。それだけで私は満足です。お金は頂きません。その代わりお願いがあるのですが。」と言うと、「弥吉は何でもおっしゃって下さい。」と言う。
「東の方に鳴戸という街があるのはご存知ですか?」と言うと、行った事があると言う。
「あの街に遊郭があり、その中に“鶴亀楼”という店があります。そこに知り合いが“やり手”をしております。名前は“おカネ”と言います。その人に私が今、ここにいて幸せに暮らしている事、もしもおカネさんが良かったら、こちらに来て一緒に暮らして欲しい事を手紙に書いて届けて欲しいのです。私は字は達者ではありません。今のこの私の様子をそのまま書いておカネさんに届けて貰いたいんです。」と言うと、
「そんな事は簡単な事です。是非手紙を届けさせて下さい。」と言ってくれた。
お婆は自分の名前はナミという事、今は自分の家があり、小さな孫と猫と一緒に穏やかに暮らしている事。村の人達にも親切にして貰っている事等を書いて貰った。
そして弥吉が発つ時、また貝殻を集めておくから今度来る時はどんな細工物になっているのか見たいから見せて欲しいと言った。
弥吉は何度もお礼を言って帰って行った。
それから半年ばかりが過ぎたある日、「ごめん下さい。」と訪ねる女の声がする。
お婆が相談のお客かと思って出ると、それは何とあのおカネだった。
“おカネさん!”、“おナミちゃん!”
二人は二度と会えないと思っていたのに、またこの世で生きて会えたのだった。
死んであの世に行ってからでないと会えないと思っていた二人はこの世で会えた。
何とも夢のような想いだったが、しかも今は住む家もあるのだ。
二人は泣いて喜んだ。
二人に話はつきなかった。
おカネはナミの今に至るまでの何もかもを聞きたがった。
ナミは包み隠さず全て話して聞かせた。
この浜を見た時の喜びから、掘っ立て小屋を見つけて住み着いた事。
親切な馬子から火打石を貰って、更には米を一升貰い、粥にして食いつないだこと。
砂浜に打ち寄せられたワカメや昆布、鮑等を拾って食べ、また鮑は貝殻から外してかんそうさせて粥に混ぜて食べた。貝殻はきれいに洗って貯めておいた事。
その貝殻を通りがかりに寄った人にただで分けてやった事。その人の甥が貝殻を使った細工をしている事。
この前、その甥が訪ねて来たので、お金などいらないと言って背負い箱いっぱいにまた貯めておいた貝殻をあげて、その代わりに鶴亀楼のおカネさん宛てに手紙を書いて届けて欲しいと頼んだ事。
偶然ナミの知っている弥吉と同じ名のあの人は、目を見て正直な良い人だと思ったけれど、やっぱりちゃんと手紙を書いて届けてくれたんだネー。とナミが言うと、おカネは、
「手紙じゃないヨ。直に本人が鶴亀楼に訪ねて来たんだヨ。おナミさんを知っているおカネさんという人はいますか?って言ってサ。私はもうびっくり仰天だったヨ。おナミちゃん、私はもうあんたはどこかで死んでしまってもうこの世にはいないだろうと思っていたんだヨ。」と言って、涙をポロリと落とした。
「だって、あんたは体がかなりしんどそうだったし、年取った女に親切にする程、世の中は甘くないからネ。私はあんなぽっちのお金では一ヶ月も食べて行けないだろうと思ったからネ。それが、あの弥吉さんの言う事には、海の見えるきれいな所で、皆から慕われて元気に暮らしているというじゃないか!しかも可愛い孫と一緒にだって!?私は最初、それは別のおナミさんじゃないかと疑ったヨ。第一、おナミちゃんは子供を産んだ事がないだろ?私達はずっと一緒だったから、よく知っている。それをあの弥吉さんは、いや、ナミさんの娘の生んだ子供を預かっている。その娘さんは赤子を産んですぐに死んでしまったらしい。と言うんだヨ。それを聞いて私はピンときたネ。きっと何か事情があるのだと思ったヨ。」そう言っておカネはそこの所も聞きたがった。
ナミは他ならぬおカネだもの、本当の事を隠さずに話した。
おカネは不思議な事もあるものだと二人の傍でスヤスヤ眠る赤子を見続けた。
「本当に、あの時はおカネさん、あんたがいてくれたらどんなにか心強いかと思ったヨ。そしたら、そこにほら、猫のおカネさんが来てくれたんだヨ。まるで私が困っているのが解っていて顔を出したっていうようにネ。ねえ、猫のおカネさん!」と言って、ナミは赤子の傍で眠る猫のおカネさんを優しく撫でた。
「おナミちゃん、あんたの心細い気持ちは解るけど、何も私の名前をつけなくたって。」とおカネは苦笑いした。
「だけどサ、本当に利口な猫なんだヨ。おカネさん、ちょっと出かけて来るから子守をしていておくれヨと頼むと、解ったヨと言うように返事をするし、私が何か迷ったり心細い事があると私の話をじっと聞いてくれるんだヨ。私はまるであんたが猫に姿を変えて私を助けに来てくれたようで、それは有難かった。」
それを聞いて本物のおカネは、
「でもサ、これからも猫を“おカネさん”と呼ぶのかい?」と言う。
「そうだネエ、おカネさん、あんたもう一度生まれ変わったらやっぱりまた、おカネと言う名前がいいかい?それとも、他にいいナーと思う名前はないかい?ここに来たら生まれ変わったようなものなんだヨ。」とおナミが言うと、
おカネはウーンと考えてから、「昔、私のいた村で、私よりずーっと年上のきれいな女の人がいてネ。きれいで優しくて上品でネ、私はその人を見かける度にいつも思ったもんだヨ。サワっていう名前だった。その名前、何てその人にぴったりなんだろうってネ。その人は望まれてどこかの長者様に嫁入りして行ったヨ。」と、うっとり思い出すように言った。
「そうだヨ、おカネさん。あんた今からサワさんになると良いヨ。それにあんたは私よりずっと若く見えるし、だから私達は姉と妹って事にするんだ。しっかり者の妹のサワさん、どうだい?」
「そうだネ、それも悪くないネ。」
それから二人は、この赤ん坊の行く末を思い、知恵を出し合って相談した。
この子が大きくなった時に自分が浜に捨てられていたなんて知ったらどんなに悲しい気持ちになるか知れやしない。その事は絶対、本人にも周りの人にも知られてはならない。
ナミがいつか女の人に尋ねられてついた嘘を本当にするのが一番だという事になった。
ナミの娘が産んだ子である、そういう事にした。
ナミの娘はとても美しく気立ての良い娘だった。その名前は何とつけよう。
二人はあれこれ名前を出し合って考えた末、美しい日本一の山の富士と美しい藤の花からとって“フジ”という名前にした。
この赤子の亡くなった母親の名前はフジだが、そのうち連れて来て紹介してくれる筈の相手の名前は聞かずじまいになってしまって解らない。どこかの藩に仕えるお侍だと言っていた。そういう事にした。
この不思議な幼児はまるで二人のお婆達に突然天から授かった宝物だ、不幸続きの果てに授かった宝物だ。お婆達は自分が叶わなかった夢をこの子に見た。
ナミとサワの年老いた姉妹は、二人力を合わせてこの幼児を、この国一番の幸せな娘に育て上げようとぴったり心が一致した。
自分達が果たせなかった事をこの赤子に全て与えてやりたいと思ったのだ。
ナミもサワが一緒になったら百人力のような気がして来た。
「おナミちゃん、あんたの事、姉さんと呼んだ方がいいかい?」とおカネが言った。
「そうだネー、姉さんよりもおナミちゃんはやめてナミさんでいいヨ。」
お互い年の近い姉妹だから昔から名前で呼び合っていると言えばいいサ。
そして三人(ナミさん、サワさん、猫のおカネさん)は小さい“小波”を力を合わせて大事に育てる事になった。
ある日サワが、「ねえ、ナミさん。あんた、昔から人の病を治す力があったかネ。」と聞いた。
「とんでもない。そんな力があったら、あんな苦労を長い間する訳がないヨ。全てこの数珠のお蔭なんだヨ。あのお坊様から頂いたこの数珠のお蔭なんだヨ。そして思い出せば思い出す程、あのお坊様はただのお坊様ではなくて、観音様か菩薩様が姿を変えて私の前に現れて下さったとしか思えないんだヨ。それにこの小波もそうだヨ。この子も観音様が私に授けてくれた特別の子のような気がするんだヨ。この子が来てから何もかも良い方向に動き出したんだから。」と言うと、
「そうかも知れないネ。ナミさん、あんたは昔から心のきれいな人だった。あんなに汚れ切った所でも、心はきれいな水で洗ったばかりのようにきれいだった。だから私はあんたが側にいてくれるといつも安心出来たんだ。」とサワが言った。
「いいや、私の方こそだヨ。おカネさん、いいやサワさんがいたからいつも心丈夫だった。私達は前世では本当に仲の良い姉妹だったのかも知れないネ。」と言い合って、来世でも姉妹になろうと約束した。
ナミの所には相変わらず体の調子の悪い人や、悩み事の相談に来る人が絶えなかった。
ナミは少しも嫌がらずその人達に会い、自分の全力を注いで祈り助けようとした。
それが不思議な事に、悩み事を聞いて貰い、何がしかの言葉をかけて貰い、さっぱりとしたり、体具合の悪い人は随分楽になったと帰る人ばかりだった。
それを見て村の人達は、きちんとお金を取ったらどうかと話し出した。
けれども、お婆本人は頭を横に振って、「何の力もない私がこのように人様のお力になっていられるのはきっと観音様のお力によるものでしょう。それを自分の欲得の為にお金をとったのでは観音様のお気持ちに背く事になります。ただでは申し訳ないと言うのであれば、その人、その人の志という事で人の目のつかない所に小さいさいせん箱のような物を置いてそれに入れて頂き、その中から私達家族四人が食べさせて頂きます。だから、お金の無い人、また食べて行くのにやっとの人にはお金を払わなくても良いとしたいのです。本当に志で良いのです。お金の無い人は大根一本でも良いのです。」
そうお婆が言うと、村の人達は一層有難く思われて、さすがお婆婆様と感動し合った。
スクスクと育つ小波の面倒は猫のおカネさんとサワが見てくれるので、お婆は安心して毎日何人も来る人々の相談に乗った。
相談に来る人も、この美しい砂浜に魅せられて、いつか自然に人の出入りも増えて来た。
それを子守しながら最初はのんびり見ていたサワにふとある考えが閃いた。
その夜、サワはナミに切り出した。
「ナミさん、私、人を使って隣に茶店を出そうと思うんだヨ。“小波”の事を粗末にするつもりはないから安心しておくれ。誰か気心のいい女子衆を一人使って、ダンゴや大福でお茶を飲ませる店をやりたいんだヨ。いずれ鶴亀楼を出された時の為にその時は長屋にでも入らなければならない、そう思って貯めておいたお金があるのサ。今はホラ、ここに居させて貰って家賃も食費もかからないしネ。ナミさんどう思う?私、茶店をやってもいいかい?」とサワは心配そうに聞いた。
ナミに反対する気持ちは少しも無かった。
「サワさん、あんたがしたいようにするがいいヨ。小波もどんどん大きくなるんだ。いつまでも赤ん坊やってる訳じゃない。あんたは元々、頭のいい人だ。したいようにすると良いヨ。それには茶店用に建て増しをしなきゃネ。」と言うと、ナミは奥から手箱を持って来てサワの前に置いた。
「今までのお客様の中で、お金はいらないと言っても是非にと置いていく人がいてネ。いつの間にかこれだけ貯まってしまって。いつか貯まったら村の人達に返そうと思っていたんだけれど、それは今度にして、サワさん、これを使っておくれ。」
サワは感謝の気持ちを顔にあらわして、「ナミさん、あんたはいつの間にこんなに立派な人になったんだい?今度は私の夢を叶えてくれるのかい?本当にありがたい。このお金は遠慮なく借りるヨ。だけどそのうち何倍にもして返すからネ。お店を繁盛させて、大きくして、それをこの“小波”にどんと残してやるんだ。ああ、私はやる気が出て来たヨー。鶴亀楼を出てここに向かった時は、最後の何年かを少しのんびりしてからあの世へ行こうと考えていたが、今は違う。私はやるヨ!今度は人に使われるのではなくて自分の店を持つんだ!年老いてなんかいられないヨ。もう一度、やってみるよ!そういう気持ちが湧いて来た。ナミさんは人の為に無欲で奉仕する代わり、私は小波の将来の為に儲けて店を繁盛させるんだ!」とサワは自信たっぷりに胸を叩いた。
その後サワは早速、自分の持ち金とナミのお金で隣にちょっとした見栄えの良い茶店をを建て増しした。
中でゆっくりくつろげるように小さなこあがりをつけた。なかなかのお店が出来た。
サワはそこで手伝ってくれる者を一人使う事にした。
あちこちに声をかけてあったので五・六人の若い娘やら女房が働きたいと言って来た。
サワは長年女達を見て来ている。若い時からそうだが、また“やり手”になってからも女達を見て来た。
どんな女が正直か、どんな女がずる賢いか、どんな女が怠け者か。
その目はいつの間にかごまかしがきかない程、人の性質を見抜く事が出来るようになっていた。そのサワの目にかなったのが、何とあのお婆が最初に助けた女房だった。
今にも死にそうだった所を助けられて本人も亭主もずっと感謝していた。それが周りに伝わって今のこの幸せがあるのだから、ナミにとっても有難い話だった。
その女房は今ではすっかり丈夫になって働けるまでになったのだ。
サワはその事情も知らずにこの女房なら気持ちよく自分の店を手伝ってくれる人と見込んだという。これも実に不思議な偶然だったが、それからはとんとん拍子に事が進み、店を開ける事が出来た。村にはもちろんだが、この辺りに気の利いた休み所のない田舎道だったのが、この道を通る旅人や近隣の人達、また、お婆の所に相談に来る人達が甘い物を食べて休んで行くので茶店はすぐに繁盛し出した。
サワが見込んだ通り、くだんの女房は申し分なくいい人だった。
だが思わぬ忙しさに二人だけでは手が回らない。そこでもう一人、人を増やす事にした。もう一人はくだんの女房が働きやすく気心の知れた者を、その女房に選ばせる事にした。
それがサワの賢い所である。
女房は親戚の娘だと言う若い娘を連れて来た。愛嬌のある顔だが根は真面目な娘だ。
娘の親達も村の近くで働けるのは有難い事だから真面目に骨惜しみせず働くようにと言って喜んでいると言う。
そういう訳でサワの店は二人の女とサワと三人で本格的に動き出したが、サワの見込み通り増々、客が増えだして店はいつも賑わっていた。
その辺の人達も誰でも気軽に入れて甘い物やお茶を楽しめるように料金も安くしたからである。欲張らず皆から喜ばれる店にしたい。
サワもナミの想いに添うように気持ち良く自分の夢を叶える事を選んだのだった。
小波も愛らしくスクスクと育って行った。二人の婆の愛情をたっぷり受けて、元々の性質が良いのだろうがききわけの良い手のかからない子だった。
それは一重にいつも傍に寄り添っていてくれる猫のおカネさんの力によるものだとナミもサワもそう思っている。
おカネさんは優しく見守りながらも、小波が危ない事をしそうになると“ツルルルー”と言って優しくたしなめる。
すると“小波”はおカネさんを見てこれは駄目なんだと解るという具合だ。
それを近くで見ている大人達はつい笑ってしまう。本当におカネさんは立派な子守だヨと言い合った。
忙しいながらも特別大きな災いも無く月日は流れて行った。
ナミの“志”の箱は一ヶ月に一度開けてみるのだがいつも四人が食べて行くには多すぎるお金が入っていた。その他に大根や野菜、時には米の入った袋等が置いてあった。
ナミはそれが有難く、サワの店が順調なのも元を辿れば全てこの村の人々のお蔭だと思う事を忘れなかった。
自分達にこの家を建ててくれたのも忘れてはならないと月々余ったお金は全て貯めておいて、年の暮れには村の何かに役立てて欲しいと届けた。
思わぬ大きな金額に村長も村人達も驚き喜んだ。
そのお金は古くなった寺や神社の修理に使われるらしい。ナミは常に欲を出してはならないと腹の奥で決めていた。
元々懐の中にはビタ一文無いぼろ雑巾のような、今にも死にそうな自分だったのだ。それが今はこのように家族も出来、人々から感謝される立場になっている。
何もかも不思議な事ではないか。これはただの偶然ではない。御仏様のお慈悲によるものに違いない。
自分に人が言う力があるとしたら、それはあの坊様に姿を変えた観音様のお力によるものだ。それを忘れてうぬぼれてはならない。
もしも自分がそれを忘れたら、この暮らしや小波、猫のおカネさん、サワさんも一瞬にして夢のように消えてしまうような気がする。
ナミは深く深く感謝する事を忘れなかった。
そして、そうしながらも一つ観音様に許しを請うた。
「観音様、観音様、私は小波の為にあの子はいもしない私の娘のふじが産んだ孫娘だと世間様に嘘を作り上げました。あの子はいつか自分の生みの親を知りたがる日が必ず来るでしょう。母親に会いたいと思う日が必ず来るでしょう。例え死んでしまったと聞いても母を求めて亡き母に話しかけたい時も来るでしょう。その時の為に私はフジという“幻の娘”の墓を小波の為に作ってやりとうございます。浅はかな行いとお笑いでしょうが、どうぞお許し下さい。」
ナミはサワとも相談した結果、村の墓地にではなく掘っ立て小屋のすぐ脇、自分が死んだらそこに倒れ込もうと考えて穴を掘った所に立派な墓を建てた。そして墓碑に、フジ享年二十二才と彫ってもらった。海が見渡せるこれ以上ない場所だ。
自分もサワも猫のおカネさんもいつかここに入るつもりだ。
小波の心の中には、自分につながる母の存在がしっかりと根付かせるように墓の中にはお骨の代わりにナミが長年集めて来たきれいな珍しい貝を白い布袋に入れて埋葬した。
ナミとサワと小波と猫のおカネさんは出来上がった立派な墓の前で長い間深く手を合わせた。まだ幼い小波も小さな手を合わせてお祈りした。
猫のおカネさんもその目は何か深く思っているような目をしていた。
ナミとサワはこれで一安心した気持ちになった。小波も、もう三歳になり小さいながらも大人達とおしゃまな会話も出来、お手伝いをしたがるようになって来た。
着物の上に可愛い前掛けとたすきをかけてやると小さい小波はサワの店の前でいらっしゃいませと言っては来る客を喜ばせた。
客も喜ぶが本人も役に立っているのが嬉しいらしく、増々お手伝いをしたがった。
猫のおカネさんは相変わらずいつも小波の傍をついて歩いている。それもまた、お客の人気につながるのだった。
そんなある日、村の夫婦が一人の男の子を連れて来た。
男の子は六歳で熱を出して十日程寝込んだ後、熱が引いて立ち上がらせると片方の足が動かなくなったという。そのうち治るだろうと暫らく様子を見ていたが、片足がどうしても動かない。子供は同い年の子等と遊ぶ事も出来ずメソメソするし、親達もこのまま動かなくなるのではないかと不安になってお婆婆様の所に連れて来たというのであった
ナミはこの女房には覚えがあった。
小波をかかえて、おしめも産着も無くて困っていた時、走って自分の家に帰って自分の子供のお下がりのものを綿入れのおくるみまで風呂敷いっぱいに詰めて持って来てくれたのが、この女房だった。
あの時の涙が出る程有難かった事を思い出した。さてはあの産着やおしめはこの子のお下がりだったのかと男の子を見た。
目のクリッとした可愛い男の子だ。その子は男の子ばかり三人の一番下で“三郎”と言った。
男の子は不安気な顔をしてお婆の顔を見ている。
ナミは原因の解らぬこの病は聞いた事があった。高熱で寝込んだ後、足や手や時には顔等に麻痺が残り、それが後々まで治らない恐ろしい病気がある事を耳にした事があった。それはどんな名医にも治せぬという事であった。
だがナミは考えた。
これは迂闊な事を言って期待を持たせてはならない。しかし治る見込みのない病と言ってもならぬ。これはどうしたら良いものだろうか。
すると女房が、「家にいても遊び仲間の兄達や近所の子供も三郎を相手にしてくれません。三郎は自分の足が動かない上に誰もかれもが遠のいてしまって家の中で一人メソメソしているのです。あんなに明るく活発だった子がすっかり弱気になってしまって。私もそういう三郎を放って仕事に出掛ける事も出来ず泣きたい気持ちです。」とこぼした。
お婆は、「私の力で治しますとは言えませんが、お前様には赤子の小波をかかえて困っている時に助けて貰いました。誰かれと隔てをする訳ではないけれど、貴方達ご夫婦にはひとかたならぬ恩義があります。私の出来る限りの事はしてみます。と言って、これから遠い道を毎日通って来るのは難儀な事でしょう。このお子を暫らく私に預からしてくれませんか?ここは海をまんまえにして気持ちのいい場所です。自分の体が思うようにならなくて気弱になった気持ちをまず大事にしてあげるのが先決ですからネ。ご心配なら親御さんは体の空いた時に顔を見に来てやって下さい。」と言った。
そこに小さな小波が顔を出した。
「ああ、丁度この子もおります。三郎ちゃんは小波のお兄ちゃんになって小波と遊んでくれるかい?」と話しかけると、家の中でメソメソしているよりいいと思ったのだろう。三郎はコクリと頷いた。
それで話は決まった。三郎をここに置いてナミは自分の出来るだけの事をしてやろうと心に決めた。
三郎の両親は何度も何度も頭を下げてお願いすると帰って行った。
誰もいなくなるとお婆はまず三郎を横にさせて、その頭を丁寧に丁寧に念を込めてさすった。次に動かない足をさすった。
「観音様、観音様、この子の足がどうか少しでも動きますように。どうかどうか動くようにしてやって下さい。」
するとピクリともしなかった足の親指の先がほんの少しだけピクッと動いた。
その様子を見ていた小波が、「あっ!お兄ちゃんの足が動いた!」と叫んだ。
すると目を瞑ってお婆の治療を受けていた三郎がびっくりして自分の足を見た。
本当だ親指の先だけほんのかすかに動いている。だが動くのは親指だけだった。
あとの指や膝は前と少しも変わらない。三郎は悲しそうな顔をした。
お婆は笑いながら、「三ちゃん、がっかりするのは早いヨ。高い熱でやられた体は今、クタクタに疲れているんだ。この親指だって三ちゃんの為に今、精一杯頑張って動いてくれたんだヨ。三ちゃん、三ちゃんの目には見えないかい?三ちゃんの足が今、一生懸命頑張っているのが。」と言うと、傍にいた小波が、「ワタチ見えるヨ。」と言った。
三郎は自分の親指を見た。すると三郎にも親指が一生懸命歯をくいしばって頑張っているのが見えた。
「見えるヨ!!」と三郎も叫んだ。
お婆はニッコリ笑って、「今日はこれで終わりにしよう。三ちゃんも疲れただろう。」と言った。
それから頑張った御褒美に隣の茶店からダンゴを持って来て、三郎と小波に与えた。
二人はニコニコして仲良くダンゴを食べた。
それから毎日、一日に少なくとも二回は三郎の足や頭や背中等を念を込めて優しく優しくさすった。「観音様。どうか、どうか。この子の足を動くようにして下さい。」と祈りを込めて、そうしていると小波が側に居て、
「他の指も一生懸命頑張っているのが見えるヨ。」と言う。
お婆も「そうだネ。そのうち頑張って動き出すヨ。」と言う。三郎もだんだんその気になって来た。
すると本当にかすかにかすかに他の指も動き出した。
小波はそれを見て、「動いた!動いた!」と教えてやった。
三郎はだんだん元気を取り戻して来た。
三ちゃんの指はエライネと小波は言う。隣で猫のおカネさんも“ツルルルー”と鳴いて誉めてくれた後、三郎の動かない足をペロペロ舐めてくれる。
すると今まで何も感じなかった三郎の足に少しくすぐったい感じがするという。
お婆は、もしかしたらこれは治るかも知れないと思った。
病気になってから外にも出ず、体を動かす事がなくなっていた三郎の足は良い方も力が弱っている。まずは少しずつ、少しずつ、良い方の足を元気にしてそれに力を貸して貰おう。
お婆は三郎と小波に「砂浜へ降りて行って遊んでおいで。珍しい宝物が落ちているかも知れないヨ。」と言った。
三郎には、「三ちゃん、小波はまだ小さいから波の来る所、危ない所は近寄らないように見ておいておくれ。頼むヨ。」と言い、
小波には、「お兄ちゃんが無理して疲れたらいけないから時々、大丈夫?休もうと言うんだヨ。」
また、猫のおカネさんには、「二人をお願いネ。」と頼んだ。
おカネさんは“ツルルルー”と長く鳴いて二人の後を追いかけてついて行った。
三ちゃんの不自由な足に合わせて小波はゆっくりついて行く。幼いながら気を遣っているのが解る。おカネさんもそれに合わせてついて行く。
それからは毎日二回、お婆の治療が終わると、三郎と小波とおカネさんは浜に出掛けるようになった。
帰ってくる時はいつも貝殻やきれいな小石を握っていた。
何日かしてその後ろ姿を見ていると、三郎の動きが最初とは違い、かなり元気になっている。子供でも小さな女の子には負けまい、かっこ悪い所は見せたくないという気持ちが起きるのだろうか。かなり頑張っているのが解る。
微笑んでみている所に三郎の父親と母親が来た。足を引きずりながらも砂浜を急いで歩く三郎の姿を見て両親は喜んだ。
「もう、あんなに元気になったんですか?」母親はそう言って涙ぐんだ。
「良くなっているように見えますか?」とお婆が聞くと、
「ええ、ええ。まるで元の三郎に戻ったように元気そうです。ここまでしていただいて本当に有難うございます。」と言ったが、
「いいえ、もう少し様子を見たいですし、小波も三ちゃんというお兄ちゃんの遊び相手が出来て大変喜んでいます。もう少し預からして下さい。」と言うと、両親は喜んで帰って行った。
それからまた三ヶ月程、毎日二回時間を決めて、膝や足をさすり、その後は浜に遊びに出した。
二人と一匹は毎日二回ずつ浜に降りて浜辺の宝探しをして、帰りには拾った物のうちいくつかをフジの墓にお供えし、三ちゃんの足が早く治りますようにと手を合わせてお願いしているという。
あれから、お婆の治療が良かったのか三郎の足はちょっと見には解らない程良くなった。
もう近所の子供達と遊び回っても大丈夫になった。
三郎の父親も母親も喜んで三郎を連れて帰って行った。
お婆は小波に、「よく頑張ったネ。小波のお蔭で三ちゃんの足は治ったんだヨ。」と話して褒めたが、小波は少し笑っただけで三郎がいなくなって淋しそうだった。
それでも今までのように猫のおカネさんを連れて砂浜に降りて行った。
人との別れはあんな幼い小波にも辛く悲しいものなのだろう。三郎のいなくなった砂浜を一人遊び回る小波を不憫に思って見ていると来客があった。
客は患者や相談者ではなく細工師の弥吉だった。
ナミは弥吉さんのお蔭で妹にも会う事が出来たとお礼を言った。
「いいえ、いいえ。私の方こそお役に立てて嬉しいです。今日は私が鮑の貝殻でどのような物を作っているのかお見せしたいと思いまして小さな物を一つ持って来ました。」と言って布包みの中から小さな黒い箱を取り出した。その小箱の何と美しい事か。
つやつやと光沢のある黒漆を塗った中に、あの七色に輝く貝が見事に花や鳥の形ではめ込まれている。尾の長い舞い飛ぶ鳥が花々の中に切り取られてはめてある。
どのように出来るのかは解らないが、その細工は美しくため息が出る程素晴らしい。
ナミはこんな美しい物を初めて目にした。
「きれいだネー。驚いたネー。弥吉さんはあの鮑の貝殻をこんなにも美しく生かしてくれるんだネー。大したものだヨ。」と言うと弥吉は照れながらもこれを“螺鈿細工”というのだと教えてくれた。
そして、「これをお婆婆様に差し上げようと持って来たから受け取って欲しい。」と言う。
ナミはこんな手の込んだ貴重な物を受け取る訳にはいかないと断ったが、
「私はまた、ここの貝殻をいただいて参りたいと思っています。今までもそうですが、そしてこれからもお世話になります。せめてこれぐらいの事はさせて下さい。」と言われた。
ナミは、「本当にこれをいただいていいのかい?こんな都にいる天子様しか持てないような高価な物を…。」と言って手にとって眺めていた。
その時急に思いついて、「それじゃ、これはあの子の母親の形見という事にさせて貰おう。」と言った。
それから弥吉に、娘のフジが孫を産んですぐに亡くなってしまったので、あの子は母親の顔も知らないし、あいにく母親が残したこれといった物も残っていない事。あの子がそのうち物心ついたり年頃の娘になった時に何の印も残さなかった事を淋しく思うに違いない。弥吉さん、こんな素晴らしい物を頂くのは心苦しいが、それでは遠慮なく頂戴いたします。あの子が年頃になった時に、これが母さんの形見だと渡したらどんなに喜ぶだろうと言って砂浜を猫のおカネさんと遊ぶ幼児を見た。弥吉も一緒に遠くに遊ぶ女の子を見て頷いている。
そして、「その亡くなられた娘さんの名前は何とおっしゃいます?」と弥吉が聞いた。
「フジと言うんです。」とナミが答えると、弥吉は荷物の中から小刀を取り出して、螺鈿の箱の底の方をカリカリと削った。そこには黒い漆の中に“ふじ”という赤い文字が現れた。
漆は何度も塗り重ねられているのでこうして削ると、黒漆の下の赤漆が出て来るのだと言った。美しい黒の螺鈿の箱の底に現れた小さな赤い“ふじ”という名は何とも言えずゆかしく美しい。まるでそこに夢のふじの想いが現れたような気がしてナミは嬉しくて何度も弥吉にお礼を言った。そして貯めておいた貝殻をまたどっさりと背負い箱に詰めて帰した。
帰る時には隣の茶店のサワにも声を掛けた。
サワも驚いて出て来て、今こうして楽しく暮らしているのも弥吉さんのお蔭だとお礼を言って途中で食べて行って下さいとダンゴや大福餅をどっさり持たせた。
弥吉もまた来ますと言って喜んで帰って行った。
ナミはその夜、小波が寝てしまうとサワにその美しい螺鈿の箱を見せて、これをいつか母親の形見として渡すつもりだと話した。
サワもそれはいい考えだ。いくつになっても母親への想いは強いものだって言うからねと賛成してくれた。
三ちゃんがいなくなって淋しそうにしていた小波にはナミの助手として手伝って貰う事にした。
お客様がいらしたら、いらっしゃいませと言って座布団を出す。
そんな簡単な事から始めた。
小さい子でも自分に与えられた仕事がある事が嬉しいらしく幼い小波は真剣にお婆の役に立とうとしているようだった。
また、ナミの元には時に目の中に異物が入ったと言っては来る人もいた。
そういう時は、「小波、奥から水の入った湯呑みと、吐き出した水を捨てる捨て鉢と口を拭うきれいな布が揃えてあるからそれを持って来ておくれ。」と言うと幼いながらも神妙に一つずつ運んで持って来てくれる。
お婆は目に何か入ったという程度の事なら患者の目を口をゆすいだきれいな舌でゆっくりグルリと目の中を舐めて舌で探り、目の中に入った異物を取り出してやる事をした。
そしてその後はまた自分の口の中や舌をきれいな水ですすぐのだ。患者は自分ではどうする事も出来なかった異物を目の中から取り除いてもらい感謝して帰るのだった。
そういう時には小波のちょっとしたおしゃまな手伝いも大いに助けになった。
小波は賢い子で自分の出番を心得ていて、それ以外は出て来ずに奥で猫のおカネさんと遊んだり、お婆の仕事がない時は隣のサワの茶店に顔を出したりした。
だがだんだん大きくなって来ると、同じ年頃の女の子の友達がいない事はナミやサワの目から見ると少し淋し気だった。
ナミもサワもそろそろ手習いにやる年頃だと気にかけてはいた。だが村の同じ年頃の子供達はどうしているのか。その村に行くにも子供の足では遠すぎる。何か良い方法がないものかとナミとサワは二人で考えて悩んでいた所だった。
そこに膝の調子が悪いという年配の女の人がお婆の噂を聞いて二つ程離れた大きな村からわざわざ馬車で診て貰いにやって来た。
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