第2章 異界への招待 茂湶康一郎とナルタリス・ファン・ラート、そして魔道師トハモン
ごく一般的な男子大学生である茂湶康一郎は、夜深まってますます賑やかになろうとしている新宿の街を一人歩いていた。数十メートル歩くだけで三軒ものゲーム・センターを認めることができるなじみの繁華街をとぼとぼと歩きながら、茂湶康一郎はますます混乱に拍車がかかろうとしている自分の頭の中を必死に整理しようとむなしい努力を続けていた。
さきほどまで、大学の仲間たちと同じく新宿のチェーンの居酒屋でビールを何杯か楽しく飲み交わしていたことまではしっかりと覚えている。だが、そのあとから妙に記憶がはっきりしない。隣に座っていたガールフレンドの陽子と、さらにその隣に座っていた富山とかいう、康一郎と同じ大学所属だがよく知らない奴との会話が常軌を逸して(少なくとも、自分にはそう見えた)盛り上がりすぎていたことに腹を立て、自分が立ち上がって二人に向かって、何か叫んだことはおぼろげながら覚えている。その言葉で陽子は青ざめながら目に涙をため、富山は顔を真っ赤にしながら立ち上がったのだ。
しかし、いったい自分はなにを二人に向かって叫んだのだろうか? その部分だけが妙に記憶の中から抜け落ちていて、どうしても思い出せない。それに、自分は生ビール三杯くらいでこんなに酔っぱらってしまうほど酒に弱かっただろうか?
あつく火照っている頬に何か冷たいものが触れた。雪だ。それを見た途端、不意に愉快さがこみ上げてきて、茂湶康一郎は大声で笑いながらその場に倒れ込んだ。次々に顔に当たる雪が冷たくて心地いい。車のクラクションの音が近くから何度も聞こえると、茂湶康一郎はあわてて建物の脇に這いながら逃げ込んだ。
そこは【注9】ゲーム・センターとコンピュータ・ショップの建物の間の小さな隙間で、両店から出されたゴミ袋がこれでもかと積み上げられていた。茂湶康一郎はゴミ袋の山の中に身を沈めながら、先ほどの事の次第を思い出そうとした。
たしか、陽子が立ち上がって自分に詰め寄り、自分を責めるような言葉を口にしたのだ。店中の人間が何事かとこちらに注目し、混乱した自分は思わず陽子の頬を手の平で叩いてしまった。それほど強くはなかったはずだが、陽子はその場にくずおれ、それを見た大学の仲間たちが一斉に息を飲むのが見えた。
さらに混乱した自分はそのまま店を飛び出して、新宿の街の中をがむしゃらに走った。駅の反対側まで走り続け、電気屋やゲーム・センターが建ち並ぶこの通りにまで来た途端、急に酔いが回ってきたのだ。
自分がどうしてあんなに乱暴な気持ちになってしまったのかも分からない。ガールフレンドに暴力を振るうなど、普段の温厚な性格の自分にはとても考えられないことだ。陽子は、もう自分を許してくれないかもしれない。茂湶康一郎は、何となく投げやりな気持ちになり、このままこの場所でゴミ袋に埋もれたまま目をつぶった。酔っているせいか寒さは全く感じないし、人通りは多いのに誰も自分にかまおうとしない。茂湶康一郎は目を閉じたままさらにゴミ袋の山の中に憤然と身を沈めた。
━━が、その時、声が聞こえた。
「やあ、見つけた見つけた。こんな遠くまで歩いていたんだね。随分捜したよ。こんなところで寝てたら、死んでしまいますよ?」
誰かが、茂湶康一郎に話しかけた。彼はそれを、自分の仲間が自分を見つけてくれたものだとぼんやりと考えた。だが、彼がゆっくりと目を開けてみると、目の前には奇妙な人物がひとり立っているだけだった。彼の仲間の姿はどこにも見えない。
「あ……あれ? ……誰?」
彼の目の前に立っているのは、一人の痩せた子供だった。いや、実際には、茂湶康一郎の目には、そのように見えただけだったのだが。
「こんばんは、人間の英雄【注10】殿。私は、エルフ【注11】のナルタリス・ファン・ラートと申します。魔道師トハモン様のご命令で、あなたを捜しにきたのです。あなた、モイズミコウイチローだよね?」
ごくふつうの大学生、茂湶康一郎はこれが夢であることをその時悟った。なにしろ、彼の目の前に立っているのは彼の身長の半分にも満たないであろう背丈の小さな人間なのだ。滑稽なのは、小人の体つきがちゃんとその背丈にあった縮尺で構成されているように見えることだ。まるで、大人の人間をそのまま縮めたようだ。茂湶康一郎は笑いをこらえきれなくなった。自分は、今夢を見ているのだ。
「くふふふ。そうそう、俺が茂湶康一郎です。えと、誰だっけ?」
「エルフのナルタリス・ファン・ラートですよ。お初にお目にかかります。ご機嫌麗しゅう。英雄殿と出会えて光栄です」
エルフぅ? 彼は思わず、貧困な発想しか浮かばない自分の夢に腹を立てた。自分がもっと若い頃夢中になったコンピュータ・ゲーム【注12】の名残だろうか? 〈エルフ〉なんて単語は、ここ数年思い浮かべたこともなかったのに。彼は目の前の小人をまじまじと見つめた。
目の前で笑っている小人は自分の体にぴったりの緑色のチェックのシャツと灰色のタイツ、さらに青の上着を着込み、その上に自分の身長よりも大きなオレンジ色のマントを羽織っている。顔の両脇からは、金色の長髪を突き破って予想通りの長い耳が飛び出していた。まぎれもなく彼が知っているとおりの〈エルフ〉だ。ここまで低すぎる身長を別にすれば。
「何か用かな? 俺ちょっと……眠すぎるんだけど。寝ていい?」
「もちろん! これから私が出すいくつかの質問に答えて下されば、いくらでも好きなだけお眠り下さい。よろしいですか? まずは……あなたは、冒険にあこがれますか?」
エルフのややおかしな言葉使いを聞きながら、茂湶康一郎はさらに深い眠りに自分が引きずり込まれているのを感じた。こうなれば、適当にエルフの質問とやらに答えてさっさと眠ってしまおう。もっとも、今自分は夢を見ているのだから、もうすでに眠ってしまっていることになるのだが。
「あこがれるね! 男はやっぱり冒険だよ! あはははは、馬鹿野郎」
「結構です! ……では次に、貴方が仮に、仮にだね、明日あさってここいらへんにいなかったからといって、悲しんだりする人はいませんか?」
「う……。うん、いないね、いるもんか」
一瞬、陽子の顔が脳裏に浮かんだが、彼はそれを頭の隅に追いやった。今は一刻も早く眠ることの方が重要だという気がする。
「そうですか。では最後に一番大切な質問。実は我々の世界が重大な危機にさらされているのですが、それをちょっと救いに来ていただけませんでしょうか?」
「いいとも!」
茂湶康一郎は即答した。その言葉がどんな意味を持っているかもよく考えずに。
「救う救う! まかせて。もう眠いからさ、早いとこ連れてっちゃってよ」
「それはまことに有り難うございます! 光栄です! あなたのような英雄と一緒に旅ができるなんて! もうこんなに早く話がまとまるとは思っていなかったぜ! やったぜ! それではさっそく……」
茂湶康一郎はエルフの言葉をもはや聞いていなかった。彼はもう半分以上、本当の眠りの世界に引きずり込まれていたのだ。そのおかげで、エルフが腰のポケットから何か長く、丸いものを取り出し、それを茂湶康一郎の体にあてがおうとしているのにも全く気づかなかった。
どこか遠くで、びょうびょうと鳴る風の音が聞こえた。それに混じって、盛んに高い声で鳴いている鳥の声も聞こえる。どうやら夜が明けたらしい。茂湶康一郎は体のあちこちに鈍いかすかな痛みが走っていることに気づいて、いったん開きかけた目をまた閉じた。
そうだ、自分は昨日新宿の街の中でそのまま眠ってしまったんだ。雪も降っていたのに、よく平気で一晩眠っていられたなと我ながら感心する。少なくとも、風邪はひいてしまっただろう。太陽の光が全身に当たっていても、こんなに寒さが……。
……寒くない! 茂湶康一郎は驚いて飛び起きた。寒いどころか、体中汗をかいてしまうほど彼の体は温まっている。体のふしぶしに痛みを感じながら、彼はきょろきょろと周りを見回した。
「あ、あれ?」
彼は見知らぬ場所にいた【注13】。
色気のない石造りの壁に囲まれた、小さな部屋の中である。誰かがここまで自分を運んでくれたのだろうか? そのおかげで、風邪をひかなかったのはありがたいが、この暖房の入れ方は少し異常だ。なんだか得体のしれない納得できないものを感じながら、茂湶康一郎はさらに部屋の中を見回した。
小さな部屋の中には棚や机などがいくつかあり、棚の中や机の上には怪しげな道具や分厚い書籍、それに「がらくた」にしか見えないものが所狭しと並べられていた。それらをいくら見つめてもいったい何に使うのか想像すらできない。暑さに耐えきれず、着ていたコートを脱ぎながら茂湶康一郎は立ち上がった。コートを自分が寝かされていた、籐を編んで作られたように見えるベッドの上にどさっと置き、ぼんやりとがらくた群を眺めた。
部屋の片隅の扉が唐突に開き、気配に気づいた茂湶康一郎がそちらの方向を向いた途端、彼の想像を絶するものが部屋の中に入ってきた。
「わあああああ!」
彼に思わず絶叫を余儀ないものにさせたそれは、曲がった背を伸ばしたとしたら、おそらく大人の人間ほどの身長に迫るであろう背丈を持つ、二本足で歩く、緑色の《
「おはよう」
「お……おはよう」
何がおはようだ、と思いながらも茂湶康一郎はなんとか挨拶を返した。激しく鼓動している心臓のあたりに片手を当てて、じりじりとベッドの方へ後ずさる。それを見た巨大な爬虫類は「しゃしゃしゃ」と声を出して笑った(様に、見えた)。
「それだけ元気ならもう心配はなかろう。ファン・ラートがお主を運んできたときには、どうなることかと内心冷や冷やしておったが、さすがに見た目よりも頑健にできているようじゃの、お主は。腹が減っているじゃろう?」
「え? あ、ああ、はい」
大蜥蜴は油断を許さない笑顔(?)を見せながら、手にしていた盆を丸テーブルの上に置いた。盆の上には芋だかパンだか分からないものが大盛りになっていた。それはきわめて怪しい印象を与えるものだったが、それを見た途端茂湶康一郎の腹が遠慮なしにぐうと鳴り、盆の上に乗っているものがまぎれもなく食物だという事を我知らず証明してみせた。
「食べ終わったら隣の部屋へ来なさい。ここにわしがいては落ちつかんようじゃからの」
そういうと、大蜥蜴はもといた部屋へ、ぺたぺた足音を立てながら戻っていった。それをベッドの上から見送った茂湶康一郎は、心臓の鼓動が落ち着くまでのけぞった姿勢のまま微動だにしなかった。それからゆっくりと、テーブルの上に載っている食べ物に注意を移した。もう一度よく近くで見てみたが、それはやはりパンのようだった。色も香りもどこかあかぬけていないが。
これを信用して食べてしまってよいものだろうか? いや、そもそも、ここはどこだ? 今の蜥蜴は何だ? 彼はまだ半分寝ぼけてはいたが、先ほどの大蜥蜴の姿は着ぐるみや模型などにはどうしても見えなかった。
結局、すぐに空腹よりも好奇心の方が勝った。好奇心、というより不安に近かったかもしれないが。ともかく、茂湶康一郎はテーブルの上のものに手をつけずに次の部屋へ続く扉に手をかけた。
扉を開くと、同じ様な、少し広い部屋が広がっていた。その部屋の中央にはやや小さめの長テーブルが配してあり、そこに先ほどの大蜥蜴と、どこかで見たような子供が向き合って座り、食事をとっていた。二人は茂湶康一郎に気づいて顔を向け、また互いに目を見合わせた。
「もう食べ終わったんですか? 英雄殿。勇者に大食漢が多いとは聞いていますが、貴方もその例にもれないようですね。食べたりないのならまだまだありますから遠慮せずに申し出て下さい」
子供に見えたのは、昨夜茂湶康一郎を捜し当てたあの小人のエルフだった。にっこりと笑うエルフを目にして、茂湶康一郎は口をぱっくり開いたまま閉じられなくなった。
夢じゃなかったのか……。
茂湶康一郎は昨夜の出来事をおぼろげながら覚えていることに気付いた。新宿の居酒屋、ビール、ガールフレンドとの喧嘩、雪、そしてエルフ。
「え、じゃ、あの、ここは……」
しどろもどろの彼を見て、今度はエルフと大蜥蜴の方が目を丸くした。大蜥蜴がエルフをじろりと睨むと、エルフはあわてて自分を弁護しようと口を開いた。
「ええと、勇者殿。昨日、我々は契約を交わして、ここへ参ったのですよね? 世界を救って下さると約束して下さいましたよね?」
「ええっと……ああ……うん」
エルフの困った顔を見て、茂湶康一郎は思わず頷いてしまった。安心して、再びにっこりと笑うエルフと、ますますうろんそうな目をする大蜥蜴の顔を見回してみる。おかしな気まずい沈黙の時間がしばらく続いたあと、ようやく大蜥蜴が口を開いた。
「正式な挨拶がまだ済んでおらんかったな、救世主殿。わしはトハモン、人は「蜥蜴面の魔道師【注15】トハモン」と呼ぶ。お主の今までの活躍ぶりはわしもいささか聞き及んでおるが、察するに、どうやらファン・ラートはお主殿の身一つだけをあわてて運んでしまった様じゃ。さて、何か入用の物があればわしらの手の届く範囲内で何とか調達しようと思うが、いかがかな?」
「は?」
「おお、そうです! 私もなるたけ努力いたしますので、何でもお申し付け下さい! それに、今までの活躍ぶりですって? すばらしい! 是非とも英雄殿の武勇伝をお聞かせ願いたいものです! さあ、遠慮なくお申し付け下さい!」
茂湶康一郎はうろたえた。彼らは何を言っているんだ?
「ちょ、ちょっ、ちょっと待ってくれ!」
茂湶康一郎がうろたえると、大蜥蜴もエルフも再び目を丸くした。茂湶康一郎が察するに、どうやらどちらの人物も〈真実〉を理解してはいるが、何とかしてそれを無視しようとつとめ、賢明に自分をごまかそうとしているようにも見える。これといって特筆すべき能力も叡知も持ち合わせていないごく普通の大学生である茂湶康一郎だが、場の白けた空気を機敏に感じとることだけには長けていた。どうやら彼らは、そして自分も、何かとんでもない思い違いをしているようだ。
「あの……説明してもらえるかな? えーと、俺が何をすればいいか、とかさ」
「……ファン・ラート。お主、英雄殿にまだ何も話してはおらなんだのか」
「は、はははい。申し訳ございません」
エルフのナルタリスは蜥蜴面の魔術師トハモンに睨まれ、本当に畏れ入っているようだった。確かに、巨大な蜥蜴の目に厳しく睨まれたら自分でも震え上がってしまうだろうな、と茂湶康一郎が考えたとき、トハモンは茂湶康一郎の方に向き直った。
「これはまた、わしの弟子が大変に失礼をしてしまったようじゃ。ここに謝罪させていただこう、英雄殿。では、一から説明させていただくことにいたそう。それでご容赦下され、ヴォ・イドゥミコ・ウィティラウ殿【注16】」
「はい?」
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