【警告】―地下世界から出ないでください―その3

 目を開けた時、目の前にぺタルダの顔があった。

 布団で横になり、すぅ、と寝息を立てているのを間近で感じる。


 距離を開けようとしたが、手を握られていることに気づいて、動いたら起こしてしまうだろうと思ってなかなか動けない。……かと言ってこのままというのも……。


 すると、ぱちりっ、とぺタルダのまぶたが上がった。しかし眠気が完全に覚めたわけではないらしく、とろんとした目つきに戻り、ふっと微笑をした。


「アル、よく眠れた?」

「……僕、どれくらい眠っていたの?」


 うーん、とぺタルダは人差し指を立てて、くるくると動かす。

 じっと見ていると目を回しそうだ。


 ぐぅ、とお腹が鳴ったのは、ぺタルダだ。

 くすっと笑ったぺタルダは、それで朝になったのだと分かったらしい。


 つられて、僕のお腹も鳴った。朝であれば、僕は昨日の夕飯を食べ損ねていることになる。

 気づいてしまうと、さらにお腹が空いてきた。


「体調はどう?」

「大丈夫だよ」


 言ったのに、ぺタルダは手の平を僕のおでこに当て、熱を測る。

 嘘ではないことを確信したのか、一緒の布団から、先にぺタルダが出た。


 続いて僕も立ち上がる。

 握られていた手が離れており、少しの寂しさを感じるが、握り拳を作って誤魔化した。


 幕に塞がれた入口の穴から部屋を出るぺタルダ。先は、足場が悪い通路だった。

 部屋の燭台の明かりを消して、僕も後を追う。


「ねえ……、ぺタルダ」

「ん、なあに?」


 ぺタルダは振り向かない。移動しながらの雑談だと思っているらしい。

 ……それでもいい。僕は、僕の知らない僕を、知りたい。


「僕たちが初めて出会ったのは二年前だよね……?

 ぺタルダが、僕のお世話をしてくれてて……」


 言いながら、その時のことを思い出す。


 ……いま思えば、なにもかも、お世話をしてもらっていたので、ぺタルダには頭が上がらない。ぺタルダも、マナさんもワンダさんも、既に僕の世界に存在していた。


 出会ったと言ったが、もう出会っていた後だった。


 僕には、出会う瞬間も出会う以前のこともまったく記憶になかった。

 幼かったから……、そんなわけがない。二年前なら、僕は十歳くらいだ。


 言葉も話せるし、考えて行動できる年齢だ。よちよち歩きの赤ちゃんじゃないのだから。


 僕は立ち止まって、ぺタルダも気づいて立ち止まる。

 そこで初めて、彼女が振り向いた。


「僕が失った記憶を……ぺタルダは、知っているの?」

「ワンダに言われたの? 記憶喪失だって」


 そう言われたわけではないけど、同じようなものだ。はっきりと言われた。

 頷くと、ぺタルダは、そっか、と答えた。


「いいよ。教えてあげる。隠しているつもりもなかったし……、でも、だったら保護した張本人に聞いた方が早いわよね」



 むすっとした表情をしたマナさんが、朝食を作り終えて待っていた。

 今はバンダナを取っており、茶色の髪が肩まで下がっている。


 ワンダさんを真似たような紺のコートを、いつものエプロンの代わりに着ていた。

 外出でもするのだろうか、と考えた。もしそうなら、足を止めてしまうことに少し申し訳なさを感じるが、ぺタルダは遠慮がなかった。


「マナ、ちょっといい? ……どうしたの? 怒ってるのか悲しいのかどっちなの?」


「怒ってるの! だって、ワンダくんはアルに言い過ぎだし、勝手に出て行っちゃって、まったく帰ってこないし……心配ばっかりかけて……っ」


「あー、そう。心配なのね」

「やっぱり探しに行ってくる! 二人ともこれ食べて待っててね!」


 用意された朝食を指差して飛び出そうとするマナさんを引き止めるぺタルダ。

 コートの端を指でつまんで、ぐいっと引っ張る。


 マナさんの足が、がくっとなり、少し冷静になれたのか、深呼吸をして落ち着きを取り戻す。

 上げた腰を下ろして、あらためていつものマナさんの口調で、聞き返した。


「ふぅ……それで。珍しく真剣な顔をして、二人ともどうしたの?」

「アルの記憶についてなんだけど」


 マナさんが数度、目をぱちくりとさせた。それから僕を見る。

 僕の意思を確認したい、という目を向けられた。


「僕って、一体……。どうやって僕を引き取ったのか、知りたくて……」


「ワンダくんに言われて? 気にしなくていいのに――。

 でも、うん。聞かれて隠すようなことでもないし、教えよっか」


 食べながら話そっか、と、僕たちはまだ温かいスープを飲みながら。


「アルを保護したのは四年前ね。ワンダくんが逃げ遅れたアルを助けたのよ。その時のアルは崩れた森の中に隠れていたの。……アルは、自分がシルキー族なのは覚えているでしょ? 影の薄さが特徴の種族だから、私たちよりも見つかりにくかったの。

 ……でも、それも長くは続かない。見つかってしまったアルは、敵に襲われそうになっても逃げようともしなかった。ワンダくんはたぶん、気に入らなかったんだと思う――。あの人は目の前の悲劇に手を差し伸べてしまうから。

 昔から……。だからこうしてこぢんまりと暮らしている原因でもあるんだけど……」


 マナさんは嬉しそうに言う。

 ワンダさんのその一面を、嫌に思っているわけではないらしい。


「アルは大きなショックを受けていた。あの時は誰もがそうだから、甘えるなってワンダくんは言ったけど、だからってショックをしまい込めるわけじゃないから……。

 私には、生きている姉妹がいるけど、アルにはその時、味方が誰もいなかった。森が襲われたことでオーガ族もシルキー族もシルフィード族も殺されていたの。

 アルの記憶が飛んでしまうのも、無理ないことだよね……」


 それから僕は、マナさんたちと行動を共にすることになった。だけど二年間は精神が安定せず、記憶を失ったり取り戻したりの繰り返しだったらしい。

 そしてやっと安定したのが、僕がいま覚えている二年前の記憶になる。


「嫌なことを全部忘れて、一からやり直す……確かに、僕は卑怯だ……っ」


「仕方ないわよ。忘れるほど強いショックだったんでしょ? そうしないと体がもたないなら、そうするべきだと私は思うけど」


「うん、私もそう思うよ。人はいつだって強いわけじゃないの。……あの時のアルは強くなかった。だから、忘れなければ生きてはいけなかった。……自分を責めないで。

 私たちにとっては、今こうしてアルが生きてくれているのが嬉しいんだから」


 優しい言葉だった。……僕はいつまでも、守られてばかりで――。


「アルが記憶を失わなくなったってことは、少しだけど、平和に近づいたってことでもあるの。ぺタルダもアルが元気だと嬉しそうにするのよ。弟ができた、って昔は付きっきりで面倒を見ていたもんね。何度記憶を失っても、アルを見捨てたりはしなかったんだから」


「そ、それは……、だってアルがいないと、私だけ歳が離れちゃうし……」


 ぺタルダに視線を向けると、なによっ、といつもより弱めの声で睨まれた。


 初めて会った時から、過剰と言えるくらい気にかけてくれて、お世話もしてくれて、不思議に思っていたけど、今の話を聞いて納得した。

 僕の知らない僕と、ぺタルダは何度もやり取りをしていたのだ。


 僕にその記憶はないけど、体が覚えているくらいに染みついている。


 ぺタルダが隣にいるから、僕はどこでも安心できるのだと思う。


 睨まれて、いつもならびくりとしてしまう僕だけど、今のが照れ隠しなのは分かる。


 だから自然と笑みが出て、なにかを言いかけたぺタルダになにも言わせず、


「ぺタルダ、ありがとう」

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