Ep.2 巻き込まれ
外は凄まじい横殴りの雨に襲われている。マテリはこの悪天候の中、避難所に向かって歩いていた。ニュースで報道されていたイェレマケ川の増水は治まることを知らず、上の階を飲み込んでさらに多数の死傷者を出していた。
そして彼の予想していた通り、この未曾有の被害をもたらした雨雲はキベネ地区に向かって進行中だ。キベネ地区もイェレマケ川流域の家と似た作りとなっているため、同じような被害が出る可能性が高い。彼と同じように避難している者はたくさんいた。
「まずいなぁ……、もう道路は水浸しか。公園通らなきゃならないのに、これ以上増水はやめてくれよ」
〈天に向かって祈った。避難所へは公園を通る必要があるのだが、そこには川が流れており橋を渡らなければならないのだ。橋は全力疾走すると息が切れるほどの長さがあり、木で作られている。長い年月が経っているためかなり傷んでおり、普段渡るとミシミシと軋む音が鳴る。いつものなら気にせずに渡り終えてしまうが、この日は折れないでくれと天に祈るしかなかった。〉
「人いないとこんな不気味なのか、早く抜けたいな」
〈早歩きでその場を離れる。通っているのはよく来る商店街だ。普段は人で溢れかえっているがこの大雨の影響で誰も見かけない。おまけに突風が吹いたためか、床のあちこちに店の品が転がっていた。ニュースなどで見る廃墟とそっくりだ。本当に幽霊などが出てきそうで怖い。徐々に歩くスピードが上がってきた。〉
マテリが歩いているこの間にも雨雲の中心部が近付き、低い土地が浸水を始める。マテリが歩いている場所も土地が低いため、最初は濡れているだけだった地面が水で満たされ始めた。
「水が溢れたか!まだまだ先なのに……、まじで殺すつもりかよ。急げ急げ!」
〈ここが増水しているということは公園を流れる川もおそらく増水している。橋は傷んでいるので水圧で壊されてしまうかもしれない。そうなったらこの大雨の中、野垂れ死にするのを待つしかなくなる。そうなる前に何としてでも橋を渡らねばならない。もう引き返すこともできない距離まで歩いてきている。〉
マテリはいつもの3分の1程の速度で尚も先に進み、いよいよ公園に足を踏み入れた。ここまで来ると、同じ地区に暮らす住民が彼と同じ方向に避難していた。幽霊が現れそうなほど無人だった商店街の人影がまるまるこの場所に移ったような光景だ。だがその表情は普段とは違い、重く苦しんでいる。マテリもこの大群と合流し、公園を歩いていた。
〈少し前から住民の大群と一緒になって行動している。この大雨の中で1人で行動するよりも遥かに安心感が持てる。住民と合流した瞬間はそれまでの肌寒さが不安と一緒に遠くへ吹き飛んでいく感じがした。〉
「本当にこんな災害初めてだよ。そっちもか?」
「もちろん、こんなこと今まで無かったね。これに耐えられるならどの災害でももうビクともしないね」
「ハハッ!だな」
〈こうやって会話していると雨のことは忘れるし、楽しいので時間はすぐに過ぎてしまう。あっという間に公園の橋まで来てしまった。〉
「すげぇ水の量……、渡れんのか?」
〈問題はここからだ。最寄りの避難所へはここを渡るしかないのだが、この橋は人間を渡らせるつもりはあるのだろうか。中央の橋桁は半分が欠けて流されており、その付近は泥で濁った川のしぶきが跳ね返って今にも流されてしまいそうだ。〉
〈それに加えて自分をさらに怖がらせたのが濁流から時折浮かんでくる人の水死体である。流木のように下流の方へ流れていくのだ。凝視しすぎると何をして良いかが分からなくなる。見たくないものを見てしまったと後悔した。〉
「いいかマテリ、下は絶対見るなよ!」
〈そう自分に言い聞かせる。緊張時にはこうして目の前のことに集中するよう心掛けている。今目を向けるべきは橋を渡ること、水死体やしぶきに怯えている暇はないのだ。この橋を渡り公園を抜ければ丘まで続く坂道が見えてくる。そこで水浸しの地面とはおさらばできる。〉
〈こう考えるうちに意識は橋を渡ることに向けられている。目の前のしぶきにも慣れてきた。最初は体の方からビクビクしていたものの、今はしぶきを見ても行動力を削がれることはない。さあ、渡ろう〉
マテリは水面ギリギリの橋を渡り始めた。後方にはそんなマテリを見て一緒に渡りだす者が続く。
❝ゴー!❞〈渡り始めた直後から川の轟音が耳に入ってくる。鼓膜が破れそうなほどうるさいし、振動で視界がグラつく。そのままバランスを崩して濁流に飲まれそうだ。そうならないよう耳を塞ごう。耳栓はリュックの中で取り出せる状況ではない、仕方がないので手で抑えることにした。両手に付いた雨の雫を振り払い、耳に当てる。大きな粒は落とせたものの、まだ手は湿っていて冷たい。一瞬、体が固まりすぐに元に戻った。〉
〈音はまだ入ってくるが視界は安定した。平衡感覚も問題はなし、さっさと渡り終えていまおう。〉
マテリが橋の3分の2を地点を通過した直後、橋とその周辺に異変が起こり始める。
❝ガガガガガガガ!❞「おい冗談だろ、どっちにも引き返せねぇぞ?ん!おぉい!皆早く戻れ!向こう岸が流されたんだ。このままじゃ皆流されておしまいだ!戻れ!」
彼か叫んでいる理由。それは言葉が示す通り、向こう岸が崩れ流されたからだ。大きく何かを引きずったような音を出して橋の原型を崩しながら下流へと落ちていく。橋が流された直後、むき出しになった土の部分を濁流が削る。橋だった部分とその近くの地面が徐々に濁流に落ちていき、川幅が拡大していった。
この橋を渡り終えた直後に陸地に立った数人は崩落と共に濁流に飲まれていった。
「あぁぁぁぁ!やめっ!っす」
流された数人が水の上でもがいている。体が浮き沈みを繰り返す中、腕と顔を出すことに必死だ。やっとのことで出た助けを求める声は掠れて大雨と濁流にかき消される。それを川岸の人々は何もすることが出来ずに悲しそうに見つめていた。
〈一瞬のことだった。このままだと自分も彼らと同じく流されてしまう、間違いなくあの世行きだ。まだまだ死にたくない。息が続かなくなるほどの大声を出して橋を渡り始めた人々に戻るよう呼びかけた。〉
彼の声は大雨の中でも透き通るように響き渡り、橋を渡り出す人の流れを止めた。橋の最後尾にいた人が急いで元いた川岸に戻るを機に今度はそれに続く人の流れが出来上がった。続々と橋から川岸に戻っていく人々。だが川はその間にさらに増水を始めた。
水はつま先から
「おい、嘘だろ?そんなとこで立ってないで早く渡ってくれよ!」
「あぁぁぁぁぁぁ!」
マテリが慌てて叫んだ直後、川岸から多くの悲鳴が鳴り響いた。彼が戻ろうとしていた方の川岸も濁流によって流されてしまったのだ。❝ガガガガ!❞というくっついたものを無理矢理引き離すような音と一緒に橋の末端が濁流に消えていく。末端部分にいた数人と川のすぐ隣に立っていた2人が濁流に飲まれた。こうして、マテリを含めた数人がいる橋の中央部は手すり部分まで水に浸かって孤立している状態となった。
〈頭で想定していた最悪の事態が起きてしまった。それまで大声を出していたが今の一撃で声が枯れ、頭が真っ白になった。今までの行動が無駄になったと感じ、無力感に包まれた。あらゆる意欲が消えていき窓から外を眺めるように手すりに体重をかけ、これから何が起こるかを悟りながら川に流されるのを待つことにした。〉
マテリがそうやって何も考えずに手すりに突っかかっている間に、その時がやってきた。
❝バシャーン!❞ついにマテリのいる橋の中央部分までもが濁流に飲まれた。上流から流れてきた鉄砲水によりマテリを含んだ数人が川に放り出される。
「きゃあぁぁぁぁ!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!誰か!」
流された人、それを為す術もなく見つめる人、どちらも悲鳴を上げていた。この光景を前にその場で倒れ泣き崩れる者が現れたり、自分もいずれこうなるのだと悟り、自ら濁流に飛び込む者が出てくるなど、現場は地獄のようだった。
橋がかけられていた現場が阿鼻叫喚を極めている頃、マテリは猛スピードで下流へと流されていた。彼は現在、奇跡的に水に浮いていた。顔だけが空気に触れている状態で意識は朦朧としているようだ。
「痛て!あっ!誰か助けてくれぇ!」
〈真上から落ちてきた枝が額に当たり、それまで朦朧としていた意識が戻り、無力感に包まれていた時からふと我に返っていた。普段の川の様子からは想像できない流れの中でただ必死に叫ぶことしかできなかった。川岸には避難途中の住民が見えるが瞬きする間に通り過ぎてしまう。そして何より、声が相手に届かないのだ。〉
「ぷっ、あっ、たすっ、て!」
〈上下に蛇行する流れの切れ目から出す声は小さく、何を言っているのか相手には理解されない。助かるチャンスがどんどん消えていき、再び絶望感に襲われ始める。生存可能性が0に近いところまで連れて行かれると悟ったからだ。この先には川の合流地点が存在する、その合流先とは先程報道されていたイェレマケ川の本流である。平常時でも川幅も広く水量の多い川だ。それが今どれだけ増水しているかは想像もつかない。嵐が吹き荒れる海に投げ出されることと同じことだろう。〉
〈そしてここから脱出しようともがこうとしても濁流の力がそれを邪魔してくる。この力は自分には為す術もないほど強力だった。言葉にするなら、全身に拘束具をはめられているような感覚だ。外そうとしても動くことすらできない。その状態のまま川の合流地点までただ死が来るのを待つしかないという今までにない苦痛を味わっている。そんな気持ちから溜まった虚しさを空に放った。〉
「ふっ、けんな!たっ、むっ!」
拷問に等しい仕打ちを受け、助けを呼ぶ声が雨にかき消される中、マテリはイェレマケ川との合流地点まで移動していた。本流はこれまでの支流とは比べ物にならないほどの激流だ。この中に入ったら高層ビルですら根元から流されてしまうだろう。人間が入れば海に出る前にこの世界の外に放り出されてしまうのではないだろうか?
本流に入った瞬間、マテリは磁石のように海の方向に引っ張られる勢いで流れていった。当然ここは上下左右斜め、あらゆる方向に体が持っていかれ方向感覚を失ってしまうので生存は絶望的と言っていい。早速、マテリの姿が川の中へと消えていった。
「ゴボッ!ゴボゴボゴボゴボッ!」
〈遂に中継で映っていたデッドゾーンに入ってしまった。自分の人生もここまでかと死を受け入れ、この地の土となるために目を閉じあの世からの迎えを待った。不思議とその間、これまでの苦痛は一切感じなかった。やがて真っ暗だった水の中が少し明るくなり始めた。〉
「ん?なんだあれ」
〈その光は徐々に明るさを増し、周りが見えるようになってきた。どこだろう?今まで泥だらけで自分の手すら見ることはできなかったのに今は水の奥までよく見えるではないか。〉
「ぶはぁっ!息できるぞ!」
〈思い出した時は焦ったがすぐに収まった。なぜだろう、水の中なのに呼吸ができている。何度も息を刷ったが苦しくなることはなかった。そう分かった時には安心感に包まれていた。〉
「そういえばもう死んでるのか。なら慌てる心配もないな。落ち着け、落ち着け。何だあそこは?行ってみるか」
〈あの濁流に飲まれたのだ、間違いなくあの世に送り込まれただろう。そう考え冷静になった後、改めて奥を見渡してみる。特に光が発せられている方向だ。瞬きして目を擦り焦点を合わせる。焦点が合ったところで光がある方へ見上げる。すると光が発せられている方向には道が続いていることが分かった。どこへ続いているかは見当も付かないがずっとここにいる訳にはいかない。ずっとこの何もない空間にいるよりは死者が集まる死後の世界で人と暮らしたいのだ。〉
「もう少しだ、もう少しで人に会える」
〈そう考えると次第に気分が高まり、遠足気分で光の方向に泳ぐ。ここに送り込まれる直前まで全身を拘束していた水圧は姿を消し、空を飛ぶように体は軽い。軽快なステップで上へ登っていった。〉
「あれか、よし行くぞ!」
〈遂に水中と地面の境界を捉えた。水面に向かって水をかく手足のペースを上げる。水面に近づくに連れて周囲は青く透き通り、差し込む光は水面から反射する太陽の光だと分かった。気分は一層良くなり、水をかく手足が弾む。〉
❝バシャーン!❞「ぷはぁ、やっと水から抜けられた。これで人のいるところまで歩けるぞ!」
〈トンネルから出た直後に辺りが真っ白に見えるのと同じように視界が真っ白になる。その明かりが晴れないうちに喜びの叫びを上げた。声を上げている間に視界が晴れ、景色が目に入ってきた。〉
「!?どこだここは?」
喜びの表情を浮かべていたマテリだったがそれが一瞬にして困惑の表情に変わった。
どうしたのだろう?彼に一体何が起こったというのか。水面から顔を出したきり、しばらく体制を変えなかった。
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