第18話 マザー【回収編】

 キィ、キィ、と車椅子が移動する音が聞こえた。

 彼が部屋に戻ってみれば、案の定、勝手に世話を焼いている母親がいた。


「ネイブ、どこに行ってたんだい? 手伝ってほしいことがあるんだよ」

「……マザー、車椅子なのだから無理をなさらないようにとあれほど――」


「無理をしているように見えるのかい? ただ器に水を汲んでいるだけじゃないか」


 車椅子に座ったままであれば――だとしても安心ではないが、おおごとにはならないだろう。

 しかしシンクの位置が高いために、立たなければ水を汲めないのだ。

 ただ、それだけの作業ではあるが、今の彼女にはかなりの負担になる。


 強がってはいるが、彼女の顔には嫌な汗が浮き出ている。

 ふと、増えたしわを数えてしまった。


 ネイブは二五歳、彼女――マザーは遂に五〇歳を迎えたのだ。


「私がやります」

「なら、勝手に部屋を出ないでほしいものだね。……まったく、こんな時にオリカもどこをほっつき歩いているのか……」


 弟、オリカの場合は、兄、ネイブの指示で外に出ているのだが、彼は同意する。

 怒りの矛先をあいつに向けてしまえば、話もしやすいだろうという魂胆である。


「あれの遊び人の癖はもう直らないでしょうね」

「いつまで経っても手がかかるものだねえ……、お前さんは逆に手がかからな過ぎてつまらん。少しは親に頼ったらどうだい」


「困った時は頼りますよ」

「ふんっ、どうせそんな機会などないのだろうねえ」


 老婆の愚痴に苦笑いをしながら、ネイブは器を取り、水を汲む。

 マザーの指示通り、タオルも濡らして絞っておいた。


「それで。これをなにに使うので?」

「彼が目を覚ました」


 端的にマザーが言う。

 彼とは、ガラス張りの天井を割って落ちてきた、謎の少年のことである。


「高熱があるらしいね。それと、当たりどころが悪かったのか、熱のせいなのか、記憶障害を起こしている。一時的なものなのかは、判断がつかないねえ。熱が下がれば自然と回復するのかもしれないが……、とにかく、記憶喪失だろうね」


「では、彼の正体はなにも分からない、と?」


「聞き込みの時点では、それはそうさ。ただ、彼の持ち物には身分を証明するものがあった。それを信じるかどうかにもよるがね」


 質疑応答にしても、それは同じように感じられるリスクである。

 ただ、目を見て話している分、真偽の方はネイブが見抜ける自信があるが。


「生徒手帳、ですね」

「そう、ウチとほとんど一緒だから分かりやすかったさ」


 ネイブは字を見ても分からなかったが、そこはマザーが既に解読済みである。


「地球」


 それは宇宙で最も有名な、人間が生息している惑星である。


 ネイブたちがいるこんな田舎惑星の存在など、地球は知らないだろう。

 だが、こっちは向こうのことを知っている。それくらいには有名な惑星なのだ。


 字が分からなくとも、地球、という文字には見覚えがあった。


「……会話は、成立したんですか?」

「この惑星にある植物のおかげで。オリカが母の日にプレゼントしてくれた花が役に立った。なければ探しにいかなければならないところだったからね」


 ならば、ネイブも同様に言葉が通じるだろう。

 たとえ異星人交流があったとしても、その花が近くにあれば意思疎通ができるようになるので、コミュニケーションが自然と取れる。


 違和感がなさ過ぎて、異星人同士である自覚が希薄になってしまう感覚もあるのだ。


「一五歳。偶然だねえ、あの子たちと同じ年齢だ」


 マザーがあの子たちと言えば、十中八九、アーマーズのことだ。

 なぜなら、彼女はアーマーズを教育する機関の学長であるのだから。


江夏えなつとおる。確か、地球では下が名前だったはずよね?」


 ―― ――


 外から丸見えのガラス張りの個室であった。

 光を遮る大きな葉が、一枚上に被さっているだけで、周囲に目隠しなどなにもなかった。


 自然と熱が下がった今、ベッドから起き上がった通は、外を見る。


 まるで植物園のようであった。

 通路には花のアーチ。中心に立つ大木の中は空洞になっており、人々が生活している。路上では切り株に商品を陳列しているお店もあった。観察していると、日傘を差している人が多い。

 それは定期的に天井から水が雨のように放水されるから、でもあるのだろう。


 通がいるこの個室も、大木の枝の上に乗っている球体である。大木のように見えるが、実はそういう塗装をされているだけの建物である。

 そのため、内装は宇宙ステーションのようなハイテクな印象を抱かせていた。


 枝や葉の上にある透明なガラス張りの球体部屋は、まるで植物に垂れている雫を思わせる。


 すると、風鈴のような音が来訪者を知らせる。自動扉が開き、車椅子に座った老婆と、それを押す灰色のスーツを着た、成人男性が部屋に入ってきた。


「おや、立ち上がれるほどには回復したのかい?」

「……はい、なんとか」


 通の口が僅かにぎこちなくなったのは、坊主頭の男性の鋭い視線のせいである。

 まるで、容疑者を犯人にするための情報を引き出そうとするかのような敵意だ。


「恐がらないでおくれ。この子はこれで歩み寄ろうとしているのだからね」

「……すまない。目つきは柔らかくしたつもりなのだが……」


 何度も挑戦しているが、目つきは鋭さを増す一方である。

 目つきは厳しいが、そういう事情であれば理解をしているつもりだ。


「とおる、というのが自分の名前、というのは分かっているのかい?」


 通は寝癖を手櫛で直し、明るめの茶髪を軽く立たせた。一応、身なりを整えたのだ。


「はい。年齢と血液型も覚えています」

「でも、どこで育ち、どんな仲間がいて、どんな成長を遂げ、どうしてこの場にいるのか、それは分からないと?」


 ……はい、と通は口には出さずに頷いた。


 外の景色を見た時、この場所で生まれてはいない、というのはなんとなく分かったが。


 覚えていることはとても少ない。


「さっきも話を少し聞いたが、もう一度、言おうか。今はだいぶ、落ち着いただろう?」


 彼女は銀髪の老婆である。

 肌を出さない赤いローブを着ていた。車椅子を使っているのは、足腰が弱いからなのだろうか。そうとしか考えられなかったが。


「私はマザー・ホーガン。どう呼んでくれても構わないさ」

「ネイブだ」


「おれは……」


 江夏通、とマザーは知っているはずだ。


「じゃあ、ホーガンさん。おれは、どうしてここにいるんですか?」


 すると、マザーは、くっくっ、と笑っていた。

 通は怪訝な表情をしてしまう。今のどこに面白い要素があったのだろうか。


「すまないねえ、ホーガンさん、なんて呼ばれたことが珍しいと思ってね」


 生まれ持った名はホーガンであり、マザーは後付けである。

 称号、とでも言うのか。


 そのマザーが有名になってしまったから、多くの者が彼女を『マザー』と呼んでいる。ホーガンと呼んでいた者で生きている者はもういないのだ。何十年も呼ばれていなかったために、懐かしいような、新鮮なような……、そのため思わず笑みがこぼれたのだ。


「マザーの方がいいですか?」

「ホーガンでもいいさ。言っただろう? 好きな方で構わないと」


 であれば、一度呼んだ名を変えるのもおかしな話だ。

 通はあらためて質問を繰り返した。——どうしてここにいるんですか?


「――空から落ちてきた……ガラスの天井を派手に割って、だね。捕食者でも破られないように頑丈に作っているつもりだが、それを破るなんてどれだけ高いところから落下したんだい。それを耐えるお前さんもだ。実は体が鉄でできていたりするんじゃないのかい?」


 そんなわけがない。……はずだが、記憶がないので判断ができない。

 自分の体を触ってみるが、鉄であるわけがなかった。


「冗談さ。まあ、どこの誰かが遠目にお前さんを見て助けた、というのが可能性としては高いだろうね。能力と落下の威力を足せば、ガラスも割れるだろうし……、しかしそうなると、その威力であれば壊せてしまう、ということになるわけだがね……」


「検討しましょうか」


 後ろのネイブが言う。

 メモを取らないあたり、彼の頭の中に記されている。



「全てが終わってから、考えるとしましょう」

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