冥土のみやげ

やまの かなた

第1話

 この世の幸、不幸は前世からの

 因縁によるとか。だが、それは本当だろうか。

 前世で不幸だった者がこの世では幸福になり、

 前世であまりにも幸せだった者が

 この世では不幸になる

 等という考えもあるにはある。その逆も然り。

 

 だが、それがあまりにも不幸続きで終わってしまうのでは

 見ている者の心が塞ぐ

 せめて最後の最後には無上の喜びを味わせたい。

 天の上からそういう哀れな者を見下ろしておられる方も

 きっとそう思われるのではないだろうか。


冥土のみやげ


 昔々、日本のある所でのお話です。

広くて長い長い砂浜がずっと続いている所がありました。

その砂浜沿いを道が伸びておりましたが、その道を通る者は思わずその広い砂浜とその先の青い海に目をやり、深く息を吸い込んで一休みしたくなるような所でした。

波打ち際にはポツポツと岩場のほんの頭が見えるっきりで、そこはどこまでも青い海、青い空が広がっているばかりでした。

その海と空を縁取るように砂浜が伸びているのでした。

その辺りの人の噂に、天気の良い日にじっと目を凝らすとたまさか水平線に見えない筈の島影がうっすらと見える事があるという。

けれど滅多に見る事の出来ないその島影を、その辺りの人々は昔から口伝えに、西国浄土に違いないと信じて疑いませんでした。

砂浜から見て道を右手に行けば小道に入り、左手もかなり歩かねば人のいる村に辿り着けないような、そこは人里から離れた何もない所でした。砂浜の景色だけは絶品なのに、このんで人がそこに住み着くような所ではありませんでした。

お日様は後ろの山から昇り、夕暮れには真っ赤な夕陽となって水平線の彼方に沈んで行きました。

海の彼方は西であるし、滅多に現れない夢のような島影も西の彼方にあるというのだから、きっとこの海の果てには極楽浄土があるに違いないと人々が思っても不思議はありません。

実際夕方、深紅に燃える空と海、それがやがて静かに消えて行く様子は思わず手を合わせたくなる程、人を感動させました。

ここの道を通る者もそうだが、特に漸くの思いで辿り着いた者がいたとしたら、この夕景色に涙を流さずにはおれなかったろう。


ところが、村から外れたその浜に、いつからか一人の老婆が住み着きました。

どこから来たのか?今までとんな暮らしをしていたのか?

そもそもこの辺りに知り合いでもあるのか?身寄りはあるのか無いのか?

村人が見かけた事のない腰の曲がったこの老婆を、不審に思う者もいたかも知れないが、誰の持ち物とも決まっていないこの砂浜に婆様が一人居付いたとしても誰も咎めだてする者もいませんでした。

山道をようやっとの思いで下って来たお婆は、街道から砂浜が見渡せるいい場所に朽ちた小屋が一つあるのを見つけました。

最初はその中に人がいたなら白湯の一杯でもいい、恵んででもらい一休みさせて貰いたいと、恐る恐る近寄って戸にかけられたむしろをめくって見たが、中には誰もいないのでした。

かつては誰かがここを気に入り小屋をかけて幾年月暮らしたものだろう。

だが、今では人の気配が全くなくなって久しいのは明らかでした。

それは小屋の中の様子ですぐ解りました。

ああ、良い家を見つけた!お婆は小躍りしたい程喜びました。

私の家だ!もしも元の持ち主が戻って来てこれは私の物だと言ったなら、その時返せばいい。だがそれまでは私の家だとお婆は思いました。

小屋の中には古びた鍋一つと皿、小鉢、どんぶりが一つずつと、湯飲みが二つあるだけだったがそれらは砂に埋もれかけていました。

お婆はそれを見つけると、「ああありがたや。神仏が私に下さったようなものじゃ。」と言って、さっそく使わせて頂く事にしました。

都合よく少し離れた所には、山の方から来て海に注ぐ小川が流れています。

恐らく前の住人も、川の傍であり、景色もよく、嵐になってもここまでは波も来ないような、大丈夫な少し高台のこの場所に小屋を建てたのだろう。

お婆はすっかり気に入ってしまいました。

つい少し前までは、海を見たらばすぐに死んでも良いと思っていたけれど、まあそう焦らずとも少しはここで命の洗濯をしてから死んでも良いだろうと思い始めました。

お婆は早速、小屋の中を片付け始めました。

鍋や皿小鉢を川に持って行って洗い、顔も洗いました。それから、キョロキョロ辺りを見回して人の影が無いのを確かめると、着物を脱いで体を洗いました。

もう長い間体を洗う事もせず、歩き通しに歩いて来たので汗と埃でひどい状態だったからです。

川の水は冷たかったけれど、こうしていると気持ちがいい。

あーあ、気持ちがいい。

長い間、土埃と汗と垢にまみれた体は久しぶりに洗ってやると、自分の体ながら喜んでいるように思った。

「そうだよネ。私の体を洗ってやるのは私だけだもの。同じ死ぬにしても、こんなに汚れたまんまでは死にたくないからネ。」と独り言を言っている。

さては婆様、ここを死に場所と決めているのだろうか。


やがてさっぱりすると、お婆は小屋に戻り鍋をかけるかまどを作り始めました。

前の人が使っていたかまどらしい跡の周りには河原から手頃な石を拾って来て補強した。

その上に鍋を乗せてみるとなかなか按配が良い。そのかまどに枯草や細い枝を用意して満足したがなにせ火種がない、困っていると、その時丁度遠くに山道を下って来る馬子を見かけました。

お婆は馬子が通りかかるのを待ち構えて、「何か火種はないでしょうか?」と聞きました。

髭面だが善良そうなその男は、「いいよ。」と言って煙草用の火打石を貸してくれて、、

「婆さん、この辺じゃ見かけない顔だが、一人っきりかい?」と聞きました。

「そうだヨ。私は天涯孤独の身の上さ。何時死んでもいいんだけど、生きていると腹が減ってネ。そうかといって食べる物もない。せめて温かい白湯でも飲もうと鍋をかけたんだが火種が無いときた。そこにあんたが通りかかったんだヨ。」と言った。

馬子は気の毒そうに、自分の亡くなったおふくろと同じ年ぐらいのお婆を放ってもおけず、

「婆さん、この火打石はあんたにあげるヨ。俺は家に帰るともう一つあるから。」と言って火打石をくれました。

「まあ、あんたは優しいネ。ありがとうネ。私が死んであの世に行ったら、あんたの事をお釈迦様に教えてやるヨ。あの人にどうか良い事がありますようにってネ。」お婆がそう言うと、馬子は髭面で笑って馬の所に帰って行った。

そしてまた戻って来ると、「婆さん、何も食い物が無かったら、さぞ辛いだろう。これは少しだが腹の足しにしてくれ。俺はたまにここを通るが、婆様が生きていたらまた持って来てやるヨ。死に急ぐ事はないヨ、急がなくたっていつかは死ぬんだからナ。」と言って一升ばかり入った米の袋を置いて行ってしまいました。

お婆はぽかんとしたが慌てて追いかけて行って、「ちょっと、あんた名前は何て言うんだい?」と馬子の背中に叫びました。

馬子は振り向きもしないで、「名無しの権兵衛だヨ。」そう言ったきり立ち去る後ろ姿に、お婆はいつまでも手を合わせました。

ああ、ありがたや。地獄に仏とはこの事だ。このお米は大事に大事に食べよう。

生きてりゃ、こんな嬉しい事もあるんだ。火打石で枯草に火をつけると、火は面白いように燃えて鍋のお湯が沸いた。

その中に一つかみだけ袋の米を入れる。

それを眺める嬉しさ、楽しさ。久しぶりにお粥が食べれる、何と有難い事だろう。

今まで、人と関わり合って楽しい事はいくらも無かった。むしろ嫌な事、悔しい事の方が多かった。

思い出しても心を通い合わせて友達になったのは一人だけだった。

だから今、広々とした砂浜で誰もいないこの場所で、案外、清々した気持ちになっている。

一人ぽっちでもいい。いつ死んでもいい。

だけどたった今、馬子に会って人の情に触れたら温かいものが体の中に流れて来た。


次の朝、

昨日温かいお粥をお腹に流し込んだので、お婆は陽が落ちるとすぐに満足してぐっすり眠れた。

目が覚めるとまだ辺りは白々明けで、こんな時刻に外に出る習慣のなかったお婆だが砂浜に出て見た。

空も暗く明けきっていない新しい朝だ。体がしゃきんとする。

お婆は浜辺をブラブラ歩き始めた。

浜にはいろんなものが打ち寄せられている。「宝物の浜だね。こりゃあ。」

お婆はうれしくてニヤニヤ笑った。


そして、あれから二ヶ月。ここの暮らしにもすっかり慣れた。

夜は浜に夕陽が沈むのを気の済むまで眺め、その後暗くなるのと同時に眠った。

だから朝は浜に打ち寄せるザーザーという心地良い波の音で目が覚める。

ぐっすり、たっぷり眠ったからまだ辺りは暗いけれど、すっきり目は覚めている。

小袖を二枚重ねただけの夜着を畳んでひょいと起き上がり砂浜に降りて行く。

ああ、今日もいい天気だ。何て気持ちの良い朝なんだろう。

まだ後ろの山が白みかけたばかりで浜も海も薄暗いが、お婆はこの時間が一番好きだと思った。この頃ではすっかり馴染んだ打ち寄せる波の音を聞きながら、お婆は自分がいつも決めている場所までまず歩いて行く。そして、そこから自分の小屋の方へ波打ち際を歩きながらいろいろな物を拾って帰って来るのだ。

主に浜に流れ着いたひるきを拾うのが目的だった。ひるきとは打ち寄せられた白く乾いた流木の事で、軽くて燃えやすいから焚き付けには一番だ。

それを一本、二本と拾い集めて抱えて帰って来る。

やがてすぐに、日が昇り始め辺りも明るくなって来た。今日も天気がいい一日になりそうだ。

お婆は腰を伸ばして海を眺める。

今日は西方浄土は見られるだろうかと考えてみる。

いやいやそうそう簡単に誰もが拝めるものではない。

通りがかった人から話は聞いたが、ここに来て二ヶ月お婆もまだ見た事がないのである。

だが、がっかりはしない。

波打ち際には時にはきれいな貝殻が寄っている事もある。

そんな時はまるで小娘のように喜んで肩から下げたずた袋に入れる。

また、思わぬきれいな小石を拾う事もある。

あれも、これも嬉しい拾い物をして自分の小屋に着く頃には、両腕いっぱいの、時には抱えきれない量のひるきが集まるのだった。

多い時にはそれを何カ所かにまとめて置いて置き、何回か取りに行った。

集めて来たひるきはこやの脇に積んでおく。

この年ではいつ足腰が立たなくなるか知れないので、その時の為の用心だ。

お婆は苦労したせいか、もうまだ随分若い頃からひどい腰痛持ちだった。

辛くて辛くてそれを我慢して来たが、あそこを辞めさせられる頃には立っているのが辛くて少し働くと、時間を見つけてはゴロゴロ横になっていたのだ。だから世間の人達より早くに腰も曲がり本当の年よりも随分老けて見える。

自分でもこの体はガタガタに壊れちまってもういくらもたたないだろうと思っていた。

だからいつ動けなくなっても良いように、せめて今のうちにこうして小屋の周りにひるきを山と積んでおくようにしているのである。

お婆は自分の死に場所はここだと決めた。

生まれも育ちも今までの暮らしもここではないが、自分の死に場所はここだと決めている。

誰にも看取られる事も無しに死んでも大丈夫なように近くの河原から少し大きめな石一つと、後は小川に顔や体を洗いに行った帰りや鍋を洗いに行った帰りに一つ二つとこぶし大の石を拾って来ては、小屋の海よりの脇にきれいに並べた。

海が見渡せるこの場所に自分の墓を作っている所だ。

その後ろの方に自分がやがて入る穴を少しずつ掘っている。

もういよいよ駄目だという時には這ってでも穴の所まで行き、最後の力を振り絞って穴に転げ込めばいい、そう考えている。

だが今はまだこんなにピンシャンしている。

ここに着いた頃より余程、体の調子はいい。

ああ、本当にいい気持だ。何と言っても人に気兼ねのいらないのが一番いい。

ひるきは殆どがカンカラカンに乾いて燃えやすい。石でいえば軽石のようなものだ。

長い間、波に打たれたり揺られたりしているうちに、そうなってしまったのだろう。

今日もお婆は小屋の脇に山と積まれた物の中から更に燃え易そうなものを何本か選んで持って来た。囲炉裏に並べてその下に枯草を丸めた物を入れ火をつける。

厚手の鍋にはいつもの分量の水が入れてある。

火は気持ちが良いくらい枯草からひるきに燃え移ってパチパチ音をたてながら燃えて鍋の湯を沸かす。

お婆は満足そうな顔で大きな欠けた茶碗にまず白湯を少し取った。これはお茶代わりだ

次に脇の袋を引き寄せてその中から一掴み米を取り湯の中に入れた。

鍋の米は細いひるきを一本ずつ足しながら、弱火でトロトロ時間をかけて粥を作る。

「ああ、今日も一日新しい日が始まりそうじゃないか。こうしてまた一日生きていられるんだから本当に有難いヨ。」

そう言いながらヨイショと立ち上がると、低い藁屋根の内天井のそこここに干してある干し鮑を三つもぎ取りヒョイと鍋に入れた。

それからまた、小屋の内側に張ってあるワラに小さな束にしてある干しワカメを一本抜き取ると、それを手でパキパキ小さくおり、それも鍋に入れた。それからゆっくり白湯をすすり始めた。

ああ、こうして誰に遠慮も気兼ねも無くのびのび出来るってのは有難いネー。

白湯を飲み飲み、頭陀袋に手を入れて今朝拾った貝や小石を出して見る。

今日はきれいな親指の爪程の桜色の貝一つと、棘とげのある珍しい貝が一つと、白地に所々緑がかった斑点があるきれいな小石が拾えた。どれもきれいでお婆は気に入った。

トゲトゲのある貝は、お婆は見た事もなければ聞いた事も無い。

「こんな貝、初めて見るヨ。どんな所からはるばる海を越えて来たのかネー。西方浄土から来たんじゃないだろうか?」

手の平に乗せていつまでも見ている。

西方浄土にはこんなきれな不思議な貝はたんとあるんだろうネ。私が死んだら本当に西方浄土に行けるんだろうか?と考えてみる。

それから思い直す。

「行けない事はないだろうサ。特別良い事をした訳ではないが、悪い事もしなかったんだ。それは天上から見ている仏様がちゃんと知ってなさる。絶対見ていて下さるに違いない。」

そんな事を考えながらまた一本、また一本と細い白い木をくべて行く。

鍋の粥もトロトロといい按配に出来上がって来たようだ。

中の干し鮑もワカメもお粥の中でうまく煮えているようだ。

お婆は鍋のお粥を三回に分けて食べる事にしている。

少し大きめのどんぶりによそったお粥は熱くて、鮑とワカメから出る出汁と塩分で丁度良い塩加減でかなり旨い。

まず最初に柔らかく煮えたワカメを食べる。それから薄い、たっぷりのお粥をすする。

「旨いネー。」時間をかけて粥をすすった後、最後に鮑を一つ口の中に入れる。

その鮑はふやけて元の大きさに戻り、お婆の口いっぱいになるが、歯の欠けたお婆は簡単には嚙み切れない。

口の中であちこち転がしながら時間をかけて欠けた歯と歯茎を使って、ゆっくりゆっくり噛みしめる。

鮑は噛んでも噛んでも奥から

旨味が出て来る。これを

お婆はいつまでもいつまでも飽きずに噛みしめている。そしてようやく最後に残った白湯を飲み干して満足する。

お婆は米を一掴みずつ大事に大事に粥にして食べた。

馬子のくれた一升の米は暫らく持たせたが、やがてそれも無くなりもうこれが最後だと思った。するとそれが解っていたかのようにまた、小屋の前に同じような米の入った袋が置いてあった。

馬子がお礼を言われるのが照れくさくてそっと置いて行ってくれたに違いない。

その辺に馬子の姿は見えなかったが、お婆は有難くて手を合わせた。

それでもお婆は米は一日一掴みと決めている。ワカメは買わなくても浜に寄っている。

鮑は夕暮れ時の砂浜に寄って来たり、またこの間は沖がしけて波が高かった次の朝、朝早く砂浜を歩くと驚く程、ゴロゴロ打ち上げられていた。

近くの岩場から波にもまれて剥がされたのだろうか。

お婆はあんな面白い思いをした事はなかった。

何度も何度も拾いに行き、時間をかけて集めた。その鮑を海の塩水で茹でた。

そして殻から身を剝がした物を稲ワラで結んで天井からぶら下げて干しておくのである。

干し鮑は保存もきくし、旨味がこもってもう一度煮ても良し、そのままの干し鮑を口に入れてしゃぶって食べても実に旨い。

お婆はそれを少しずつ貯めておいた。

この前、通りがかりの旅の人に白湯と一緒に干し鮑を出した事があった。

旅人はその旨さに大変喜んで、少し分けてくれないかと頼んだが、そういう時お婆は分けてあげる事にしている。

それを商売にする気はサラサラ無いが、相手が喜ぶ顔を見るのは気分がいい。

鮑を貰った者はお礼に何かを置いて行く。それでお婆もいくらか助けられている。


あの後、またひどく天候が崩れて雨風がやって来た。お婆の住む小屋は横殴りの雨風で今にも小屋ごと飛ばされてしまいそうで生きた心地がしなかった。叩きつける雨の音の凄さの上に小屋がグラグラ揺れた。

いつ死んでもいいと覚悟を決めていたさすがのお婆も心細くなった。

「観音様、観音様。普段は知らんぷりでこのような時だけお願いするのも心苦しいのですが、どうぞこの家だけは持って行かないように風神様にお願いして下さい。ここが無くなったら、この婆の行く所はないのです。どうぞどうぞ、お助け下さい。」

一晩中、雨も風も凄い音をたてて荒れ狂った。また沖もひどい時化なのだろう。

波が小屋のすぐ側まで押し寄せているように波の音はすさまじくて今にも小屋ごと津波のような大波に持って行かれるのではないかと思った。

お婆はこれで私も終わりなのだと思った。

この嵐ではどこにも逃げ場はない。

外に出る訳にも行かない。

お婆は敷布団の替わりに小屋の奥に稲ワラを山のようにしてあったのを、急いでその中に穴を開け、稲ワラの穴の中に潜ると小袖を二枚重ねた夜着を頭からすっぽり被って、一晩中震えていた。

すると次第に嵐の音が弱くなって来て、お婆は安心してようやくうとうとと眠くなって来て眠った。


目が覚めると、あの雨風の音はすっかり止んで、夜も明けたようだ。

稲ワラの穴から抜け出して、恐る恐る戸を開けてみる。

昨夜の時化が嘘のように海も穏やかになっていた。

昨日はどこもかしこも黒い雲に覆われていたがいま空はすっかり晴れ渡っている。

嵐は去って行ってくれたようだ。

お婆は、「観音様、この度も生きながらえる事が出来ました。もう少し、この世にいても良いと言う事でしょうか?他には何の楽しみもありませんが、もう少し鮑粥を呑気に食べてからあの世に行きたいと思っております。それまで、どうかよろしくお願いします。」と神妙にお礼を言った。

昨夜は本当にもう終わりだと思ったのである。

お婆はその後、あっ!と気が付いたように拾った古いザルといつもの頭陀袋を斜めにかけると浜に走った。

あの嵐の後だ。何か寄っているに違いない。

砂はまだ濡れていたが気持ちのいい新鮮な磯の香りがした。

そして、有難い事に高波が海から運んで来た物達が遠目にもズラーと打ち寄せられているのがみえる。やっぱり!

お婆は嬉しくってワクワクして、自分の年も忘れ腰の痛みも忘れて走って浜に降りて行った。

ある!ある!ある!海藻やら流木は勿論の事、鮑もあちこちゴロゴロ落ちている。

お婆はこんな嬉しい思いを一人でするなんて申し訳ないと思ったが笑いが止まらない。

お婆は、鮑は鮑、ワカメはワカメ、昆布は昆布、流木は流木とに分けてそれぞれ一カ所にまとめて置いた。

一人では到底食べきれないが、全部乾燥させれば保存のきく物だし嬉しい。

これはみんな私の為にどなたか天上のお方が私に下さっているような気がする。

もう昨夜の恐ろしさもすっかり忘れて、嵐のお蔭だと感謝の気持ちさえ湧いて来る。

こんな時には不思議に体の底から力がムクムク湧いて来て疲れ知らずになる。

“欲”と二人連れとはよく言ったものだ。小屋と砂浜を行ったり来たり何往復もした。

小屋の周りは拾い物で山になった。

ここいらで一休みしないとネ。ワカメ、昆布を干すのは朝餉の後にしよう。いつものように鍋をかけて火をおこし粥を作る。お婆はいつも三食分として鮑を三つ入れる所を少し考えて、今朝は六つ入れる事にした。

今朝は大量の鮑を拾ったから思い切って、一食に二つずつ食べる事にしたのだ。

ワカメも多めに入れた。それでお婆は随分豊かな気分になった。噛み応えのある鮑を二つも食べると心もお腹も大層満足した気分になった。

それからお婆は、ワカメや昆布を小屋の周りにグルリと干した。

どれも暮らしに貴重な食料になる。例え米が無くなっても昆布やワカメや鮑があれば生きていける。それにきれいに干して揃えたワカメや昆布は欲しがる人がいる。米や野菜と交換してもらえるかも知れない。

お婆は昆布やワカメの切れっぱしだって捨てずに自分で食べる。

自分が子供の頃、何も食べる物がなくて挙句の果てに自分は売られたのだ。

ほんの小さなワカメの切れ端だって無駄には出来ない。浜に寄った他の貝やつぶも海水で茹でて身を取り乾燥させておく、鮑の貝は身を外した後の貝殻が七色に輝いて本当に美しい。

昔お婆が売られた所で仲間の

誰かが、鮑の美しい貝殻を持っていて若い頃のお婆はそれを大層欲しいと思ったものだった。

だからいくらでも手に入るいまになっても何故か捨てられない。無駄には出来ないのだ。

鮑を小川に持って行ってきれいに洗う。鮑の貝殻は本当に美しい。いくら見ても見飽きない。

お婆はそうしてきれいに洗った物を小屋の隅にとってあった。それらは他のきれいな貝や小石等も全部、お婆の宝物だ。


ある時、立ち寄った旅の人が白湯を飲みながら小屋の中を見渡し、

「あの貝殻はどうするのですか?」と聞いたので、「きれいだから捨てれずにいる。」と言うと、「是非、譲って下さい。」と言う。

「何に使うのですか?」と聞くと、知り合いが飾り物の細工師で螺鈿と言って漆塗りの箱等に鮑の貝殻を張り付ける仕事をしていると言う。その者に、土産に持って帰ってやりたいと言うのだ。

「それならいくらでも持って行っていいヨ。お金はいらないあげるヨ。」と言うと男は大変喜んで背負って来た箱に鮑の貝殻をいっぱいに詰めるとお礼にと言って、お婆がびっくりする程のお金を置いて行った。

お金はいらないと何度も言ったが、またいつか通りがかった時寄らせてもらうから、これからも貝殻を貯めておいて欲しいと言って帰って行った。

お婆はその時の事を思い出して、またあの人の為に沢山集めておこうと思った。


この世は辛い事ばかりと思って生きて来たが、いよいよ最後と死に場所に選んだここで、思いがけず呑気な気ままな生活と、たまには人の情に触れる事もあってお婆は楽しい、嬉しいという気持ちになれた。

これが“冥土のみやげ”というものかネーと一人笑ってしまった。お婆はとりとめもなく思い出してニヤニヤした。


おひるもゆっくりたっぷり頂いた。

まだ昼を少し過ぎたばかりだもの。どれ、もう一度ひるきでも集めに行って来ようかと腰を上げた。浜を歩くのは少しも苦にならない。

何度行っても手ぶらで帰ってくる事は無かったし、それに毎日砂浜を歩いているせいか足腰が丈夫になった気がする。腰も以前のように辛くはないし何だか気のせいか曲がった腰が心なしか伸びたような気がする。

鏡がないから解らないが、この頃川で髪を洗っていて、あれ?前のようにパサパサした髪じゃないと気が付いた。毎日、昆布やワカメや鮑を食べているせいかも知れない。

「ここは宝の島のような所だヨ。何度歩いても必ず暮らしに役立つ物やきれいな物が落ちているからネ。」お婆はまたいつもの所まで歩いて行った。

朝来た時は貝や海藻ばかり拾ったのだ。今日はいつもより流木が多い。これは当分たきぎには困らない。だが、お婆が持ち運べないような大きな物も寄っている。

後で縄をかけて引いていけるだろうか?と大きな流木に手をかけるとそこに何か動く物があった。

お婆はギョッとして飛びのいた。

何だろう?確かに何かが動いた。

恐る恐る覗くと、大きな流木のほらの中に布に包まれた物がモゾモゾ動いている。

お婆は細い棒を拾って来ると、その棒でチョンと突っついてみた。

中から気味の悪い物がワッと飛び出して来るかと思ったのだが、そうでもない。

お婆は勇気を振り絞って布の端をつまんで、そっと開いてみた。

すると、なんとなんと赤ん坊がいるではないか?女の子のようだ。

しかし何故ここに赤ん坊がいるのだろう。辺りを見回してみても誰もいない。

捨て子だろうか?

しかし、人気のない砂浜に?誰が捨てたのか?それに昨夜は大嵐だった。

今朝は早くからこの辺りで仕事をしていたし、その時も人っ子一人見かけなかった。

朝と昼に小屋に入ってご飯を食べて一休みしただけだ。

その時、誰かが赤子をそっと置いて行ったのだろうか?

だが、こんな小さな赤子を波打ち際の流木のうろに入れて行くものだろうか?

それともあの嵐の海を波にもまれてここまで流れ着いたというのだろうか?

そんな馬鹿な、あの嵐の中でこの小さな命が生きていられる筈はない。

赤子を包む灰色の布は濡れてはいなかった。

お婆は海を眺めた。船の影はない。

もう一度、クルリと辺りを見回した。

怪しい人はおろか、人の影はどこにも無い。お婆は、このまるっきり見当もつかない不思議な状況と赤子を薄気味悪く思いながらも、好奇心に負けて抱いてみる事にした。

訳が解らないから人の子に見えるが、人の子でないかも知れない。

お婆は震える手で不気味な物に触るように布ごとそっと抱き上げた。

一瞬にして何か化け物に変わりはしないかとビクビクしたが、化け物等ではないらしい。へその緒はとれているが、まだ生まれて間もないような赤ん坊だ、女の子だった。

つきたての餅のように柔らかく白い肌には痣一つない。きれいな子だ。

お婆が人差し指でチョンと突っついてみると、両の手足を空を掴むように動かした。

だが目は瞑ったままだ。まだ眠っていたのだろう。見れば見る程きれいな子だ。

玉のような美しい子とはこのような子を言うのだろう。

お婆は今まで一度も自分の体から赤子を産み落とした事はない。

昔、お婆が子供の頃、母親が生んだ一番下の弟が赤子の頃を思い出したが、こんなに美しく白い肌の可愛い子でなかった。

十三の年に女郎屋に売られるまでに、村の女が背中に括りつけるように歩いているのを覗いた事と、どこかで隣に座った若い母親が赤子のおしめを取り替えた後、乳を飲ませたのを見た事がある。

だがここ何十年というもの、あの閉ざされた場所では赤子とはまるっきり無縁だった。

顔を見る事も鳴き声を聞く事も無かったのだ。ましては人の子を抱かせて貰った事も無かった。

お婆だって女だ。出来れば人並みに嫁に行き、子供を産んで育ててみたかった。

だが、お婆にはほんのわずかな機会さえ無かった。今、生まれて初めて、お婆は赤子と二人っきりにされたのだ。もう一度辺りを見渡しても誰も見てはいない。いわば今、お婆と赤子は二人っきりだ。お婆がこの子を抱いたって誰も文句を言う人はいない。

そう思うとお婆は、思い切って赤ん坊を抱き上げた。

抱き上げた時、一瞬フワッと軽く感じたがやがて何とも言えない温かい重みが伝わって来た。赤ん坊を抱くってこんな感じなんだ。こんなに小さいのにてつてつとした心地良い重みだ。この子はどんどん大きくなりそうだ。

お婆は砂に腰を降ろして膝に赤子を置くと、あちこち見てみてみた。

頭、お腹、背中、お尻、肩、腕、握った手は開いてみた。足や鼻、口、耳や耳の後ろもそっといちいち触って見てみた。

赤子とはこういうものなのだ。赤子はされるがままに泣きもしない。

お婆は今度は裸の赤ん坊の両脇に手を入れて持ち上げて目の高さにして見た。

赤子は少―し目を開けてお婆を見たように思えた。今日はあったかい日だった。

「お前はどこから来たんだい?」お婆は赤子に聞いた。

「お前は海から来たんじゃないだろうネ。あの嵐の中を来たというんならお前はきっと人間じゃないんだろうネ。お前は化け物の子かい?それとも神様の子かい?」赤子は何も言わずに無垢な瞳でお婆を見ている。

「お前のおっかさんはどこへ行っちまったんだろうネ。今、どこにいるんだろうネ。」

いろいろ話しかけたが赤子は勿論、返事等しない。

お婆はもう一度も二度も辺りを見回し、誰かいないかと思った。遠くからこちらを伺っている者はいないかと見たが相変わらず誰もいなかった。

仕方がないので裸のままの赤ん坊を自分のしなびた胸にじかに入れて着物の前を合わせて包むように抱いた。

赤子の体は最初少しだけ冷えていたが、お婆の胸に直接抱かれると心地よさそうにまた目を瞑った。

お婆は今、生きている命を懐に入れて温めているのだ。何とも言えぬ気持がフクフクと湧いて来る。この子は大人しい、いい子だ。生きていると何とまあ不思議な事に出くわすものだ。

きっと、どこぞの誰かが食いつめて海から流れ寄った木のうろに捨てて行ったのだろう。

だが、このお婆が気が付かなかったら、赤子は体が冷えて一日で死んでしまうだろう。

いいや待てヨ、このお婆が毎朝浜を歩く事を知っている誰かが拾って欲しくてここに置いて行ったのかも知れない。

また、一時だけ預かって欲しくて置いて行ったのかも知れない。

色々考えたが、ここであれこれ考えても仕様がない。

お婆は赤子を懐に入れて小屋に戻って来た。それから自分の全財産、全部を広げて赤子のおしめになるような物はないかを探した。着古した腰巻を切って、とりあえず何枚かおしめらしい間に合わせは出来たが、何せお婆は自分の着古しの他は何もない。

それからまた、もう着古してボロボロになった肌着で赤子の体を包んでやった。

その後、稲ワラの上に、赤子を包んでいた布を敷いて赤子を寝かせ、上には自分が夜着にしている小袖をかけてやった。

今の所はこれで良し。だが、これからどうしたものだろう。

誰か来てくれないかネー。私ゃ子供を育てた事が無いんだヨ。

人嫌いのお婆がこの時ばかりは誰かの力が欲しくなった。

するとその時を待っていたように、一匹の野良猫が顔を出した。

お婆は猫にさえすがりたい気持ちになっていたので、「ネコ!ネコ!こっちへおいで!赤子がいるんだヨ。さあ、こっちへ来て見てごらん。お前は男かい?女かい?優しい顔をしているネ。お前は雌猫かい?子供は産んだ事があるかい?どこの猫だい?こんな人里離れた所にネー。もしかしたらお前、捨てられたんじゃないのかい?名前は何て言うんだろうネ。そうだ、私の知り合いに一番親切にしてくれた友達がいるんだヨ。その人の名前はおカネさんって言うんだヨ。今、どうしているだろうネ。今、ここにおカネさんがいたらどんなにか喜んで私と一緒に力を合わせて暮らしていた事か。まさかカネさん、死んで生まれ変わって私の所に来てくれたんじゃないだろうネ。ネエ、あんたをカネさんって呼んでいいかい?」と話しかけると、“いいヨ”と言う風に“メェー”と鳴いた。猫にしては変な泣き方だネ。

そしてあちこち匂いを嗅ぎながら慎重に中に入って来た。

お婆の前までやって来ると、お婆の顔を見てまた“メェー”と鳴いた。

お婆はうんうんと頷きながら、遠慮はいらないヨと語りかけた。

猫のおカネさんはあちこち匂いを嗅ぎながら、赤子の眠っている辺りを暫らく嗅いで回ると、赤子の頭や顔を丁寧に嗅いだ。その後、赤子の傍らに落ち着き添い寝をするように横になった。

その様子をじっと見ていたお婆は、まるで本当のおカネさんが来てくれたようで喜んだ。

「ネエ、おカネさん、私はこれからこの赤子をどうしたらいいんだろう。この赤子は大丈夫だろうか。まだ一度も泣いていないんだヨ。大人しくて心配になるくらい良い子なんだヨ。赤子は泣くのが仕事だって言うけれど、この子はちっとも手がかからないけれど、まさか弱ってるんじゃないだろうネ。ネエおカネさん、村まで走って行って誰か捨てた人はいませんかと聞いて回った方がいいだろうか?捨てた人が自分から名乗り出る訳はないだろうネ。それなら、この子を貰って育ててくれる人はいませんかと探した方がいいかネ。いや駄目だ、駄目だ。良い人ならいいが、ろくに食べ物を与えないで折檻ばかりして挙句の果てに大きくなったら売りに出すという悪い了見の人も世の中にはいるからネ。これはうっかりした事は出来ないヨ。それにしても困ったネ。もう少し大きく育っていたら私のお粥を食べさせるんだが。この赤ん坊にはまだまだお乳が必要だ。おカネさんどうしたらいいもんだろうか?」お婆は猫のおカネさんに向かって真剣に相談した。

おカネさんはお婆の顔を見て“ツルルルー”と不思議な鳴き声をした。

ニャーとかニャオとかではなくて、何とも優し気な鳴き声をした後、赤子の所へ行ってペロペロと赤子の頭を舐め始めた。

それは母猫が子猫を舐めるように赤子の頭から耳、耳の後ろまで愛情を込めて舐め上げるようで、お婆は感心してその様子を黙って見ていた。

猫のカネさんはそれからお婆の目を見た。

「ナミさん、あんた何してんだい。早く村の方へ行ってお乳の出る人を探すんだヨ。赤子は私がしっかり見ているから、さあ行っておいで。」と言っているような目だ。

実際おカネさんだったらそう言うだろう。

お婆は慌てて、「ああ、そうだネ。おカネさん、留守の間、赤ん坊を頼んだヨ。」

お婆は出掛けに何か物々交換が出来そうなものを探したが、この辺の村の人が喜びそうな物をお婆は何一つ持っていなかった。

それで使わないで大事にお守りにしていたお金、(いつか鮑の貝殻の代わりに貰った虎の子のお金を握りしめて外に出た。

そして一目散に村の方へ向かって走り出した。お婆は人と関わるのが疎ましくて、わざと人のあまり来ない所に住み着いたのだが、こんな時は困る。

かなりの道のりがあるからだ。

村への道を歩きながら、私も随分人里離れた所に住み着いてしまったもんだ。それにしてもあの小屋は誰が建てた物だったんだろう。

大嵐にも吹き飛ばされなかった小屋は、真中の太い柱と四方を支える木もしっかりしていて外からの見た目よりかなり頑丈にしっかり出来ている。

お蔭でお婆は強い風に持って行かれずに済んだ。

いつか作った本人が来て、これは俺の物だ!出て行け!と立ち退きを迫られたらどうしようかとビクビクして暮らしていたが、一年経った今も誰も何も言っては来ない。

お婆はすっかり自分の家として住み着いてしまったが、こうして歩いてみると人里からかなり遠い。

だがそれよりも驚いたのは、自分の足が前よりずっと丈夫になっている事だった。

小走りして見たがまだまだ大丈夫だ。

以前の私はこんなでは無かった。少し歩くと疲れて休んだっけ。少し歩いては休み、また歩いては休みしてやっとの思いでここまで辿り着いたんだっけ。幾度、このまま道の途中で野垂れ死にするのではないかと思った事か。それが今の私はいつの間に、こんなに足腰が丈夫になったんだろう。

小走りしながらお婆は考えた。あの長い砂浜を一日何往復も歩く、それがどんな山坂を歩くよりも楽しくて苦にならなかった。あの毎朝の砂浜の散歩のお蔭だ。時々腰を伸ばして遠くの水平線を眺め、潮の香りを嗅いで、どこまでも自由で伸びやかな今の我が身を喜び満足したものだ。それがいつの間にか私の体を丈夫にしてくれていたのだ。

ホレ、あんなにも曲がっていた腰が、いつの間にかこんなに伸びているヨ。以前は曲がって伸ばそうとすると、あんなに痛くて辛かった腰がだヨ。

お婆はあんまり嬉しくておかしくて笑ってしまった。

私はもしかしたら若返ったんじゃないだろうかネ。考えてみたら最後に鏡を見たあの日、人が老婆と思うのは成程と思ったっけ。私はいつの間にかこんなにも婆さんになってしまったのだもの仕方がないと納得したのだった。

だけど今、これは夢じゃないかと思う程、体が思い通りに動くじゃないか。ホレ、こんなに良くなってるヨ。お婆は嬉しくなって、またクックックと笑った。

だが、村はまだまだ先だ。いくら元気でも少し息が切れて来た。

一度立ち上がって息を整えていると、向こうからくたびれた身なりのお坊様が歩いて来る。

お婆はその方に向かって、「坊様、坊様、村はまだ大分先でしょうか?実は私は赤子を預かりました。乳を与えてくれる人を探しております。」とさすがに息切れしながら言った。

お坊様は困ったように、「村はまだ大分先です。それは大変な事ですナ。だが、この辺りでお前様の力になるような馬もないし、私もこの通り無力な貧乏坊主です。残念だが、何もしてあげられませぬ。せめてこれを差し上げましょう。」と言って首にかけていた大玉の数珠を自分の首から外してお婆の首にかけた。

こんな重い物を頂いてもかえって大変な事になると思い返して振り返ると、その時にはもうお坊様はかなり先を歩いているのだった。

随分速足の坊様だネ。お婆は仕方なくその重くて長い数珠を首からぶら下げてまた歩き出した。

暫らく歩いているうちに、数珠の重さは少しも気にならなくって元気に歩いて行った。

とにかく赤子が腹を空かせて泣いているのではないかと、その事ばかり考えて歩いて行った。すると、ようやく一軒の家が見えて来た。

お婆は一生懸命歩いて来たので喉がカラカラに乾いて水を一杯貰おうとその家に入って行った。

「ごめん下さい。申し訳ないけれど、水を一杯いただけませんか?」

訪いを入れて入って行くと、土間には履物もあって中には人がいる様子なのにいやに静かだ。中を覗くと、病人がいる家らしくその側にいる家人は元気がない。

伏せっているのはここのカミさんらしい。その傍に亭主らしい人が悲しい顔をして力を落としているのだった。

これは気の毒な所に来てしまった。お婆は遠慮がちにもう一度水を一杯いただけないかと言うと、そこの主人は「どうぞ。」と言ったきり肩を落としている。

お婆は水場のかめの中から水を柄杓に一杯、ごくごくと飲み干すと生き返ったように元気になった。

このまま外に出ようと思ったが、悲し気なこの家の主に一声励ましの声をかけないで立ち去るのも気が引けて、思い直して、「あの失礼じゃが、ここのおカミさんは御病気ですか?」と聞いた。

「はい、長患いをしていたのですが、とうとういけないようです。今朝から急に目を開けれなくなって、話しかけても返事がなく、息も弱くなって来ました。まだ年も若くどうにか助けたいとあらゆる所に願って来ましたがもう本当に最後の時が来たようです。」と言って涙に濡れた目でこっちを見た。そしてお婆の首から下がった長い大珠の数珠に目を止めると、「お婆様、その立派な数珠を下げている所を見るとその道の尊い方とお見受けします。お急ぎの所、申し訳ありませんが、今死のうとしているこれにお経を唱えてくれませんでしょうか。」と頼むのだった。

お婆は今の今までお経等唱えた事は無かった。前に一・二度お坊様のお経を聞いた事はあったが、勿論文句も一切覚えてはいない。しかし、水を頂きながら願いを振り捨てて立ち去る事も出来ず、病人の枕辺に寄ると、以前見た坊様や山伏が唱えていた様子を思い出し、ブツブツ口の中で言いながら、ナンマンダラ、ナンマンダラと唱えた。唱えながら、病気の女の

血の気の失せた額に手を乗せたり、辺りをシャッシャッとはらったり、両手の指に長い数珠を絡ませてジャラジャラブツブツ言ったりした。

お婆の心の中は次第にこの若い女房が哀れになり、何とか助けたい思いでいっぱいになっていった。

この年寄りが元気でいて、これからという若い女が死のうとしている。何と不条理な事か。お婆の胸はいつかいっぱいになって必死にナンマンダラ、ナンマンダラと唱えていた。

すると傍にいた亭主が、「目が開いたー!」と大声を出した。

お婆はびっくりして病人の顔を見ると、今まで虫の息だった病人が目をぱっちり開けて微笑んでいるではないか!

青白かった頬には血の気がさしている。

「お前どうした?気分がいいのか?」と亭主が女房に聞くと、

「この有難いお経を聞くまでは沼の泥の中に沈んでいくような心地がしていた。これが死んで行くという事なのだナーと思っていたんです。するとそこに誰かの手がそーっと伸びて来て、私の手を掴むとその泥の中から引き揚げてくれました。私はこの有難いお経の中でゆっくり、ゆっくりこの世に戻っているんだと実感しました。それと一緒に体の中の病もすーっと抜けて出て行くような心地がしたんです。あんなにだるくて重かった体が今はすっきりして、私、病気が治ったのかも知れない。お前さん、お腹が空いた。何か食べたい。」と言った。

亭主は女房のあまりの変わりように驚き喜んだ。

「お婆様、本当に本当にありがとうございます。どこにお住まいですか?」と聞くので、実は少し離れた砂浜に住んでいるのだけれど、預かった赤子に飲ませる乳を求めて来たんです。どなたか小さな赤子のいる女房殿を知りませんか?もらい乳をしたいのです。」と話しました。

すると主は少し考えて、この村は小さい村で大体の事は解るけれど、子供に乳を与えているような女房は今は思い当たらないという。けれど、牛を飼っている所はあるから、そこに行ってみろと言って場所を教えてくれました。

もうその頃には、伏せっていた女房の様子は、すっかり良くなって、布団の上に起きて座りニコニコしているのだった。お婆も内心驚いていたが、もしや、この数珠の力なのではないかと思った。

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