第2話
とにかく今は赤子の為に急がなければならない。お婆は急いで教えられた家に行ってみた。そこには牛がいて、生まれたばかりの子牛もいた。これは有難いと牛の家の者に事情を話した。
すると、「それは大変でしょう。」と言って気持ちよく牛の乳をたっぷり分けてくれた。
お婆は入れ物を持っていなかったので困っていると、「その入れ物はまた来るときに持って来て下さい。」そう言って手を合わせて送り出してくれた。これもこの数珠のお蔭なのではないかとふと思った。
今まで、人付き合いを避けていたお婆は赤子のお蔭でいっぺんにいろんな人に会ってしまった。帰る道すがらいろいろ考えた。
最初にすれ違ったお坊様。いただいた数珠、今にも死にそうな女房とその亭主、一杯の水をいただいてお礼にがむしゃらに唱えたお経で女房は嘘のように元気になったっけ。
牛の乳を快く分けてくれた牛飼いの家の人達を思い出し、思い出し歩いているうちにいつの間にかお婆の小屋に着いてしまった。
行きと違ってあっという間に着いてしまったような気がした。
急いで小屋の中に入って行くと、赤子は泣きもしないで機嫌よく手足を動かしている。
猫のおカネさんは子守番のように赤子の傍についていてくれた。
「おカネさん、赤子の面倒を見ていてくれたんだネ。ありがとうヨ。」と言うと、あの優し気な声で“ツゥルルルルー”と鳴いた。
お婆は急いで牛の乳を温めて少し冷ますと、一番きれいな布に浸してそれを赤子の口にしゃぶらせた。赤子はそれを美味しそうにチューチューと吸った。牛の乳はたっぷりあったので、猫のおカネさんにも分けてやった。
するとおカネさんも、美味しそうにチャプチャプすっかり飲み干して満足そうにまた、“ツルルルルー”と鳴いた。
お婆は次の日も村まで牛の乳を貰いに行った。
これからは赤子が粥を食べられるようになるまで通うのだもの。ただっていう訳にはいかない。肌身離さず持ってお守りにしていた象牙で作った般若の根付けを持って行った。
お婆がまだ若くて可愛かった頃、誰かから貰って以来お守りにしていたものだった。
死ぬ時は一緒に墓の中にと思っていたけれど、今こそこれを使う時だと思った。
お婆が根付けを持って牛飼いの所に入って行くと、そこにいた七・八人の男女が一斉にこっちを見たので、お婆は一瞬たじろいだ。
「昨日はお乳をただで頂いてしまって本当に本当に有難うございました。何せ生まれたばかりの赤子の事ですから。もう暫くは牛の乳を頂かなければなりませんと言っても、この通りの貧乏人の婆にはこれっぽっちのお金しかありません。それとこれは私が長年大事にして来たお守りですが、これでもう暫らく牛の乳を分けていただけないでしょうか。」と言って少しの銭と般若の根付けを差し出した。
するとまんまる目玉でこっちを見ていた人々が、「とんでもない、とんでもないヨネー。」と言い出した。
「お婆婆様、あんた昨日この男の女房が死にそうなのを生き返らせたんだってネ。本当に偉い。神様だって今皆で話し合っていたんだヨ。お前様のお蔭ですっかり元気になって今じゃ家の中の仕事を少しずつしているそうだヨ。有難くって、有難くって赤ん坊に飲ませる乳ぐらいどうって事ないヨ。神様からお金を頂いたら罰が当たるヨ。」と言う。
「いいえ、いいえ。そんな大した事はしておりません。」と言ってお婆はお金と根付けを差し出したが、絶対受け取ろうとしない。かえって、
「お婆婆様、他に足りなくて困っている物があったら言って下さいヨ。この村の者皆で何かお役に立ちたいと話し合っていた所なんだヨ。」と言う。
「それではあつかましいんですが、赤子のおしめになりそうな使い古しのものがあったら。」と言いかけると、
「ああ、あるヨ、あるヨ。うちの子供達が使ったお古だけど捨てないでとって置いて良かった。」と言ってその中の女一人が出て行った。
やがて大きな風呂敷に何やかや包んで持って来た。他の者達も自分の家に行って米やらあずきやら漬け物等を持って来た。
乳を貰いに行ってお金を払うどころかいろいろ貰って帰って来た。
お婆は帰り道、少しも重くはなかった。背中の風呂敷の中にはおしめの他に産着や綿入れのおくるみも入っていてこれから寒くなっても安心だ。お婆は有難くてジーンときた。
それから毎日、乳を貰いに行くと、そこには誰かれといて相談事を持ちかけられた。
お婆は自分は人の相談にのる程の大層な人間じゃないと思いながらも、相手にとっては真剣な悩みなのだナーと思うと精一杯のお礼に数珠を振りながら、腹に力を入れて考えた。すると不思議に何か言ってやれる言葉が浮かんで来るのである。
人々はその度に有難がって、豆や大根などをお礼に家から持って来るのであった。
ある日もある女に、隣のカミさんがひどい頭痛持ちで気の毒でならない。昨日、今日のものではなくて長年の持病はやはり無理だろうネと言われた。お婆は、その時、昔頭痛持ちの女があんまに頭やら肩やら背中を揉んで貰って楽になったと言っていた事を思い出した。
自信は無いが毎日頭が痛んで苦しんでいるその女房が哀れに思えて、「治るかどうか解らないが見てみましょう。そのおカミさんを連れて来て下さい。」と言った。
女は走って行って頭痛持ちの女房とその亭主を無理矢理連れて来た。その女房はいつも頭が痛んで苦しんでいるせいか眉間に縦じわを寄せて苦々しい顔をしている。
そう簡単に治る病じゃないのサとでもいいたげだ。
「少しでも楽になったらいいじゃないか。」と皆に責められてその女房は体を横にした。
常に頭が痛いらしく頭を少し動かすのも辛そうだった。
お婆は手のひらや指で肩や背骨や首筋を丁寧に揉んでやりながら心の中で祈った。
一生懸命祈った。この女房は毎日、どんなにか辛い事だろう。どうか、どうかこの女の痛みをとってやって下さい。ぶつぶつ、ぶつぶつまじないのようなものを口の中で言いながら、お婆の首から外した数珠で頭を撫でた。心を込めて撫でた。
どうか、どうか痛みが和らぎますように…と、長い間体をさすってやり、そして終わるとお婆はこれはほんの気休めかも知れないけどと自信なさそうに言った。
実際お婆には全く自信が無かったのだ。
だが、その女房は起き上がって座り直すと頭を振って何か試している。
「あれっ?あれっ?」と言っているのだ。
それから大きい声で、「治った!治った!全然痛くないヨー!」と叫んだ。
亭主も「本当か?痛くないのか?」と喜んでいる。
「お婆婆様、あんなに痛かった頭が全然痛くなくなりました!ありがとうございます!」
女房はさっきの苦虫を嚙み潰した顔から素直な明るいいい顔になっていた。
お婆は念のため、「一時的なものかも知れないからまた痛くなったらいつでも来なさい。」と言ってやった。そして最後は、
「痛くない時でも、自分の手か亭主の手で毎日頭や首筋や、背中を揉んで貰うように。」と言った。
お婆は、自分にはそんな力は無いし、後でインチキだと言われたらこの先赤子の乳が貰えなくなる事を心配したのだった。
だが頭痛持ちの女房は再びお婆のの所に来ない所を見ると、今の所調子がいいのだろう。
その事があってから増々評判を呼んで村人のお婆に対する信頼はすっかり出来上がってしまった。
いつの間にか、凄い力を持っているのにいつも謙虚な神様だ。本当に有難いお婆婆様だという事になってしまった。
元々が人付き合いを避けて暮らしていたのに、急に村人からこんなに大切にされるとお婆は何だか居心地が悪い。そしていつだって全く自信がないのだが、赤子を育てる為には人に乞われたらお経もどきの事をするのも仕方がないと思って、お婆は何でも人々の求めに応じた。
ところがそれが、ことごとく霊験あらたかな効果が出るのである。お婆は、これは観音様のお力添えに他ならないとつくづく感じるようになった。
お婆は苦界にいた時、この世には神も仏もあるものかとずっと思って来た。自分は恐らく死ぬまでは何の楽しい事も無しに苦労続きで死んでいくものだと思っていたのだ。
だけれども観音様は見てくれていた。最後の最後にこの私にようやく目を向けて下さったのだと思った。
赤子はスクスク育って行った。
猫のおカネさんも、お婆の相談相手になる心優しい猫だった。
お婆は乳を貰いに行っている時も浜へ出て拾い物をする時も、「おカネさん、頼んだヨ。」と言うと、赤子の傍に付いていてくれた。
三ヶ月もするとお婆は赤子におもゆを与えてみた。すると赤子は美味しそうに食べた。
お婆はそれまで名前を付けずに赤子、赤子と呼んで来た。誰かこの子を迎えに来た時に名前を付けてしまうと情が湧いて別れが辛くなると思ったからだった。
だが一向に誰も迎えに来る気配がない。
赤子はだんだん可愛くなる。可愛くて、可愛くてもう誰が来たって渡すもんか!と思ったりする。お婆は赤子とおカネさんに向かって、「もう誰も迎えに来そうもないからお婆の子にしてしまおうと思うんだがいいかい?」と聞いた。
すると赤子はニッコリ笑い、おカネさんも“ツルルルルー”と返事をした。
まるで、そうしなヨ、私は大賛成だヨと言っているようだった。
「それで名前だけどネ。前から考えていたんだが、私の名前のナミからとって“小波”というのはどうかネ。」と赤子に話しかけると、またニコッと笑ってキャッ、キャッと手を叩くような仕草をした。赤ん坊が時々する仕草だが、お婆は本人は気に入ってくれたと解釈した。
「おカネさんはどう思う?」と聞くとまた、“ツルルルルー”と鳴いた。
私ゃ大賛成だヨ、そう言っているようだ。
その返事を聞くと、「それにネ、おカネさん。あの子の右脇の下にポチッと小さなほくろがあるんだヨ。実は私の右脇の下にもホラッ同じ所にあるだろう?」
そう言って、お婆は右の片袖を脱いで猫のカネさんに右脇のほくろを見せた。
「おカネさん、あんたには話した事があったかも知れないけれど、私もおばあちゃん子だったんだヨ。私のおばあちゃんという人はネ、とってもとっても優しい人だった。寝る時なんかネ、私を懐に入れて温めて育ててくれたんだヨ。だけどネ。私が七つの時にしんでしまったんだヨ。かなりの年だったから仕方がないけどネ。私が一番上で、下に妹や弟が次々生まれたから、お母やお父は私には何だか辛かった。挙句の果てに女郎屋に売られてしまったんだヨ。」
猫のおカネさんはお婆の目をじっと見て話を聞いている。
お婆はずっとずっと遠い昔になってしまったあの頃を思い出した。
猫のおカネさんが聞いてくれるから話したい気持ちになったのだ。
赤子の“小波”はお婆の懐でスヤスヤと眠っている。夕陽が海に落ちてだんだん暗くなって行く。
砂浜に打ち寄せる波の音が、ザーザーと優しい。
懐の中で眠る小波の温かさと波の音、じっと聞いてくれる猫のカネさんの目、囲炉裏の火が小屋の中をほどよく暖めてくれてお婆は自分がとっても優しい気持ちでいられると思った。私は今、幸せなのだ。これがきっと幸せというものなのだと思うと、お婆は語りたくなった。
ここに辿り着いたのは、まだほんの一年半前の事だけれど、今ではあの頃の自分の姿がまるで一人の哀れな他人のように思い出される。
きっと今は小波とおカネさんがいつもぴったり傍にいてくれるからだろうか。とても素直で優しい気持ちになって自分が来た道を振り返れるのだった。
「私はネ、山の中で生まれ育ったから、昔から海に憧れていて海っていうものが見てみたかったんだヨ。もういよいよ最後にせめて海というものを見てから死のうと思ってサ。ここまで来たんだヨ。あの頃の私は今まではまるで別の哀れな一人ぽっちの他人の女のように見えるヨ。ずっとずっと自分では精一杯頑張っていたんだけどネー。何もかも無くてボロボロになって放り出されたんだヨ。帰る所もなし、お金もなしで惨めなもんだったヨ。おカネさん、お婆の昔話を聞いてくれるかい?」
猫のおカネさんは黙ってお婆を見ている。
お婆は遠くを見つめるようにあの頃を思い出す。
「あの頃の私が山道を歩いているヨ。ほら、フラフラヨロヨロ土埃にまみれて、それはすっごく汚い婆さんなんだヨ。すれ違う人に、この道をまっすぐ行ったら海で出るでしょうかと聞いているんだけど、大抵の人は返事もしないで通り過ぎるのさ。それはそうだろう。こんな乞食のような婆さんに関わるのは御免だからネ。すると一人の男が、ああ、この道をひたすら行ったら必ず海に出るヨ。だけど婆さんまだまだかなりあるヨと言ってくれたんだ。
だけどかなりあると言われても、あとどれぐらい歩けばいいか解らない。
歩き始めてどれくら経つのかも解らない。顔も手足も首も全体が汗と土埃にまみれて思わず顔を背けたくなるような汚さだったろう。
実際、何人かの人はあからさまに嫌な顔をして通り過ぎた。しかし本人は他人が思う程、悲嘆に暮れている訳じゃない。
途中で野垂れ死にしたってその時はその時サ。歯の欠けた口を開けて笑いながら呑気にフラフラと歩いて行った。
誰に話しかけるともなく、「ここを真っすぐに行ったら海だとサ。いよいよ海に辿り着けるんだヨ。アハハハハ。」
誰かに話すように独り言を言って歩いて行く。その老婆にも若い頃はあったのサ。
可愛い娘盛りもあったのサ。きっとネ。あれは生き地獄の中だったけどネ。」
また、時々、「弥吉さん今どうしているんだい?」と言ったり、「弥吉さんは幸せだったのかい?」と言ったりする。
人が見たら気がおかしくなったように見えるが、そうではないのだ。誰かに話しかけないではいられないからだ。弥吉さんに話しかける時、老婆は一瞬辛そうなかな悲しそうな顔をする。
それから大事な宝物を愛おしむような顔になる。
「弥吉さん、私は生きてるヨ。私はネ、あの地獄のような場所にいても死ななかったんだヨ。ほら、こうして生きているんだヨ。弥吉さん、あの時、私が女衒に連れられて村を出て行くとき、見ていたよネ。私が大きく手を振るのを見ていただろう?あの時、弥吉さん悲しかったかい?じっと立ってこっちを見ていたあんたが豆粒より小さくなって見えなくなってしまったけれど、私は目の底に焼き付けたんだヨ。今だにあの時の事をはっきり思い出すんだヨ。ナミはネ、嫌な事ばかりの毎日の中で、どんなに辛い時にもあの時の弥吉さんを思い出したんだ。するとネ、あの時の十三歳の時のナミに戻って、薄汚れた惨めな女郎の自分を束の間、忘れる事が出来たんだ。弥吉さん、あんたはそうしてずっとずっと私の心を包んでくれたんだヨ。ありがとうネ。だけどその役割ももう少しだヨ。もうじき海のある所に行くんだ。せめて死ぬ前にずっと夢にまで見たかった海を見ない事には死ねないと思ってサ。そしてネ、念願の海を見たら、この薄汚れた人生とお別れしようと思っているんだヨ。もう懐にはビタ一文残ってないからネ。
実はネ、五日前にはお金は何も無くなっていたんだヨ。最後のお金を握りしめた時は決心したんだ。峠の茶屋で、握りしめた銭を出してダンゴ!って注文した時のあの気持ち良さ。茶店のおかみさんが変な顔をしていたけどサ。そんなの気にしない。ただ食いする訳じゃなし。立派に金を払って食べるお客だからネ。それにしてもあのダンゴの美味しかった事!それで懐にには一文も一銭も無くなっちまってそれからは道端の草や、フキの硬くなったのをかじったり、いたどりの先っぽの柔らかい所を摘んで食べたり、どうにか生きながらえるもんだネ。ああ、それから途中道端の地蔵様にお供えしてあったお握り、もうすっかり硬くなっていたけど地蔵様に訳を話して頂だいしたっけネ。地蔵さんは可哀想に可哀想にって言ってくれたヨ。あのお顔は確かにそう言っていたネ。あの時はあと少しで海に着けそうな気がした。だけど履いている草履はひどい状態だった。あと少しなんだヨ。それまでこの草履が持ってくれればいいんだが。長い事歩いて来たから、もうボロボロなんだヨ。大事に履いて長持ちさせようとしたんだけどネ。何度も治した鼻緒ももちろんだが、底がすっかり駄目になっちまってかろうじて足の指で草履を引きずりながら歩いているような有様だった。やり手のおカネさんが最後に私にくれた草履だった。よく私をここまで歩かせてくれたネ。私はそう草履に話しかけて足元を見ると、笑い泣きしたくなる程、見事にくたびれた代物が足の底に必死にしがみついているじゃないか。泣くより笑うしかなかったヨ。この草履はナミにとっては数少ない受けた情の証なのだから、宝物なんだヨ。
ザンバラ髪で腰の曲がった老婆ははた目にはとてもそうは見えないが、まだ五十を少し越えたばかりなんだヨ。どうしてこうなっちまったのかネー。その薄汚れたお婆も最初からお婆じゃなかったんだ。周りをぐるっと山に囲まれた貧しい農家の一番上に生まれたんだ。そのナミの下には女、男、男。女、男と生まれたが、二番目と三番目、五番目の子は生まれてまもなく死んだり、一人は三歳まで育ったのに水が悪いのか栄養不足なのか、ナミを入れて六人のうち三人は亡くなった。
ナミはお婆ちゃん子で優しいお婆ちゃんだった。
ナミが七歳の時に亡くなってしまった。その後はずっと淋しかった。
ナミを庇ってくれる人は誰もいなかったからネ。おとうもおかあもいつも暗い顔をして不機嫌だったし、ナミが十二歳になった時は、下に七歳の弟と生まれたばかりの男の赤ん坊がいるだけだった。
赤ん坊は乳が出ないのかいつも泣いていた。おとうとおかあはこのままではこの子も死んでしまうだろうと話し合っているのが聞こえた。そして間もなく十三歳になったナミは女郎屋に売られたんだ。
その少し前に畑を何枚か隔てた隣に住む弥吉と初めて話らしい話をしたばかりだった。
弥吉はナミより五歳程年上の十七・八歳くらいの若者だった。
以前は年をとった無口な寡黙な爺様と二人で暮らしていたが、爺様が亡くなった後は一人で黙々と畑を耕しているのを見かける事があった。
弥吉の親はどうしたのか?いつから爺様の所にいるのか?ナミの両親も詳しい事は解らないようだった。
爺様が亡くなったのはその一年程前の事だ。ナミは弥吉の事が気になり出した。弥吉は一人ぽっちになってしまったのだもの。一人で畑仕事をしている弥吉を見ると淋しいだろうナと思ったりした。
ある日、弥吉の所に同じ年頃の若者が来て話をしているのを見かけた事があった。
弥吉には友達がいるんだと解ると、それなら大丈夫だ、一人ぽっちじゃないと思ってナミは安心した。
それからまた暫らくしたある日、どこからか帰って来る弥吉と偶然道で出くわした。
弥吉は側まで来るとナミを眩しそうに見た。
その目は今、泣いたばかりのような赤い目をしていた。周りには人影は無かった。二人は何も話す事もなく、それでいてその場を立ち去りがたくて二人共、自分から離れて行く事も出来ずに、うろうろしていた。
すると弥吉が「今、友達の葬式に行って来た。」とポツンと言った。
ナミは、「えっ?」と言って弥吉を見た。
「たった一人の友達だったんだ。病気になって具合が悪いのに心配して看病してくれる人がいなかったんだ。俺が顔を出した時はもうすっかり駄目になっていて、それでも俺の顔を見ると嬉しそうに笑って逝ってしまったんだ。」と言ったっきり足元に目をやり顔を上げようとしない。
二人は少しの間、何も言わず黙っていた。暫くすると、弥吉は足元を見たまま、「ナミ、もしも俺が病気になったら看病に来てくれるか?」と言った。
弥吉は自分の名前を知っていてくれたんだと思うとナミは体の震えを感じながら、
「行く!私絶対に行く!弥吉さんの看病に行くから!」と言った。
弥吉はナミの言葉を聞くと、顔を上げてナミを見て初めて嬉しそうに笑った。それからきまり悪そうに「じゃ、俺行くから。」と言って通り過ぎて行ってしまった。
それがナミの生まれてから年老いた今までの人生の中でたった一つの出逢いと逢瀬の全てだった。
その後、弥吉と再び会う事はなかった。ナミはあれからこの時の弥吉の言葉、まなざし、嬉しそうに笑った顔を幾度思い出した事だろう。繰り返し、繰り返し思い出しても色あせる事はなかった。
ナミの胸の奥にいつも宝物のように抱いて生きて来たのだった。
あの頃は、いつか自分が弥吉の嫁さんになる事を夢見ていたっけ。
そんなある日、父親が突然ナミを前にして、「ナミ、お前ももう立派な大人の女だ。家の為に奉公に出て貰うからなナ。」と言い出した。
後ろにいて赤子に乳を与えている母親は一言も言わず黙っている。
その様子でナミはピンときた。
咄嗟にナミは、「おとう、私を売る気か!」と叫んでいた。
おとうもおかあも驚いたようにナミを見たが違うとは言わない。
それを認めると口から勝手に言葉が飛び出していた。
「イヤダ!イヤダ!女郎屋に売られるなんてイヤダ!おとう、おかあ、私を売らないでくれ。ここに置いてくれ。私は何でも手伝う。一生懸命手伝うから売らないでくれ!あそこは生き地獄だと聞いたぞ!そんな所に私をやらないでくれ!」と叫んでいた。
すると父親がナミに近づいて、片膝を立てたままいきなり、「馬鹿者!!」とナミを殴った。
「こっちが甘い顔をすると付け上がって、ナミ!家の中をよく目をひん剥いて見てみろ!どこに食い物がある!このままじゃ家族全員飢え死にだ!」
「おかあ乳が出ない、赤ん坊もこのままじゃ死んでしまう。見ろ!お前の弟もガリガリに痩せている。お前ばかりが元気いっぱいだ!」と言った。
「私は盗み食いなんかしていないヨ!」とナミも叫んだ。
「誰もそうは言っていない!こんな時は元気な者が弱っている家族を助けるのが筋だろう?もう分別のある年になったんだ。自分の方から、おとうおかあ、私を売ってそのお金で弟達におまんまを食べさせて下さいというのが親孝行の娘だろう?それを頑是ない子供のようにイヤダ、イヤダの一点張りだ!誰が好き好んで娘を売る親がいる?お前の気持ちは聞いていない。話はもう決まっているんだ。明日の朝迎えの者が来る。今晩は風呂に入ってこざっぱりしておくんだぞ!いいナ!」と言うと、父親はどこかに出て行ってしまった。
母親の方を見ると、背中を向けたままこっちを見ようとはしない。あの時の母親は例え口先だけでもいい。ごめんヨと言ったり涙を流したりもしなかった。
ナミはこの時、この世の中で誰も自分を助けてくれる人はいない事を知ったんだ。
弥吉の顔を思い浮かべたが、貧乏で一人っきりの頼りない若者が自分を救ってくれようとは到底望めない事だった。
結局どうしようもないのだ。
次の日の朝、父親の言った通り目つきに凄みのある男が二人、ナミの家の前に立った。
洗いざらしの着物を着て髪を自分で結い上げた。ナミは泣く事も出来ずに土間の所にいた。
小さな包み一つだけの支度だ。外の男達は家の中に入って来ないで外でこちらを見て、「あの子かい?」と聞いている。
父親は「ヘエ。」と答えている。
二人は外からナミの様子をジロジロ品定めするように見ている。
そのうちの一人が家の中に入って来た。
ナミの前に立つと、ナミの顎を指でクイと上向かせて顔をじっと見た。
ナミは怖くて目を瞑っていた。
男は「フーン。」と言った。そしてまた、父親の所に行くと、「顔は並だナ。上物とは言えない。体は丈夫かい?」と話しているのが聞こえた。
「ヘエ、それはもう風邪一つひいた事がありません。」と父親は答えている。
「体に痣や傷跡なんかないだろうネ。本当はここで裸になってもらって検分するんだが、オヤジさんの言葉を信用してこれでどうかネ?」と値段を示している。
「本当はこんなもんだが、生娘だし丈夫だと言うのなら、こっちもここまで出そうじゃないか、どうだい?」と言っている。きっと上乗せしたのだろう。
父親はその男に何度もペコペコお辞儀をして感謝している。
ナミはもう悲しいだけだった。
小さい頃、お婆ちゃんに連れられて女の人達が多勢集まる所に行った事がある。
女達は売られて行くどこかの娘の噂話をしていた。
「年季明けといったって借金がどんどん膨れて死ぬまで出られない仕組みになっているんだってサ。」と一人の女房が言うと、
「男共にとっちゃ極楽かも知れないが、売られる身になったら一生の生き地獄なんだヨ。」ともう一人が言った。
それを耳にした時、ナミは子供心に地獄を想像して本当に恐いと思った。
その頃はまさかいつか自分がおとうおかあに売られて地獄に落とされる事になろうとは小指の先程も思わなかったが、こんな悪い夢のような事は自分の身にも本当に落ちて来るものなのだと今初めてボンヤリ思っていた。
それでもナミは、この二人の恐ろしい男達を目の前にして「イヤダ!」という言葉を出す事が出来なかった。それかと言って、いつまでもグズグズしてその場から動けないでいるのを母親に後ろから背中を押されるようにして外に出た。父親はこっちを見ようともしない。
ナミは赤子をおぶって傍にいる母親の前掛けをぎゅっと掴んだ。ここで手を離したら二度とここへは戻って来れないような気がする。
いくら貧乏でもここがいい。この村以外どこにも行った事がない。生まれてから今まで居たここが自分の居場所なのだもの。
「さあ、行くぞ!」男達が促した。
ナミは母親の前掛けから手を離さない。
その時、母親の手がナミの握っている指を思いっきり引き剥がした。
ナミはその時、驚いて母親の顔を見た。
母親の顔は泣いてなんかいなかった。
怒ったような顔がまるで、これからはあんたと私は親でもない、子でもないんだヨと言っているようにプイと横を向いてしまった。
それがナミの家と故郷との別れであった。
その時、ナミは悟ったのだ。
おとうもおかあも親なんかじゃない。
私を生き地獄に落とす鬼なんだと。
何もかも虚しかった。
あの優しいお婆ちゃんが生きていたら、泣いて反対してくれただろう。だが今は泣いてくれる人は誰もいなかった。
男達はナミを間に挟んで前と後ろを歩いて行く。買い取った娘が逃げ出さないようにしているのだ。
そしてその時、遠くの畑にいる弥吉を見たのだ。
弥吉もこっちに気付いてみている。
男達に連れられて行くナミの姿を見て何があったのかを悟ったのだろう。
ナミは心の中で弥吉に語りかけた。
「これがお別れなんだヨ、弥吉さん。もう帰って来れないんだヨ。看病に行くって言った約束も守れなくなっちゃった。私は売られて行くんだヨ。」
ナミはそう思うと、豆粒ほどの遠い人影に向かって、いきなり手を振った。力の限り手を振った。
さよなら、さよならもう会えない。涙が溢れて来てボトボト落ちた。あの日の事は忘れない。
連れて行かれたのは、“鶴亀楼”という目出たい名前のかなり大きな遊郭だった。
驚く程華やかできらびやかな世界に見えてナミは驚いてしまった。
その年の鶴亀楼の新人はナミを入れて五人だった。
大体同い年くらいの田舎から連れられて来た子達だった。
最初一つの部屋に入れられて行儀や言葉使い、心構えを教わった。
化粧の仕方や着物の着方等、基本的な事を教えられて各々が先輩のネーさんの部屋に散って行くのだが。
その最初の半月程の間に一緒にいるうちに五人は誓い合った。
どんなに辛くても苦しくても五人がお互い助け合ってこの地獄から年季明けて出て行こうと固く固く誓い合った。
だけどその後それぞれが。姉さん女郎の部屋に割り振りされてからは、五人が一緒にいる時みたいに相談したり悩みを打ち明けたりする事は出来なくなってしまった。たまに廊下ですれ違ったり、湯に行く時に目を合わせるだけになってしまった。
それからまた、半年もしないうちに五人のうちの“梅”という娘が二階から飛び降りて呆気なく死んでしまった。最初についた客が余程、質の悪い客だったのだろう。
「イヤダ!客をとるのはイヤダ!」と泣きわめくのを折檻し、言い聞かせて大人しくなったので聞き分けたのだと思って店も安心していたちょっとの隙に二階の窓の隙間から出て思いっきり飛んだらしいとナミは聞いた。
やっぱりここは生き地獄だ。女にとっては生き地獄なんだ。だけど自分はそんな馬鹿な事はしない。頑張って年季開けて堂々とここを出て行くんだ。そしてあの家には絶対帰らない!
それから何年かして、もう一人の“なり”という娘はどこからか胸の病を貰ってまだ二十歳にもならずに布団部屋の隅に寝かされたまま淋しく死んで行った。
やっぱりここは生き地獄だ。私は絶対“なり”のように死んでたまるか!ナミは自分自身に強く言い聞かせた。
あれから何十年、残った三人というのが今でも鶴亀楼で“やり手”をしているおカネさんと今では立派に鶴亀楼のおかみになっているおナカさんだ。
今日に至るまではナミにとってもおカネにとっても正に生き地獄のような泥水の中を必死にもがき泳いで来た日々だった。
ナミは体は丈夫だが、器量は並より下。
おカネさんはやせて険のある目をしているから同じく売れっ子にはなれなかった。
その点、おナかは飛び抜けた美人ではないが色の白い餅肌で、下ぶくれの顔に妙に愛嬌があって客がついた。
その中でもたまたま店に来た楼主の息子がおナカにすっかり惚れ込んでしまって一緒にしてくれなければ店を継がないと言い出した。
旦那もおかみさんも店の女郎を嫁にする気は無かったが、とうとう息子に負けておナカを嫁にしたのだ。おナカはそんななかなかの女だったのだ。そして今では鶴亀楼のおかみに収まっている。大出世をしたという訳だ。
それに比べ、ナミもおカネも贅沢もしないのに借金が増えた。本人の知らない所で親が勝手に度々借金を繰り返すので、いくら働いても年季明けの自由には手が届きそうもなかった。
あれから諦めも手伝って夢も希望も失ってダラダラ店に出て、いつか若い娘達から陰で、“婆さん”と陰口をたたかれながらも、三十七・八までは鶴亀楼で白粉を塗って頑張って来た。ところが、いよいよ見限られる時が来た。二人はある日、別々に呼ばれた。
ナミはここ鶴亀楼ではあまり年取った遊女は置いておけないので他に移って貰うとはっきり言われた。
そしてそこよりずっと格下の女郎屋に借金ごと売られる事になったのだ。それに引きかえおカネは違った。何と鶴亀楼の“やり手”に抜擢されたのだ。それまでのやり手が引退するので代わりにどうかと声を掛けられたのだ。
おカネの頭の良さとあるいは険のある顔に白羽の矢が立ったのかも知れない。勿論おカネはそれを引き受けた。
それ以来おカネは、今までは鶴亀楼の立派なやり手として遊女達からは恐れられている。だけど二人の友情がそこで途切れる事は無かった。ナミは安女郎部屋に堕ちても、おカネを恨みがましく思う気持ちは微塵も持たなかった。
「おカネさん良かったネ。」と言った。
「私達は泥水の中を泳ぎながら励まし支え合って来た仲なんだ。おカネさんが“やり手”になるのは私の自慢でもあるんだヨ。」と言った。
ナミは本当にそう思った。ナミにはそんな素直な所があった。十三の年にいきなり父親から売られると知った時はさすがに驚き親を恨みに思った事があるが、その後は何事も諦めが肝心というように自分の不幸を考えないようにした。元々が始終思い出しては恨んだり悔しがったりするような性質ではないのだ。
ナミを可愛がってくれたお婆ちゃんがそうだった。そのお婆ちゃんがいつもこう言っていた。
「年がら年中、始終怒っているような人がいるけれど、ああいう人は損だネ。私ゃ、嫌な事や嫌な人の事はなるったけ忘れるようにしているんだヨ。自分の心の中を出来るだけ明るい部屋にしている方が体にいいしネ。」といつも言っていた。そういう人だった。
そのおばあちゃんの言葉のせいかナミはこんな所にいてもあんたは素直だネーとよく人に褒められる事があった。きっとお婆ちゃんに似たのだろうと思う。
ナミは女郎部屋に四十三までいた。その間には客から病気をうつされたり治ったり。この商売はそれは避けて通れない。そんな時はさすがにいつになったらこの世界からおさらば出来るんだろう。きっと死ぬ時だナーと思ったりした。
特に最後の頃では年のせいか何なのか客をとるのがしんどくなって、もしも自分に勇気があったら二階から飛び降りて一瞬のうちに死んでしまいたいナーと思ったりした。
実際はそんな度胸が自分にはない事はよーく解っている。
そんな時におカネさんがナミを訪ねて来た。
暫らくぶりに見るおカネさんは細い縞の着物をきりりと着て、痩せているのは相変わらずだが、貫禄のある立派な“やり手”になっていた。
でもナミを見ると嬉しそうにニッコリ笑った。
途端にあの昔のおカネさんに戻った。
おカネは土産に持って来た菓子を食べながら、「おナミちゃん、あんたもこの年になったら客をとるのはしんどいだろう?」と言った。
ナミも素直に、「本当に最近は体がだるくて、いっそ死んでしまった方が楽かもって考えたりするんだヨ。」と言った。
「それで来たんだヨ。鶴亀楼で女の娘達の腰巻や肌着を洗っていた洗濯婆さんが年で駄目になってネ。そこに空きが出来たんだけど。人の汚れ物の洗濯なんておナミちゃん嫌かい?他に御不浄(厠)の掃除もあるしネ。汚れ仕事だから嫌だ!と断られるのを承知で私は来たんだヨ。おかみのおナカさんに昔の仲間が辛い思いをしているんだ、借金を全部買い取ってここで働けるようにしてやってくれないかと談判したら、あの人も昔のあの若い頃の五人の約束を思い出したんだろう。おナミちゃんがその気なら鶴亀楼に来て貰っていいと言ってくれたんだヨ。どうかね。仕事はきつくて汚いけれど気持ちは楽だと思うヨ。何せあの婆さんが長年やっていたんだ。あの婆さんいつもニコニコ愛想よくテキパキ働いていたよネ。だから慣れたら案外長く続けられるかも知れないヨ。それに私も心丈夫なんだヨ、おナミちゃんが一緒ならネ。まあしょっちゅうとは行かないけれど月に一・二度くらいは二人でお菓子を食べながらおしゃべりが出来るし、何かあったらお互い力になれるしネ。私の方がおナミちゃんに来て欲しくてこうして走って来たんだヨ。」と言った。
その一言でナミはおカネの持って来たその話にのった。
そしてそれからそこを辞める事になる迄の六年余り、ナミは鶴亀楼で洗濯婆さんとして働いて来た。借金があるから相変わらずのただ働きだったが、一日三度のおまんまは食べさせてもらえるし、ちゃんとした部屋はないが北向きの物置部屋の一畳半程の部分がナミの居場所になった。使わない火鉢や蝋燭台や長持ち等雑多な物と仕切られている所。ナミはそこに布団を敷きっぱなしのままにして仕事をして疲れたり、腰がだるくなると暇を見つけてはゴロリと横になった。
仕事は遊女たちの汚れ物を洗濯し、便所を掃除し、また夕方には乾いた洗濯物を取り入れ畳むという具合だ。慣れるとそう難しい仕事ではなかった。
人に愛想笑いをする必要もない。お客が相手ではないから汚れ物と厠が相手だから自分の身なりに気を使う必要もない。
仕事の合間合間に物置のせんべい布団にゴロリと横になれる。三度の食事の心配はない。おカネさんも月に一度、時には二度くらいお菓子を持って物置のナミの所に顔を出してくれた。
その時はお互い年の事もこれから先の事も忘れて他愛のないおしゃべりをして過ごした。
時々おカネさんが、「おナミちゃん、ここに来てから全然おしゃれしなくなったんじゃないの。少し気をつけた方がいいヨ。」と言ったり、「これ、私の着古しじゃ嫌かい?」と言って新しくはないが洗い直した着物を持ってきたり、ばらけたナミの髪をとかして、持って来た飾り紐で結んでくれたりした。
ナミはその度にやっぱりおカネさんは友達だナーと思うのだった。
こんな生活はナミをすっかり安心させたし満足させていた。
そんな気楽な生活が六年程続いたある日、ナミはこの鶴亀楼のおかみに収まっているおナカから呼ばれた。
ここに来た時に後ろ姿はチラリと見たが話しはしなかった。
同じ鶴亀楼にいながら表の部分と裏の部分はすっかり分かれていて、普段裏方の者は表の方へは出て行かないし、ナミも入って以来一度もおナカに会う事は無かった。
何の話だろうと思いながら恐る恐るおナカのいる所へ行った。
おナカはてっぷり肉がついて上等な着物を身にまとっていた。おまけに遊女でもないのにいまだに顔や首におしろいを塗っているのが解る。
おナカは妙に愛想のいい顔をしてナミを迎えた。
「おナミさん、暫らくだネ。」と言ってナミをシゲシゲと見た。
「今日来て貰ったのはね。言いにくい話なんだヨ。」そう言いながらも妙な笑顔を崩さないので、ナミは何だがぞっとした。
嫌な予感と、てっぷり太ったおナカの全体が気持ちが悪い。
プヨプヨしたその白い皮膚は針をちょんと刺したら途端に中から青黒いドロドロしたものが出て来そうな気味悪さを感じた。
これはきっと生き地獄の中であえぐ女郎達から搾り上げた血を吸って膨れ上がった白い大蛇を連想させたからであろう。
ナミがそんな事を考えてボーッとしていると、「おナミさん、最近妙な事を言われるんだヨ。気を悪くしないで聞いておくれヨ。鶴亀楼はよっぽど内情が苦しいのか腰が曲がったヨボヨボの婆さんを使っているってネ。しかも身なり構わず、まるで昔、羅生門で捨てられた死体から着物を剥ぎ取ったり髪の毛まで抜き取るという鬼婆のような気味の悪い婆さんを使っているとそういう噂なんだヨ。どこから出た話か知らないが、私は最初笑って取り合わなかったんだヨ。だけどネ、そのうち若い娘達が、自分の肌着をそんな気味悪い鬼婆に洗って貰うのは嫌だと言い出してネ、困っているんだヨ。洗濯をしてくれているのはおナミさんだろう?そんな訳ないだろうと私は一言ったんだ。おナミさんは私と同い年だ。だけどいったん騒ぎ出したら聞いてくれないのが分別のない若い娘達でネ。解るだろう?私も辛い立場なんだヨ。おナミさんにはまだまだいてもらいたかったんだが、そういう事情でここにいて貰う訳には行かなくなったんだヨ。おカネさんからは聞いているだろうけど、おナミさんにはまだ借金があってネ。ここに来た時も借金も一緒だったんだヨ。それもまだ残っているしネ。だけどそういう事情でこちらから出て行って貰うからには借金も全部無しにしてあげるという事でうちのダンナとも話はついているんだ。だからおナミさんは借金を気にせずにさっぱりとした気持ちでどこにでも行けるんだヨ。」
ナミはいきなり辞めて出て行けと言われて呆然としてしまった。
するとおナカは、「それで早速で悪いけど、新しい人も決まっているんだヨ。だから今すぐにと酷な事は言わないが、明日の朝にはここを出て行ってくれないかネ。これは私のほんも気持ちだ。少ないけれど取っておいておくれ。」と言って紙に包んだ物を出した。
おナカは言うだけの事は言ったというように体を横向きにしてもう何も言わない。
ナミは突然の事で結局何も言えずにヨロりとその場を立とうとした。
すると立ち上がってしまう前におナカがヒョイと丸い鏡をナミの姿が見える辺りに置いた。その何気ない仕草が何を意味するのかも解らずにナミは思わず鏡を見てしまった。
そこに映っているのは、まぎれもない老婆だった。これが私か?何て格好をしているんだ。いつの間にこんなに変わって!と思ったが、思えばここに来て洗濯婆さんになってからは鏡を見る事が無かった。その必要も無かったし。物置の自分の所にも洗濯場にも鏡は無かった。暫くぶりに見た自分の顔はいつの間にこんなに白髪が増えたのだろう。半分白髪のざんばら髪を乱した歯の欠けた紛れもない老婆の顔だった。それが今の自分なのだ。
いつの間にこんなになってしまったんだろう。暫らく呆然と鏡の中の自分を見ていた。
おナカはその様子を横目で見ると、納得しただろうというようにすっかり背中を向けてしまった。
ナミは気の抜けた幽霊のようにヨロヨロと自分の部屋に戻るしかなかった。
物置の自分のせんべい布団にどさりと倒れ込んで横になると特に悲しくもないのに目尻からツーと涙がこぼれた。
これよりもひどい事は今までたんと経験して来た筈だった。十三の年から今まで、あの地獄のような山坂を越えて来たんだ。それに何と言ったって借金の無い身軽な体でここを出られるんだ。ここを出るからって追いかけて来て連れ戻され折檻される訳でもなし。大手を振って今こそここを出て行けるんだ。良い事づくしじゃないか。そう思おうとしたが、さっきおナカの所で鏡に映った自分の姿を見せつけられてからは何故か涙が勝手に流れて来る。
結局、もう私は縛りつけておくだけの値打ち等ないという事だね。
白髪頭の腰の曲がった婆さんはどこへなりと行って構わないという事だネ。
勝手に涙がボトボトせんべい布団に落ちた。こんな私が今となってはどこへ行けばいいんだろう。私がこんな婆さんになったという事は私を売った親達だってとうに死んであの村にはいないだろう?
あの村には子供だった弟と赤子だった弟がいるかどうか。それも今となっては名前さえ思い出せないし。それにこんな薄汚い婆さんが突然訪ねて行って喜ぶ筈がない。
結局、今の自分が宛てに出来る所はどこにも無いんだ。
あと十年若かったらどこかの飯炊き女や女中や何かに雇ってくれる口もあったろうが。
腰も足も弱くなって体もだるくて、いつもゴロゴロしている状態では誰も相手にする所などありはしない。
この先の事を思うと背中ががうすら寒く震えが来る程心細い。どうしたらいいのだろうか?いったい、これからどうしたらいいんだろう。
ナミは布団を被って暗い中で途方に暮れた。
その時誰かが入って来た。おカネだった。
「話は聞いたヨ。ひどい話だ。今まで散々働かせておいて、この年になっていきなり放り出すなんて!血も涙もない話だヨ。やっぱりこれがあの女の本性だったんだ!」
その声を聞くとナミは布団の中で大急ぎで涙を拭いて顔を出して笑った。
「いいや、おカネさん。考えてみりゃ有難い話だヨ。借金を棒引きにして餞別までくれたんだ。」
ナミがそう言うとおカネは悲しそうな淋しそうな顔をして「行く当てはあるのかい?」と聞いた。
「ないヨ。おカネさんだって知ってるだろう?宛てなどあるもんか。だけど、どうにかなるサ。どうにもならない時は野垂れ死にサ。そう思ったら気が楽サ。」と元気よく言ったら、本当にそんな気になって来た。
おカネは手に自分の来た着物を持っていた。
「これはネ、また着ようと思って洗い張りして縫い直した着物だが、ここを出る時、これを来てくれるかい?」と差し出した。
ナミは喉の奥がグッとつまってすぐには声が出なかった。
やっとの事で、「おカネさん、いつも優しくしてくれてありがとう。おカネさんの事は一生忘れないヨ。」と言った。
するとおカネは、「私だっておナミちゃんが居てくれてどんなに心強かったか知れないヨ。こうして“やり手”をやっているとネ。自分が嫌な人間になって行くような気がするんだヨ。だけど甘い優しい“やり手”ではこの仕事は務まらないからネ。嫌な仕事だヨ、本当に。だけど、ここを辞めたって私もナミちゃんと同じでどこにも行く当て等ないんだヨ。だから私はもう少しここで頑張ってみるつもりなんだ。」と言った顔は本当に悲しそうな顔だった。
「私達、今別れたらもう会えないだろうネ。」とおカネが言った。
ナミは、「会えるサ。死んだら極楽できっと会えるヨ。私達、生きている時はずっと地獄の中に居たんだ。死んだらお釈迦様がきっと極楽に呼んでくれるヨ。」と言ったら、おカネは淋しそうに笑った。
それから、「おかみさんが餞別をくれたって言ったよネ。あのおナカが驚いたネ。きっとおナミちゃんを追い出すのが後ろめたかったんだろうヨ。」と二人で紙包みを開けて中を見た。
そこには人を馬鹿にしたような小銭が少しだけ入っていた。
「ホラネ、あのおナカが情のこもった事をするものかネ。さんざん儲けているのに。これじゃ素うどん二・三杯で消えちまうヨ。本当に腹黒い女だヨ。本当に腹が立つ。」とおカネは言った後、「私もおナミちゃんが居なくなったら一日もここに居たくない気持ちになったヨ。」そう言うと、帯の間から小さな包みを出してナミに握らせた。
「もっとあげたいけれど、今の私の精一杯だヨ。勘弁しておくれネ。」と言っておカネは涙を拭いて出て行った。
戸の外から「明日の朝、また来るからネ。私が来るまでは絶対出て行ったら駄目だヨ。」と言った。
次の朝、おカネから貰った着物を着て、くたびれた自分の着替えを風呂敷に包んで背中に縛っているとおカネがやって来た。
「朝ごはん。まだ食べていないだろう?まずこれをお食べ。」と竹の皮に包んだ大きなお結びを出した。
「飯炊きのおばさんに事情を話したらあの人も涙を流してネ。こっそりおナミちゃんの為に良いお米を炊いて、それを全部おむすびにしてくれたんだヨ。世の中悪い人ばっかりじゃないヨ。おナミちゃん、体を大事にして頑張って生きてりゃきっとどこかで見てくれている人はいるものサ。そう信じてネ。これは私の草履だ。新品じゃないが、一・二度履いただけなんだ。腰にでもぶら下げて、今履いているのが駄目になったら履くといいヨ。おむすびは沢山作って貰ったからネ。漬物も入れてくれたって言ってたから。食べる時はおばさんに感謝して食べるといいヨ。」と言って背中におむすびの包みを入れてくれた。
ナミは人の情に心も体も温かくなって来た。お腹も満たされてまた背中に背負ったホカホカのおむすびのせいかも知れない。
このようにナミはようやく自由の身になってあてのない旅に出たのだった。
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