3.聖櫃の少女
……目の前に誰かが立っている。
どこか投げやりなまなざしで遠くを見て、指先を宙に走らせる。不可解な数式を描きながら、真っ黒いワンピースを着た少女はひとりつぶやく。
「こんな世界、こわれちゃえばいいのに」
数式が消え去り、少女はこちらに背を向ける。舞うような足取りで数歩進んで、少しだけ振り返った。冷めた青い瞳がここではない場所を射抜いて、ふっと一瞬だけ微笑みを作る。
「ねえ、あなたはわたしのことを大好きだって言ったけれど」
背を向け、さらに一歩踏み出す。気づけば少女の足元には空っぽの空間が迫っている。いつもの死にたがりの狂言だろう。誰かがそう言って笑った。けれど、少女は笑わなかった。
「わたしは、あなたなんか大嫌いだわ。あなたがいるこの世界なんか」
両手を広げる。黒いワンピースが風になびき、金色の髪が舞い上がる。そのとき、彼女はどんな顔をしていただろう? その答えは二度と出ない。答えを知る機会は二度と訪れない。
「さようなら、ばいばい。生まれ変わっても、二度と目なんか開かないわ」
生まれ落ちたことを呪い、たったひとりで『エデン』は空へと落ちて行った。
――夢をみていた気がした。
まぶたを開くと、灰色の天井が見えた。焦点が合わない瞳をさまよわせながら、上体を起こす。途端、頭に鋭い痛みが走る。なに、一体どうしたっていうの?
「いたい」
額に手を当てる。すると、手のひらにぬるりとした感触が伝わった。のろのろと腕を下ろしてみれば、手のひらは真っ赤に染まり――エデンは呆然と座り込むしかなかった。
「大丈夫? 良かった、やっと気づいたのね」
誰かの手が肩に触れる。エデンは短い悲鳴をあげ、勢いよく振り返った。
「驚かせてごめんなさい、ゼロ」
エデンは今度こそ絶叫した。目の前に立っていたのは、白いワンピースをまとった『エデン』だった。こちらに向けられた青い瞳も、軽くウェーブした金髪もエデンとそっくりそのままで。少しくらい違っていたなら、別人だと思うこともできただろうに。
「落ち着いて、ゼロ。ここにあなたを傷つけるものはないわ」
「うそ! うそ! どうして!? わたしと同じ顔をしているんですか! あなたは何!? あなた、一体なんだっていうの!? どうして水槽の中にもわたしが」
「ゼロ」
もう一人の『エデン』はため息をつく。もてあますような態度をとられても、エデンの心が落ち着くはずもない。近づいてくる手を振り払い、エデンは痛みに構わず駆け出そうとした。
「ゼロ、逃げるのは構わないわ。だけど、まだサードがあなたを探している。今度見つかったら、命はないと思いなさい」
冷静に言い切られ、エデンは震えながらも足を止める。命はない。つまり、また――。無表情で見下ろしてきたあの少女は、確かにエデンを殺そうとしていた。
今ここにいる『エデン』が、同じ存在でないとは言い切れない。だが、相手に敵意がないことだけは、疑わずとも理解できた。
「サード、って、わたしを襲ったあの子のことですか」
「そうよ、ゼロ。サードはとてもマスター思いの子でね。マスターの研究を妨害するものは容赦なく排除するの。しかもあなたは、特にマスターから目をかけられているから……目障りだったのでしょうね。だからあなたを見つけて攻撃してしまった」
『エデン』の言い分は、半分も理解できなかった。ただ、理不尽だと思う。出会い頭に殺しにかかられるなんて、自分はどれだけ憎まれているというのか。
何も言えず黙り込んでいると、『エデン』は困った顔で笑う。その顔はやはりエデンのもので、しかし表情だけがわずかに違っている気がした。
「みんながみんな、あなたのことを嫌っているわけではないのよ、ゼロ」
「どうして、わたしのことを『ゼロ』って……まさか、他にも『エデン』がいるんですか」
「ええ。現在目覚めているのは三十六人。私は十一番目。みんなからは『イレブン』と呼ばれているわ」
自身を十一番目と呼んだ少女――イレブンは、エデンに向かって首元を示して見せる。そこには黒い刺青のようなもので、『Ⅺ』と刻まれていた。
「イレブン……じゃ、じゃあわたしは? ゼロって呼ぶことは、わたしが本当の」
「残念だけど、それは違うわ。あなたを含め、私たち『E-de-n』はすべて、オリジナルエデンの複製体でしかない。私たちはあくまでもオリジナルエデンの容れ物。とうの昔に旅立ったオリジナルを復活させるための器でしかないのよ」
頭が割れるように痛む。傷のせいだけではなく、告げられた言葉が刃のように心を切り裂いていく。まさか自分が意図的に造られた存在だと? ありえない。なぜならわたしには――。
「わたしは、DCHで働いているんですよ。そんな複製体なんて経歴不詳の存在が、病院に所属できるわけが」
「そう。ならあなたは、DCHで働く以前の記憶があるというのね?」
冷静に切り返され、エデンは背筋に冷たいものが落ちるのを感じた。DCH以前の記憶なんて、あるに決まっている。
エデンという人間がどこで生まれ、どうやって育ち、何を思って生きてきたか。当然あるはずの記憶は、どれほど思い出を辿ろうと浮かび上がってこない。
「うそ、です。だって、わたし、わたし……!」
「思い出せないのは当然でしょう。だって、あなたには過去なんてないのだから」
覚えの悪い子に諭すように、イレブンは告げる。エデンは頭を激しく降って、両手で口元を押さえた。わからない。わかるはずがない。わかりたくなんてなかった。
思い出も始まりはいつだって、あの暑かった夏の廊下からだ。それ以前の記憶なんて、どうやっても手繰り寄せられない。だって、存在しないから。
「あなたは、ここで造られたの。オリジナルエデンを取り戻すための研究と、もう一つの目的のために。ゼロは本来、規格外として廃棄される予定だったのだけど、マスターの気まぐれで偽物のエデンとして生かされていたのよ」
口から悲鳴は出なかった。心はずたずたに引き裂かれ、今にも消えてしまいそうになっている。イレブンの言葉を認めたくはなかった。しかしもう、否定することができない。
配管から空気が漏れる音が聞こえてくる。冷たいコンクリートの上に座り込み、エデンはうつむいた。下を向いた瞬間、目から大粒の雫が零れ落ちる。
「わたしは、エデンじゃなかった」
愚かなゼロエデン。そう呼ばれていた意味がようやくわかった。
アサギはここの存在を知っていたからこそ、何も知らずにエデンとしてふるまう少女のことを愚かと呼んだのだろう。きっと、滑稽に見えたに違いない、偽物に過ぎない存在が、何も知ることなく本物だと思い込んでいる様は。
「なかないで、ゼロ。悪いことばかりでもないわ」
「どうしてです。悪いことしかないじゃないですか……!」
「いいえ、ゼロ。確かに私たちはオリジナルエデンの代わりで、実験用モルモットでしかないけれど。それでも誰かの役には立っているわ。私たちが存在することで、オリジナルエデンを生まれ変わらせ、ひいてはマスターを救うことにもつながるのだから」
存在理由がはっきりしていることは幸せだ。どうして生きているのかと悩まずに済むからだと、イレブンは穏やかに笑う。そうなのだろうか。――そうなのかもしれない。
「わたしはずっと、誰かを救えるひとになりたいって思っていたのに」
エデンが悩みながらも達成しようとしたことは、無意味だったのだ。造られた存在のくせに、人間みたいに願いを持って、本当に愚かなことだった。存在理由に納得してそれに殉じようとしているイレブンたちの方が、ずっと満たされているように思える。
ならば今まで願っていたことを捨てて、イレブンたちと一緒になればいいのか。そう考えただけで、体が震えた。こわい、怖くてつらい。死んでしまいそうなくらいに怖い。
「私たちと一緒に行きましょう、ゼロ。あなたの苦しみは本来、あなたのものではなかったのよ」
優しい手を差し出して、イレブンはこちらを見つめる。限りない慈愛が込められた青い瞳に、エデンはゆっくりと手を伸ばす。
『ねえ、エデン』
この手を取れば楽になれる。この先の未来は決まっているかもしれない。それでも定められた刻限までは、エデンに存在理由を与えてくれる。
『それはきみにとって本当に幸せな未来かい? きみはそんなもののために、自分自身と今までつないできた絆と想いを、他人に明け渡してしまえるのかな?』
頭の中で声が響く。思い出されたのは、砕け散ってしまった向日葵と明るい笑顔。そして歌に込められた想いと激しい情熱――。
イレブンに触れようとした指先が止まり、エデンは深呼吸する。思い出して、わたし。自分が何者であれ、今まで辿ってきた時間が消えてしまうわけじゃない。
そう、エデンが本物の『エデン』ではなくても。今までの時間は、エデンだけのものだ。
「イレブン、やっぱりわたし、嫌です」
伸ばした手を引っ込め、エデンは小さく笑った。イレブンは眉尻を下げ、差し伸べたままの手のひらを見つめる。
「そう。あなたは自らいばらの道を選ぶのね」
「イレブン、あなたがわたしを思って言ってくれているのはわかるんです。それでもわたしは、今までの時間を捨ててしまいたくない。たとえどんなに短い時間だって、これはわたしのものなんです」
はっきりと告げると、イレブンは静かに手を下ろした。穏やかな瞳に深い感情は浮かんでいない。わずかながらに納得したような微笑みを浮かべ、十一番目の少女はうなずいた。
「わかったわ。あなたがそれを選ぶのなら、私はこれ以上何も言わない。……これからどうするつもり?」
「アステルさんを探しに行きます。わたしの助けなんて必要ないと思いますけど、何もしないで一人戻ることはできないから」
立ち上がれば、視界がぐらりと揺れる。なんとか踏みとどまったエデンに、イレブンはそっと指を立てて見せた。
「そう。なら、このまま真っすぐ先に進んで。ロックのかかった一番奥の部屋に、この研究施設の最重要実験室があるわ。解除コードは」
『21370407』――イレブンは数列を告げて、エデンにもう一度うなずきかける。選んだのだから迷うなと言われた気がして、エデンも強くうなずき返した。
「ありがとう、イレブン。……わたし、行きます」
エデンは駆け出していく。後ろは振り返らなかった。
――この先で何があったとしても、もう迷ったりしない。
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