7曲目 僕のままで

小川が今弾いているのは、Mr.childrenの【innocent world】。

言わずと知れた、超名曲だ。

この歌なら多分暗譜でも歌えるし、多分小川も知ってるだろうと思って俺が選曲した。


飛び散った音の粒が辺りを濡らす。あれ、アコースティックギターってこんな鮮やかな音、出るんだ。俺は初めて聴くギターの音色に釘付けになった。

対して小川は淡々と音の粒を束ねて、コードを繋いでいく。


彼女のギターはあたたかい。


夕陽に照らされた砂浜に似たあたたかさがそこにはあった。

昼間の余熱を残し、踏み締めるたびに熱い空気が足と砂浜の間から抜け落ちる。歩くたびに砂が跳ね、確かに歩いているんだ、という感覚がある。でも、不思議とその砂を鬱陶しく思うことはない。


上を歩く者の次の一歩を後押しするような………そんな、あたたかい音色。


俺は歩いた。小川の作る砂浜の上を。

一歩一歩、しっかり踏みつけて。小川の堂々とした音の上に、おっかなびっくりな自分の声を乗せる。情けないけどしょうがない。せめて音程を外さないように、声が震えないように………

慣れてくると少し歩くスピードが早くなる。

それでも、小川のギターとのズレが生じることはない。それが俺を安心させた。

歩く、歩く。真っ直ぐに途切れることなく続く海岸線。その上を、どこまでも歩いていく。


海風が頬を撫でた。昼間の熱風ではない、夜風と熱風の間、その生ぬるい温度の風を切って俺は歩いた。

誰もいない砂浜。俺独りの砂浜。

軽やかに緩やかに、声を滑らせていく。


気づけば、歌の世界に熱中している自分がいた。


息をたっぷり吸って、音を乗せる。

自在に音程を操れるこの感じが好きだ。

高い音も低い音も、自由自在に飛び回る。

調子外れかな。下手くそだって思われてるかも。

でも、今はそれでいいや。


この歌が終わるまでは、ここが俺の世界だ。


誰にも笑われないし、文句も言われない。

罵倒されることもない。お前なんかいらないと、罵られることもないんだ。


俺は、歌える。

きっと今なら、俺のままで。


“きもいんだよ、

“俺の机触んないでくれる?菌移るからさー“

“来んなって。お前臭いから“

いつからだろう、日々投げかけられる罵詈雑言に笑って返せるようになったのは。

どんなに苦しいことも、辛いことも、それこそ消えちゃいたいくらい悲しいことも、時が経てばそれなりに慣れることができる。

それは全部虐められるようになって気づいたことだ。

慣れてしまえば、なんてことなかった。

けど、それと同時に少し怖かったんだ。

自分が自分じゃなくなっていくみたいで。 

平気なフリが、その場を取り繕うためだけの笑顔が、本当の俺になっていく。

ある日鏡を見て、そこに映った顔を見てびっくりした。

真っ白で血の気のない顔。虚ろな目つき。

うわ、これ、俺?

俺いつもこんなひでぇ顔してんの?

全く気づかなかった。

人の悪意に触れれば触れるほど、自分がわからなくなっていく。 

俺なんで今、笑ってんの?

面白いの?殴られても笑ってるって、頭おかしいんじゃない?


あれ、本当の俺ってなんだっけ。


そう思ったときには、もう遅かった。

どこを探しても、昔の俺はもういない。


………イノセントワールド。

実はこの曲、俺が初めてギターで弾けるようになった曲でもある。


虐められてるようになって、放課後家にこもりがちになった俺に「新しい趣味を見つけるのもいいんじゃねぇか」と親父が買ってきてくれたギター。そのころの俺は本当に情けなくて、人が死ぬドラマを見ては泣き、失恋の歌を聴いては泣く、とんでもない泣き虫野郎だった。

もちろん、ギターを貰ったときも親父に気をつかわせてしまった事が悔しくて泣いた。

そして始めてこの曲が弾けるようになったときも………

泣いたな。弾けるようになって嬉しかったというよりは、今置かれている自分の立場に絶望して。

虐められてることが悲しくて。

悔しくて。情けなくて。消えてしまいたくて。 


ああ、懐かしいなぁ。


懐かしい?

その時、俺のびびっと頭に一筋の電流が走った。

………懐かしい。

イノセントワールドを歌いながら泣いた俺。

胸に渦巻く感情の数々を抑えることができなくて、それらを余すことなく涙に溶かし、気がすむまで思いっきり泣いていた俺。

………それが、本当の、俺?

泣き虫が?事あるごとに泣いていた俺が?

あ。

そうだ。

そうか、そうだ。昔、俺は泣いていた。ずっと泣いていた。それがいつしか、泣かなくなった。悲しい気持ちを、誤魔化すようになった。

本当の自分をこの曲の中に閉じ込めて、自分に嘘を重ねていくうちにそれが本当の自分になって………

昔の自分を失くしたんだ。

俺、今まで一体どこを探していたんだろう。


本当の俺はずっと、この曲の中で生きていたのに。


打ち寄せた穏やかな波が引くように、この曲は終わる。いつのまにか、小川のギターの音は止まっていた。

一瞬の静寂の後、波の打ち寄せる海岸は消え、俺は現実世界に引き戻された。 


視界が淡く潤む。こぼれ落ちた涙が、頬を濡らした。


俺は泣いていた。

歌いながら、泣いていた。


慌てて俯く。

「………っ、ごめん」

最悪。小川、引いてるだろうな。

誰だって困るだろ、歌いながら泣かれたら。

涙が頬を伝う、懐かしい感じがする。

あー、終わったぞこれは。

人前で、しかも女子の前で泣くなんて。


「………近藤って泣くんだね。何されても平気そうな顔してるから、泣かないのかと思ってた」

小川が「はい」とハンカチを寄越した。「使って」

「ぅ、え!?いや、女子のハンカチ使うのはさすがに………」

「今、近藤顔やばいよ」

「!?」

やばい、とは?

それはつまり、「ひどい顔」ってことですか!?

結局俺は小川からハンカチを受け取り、遠慮なく使わせてもらうことにした。

その「ひどい顔」を小川から背けて、俺は目元の涙を拭う。

………ああ、なんだか今なら素直になれる気がする。

「………小川、ありがとう。俺を、け、軽音楽部に誘ってくれて」

「何急に。怖」

「正直、嬉しかった。ちょっとまぁ、ほら、やり方は強引だったけど………あんなに熱心に誘われたの、初めてで。ああやって人に必要とされるの、久しぶりで」


何話してんだ俺は。

今日初めて言葉を交わした相手に、俺は何を喋る気なんだ。


「最近はさ、その、お前なんかいらねぇって、言われることの方が多かったから………なんか………嬉しかった。………ありがとうな」


やべぇ、気ぃ抜くとまた涙が垂れてくる。

もうプライドも何もあったもんじゃないけど。

ふーっ、と深呼吸をして息を整える。 


「歌うの、楽しかった。あと小川ってめっちゃギター上手いのな!」

「………どうも」

「アレ、小川サン照れてる?」

「別に照れてないし」


小川って容姿が良すぎて、高嶺の花っていうの?教室ではあまり近づきにくかった。けど、本当の小川は強引でブラックで、ギターがめちゃくちゃ上手で、無愛想だけどこうやって少し照れるときもあって。

教室での小川より、何倍も魅力的だ。

風に揺れるその髪を目に焼き付ける。


それともう一つ、小川に言わなきゃいけないことがあるな。


「………小川、入部届ってどこでもらえる?」  


小川の形のいい眉が少し跳ねる。

自分から誘っといてその顔はねぇだろ。

俺は思わず頬を緩める。


長く長く探し続けてやっと気づけた。

今の自分の、本当の気持ち。


本当は俺、歌うのが大好きなんだってこと。


普段の、高橋たちに殴られてる自分は大嫌い。すぐ泣く自分は大嫌い。たくさんの人を傷つけた自分は大嫌い、だけど。

歌っている時の、カッコつけないありのままの「俺のままの俺」は、ちょっとだけ好きなんだ。

そして、もし俺が歌う時、隣に小川のギターがあるのなら。

俺は「俺のまま」で、心からやりたいことを楽しめるんじゃないかと思ったのだった。


俺はきっと忘れない。

「俺、軽音楽部、入るよ」

少しだけ自分のことを好きになれた、この日のことを。

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