第三部「黒い夜のジュデッカ」

1.望まぬ再会の夜

 夜。

 ぼうっとひとり、エデンは中庭で風に吹かれていた。


 季節はまた巡り、寒々とした空気が周囲を満たすようになってきていた。DCHも例外はなく、エデンが手入れをしている中庭にも冬の気配が迫ってきている。


 枯れていく草木を眺めながら、エデンは両手で包んだカップに口をつけた。中身の液体は温かいココアで、軽く息を吐きかけると湯気が漂う。


 ミレニアとの別れからほどなくして、エデンは休職を申し渡されていた。日に日にやつれていくエデンを心配したレオンの配慮だったが、何もしない毎日は辛く退屈だった。


 その代わりにエデンは毎日、中庭の手入れをするようになる。季節の花を眺め、水をやって、木々を整えてみたり。毎日がゆっくりと流れていく中で、エデンの心も安定を取り戻しつつあった。


 いずれ、また病院勤務に戻れるかな。ぼんやりと思い、ココアを口に含む。甘くて優しい風味に、視線と笑顔がこぼれた。だいじょうぶ、わたし、まだ笑えてるよ。


「さて、と。そろそろ寝ないとだめですよね」


 吹き抜ける風の冷たさに身震いして、エデンは腰を下ろしていた木の根元から立ち上がる。中庭でもひときわ立派なその木は『桜』というのだと、レオンが教えてくれた。


 カップを持ち直し、エデンは穏やかな足取りで桜の木を後にする。目の前には枯れたつたが絡むシンプルなアーチ。ゆったりとそれをくぐって、部屋への道を辿ろうとした時だった。


「――え?」

 耳に届いたのは小さな音だった。かちり、静けさに包まれた夜の中庭には似つかわしくない、ひどく心をざわつかせる金属音。エデンは背後を振り返る。


「だれか、いるんですか?」


 呼びかけても返事はない。そのことが不安感を増大させる。カップを持つ手が震えはじめた。嫌な予感がする。ここにいてはいけない。逃げ出そうと踵をかえした瞬間――。

「――ひっ」

 振り返った途端、誰かの姿が目に入った。エデンは悲鳴をあげようとしたが、口元を押さえられ、羽交い絞めにされる。カップが地面に落ち、茶色い液体とともに砕け飛び散った。やだ、やだなに? こわい、こわい。たすけて。


「――こんなところでまた会うとは、嫌な縁ってものはあるんだな」


 聞いたことのある声だった。エデンは必死に首を動かそうとする。もがいても相手の力は強く、腕さえも自由にならない。


 だれ、だれなの? 混乱しながらも、塞がれた口で悲鳴をあげる。くぐもった声がわずかに漏れ出し、相手はうんざりしたように耳元で囁いた。


「わかったよ、放してやる。だけどいきなり騒ぐなよ」


 身体の拘束がゆるむ。こんな人の言う通りにする理由なんてあるわけもない。エデンはばね仕掛けのように飛び退いて、声を張り上げようとした。


「誰か、たすけ――」

「騒ぐなって言っただろ」


 真正面から口を押えられ、エデンは悔し紛れに相手の顔を見た。目の前に立っていたのは、灰色の髪にグレーの瞳をした、見覚えのある顔で。


「ん、んんう!」

「久しぶりだな、エデン。あいつが死んだとき以来か」


 皮肉気に口元をゆがめた男――アステルは、ゆっくりとエデンの口から手を外す。


「ど、どうして。あ、アステルさん? なんで、どうして?」

「説明が必要なのかよ。まあ、別にお前を殺しに来たとかじゃないから安心しろ」

「じゃ、じゃあどうして? 病院の許可はとってあるんですよね?」


 できればさっさと退散したかった。そうでなくとも、アステルからは不穏な気配が漂ってきている。エデンが後退ろうとすると、アステルは暗い色のコートの懐へと手を伸ばす。


「まあそう怯えるな。一時は一緒に過ごした仲だろ?」

「怯えてるわけじゃ……わ、わたし、そろそろ休む時間なので、失礼します」

「待てよ」


 エデンは言葉を無視して走り去ろうとした。けれどできなかった。腕を掴まれつんのめり、その上――ぴたり、と額に冷たいものが突き付けられた。


「う、あ」

「待て、って言ってんだよ。逃げんじゃねえ。血の巡りの悪い女だな」


 エデンは叫ぶこともできず、震えるしかない。額にあたる温度は冷たい鉄のもので、それは確か『銃』というものだった。実物は初めて見たが、本物であるならエデンの頭など簡単に吹っ飛ばしてしまうだろう。


「ど、どうしてです? わたしがなにか、したって」

「お前バカなの? 殺しに来たわけじゃないって言ったのが聞こえなかったか。おれの目的はお前じゃないんだよ。ま、邪魔するってなら、考えを改めなければならないけどな」


 アステルは嘲笑めいたものを浮かべる。本気なのか、と聞きたかった。夜の病院に突然現れた挙句、邪魔をすればどうにかしてしまうと脅す。正気なのか、疑いたくなる。


 アステルの目は、エデンを捉えたまま動かない。余計なことをすれば、額に押し付けられた銃口が火を噴くのだろう。そうと理解できるほどに、その視線は冷めている。


「じゃあ、質問を変えます。わたしに、どうして欲しいんですか? このまま睨みあっているうちに、他の誰かが異変に気付くかもしれない」


 我ながら見え透いたハッタリだと思った。アステルにもその程度はお見通しだろう。ふっと薄く笑うと、静かに引き金へと指をかける。


「そうか。なら、ちんたら時間をかけていられないな?」

「っ、わたしを殺す気ですか」

「ああ、どうしようかな? ここでバカな娘の死体が一つ見つかったら、それはそれで面白いことになりそうだ。……なんだ? 不満そうだな?」


 愉しげに笑うアステルは、ひいき目に見ても悪質だった。エデンは震えを隠すことができず、唇を強くかみしめた。こわい。本当に怖くて、くやしい。こんなところで人生が終わってしまうのが、信じられなくてこわい。


「殺すなら、早くすればいいじゃないですか……! こ、こんなことして、ミレニアさんに対して恥ずかしくないんですか!? 恥を知りなさい!」

「うるさい!」


 低い声が静かな中庭に響いて消えていく。アステルの声は、悲痛なほどに割れていた。銃口が額からそれ、力なく下に降りる。


「ミレニアの名を出すな。やめろ。やめてくれ」


 弱々しい様子に、エデンは何か大切なものを掴んだ気がした。冷たい風が髪を揺らすのに構わず、真っすぐにアステルを見つめる。


「……なにか、理由があるんですね。アステルさんが理由もなくこんなことをするとは思えません」


 アステルは答えなかった。顔を伏せたまま、エデンに背を向ける。のろのろと歩む背中はミレニアの最期の時よりも小さく見えて、気づけばエデンはその後を追っていた。


「アステルさん」

「……悪かった。怖がらせるつもりはなかった。ただ、見知った顔に出会って動揺しただけなんだ。すまない」


 エデンに小さく謝罪すると、アステルは桜の木の前に立った。春になると美しい花を咲かせるというその木は、冬の中で寒々しい姿をさらしている。


 こんなところで何をする気なのだろう。疑問とともにアステルを見る。すると男は、桜の幹に手を伸ばす。


「ここに、何かあるんですか」


 頷きが返る。アステルは無言で幹に指を這わせ、ある一点で手を止める。少しばかりの静寂が続き、かちり、と小さな音が響いた。


「なに? 何をしたんですか?」


 変化は唐突だった。足元が揺れたかと思えば、何か重いものを引きずるような音が響く。エデンが視線を巡らせると、すぐそばの地面の一部がスライドしていくところだった。


「え、な、なんですか。これ」

「……DCHに併設された医科学研究所の非常脱出口だ。ここから研究所内に入る」

「ど、どうして? この道が医科学研究所の脱出口だとして、そこに何の用があるんですか?」


 エデンの問いに、アステルはゆっくりと振り返った。そのグレーの瞳には切実な思いと狂気に近い願いが同居しているように見えて、エデンは言葉を失う。


「用ならあるさ」


 死に急ぐ者のようにアステルは胸に手を当てる。胸元に輝くのは銀のリングペンダント。強くそれを握りしめて、アステルは決然と前を向いた。


「この先に、ミレニアを病気にした原因がある。おれは、あいつの仇を取りに行く」


 強い瞳は、触れれば壊れてしまいそうなほどに脆い光を放っている。


 大切な人の死が、誰かの運命を狂わせていく。その現実を見せつけられ、エデンはぎゅっと両目をつぶった。

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