第94話




 カシャクの狙いはこれだった。

 チェセディンのそばから腹心を引き離すこと。

 シャークのようにチェセディンを暗殺できなかったのはあの腹心がいたからだった。

 彼は長年チェセディンを護衛してきた武将で強い武力を持っている。

 だからこそチェセディンの暗殺には頭を悩ませた。

 そこでより良い方法、腹心を引き離すための機会を探った。

 それがまさにこの瞬間だった。

 彼がチェセディンを連れて艦隊へ逃げるという事態は絶対に防ぐべきだったから。

 それは最悪中の最悪。

 カシャクは首尾よくチェセディンを一人残し王に謁見できることとなったこの状況に満足しながら歩いていた。

 だが、王のもとへ辿り着くまでの時間の流れはあまりに遅く感じられた。

 緊張のせいか一瞬一瞬の重みが時間を遅らせる。

 ようやく宮中へ入ると王の姿が見えた。

 王は王妃の隣で寄り添って座っていた。王妃がそんな王の口に果物を運ぶ。


「ナルヤが何だというんだ。わしらはナルヤと国境を接してもないのに……。ゲホゲホッ」


 王は酷く咳き込みながらそう聞いた。

 何か手を加えなくとも死が迫っていることは確かだったが、すでにその時を待って10年になる。

 持病を抱えていながらも長生きの王。

 おかげで機会は少しずつ減っていった。

 カシャクは憎悪に満ちた目を隠しながら目の前の王とその隣のチェセディンを眺めた。


「ところで君は……」


 それからまた眉をひそめる。

 王と王妃の前に全く予想できなかった人物がいたからだ。

 だが、すぐに顔を背けた。

 この男は弱い。それが自分の評価だった。

 いくら他国の王宮とはいえ自分ならあんなふうに弱い姿は見せない。

 カシャクが叫ぶと尻もちをついて座り込んだ男だ。他国へ来て無様な姿を見せた男。

 プライドなどないという姿を見たからにはすでにカシャクの眼中にはなかった。

 だから軽く無視してカシャクは王の前で言った。


「陛下、ナルヤ王国がエストレンを狙っているとのことです」


 カシャクはひとまず跪いてそう告げた。手の上に汗が滴り落ちる。

 その嘘の報告に王は王妃が口に運んだ果物を飲み込めずに吐き出すと再び酷く咳き込んだ。


「ゲホゲホッ、そ、それはどういうことだ。ナルヤ王国がどうやって……!」


 その‘どうやって’にはナルヤとは国境を接していないのにそんなことが可能なのかという含蓄的な意味が込められていた。

 当然ながらチェセディンも同じ顔でカシャクを眺めた。


「それは本当か! 一体どうやって!」


 チェセディンと王の質問にカシャクは真剣な顔で断言した。


「本当です」


 まさにその時、驚愕した表情のチェセディンと王の耳に突然兵仗がぶつかり合う音が聞こえてきた。

 そして、その鉄の音と共に悲鳴が上がる。


 ――貴様ら……一体、グァァアアアッ!


 奇襲だった。

 どんなに強い武将でも武器のない状態で仲間に奇襲されればなす術はない。

 そして、これが合図だった。

 チェセディンの腹心を引き離したという合図。

 まさにこの合図を待っていたカシャクは自信満々な笑みを浮かべて立ち上がった。

 カシャクは隠し武器の腰帯剣を取り出した。

 王宮に武器を持ち込むことは禁じられている。

 だから、王宮前で全員が武装を解除したわけだが、この武器は10年計画の結晶だった。

 カシャクはその帯剣を手に一言を言い放った。


「申し訳ございません。侯爵閣下。これも新時代のためです」


 訝しげな表情で悲鳴が聞こえた宮殿の外へ向かって歩いていたチェセディンがカシャクの言葉に振り向いた。

 いや、振り向こうとした。

 だが、カシャクはそんな隙を与えなかった。

 老衰の年にもかかわらず広くまっすぐなチェセディンの背中に向かってマナの宿った剣を振り下ろす。


「侯爵閣下! 後ろを!」


 カシャクが剣を握るなり王の隣にいた王妃が逸早く反応し持っていた果物を投げながら叫んだ。

 だが、カシャクの剣はそれよりも速かった。チェセディンの体は振り向きざまに崩れ落ちる。

 渾身の一撃にチェセディンは倒れたまま二度と起き上がることはなかった。

 その姿に驚愕した王が震え上がって声を上げる。


「っつ、貴様!!! カシャク! 何のまねだ!」


 同時に王妃が外に向かって叫んだ。


「親衛隊! 今すぐ中へ入って陛下をお守りなさい!」


 しかし、カシャクは笑うだけ。入ってくる親衛隊はいなかった。

 すぐに群がって来るだろうが、その前に全てを終わらせるつもりだった。

 むしろ宮中に入ってきたのは外の親衛隊とチェセディンの腹心を奇襲して目的を達成したカシャクの部下たち。


「閣下、間もなく親衛隊の兵士たちが押し寄せて来ます!」


 どのみち時間との戦いだ。十分に予想していた部分。彼らを相手する兵力も準備はできている。

 この王さえ殺せば全ては終わる。カシャクはすかさず王に剣を向けた。


「なりません!」


 その前を王妃のセレナが遮った。


「王様に剣を向けるなんて、それでもこの国の国民ですか!」

「王妃様、国を滅ぼすような王様は必要ありません!」


 セレナの大きく見開いた真っ直ぐな目を見てカシャクは首を傾げた。

 わずか22歳という若い女の気概か。

 プライドのある女だとは思っていた。

 普通の女ではなかった。

 だが、それでも生かしておくわけにはいかない。

 プライドと気概は気に入ったが、今この瞬間の邪魔者は皆殺しにすべきだった。


「あそこの使臣も目撃者だから殺せ! 俺は王と王妃を始末する!」


 カシャクは部下たちに命令すると王妃セレナに向かって剣を振り回した。


 ***


「陛下、私が揉んで差し上げます」

「そうか、やってみなさい」


 王妃セレナが肩を揉みながら口を開いた。


「どうでしょう?」

「気持ちいい。だがな、肩揉みもいいが手を止めて隣に座ってくれるか。貴族たちの政治争いは頭が痛いだけ……君の笑った顔を見る瞬間が一番幸せだ。ホホホ」

「なんとも嬉しいことを言ってくださりますね」


 セレナはそう言ってにっこりと笑った。

 実はセレナが王妃の座に就いたのは彼女の父ドフレが中道派に属するから。

 現在エストレンの両貴族は後継者の座を置いて激しく対立しているため、どちらか一方の勢力に王妃の座を渡すことはできなかった。

 王が世継ぎを作れぬ身であることは皆既知の事実だが、それでも一方の勢力から王妃が出れば不利益となる。

 だから、何の関係も縁もない貴族ドフレの娘が王妃の座に選ばれた。

 そんな理由で自分の意思とは関係なく、ましてや父ドフレの意思とも関係なく王妃に選ばれたのがまさにセレナだった。

 もちろん、そこには王の欲が関与していた。とにかく美しい女性を望んでいたからだ。


「ホホホ、なんとも美しい笑顔だ」

「陛下! 貴族たちが全員集まったようです!」


 その時、侍従長が報告を上げた。

 王は面倒そうな顔でしきりに怠ける。


「陛下、今回は決定すべき重要事項があるので必ず来ていただく必要があります!」


 そこに王を迎えに来た貴族まで加わった。


「貴族たちめ、この年寄りを煩わせよって」


 王はやむを得ず気が向かない顔で王妃の部屋を出た。

 するとしばらくして別の男が王妃のもとを訪ねてくる。

 まさに実父のドフレ伯爵だった。


「お父様、お待ちしておりました」


 セレナは明るい表情でドフレをテーブルに案内すると侍女に命令した。


「お茶をお持ちしないさい」

「はい、王妃殿下」


 侍女たちが引き下がるなりセレナは待ちわびていたかのようにやきもきした顔でドフレを見た。


「王妃殿下、お呼びでしょうか」


 ドフレの質問にセレナはうなずいた。


「エイントリアンから使臣が来たそうですね」


 ドフレはじっと娘のことを見つめた。

 幼い頃からとにかく世間話が好きだった。噂話から始まり人生の話、戦争の話、どんな話にも興味を示した。

 その中でも最近はエイントリアンの噂に夢中だった。あの話に相当興味を持っていたのだ。

 エイントリアンの話となればまるで6歳の子供のように目を輝かせながら話に集中した。


「王妃殿下、私よりもエイントリアンの噂ですか?」


 ドフレがそう尋ねると、セレナは首を横に振った。


「とんでもありません! もちろん、お父様が一番です! ただ、興味深い噂ばかりなのでつい……それだけです」


 セレナはそう言ったがドフレは内心笑ってしまった。少しどころかすっかり夢中になっていたからだ。

 そして、彼女の興味が高じたのは宮中に閉じ込められてからだということをドフレはよく知っていた。

 エイントリアンの若い領主は自由奔放で自ら大陸を往来しながら勝利を勝ち取っているわけだから、セレナは彼の行為を通じて疑似体験的に満足感を得ているのだろう。


「使臣の訪問の目的は? エイントリアンの誰ですか?」


 彼女の好奇心旺盛な顔を見たドフレは笑って口を開いた。


「エイントリアンのハディンという人物のようです。エイントリアン伯爵家の家臣で爵位は男爵と聞いています。同盟の件で来たようですが…そう簡単にはいかないでしょう。カシャクが使臣の前でエイントリアンの本音を予想していましたが、国益とは全く関係がないと考えているようです」

「そんな! あの方と手を組めば私たちに大きな力となります。他の貴族たちはあの噂を聞いていないのでしょうか?」

「それよりも彼の持つ勢力が小規模なのが問題なのでしょう。比べるのが好きな貴族ですから、いくらナルヤを倒したとはいえ小さな勢力と対等に同盟を結ぼうとするはずがありません。ナルヤの大軍を倒せたのも運だと思っている貴族が多いですからね」

「でも……今はあの規模でもすぐに大きくなると思うんです。今はむしろ更なる挑戦のために腰を落としているだけです!」


 セレナはもどかしそうな顔で叫ぶ。熱望のこもった声だった。


「王妃様、私もそう考えます。大陸の情勢からしてエイントリアン伯爵はわざとブリジトの旧領土を選んだのでしょう。その過程でナルヤを再び倒したことも事実です。誰もが怯えるあのナルヤを」


 ナルヤとルナンの第一次戦争でナルヤを倒した戦略。

 ロゼルンに攻め込んできたブリジトを倒してむしろ反撃を仕掛けたあの戦略。

 そして、マナの陣で大軍を誘引して倒した最近の戦いまで。

 その誘引した大軍が大陸でも有名な策士バルデスカ・フランだったからなおさら。

 こんな人物が歴史上に存在したか?

 古代王国を建てたエイントリアンの初代国王の現身ではないか。

 ドフレはそう思っていた。

 そして、この話に相当夢中な娘のために自らエイントリアンに人を送って情報を集めることもした。


「同盟を結べないなんて……残念です」


 娘が意気消沈した姿を見せるとドフレはしばらく考えては口を開いた。

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