第28話 最後の挑発【回想編】
「弥っ」
引き止めたい、そんな感情にプリムムは支配される。
だが、力強く引き寄せられない。それをして体が痛み、一に露見することを彼は嫌がるだろう。だから咄嗟に伸ばした手を寸前で引っ込める。
「大丈夫じゃないよ」
そこは嘘でも言うべきだったが、たぶん、そっちの方が心配をかけると思ったのだ。
大丈夫じゃない、ぼろぼろになる、傷はさらに増える。だけどこれだけは言える。
「負けねえよ」
そして。
殴り合いが始まった。
―― ――
「こ、ここ、流れが急な川だよ! あ、危ないよっ」
「大丈夫だって。ほら、こんな風にっ、渡って、い、け、ばっ!」
水上から少しだけ出ている石の上を、軽い身のこなしで跳んでいく。
その石は丸みを帯びているのだが、彼の身体能力の高さゆえに関係ない。
すると、向こう岸から、早くこいよマジメー! と声がかかった。
しかし返事ができず、メガネをかけた、おとなしそうな小学五年生の足が震えている。
少年、にしては少し長めの髪である。目つきの悪さを隠すためであった。その見た目とは真逆に、心の方は強かではない。なにをするにも自分から一歩、踏み出せないのだ。
「マジメじゃないよぉ、ハジメだよぉ……だって、でも、落ちたら――」
川の流れは石を丸くさせるくらいに強い。とは言っても、長年経って、ようやく角が取れるのだが、小学生の彼には熱した氷が水になるようなものだと思っている。
そんな強さの流れの中に落ちたらと考えたら……動きが止まってしまったのだ。
「ワタルくん……どうしよう、怖いよ……っ」
そう言って震えたままの彼の前に、向こう岸にいるはずの少年がいた。
足音さえ立てずに、あっという間に戻ってきていた。
「しょうがねえなあ、手を貸してやるから、一緒にいこうぜ」
「……うん」
「おまえも強くならねえと、かえでにすら勝てねえままだぞ?」
「そ、それはいやだなあ……」
絆創膏がついていない日は見なかった、弥の小学生時代である。
とある夏休みの一日、遠くの山に家族を連れて遊びにいった、そんなシーンだった。
一は、なぜだろう……こんな時に、そんな回想をしていた。
……ワタル『くん』か、そういやそんな呼び方だったっけな――。
結局、彼がまともな時に、彼を呼び捨てにすることはできなかった。
呼び捨てにできたのは、弥が今のように、なりかけた時なのだから。
なりかけ始めたから呼び捨てにできた、とも言えた。
なんにせよ、この日は転換期だったのだ。弥にとっても、一にとっても。
強くなりたい、とずっと昔から思っていた。
弥に出会う前、うんと前からである。
変わりたいと思っていてもなかなか踏み出せない、それは普通のことだ、普通のことであるから仕方ないと甘えていた。
だから長い期間、一はその気持ちを持ちながらも、前に進もうとはしていなかった。
このままずっと続くと思っていたからだ。
この友達の輪が、いつまでも。
けれど一はこうして強くなった。
見た目も以前の面影などないくらいに変わっている。
強くなりたかったとは思っていたが、踏み出すきっかけが、輪を乱してしまう結果になったあの事件であるというのは、皮肉である。
そして念願だった、弥に勝ちたい、という気持ちも、叶えてしまえば呆気ない。
なぜだろう、空しいだけだった。
「…………」
……勝ったところで、かえではいねえしな。
初恋であったが、それは弥への対抗心の方が強いのだろうと今なら思えた。
成長したな、強くなったな、自分を拾い上げてくれた彼に認めてもらいたかった。
なのに。
一にとって、憧れのままでいてほしかった弥は、カリスマ性を手放した。
ただの脇役へ、成り下がった。
弱くなったのだ、人間的に。
「今のお前に勝っても、意味なんかねえんだよな」
拳には血の痕がついている。
足下には、立ち上がろうとしている弥がいた。
正面切って戦いに応じたのだから、なにか策でもあるのかと思っていた。体格差があり過ぎるのだから、今の弥では勝てないことは明らかである。
確かに、逃げられないように場を整えたし、そう仕向けたのだから受けてくれなければ失望していた――。
にしてもだ、かつての弥であればどうにかしたはずなのだ。策の内容? そこまでは一でも分かりようもないが。身体能力は高いのだから、体格差や腕力差があろうが、一発逆転の目がないわけではない。それすらも活用しなかった。
ただの殴り合いに応じた。
根性とか意地とか、そういう類いの勝負を挑んだのだ。
それはそれで一の好みだが、強さがあってこそ見応えがある。
弱ければそれはただのリンチであり、やる方だってしんどいのだ。
なによりもまず、つまらない。
手応えはあるが達成感がない。
こんなことを長年の目標にしていたとは、まったく無駄な時間だったと思うしかなかった。
ちらりと一が見れば、意外にもプリムムは黙って見ていた。だが、黙っているだけで、全身に力が入っている。すぐに動けるよう、ではないだろう。
すぐさま動いてしまう体を、必死に抑えて、耐えているのだ。
「もういいんじゃねえか? 勝負あっただろ」
これ以上やっても意味はないだろう、そう判断したのだが。
「まだ終わってないわ」
そうプリムムが言った。
「弥はまだ、諦めてない」
「お前、意外とスパルタだな。そういう押しの強いところも好みだけどな。
……つってもマジで限界だと思うぜ。そろそろ、殺しちまうところまできてる」
「すればいいじゃない」
一が眉をひそめた。
プリムムの言葉の真意を図ろうとしたが……、
「どういう意味だ?」
「目的が私なら、さっさと弥を気絶させて、攫えばいいじゃないの。なんでしないの? そんなに強いのに。強いからこそ、致命傷にならないように殴ってるんでしょ?」
「冗談だろ? 本気で殴ってる。こいつの耐久力が高いだけだろ」
「そうかしら? 弥は全身に怪我を負っているのよ?」
あ? と、一が視線を落とす。
弥の制服の隙間から見えた包帯に、いま気づいた。
彼の胸倉を掴んで持ち上げる。乱れた制服が大胆に肌を見せ――は、しなかった。
なぜなら全身を覆う包帯と、滲んでいる血のせいである。
「……おいおい、こんな大怪我をしてるなら、言えってんだよ」
「言って、どうするの? ハンデがほしい、って提案するの?
もしも逆の立場だったら、あんたはそう弥に言うの?」
言わない。隠し通す。であれば弥だって、そうだろう。
いつもよりも動きが鈍く、頭だって回転していない。
こんな怪我を抱えていれば、当たり前である。まともな勝負になるわけがなかった。
勝ち誇っていた自分が恥ずかしくなる。こんなの、勝って当たり前だ。
「やめだ」
手を離す。宙にいた弥が、どさっと地面に落ちた。
「こんな勝負を認めるのは、男じゃねえ」
「…………逃げるのか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます