第2話 九月一日

 そして、八月が過ぎ――、九月一日。

 九月一日の、地下研究所。


 その、早朝のことだった。


「……アキバ?」


 少年の声に、少女は答えず。

 答える、答えない以前に、彼女はその場にいなかった。


 それは、世界から削除されたように。

 姿がきれいさっぱりと、消えていた。


 ―― ――


 九月一日の早朝。


 登校時間よりもだいぶ早く学校へ着いた俺は、いつも通りに地下研究所へ顔を出したのだが、部屋には誰もいなかった。

 いつもならアキバがすやすやと眠っているはずで、俺はそんなあいつのほっぺを指でつつきながら起こすつもりだった、のだが……、

(着くのが早過ぎたためアキバのルーチンも狂ってる?)

 本人がいないとなると、つもりのそれができなかった。


「部屋にいない、ってことがあり得るのか……?」


 着くのが遅過ぎて部屋にいなかった、ならあるかもしれないけど……、いくら早くきたからと言って、じゃあ出かけている、とは考えにくい……まだ深い眠りのはずだし。


 積極的に外へ出ないアキバがこんなに朝早くから移動している? どこへ? 

 あいつの行動範囲を完全に把握しているわけではないので、なんとも言えないが――そう遠くへいくはずもない。


 しかし、学校に住んでいるあいつのことだ……、昼間は出られないこの部屋から出て、夜の学校を満喫していたのかもしれない。だとすると、俺はここで待っていればいいわけか。


「探しにいってもいいけど、すれ違っても嫌だし――」


 呟き、ソファに腰かける。

 温もりはなかった。


 アキバはこのソファには座っていなかった、ということだ。時間が経ったからこその冷たさなのか、それとも単純に、昨日よりも以前から利用していなかったのか……。そこのところが分からないので結局、分かる情報からアキバの外出時間を導くことはできなかった。


 考えごとも、詰まる。

 やることがない。


 いや、あるにはあるか。俺はそのやるべきことをやるために、アキバのところへ、こんなに朝早くからきたわけなのだから。


「ふう、宿題にまさか『絵を描く』があるとはな……、

 小学校でもやったかどうかが曖昧なんだけど――」


 そう、夏休みの宿題である。


 クラスメイトは数が多い宿題に文句を色々と言っていたものだが、中でも『科学者』という肩書きを一応だが持っている俺は、平均的な頭脳こそある(もちろんアキバには及ばないが)……なので量が多くてもなんとか、対応はできるわけだ。

(実際、ほとんどの宿題は終わらせているのだ)

 ――だが、イレギュラーとして現れた『絵を描く』という項目。

 これはつまり、自分で決めた一つの対象を描く、という宿題なのだけど――、


 俺は何度もチャレンジしたさ。嫌になるほどな。しかし、まったく描けなかった。

 いや、描けたことは、そうだけど……うーん。これは失敗だな、と分かる出来だった。


 それが十数枚も積み上がれば、完全に理解してしまう。自分はまったく、絵描きには向いていないのだろう、ということを。だからと言って諦める選択肢はない。宿題なのだから。


 今日、アキバに聞きたかったことは基礎的なことでも上手く描くコツでもない――。


 常人では理解できないような、下手と上手い、紙一重のその境界線上に乗るような、そんな絵の描き方なのだ。


 アキバなら知っていそうだけど……さてどうだろうか。

 俺も、アキバが知っている、とは確信を持っては言えない。だから心配ではある――最悪、宿題は提出日に間に合わないかもしれないが、その場合はなんとなくで、ささっとテキトーに描いてしまえばいい……。


 納得はできないが……そんなものだ、宿題なんて。

 テキトーでいい……結果ではなく、過程が大事だ。

 やった、という事実が証明できればそれでいい――。


「……ふぁあ。やべ……眠いかも――」


 じわじわと、ゆっくりと沈んでいく意識……。

 意志が弱い。


 起き上がれと命令する前に体がもう倒れていた。がまんする、という思考に辿り着かない。

 歩いてさえいないのでは? 

 ふかふかのソファに寝転び、ちょうど、クッションが頭の下に挟まっている。

 全身が沈み込んでいくような感覚……ああ、包まれている……。


 そして俺は、気づけば目を瞑っていた。


 全身の力が抜けていた――。

 眠る……。


 夏休みの疲れ……休みのはずなのに、平日よりも疲れているのはどういうことだよ。


 そんな文句がいくらでも出てくるが、休みの日はそういうものだろう……。


 普段よりも疲れる。だけど充実している――休みの日は実際のところ、休みではないのだ。


 ―― ――


 起きた、目を開けた。


 眩しくは、なかった。地下研究所と言っているのだから当然、地下にあり、外の光など差し込まず、部屋の明かりもないため夜かと思ってしまった。


 そして、時計。

 針は既に、遅刻を示していた。


「……うわ、やっちまった」


 甘えていた。眠っていてもどうせアキバが帰ってくれば起こしてくれるだろう、と思って気を抜いたのだが、まさかアキバめ――起こしてもくれないとは!


 なんてやつだ、とは言えない。裏切り者めっ、とも。


 これは俺が自分で起きるべきことだ、一人でできて、当たり前——。


「……でも、なあ」


 少しくらい、体を揺らすくらい、してもいいのに……。


 しかし、違和感だ。

 そもそもの話だが、アキバ、戻ってきたのか?


「……長い、よな……?」


 甘く見ていた。

 寝ている俺を放置して、違う場所にいるのだろう、と思っていたけど……。


 あいつなら、起こさず添い寝くらいしそうなものだった。



 でも、いない。

 隣に。


 部屋にも。

 学校にも――。



「アキバっ、おーい!!」


 地下通路を進みながら叫ぶが、返事はない。

 そう広くはないのだから、叫んでいれば聞こえるはずだが――。


 しかし、やはりない。

 アキバの返事も、人の気配も……。


 おかしい。

 異常だ。


「今って、朝の九時、でいいんだよな……?」

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