第19話 迫る危機【勧誘編】
マザーの笑みは、なんだか諦めのようにも思えた。
「あの、ホーガンさんが、助けてくれたんですよね……?」
「ガラスの破壊のことかい? 私じゃないよ。どこかの誰かだろうね。まあ、報告にきていないから、彼女は悪いことをしたと思っているらしいけど」
良いことをしたはずだが、結果的に施設を破壊してしまったのだ、負い目があってもおかしくはない。素直に報告すれば許せる案件であったのだが……、かと言って、報告しないから怒る、と判断するマザーでもなかった。
「そうじゃなくて、倒れているおれを、見つけてくれたのは……」
「なんだい、覚えていたのかい?」
「その反応は、やっぱりホーガンさんですか」
マザーは、フッ、と鼻を鳴らした。
駆け引きなどするつもりはなかったが、それでも答えを引き出されたことに、してやられたと思ったのだ。記憶喪失にしてはなかなか策士である。
「マザーが少々、言いたがりな癖があったようにも思えますが」
「偶然だとしても、なかなか言いやすいタイミングで間を空けてくれたものだよ。記憶がなくてこれなら、彼は良い腕の交渉人になれそうだ」
もしくは商人である。
露店にいる姿を想像したら、ぴったりである。
「…………」
高所からの落下なのだ、もちろん通は死にかけた。地面に横たわりながら、踏まれた虫のようになっていたのだ。
周囲には誰もいなかった。植物園のような都市だが、中でもそこは本当の植物園らしき場所であり、人がまったくいなかったのだ。
そんな中で死にゆく彼を、見つけてくれた人がいた。
それがマザーである。
車椅子が必須なはずの彼女は、通を抱えて何度も転びながら、痛みに顔をしかめながら、この部屋まで届けてくれた。
通は彼女の胸の中で、意識が飛んだり戻ったりしていた。彼女の呼びかけがなければ、生きることを諦めていただろう。
『楽になろう』
何度も思った。
だが、
『諦めるんじゃないよッ!』
――彼女が言ったのだ。
今でも覚えている。
彼女に抱かれた時の、あの落ち着く匂いを。
「ホーガンさんは、命の恩人です」
「恩を売りたくてしたわけじゃないのさ。お礼は言葉だけで結構。なにかをしたければ、記憶を取り戻すことに費やすんだね。その時、とおるの話でも聞かせてくれればいい――」
「おれは、あなたのためならなんでもしますよ」
「そう言う子供たちはたくさんいたさ。だけど私はなんでもは受け取らない。精々、私よりは先に死なないでほしいくらいかね」
子供が死ぬのを見るのは、いつもつらい……、とマザーは深く息を吐く。
「ゆっくりしていきな。とりあえず、外に出た方がいい……、色々なものを見て、体験してみるんだね、それが記憶を取り戻す一番の近道だと思うよ」
そして、この個室が通の部屋となった。
何日間の滞在になるかは分からないが、生活用品は買い足さなければならないだろう。
そう言われ、マザーから資金が渡された。
「困ったら言いな。ただ、私は忙しくてね、対応できないことが多い。その場合、このネイブか……、学園の教師に頼ればなんとかしてくれるだろう」
通がいるこの個室がある敷地は、学園に属している。
大人がいれば間違いなく教師ということになる。そうでなければ、少女であれば試験に選ばれなかった、アーマーズである。
「……分かりました」
「良い子だね。……なら、ネイブ、あとは任せて構わないかい?」
ええ、と頷く。
そうして、車椅子に座ったマザーは、ネイブに押されながら、自動扉の先へ立ち去って行った。扉が閉まる。部屋が静まり、外から、子供たちが公園で遊んでいる声が聞こえてきている。
「……思い出せねえ」
薄らと過去のシーンを切り取ってはいるのだが、繋がらない。
一本の線にならない。見覚えのない記憶ばかりである。
脳内に映像を再生させると、決まって頭痛だ。それによって顔をしかめている。片手で頭を強く押しながら、痛みを和らげているが、完全には消え去ってくれなかった。
「わたる……? はじめ……? 小さい頃――、かえ、で……?」
自分を含めた四人が河川敷で遊んでいる。
年齢は今よりもずっと小さい頃である。
思い出すのは、その時の映像ばかりであった。
と、そこで再びの来訪者である。
車椅子を押していない、ネイブである。
「……忘れ物でもしました?」
「そうかもしれんな」
言って、ネイブが椅子にどかっと座った。部屋に一つしかない椅子である。一応、二つ目の椅子も買う必要があるかもしれない、と予定に組み込んだ通が、ベッドに腰かける。
ネイブは厳しい目線をさっきと変わらず向けている。これでも柔らかくしている、と言ってはいたが、やはり信じられない。
雰囲気と言い、足を組んだその態度は、相手を威圧しているようにしか見えなかった。
「勧誘だ」
通は、「?」と眉をひそめる。
交渉ではなく、取引きでもなく、勧誘?
「マザーを恩人だと言った君なら、手伝ってくれるかもしれないと考えた」
「ホーガンさんが……、なにか――」
見た目が老婆なので体の心配は確かにある。手伝えることであればいいが……。
「これから話すことは、マザーには内緒にしてほしい」
ネイブは言った。
「マザーを、助けたいのだ」
―― ――
壁の外である。
背中を壁に預ける学園の教師、弟のオリカがおり、隣には落ち着きを取り戻したルルウォンがいた。彼女はいつもの元気の良さが嘘みたいに、ぼーっと前を見つめている。
視線の先にいる、退治した捕食者は、その場に放置したままだ。
燃やすべきか、その判断を兄のネイブに委ねているところである。つまり待ち時間だ。
「……もうやだ」
ルルウォンが呟いた。
……これで何度目だろうか、そろそろ説得するのも面倒になってきたオリカである。
しかし、考えてみれば説得をする必要もなかった気がする。
棄権は自由である。彼女がギブアップを宣言すれば、壁の中に入れるのだ。
「捕食者がまだいるなら、ここにいたくないよ……」
彼女たちは捕食者に強い恐怖を覚えている。中でも、ルルウォンのこの怯えようは最も強いものだろう。確かに、彼女は一番多く、捕食者に襲われている。
一度遭遇すれば、普通はそれきり、命を奪われる。何度も遭遇していながら生き残れているのは、俊敏さで逃げているか、頑丈な盾を持っているか、である。
ルルウォンは後者なのだ。
その盾により、捕食者に喰われずに済んでいる。ただ、襲われた回数も多く、恐怖心は回数を重ねるごとに強くなっている。いつまで経っても慣れてはくれなかった。
「けど、今やめたら、マザーの力にはなれないぞ?」
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