第一章 迷い込んだ異世界

Ep.3 言い伝えの世界

 〈本当にここはどこなのだろう。水面から顔を出したまま辺りを見渡して混乱していた。辺り一面に広がるのは豊富な水を湛える湿地帯だった。〉


 「うわぁ、さっきまであんな泥の中にいたのに……、マジで死後の世界まで来たっぽいな、やっぱ本当にあったんだな」


 マテリは迷い込んだ湿地帯を見渡しながら達成感に包まれていた。

 彼は昔から聞いていた死後の世界に迷い込んだと信じていた。

 彼が認識している死後の世界は迷い込んだ地点のすぐ近くに豊かな街が存在し、幸せな気分を引き起こす魔法の水がそれを実現させているというものだった。

 マテリはその幸福を呼ぶ水を早く口にしたくて喉が乾いていた。


 〈聞いていた通りだ。今見ている光景は自分の想像する楽園世界とよく似ている。やっと楽園に着けたと思うと喜びが止まらない。〉

 〈この世界を生前に信じていて良かった。もしこれを知らなかったら川に飲まれたあの時、恐怖に包まれたままここではないどこかに引きずり込まれることになるのだから。ここにきた今もそれを考えるとゾッとする。だから今は楽園の世界について考えよう。〉

 〈街に着けば高級な果物や肉を喉が通らなくなるまで食べられるし、宝石や情報も、女性も親友も新たに得られる。そして何より極めつけは魔法の水だ。これを飲めば今までにない幸福が手に入るというのだから行かないという選択肢はない。今までチゴペネで生きてきた甲斐があった。〉


 「幻覚じゃないよな?ハッ!冷た、やっぱり、本物だ!本当に来たんだ!」


 ❝ザプッ!❞〈それを確かめるためもう一度水の中に潜ってみる。しかし、疑いはすぐに晴れる。顔を完全に沈めたところでこれが幻覚などではなく紛れもない事実だと確信した。〉

 〈まず、水が冷たいのだ。顔を出す前は水中を泳いでいるというよりは無重力空間を浮きながら移動しているような感覚だったので、温度は感じない。それに水圧もなかった。だが今は温度を感じ、圧力を顔や体に受けているため水中にいることがハッキリと分かるのだ。死後の世界でも5感はしっかりと生きているのが特徴だ。でなければ食べ物や水を死後の世界でも欲する理由が分からない。〉


 「すげぇ、さっきまで下まで繋がってたのに!」


 〈もう一つ、死後の世界に入り込んだと信じざるを得ないかったのは沼の底の光景だった。たった今、洪水に巻き込まれ光を追ってここまでたどり着いたわけだがその穴が水草の絨毯によって塞がれていたのだ。こんなこと、生前の世界ではあり得ない。この不可解な現象を目にしたことでこちらの世界に来たことを確信できたのだ。〉


 「よっしゃ、魔法の水早く飲みてぇ。待ってろよ」


 〈たかが水なのに想像するだけで唾液が出てくる。昔からその水については関心を抱いていたのでどこかに眠る宝石を探している気分だった。その水という名の宝石を探そうと構えれば足も軽く走ることだって容易い。〉


 マテリは水に浸かっていた足を持ち上げぬかるんだ地面を蹴りながら歩き始めた。


 〈物が通り過ぎるスピードが泳いでいた時と格段に違う。これならすぐにでも街を発見できてしまいそうだ。まさかこんな人っ子一人いない湿地帯に放り出されるとは思わなかったが街に行けることを考えるとその不満は微々たるものだ。〉

 〈それにまともにこうやって二本の足で背筋を真っ直ぐにして歩いたのは生前に家の中にいた時以来だ。感覚は生前と全く変わらず湿地の草の柔らかい感触が裸足の足に伝わる。草の上はチクチクするものだとばかり思っていた。でもこれはまるで布のバスタオルの上を歩いているような肌触りだ。やはり死後の世界は生前世界とは違うんだな、改めてそう思った。〉


 「おっ!地面が乾いてきたぞ、この先かな」


 〈今まで足を踏み入れたら沈んでしまうぬかるんだ土地を歩いてきたが、ここにきて初めて砂埃の上がる乾いた地面に降り立つことができた。制御の効かない水の中から誰かに引き上げられたような喜びを感じた。まともな陸地を歩いたのは洪水に巻き込まれた時以来だからだ。〉


 「にしても乾いた地面ってこんなに歩きやすかったんだな」


 〈今までごく当たり前にやっていた行為だったがこの時は自宅を歩くような安心感を感じた。今だったらここで横になって寛ぐことだってできる。泥がついて不潔だとか菌が入ってくるだとかは些細なことに思え全く気にしない。そして街に向かうための気力が充電される一石二鳥な場所である。〉


 「さて、そろそろ行くか」


 〈もっとここにいたいが街へ早く行きたいという心の欲求に押され歩く体勢を整え始めた。それまで休みきっていた手足をぶらぶら動かし血流を行き渡らせる。徐々に感覚が戻り先へ進む気力が湧いてくる。言い伝えの街は湿地を抜けた先にあると信じて自分を励ました。そして出発。〉


 マテリは体勢が整ったところで街を目指して歩き始めた。洪水以来のまともな歩き方をしている。故に進むスピードは水を泳ぐよりも格段に速い。これなら長い時間を必要とせず湿地を抜けられるだろう。


 〈足取りが軽い。今まで何か重りを付けられていたのかというくらい軽い。余裕が生まれハイキング気分で草むらを歩き何か生き物はいないかと目を凝らしていた。〉

 〈都市育ちのため森や草原の中には滅多に行ったことがなく、昔からあの中には何がいるんだろうと気になっておりいつか入ってみたいと思っていた。そしてここは柵も何もない手付かずの湿原、これほど観察に適した場所が他にあるだろうか。街に着くまでの少しの間、自然に生み出された景色に癒やされながら時間を忘れる。〉


 しばらくそうして歩いていると「うわぁ!痛ってぇ……膝が赤くなったじゃねぇか。楽しんでんだから邪魔すんなよ」


 〈景色に夢中になるあまり足元の確認を忘れていた。滑って転びかすった膝に擦り傷の痛みが走る。油断していた。調子に乗って注意を怠るとこうなるぞと実演で教えられた。ただのかすり傷で住んだので大怪我をする前に気を引き締めようと思う。〉

 

 「すぅ~ハ〜」


 〈深く息を吸って吐くを4・5回繰り返し高ぶっていた気持ちを落ち着かせる。今にも走り出したい気持ちが底に残っていたが、この深呼吸により外に放り出すことができた。頭の中が落ち着いて先に進もうとする気力で満たされたところで再び歩き出した。〉


 その直後……〈親指の付け根に皮膚が引き裂かれるような痛みが走った。転倒時の痛みとこの皮膚が引き裂かれるような痛みが重なり、苛立ちが頂点に達する。〉

 

 ❝パキッ!❞「痛ってぇぇぇぇ!ふざけんなよぉ。何だよこれ、お前か!あぁぁ!」


 〈犯人は転倒した時に一緒に転がり落ちた検索デバイスだった。パキッ!と高い音が響いただけあって元々丸い玉だったデバイスの3分の1が欠けていた。これを見た途端、久しぶりに頭にきた。怒りに任せて叫ぶと同時にヒビが広がり形が崩れていくがこれだけではイライラは収まらなかった。〉

 〈口と手の間が親指が入るくらいまでデバイスを近付けた。大声を上げてさらにボロボロにしてやろうと思い、沼の水が波立つほどの勢いで罵声を上げた。〉

 

 「くそぉぉぉ!どうだ見たか!」

 

 〈自分の声に萎縮したかのようにデバイスは砕け3分の1くらいの大きさまで縮んだ。これを壊そうと夢中になりトドメを刺そうと右手を強く握った。〉

 

 「最後にこうしてやるよ!すぅ……あぁぁぁぁ!」


 〈雄叫びを挙げながら右足を軸にして3つに割れたデバイスを沼の向こうに茂る草むら目掛けて力いっぱい放り投げた。生前世界で行われていた球技を意識して腰を傾け、勢いのついた状態でデバイスという名のボールを離す。デバイスを投げる一瞬、球技選手の感覚を味わえて楽しかった。苛立って物を投げる行為を楽しむという皆が呆れる行動を取ったが怒りに身を任せたくなるほど痛みは鋭かったのだ。〉


 「痛てぇ……結構出血してるぞ。手に付いたじゃねぇか、指折れたかと思ったぞ?」


 〈ハンカチで拭き取ったら真っ赤に染まりそうなほどの出血量だ。傷口はガラスのように深く続いているようだ。早く出血を抑えたかったのでとりあえず大きな葉のような巻けるものを探した。手で抑えても出血は止まらず、足の方から早く見つけろと急かされているようで落ち着かない。〉


 マテリは右足の親指を上に固定し右足を引きずるような姿勢で大きな葉を探し始めた。地面には傷口から滲み出た血液が点々と付着していた。


 〈これだけ緑が広がっているのに傷口を縛れるような大きな葉は見かけない。水辺の草は葉が細すぎて巻く前に切れてしまうし、水面の浮揚植物は葉が小さ過ぎる。こうしている間も傷口からは出血が続いているというのに。傷口から早く止血しろ!と迫られ強盗に金銭を要求されて脅されているかのような焦燥感が襲ってきた。〉

 〈こうなると心臓の鼓動がさらに速くなり出血量も増加する。傷口からのクレームも大きくなるのだ。そしてまた鼓動が加速する……酷い悪循環に陥り出血多量で動けなくなる前に見つけねばならない。鼓動を遅くしようと草むらを見ていた目を一度上げてもっと遠くの沼地に視線を変える。〉


 「!?……あれなら使えるぞ」


 〈視線を上げ、目に写ったのは沼の中に生える樹木だった。その樹木の幹にはささくれのように剥がれた樹皮が垂れている。眺めたところある程度のしなやかさもありそうなので傷を塞げるかもと期待が高まる。傷口の方もやった!と喜んでいるような気がした。その効果なのか出血の勢いが少し治まった気もする。〉

 〈今がチャンスだろう。傷口がまた癇癪を起こす前に樹皮をもらってしまおう。傷口から水が入ってきて染みるが我慢して樹木を目指した。樹木との距離が縮まる度に唇が横に広がる。まるで自宅で布団に飛び込む直前の力が抜けていく感覚が足に伝わった。〉


 ❝パリッ!❞マテリは沼地に辿り着き、早速中に足を入れた。彼が通った後ろの草地はやはり血がこびりついていた。眺めるだけでも深い傷を負ったのだと想像できる。しかし樹皮を包帯のように指に巻けば止血が完了し植物は美しい緑色を汚さずに済むようになる。彼は樹皮を付箋をめくるように剥がし、複数枚入手したところで沼から上がり足を踏んでも沈まない土地まで移動した。


 「はぁぁぁ、気持ちいい……まさか樹皮が使えるなんてな、覚えた方がいいな」


 〈何だろう、この自宅にいるかのような安心感は。布団の上に乗りながら包帯を巻いた時と同じ感情だった。傷口が樹皮で見えなくなっていく度、焦燥感もなくなっていき再び歩いて街まで向かおうという気力が戻ってくる。傷は街に着けば痕跡すら残らないだろう。怪我や病気も治り、魔法の水まで飲める。もう行くしかない!〉


 マテリは怪我の手当が出来たところで再び出発した。歩くスピードは怪我をする前より多少遅くなったものの、問題はなさそうだ。


 しかし、彼は歩き始めた直後から先程は一切無かった生き物の気配を感じ取っていた。


 「何だ?何か近づいてくる、離れるか」


 〈左手を軸にして腰や尻を押し上げた直後のことだった。樹木が生える沼地から離れた草むらで何かがガサガサと音を立てているのが聞こえたのだ。当然、驚いて即座に沼地を離れた。この時の驚きはここに迷い込んで初めて抱いた感情だった。〉

 〈それまで、生前の頃にも感じたことのないまるでお化け屋敷でお化けが前に潜んでいるエリアを進むかのような緊張感が全身に伝わったのだ。〉


 「んんん……こっちにもいるなぁ、まさかさっきの大声のせいか?」


 〈この緊張感を和らげるために前にいる生き物が迫ってくる原因を探し始めた。見当はついている。間違いなくデバイスを踏んだ腹いせに出した大声だった。湿地の奥に続く森の中にまで響いていたので、そこに住む生き物が反応して出てきたんだろうということは容易に想像がついた。〉

 〈何てことをしたんだと自分の行動を後悔する。大声を出したせいで肉食獣の胃袋で溶かされるかも知れないという最悪の事態まで想定しだす。〉


 「戻れ!」


 〈このままだとパニックに陥ると思い、右の拳で頭を一度殴り気を戻す。視界はパニックになっている自分を眺めるところから再び緑茂る湿地に戻り、足も上に上がった。〉


 だがマテリの意思に反して生き物は彼に近づいてくる。秒数が経つことに距離が縮まりついに鉢合わせの時が訪れる。

 ❝ガサガサッ!サッ!❞今まで草むらに隠れていた生き物がマテリの前に姿を現した。


 〈!?……ついに鉢合わせしてしまった。どうしようどうしよう、驚きの余り大声で発狂してしまいそうだ。もう息が喉仏まで迫り、火山内部のマグマのように溜まりブレーキがかかっている。ここを通過すれば噴火、つまり息が漏れ発狂してしまう。〉

 〈しかし声を出せば相手はどの図鑑にも載っていなかった全く謎の生命体。刺激したら何をしでかしてくるか分からない。そのことを考えると前にも後ろにも動くことが出来なくなり石のようにただ直立して相手が遠ざかるのを待つことにした。〉


 ❨頼む、早く遠ざかってくれ❩

 〈右手の拳を胸の高さまで上げて縦にして遠ざかることを祈る。これが自分の暮らしていた地区の祈り方である。このポーズをとって昔、何か神頼みする時に祈っていた。今はその行為を行わざるを得ない事態なのだ。緊張した時間が流れる。洪水に流される寸前、橋にいた時と同じ気持ちだ。額からは汗が窓が結露するように滲む。〉


 じっとしていたことが功を成し生き物はすぐにもと来た草むらに戻っていった。マテリはそれまで入っていた力が風船のように飛んでいき、前かがみの姿勢になった。


 〈滅多に感じたことのない緊張だった。それが抜けたことで歩くことに集中できる気がする。〉


 「さぁ、また行くか……」


 〈先程の見たこともない生き物の姿が頭に残りながらも気にせず街目指して足を運ぶ。歩きだした後もまたさっきのような現実離れした生き物と遭遇するのではという確証のない漠然とした思いが頭から離れない。本当にあれはただの生き物なのかと首を傾げるほど今まで見てきた生き物とは形態や雰囲気が違ったからだ。〉

 〈生前は図鑑が好きでよく見ていたのだがさっきの赤い目がいくつも水玉のように転々としている生き物なんてどこにも載っていなかった。学者や研究員に報告したら間違いなく新種認定されるんじゃないかと思うくらい不可解な格好をしていた。見た目は生き物というよりは物語で登場する怪物といった方がしっくりくる。〉

 

 「あんな生き物いるなんて聞いたことないぞ、それに街まで思ったより全然遠いんだよな」


 〈頭に右手を当てて考える。生前、どこかでこの事を聞いていたんじゃないかと自分の記憶に探る。だがどんなに探してもそんなことを言われた記憶は見つからなかった。街までも想像ではもうとっくに到着しているはずだったのに街はおろか人間なんて誰一人と見かけない。それどころか歩いている間にいつのまにか湿地を抜け、さらに人が遠ざかっていくような森林地帯の入口まで近づいていたのだ。〉


 マテリが今いるのは湿地と森林の境界線だ。それまでの開けた湿地から薄暗い森の中に進もうというのだ。


 〈ハッと気付いて上を見上げると葉と幹に隠れて先が見えない森林がそびえ立つ。さっきの赤い目を持つ生き物に遭遇したことも相まって森林の中に入ろうとすると途端に足が重くなる。〉


 「こっちにある気がするし、行くしかないよな?」


 〈最初まさかこんな森の中に入るのかよと自分でも信じられなかったが、街はこの先にあると自分の中のアンテナがサイレンを鳴らしていた。後ろを振り返っても続くのは湿地ばかりで街がある気配も感じない。一方で森の奥からは理由ははっきりしないが人の気配を感じた。一刻も早く人に会わなければこの湿地で倒れ、そのまま魂が抜けてしまうような気がしてくる。〉

 〈だとすれば残された選択肢は一つ、森の中へ進んでいくことだ。人がいないと既に分かっている湿地に残る選択は頭の中には無かった。〉

 〈進む決心をした瞬間、足はさらに軽くなり森に吸い込まれるように中に入っていく〉


 不安が残りつつも森の中に足を踏み入れたマテリ。彼が感じ取った生き物の気配、これはどこまで当たっているのだろうか。

 赤い目を持つ怪物のような生き物を目にしたのを機に、マテリは生前には決して存在しない不可解な体験をいくつも味わうこととなる。

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