第4話「変化、向上、幸福」
月曜日。目覚まし時計よりも先に目が覚め、身体を起こす。意識は起きてすぐなのにはっきりしていて、身体も普段よりだいぶ軽く感じる。首輪はSubの安定を促すとは聞いたことがあるが、ここまでとは。その効果への驚きとともに、瑠璃への感謝が込み上げてくる。肝心の本人はと言うと、ぐっすりと眠っているままだった。今日くらいはゆっくり寝かせてあげてもいいかと、目覚まし時計を鳴る前に止めておく。
とはいえ、私が一人で朝を過ごす場合、途端にそれは質素なものとなる。私は料理が得意ではないのだ。食パンをトースターに入れ、コンロに火を入れてフライパンに油を敷く。コーヒーメーカーの電源を入れて、温まってきたフライパンには卵を二つ。コーヒーにエッグトースト。まあ、こんなものだろう。瑠璃が用意する場合、目玉焼きはポーチドエッグになるし、さらに一品何か出てくる。今度の休日、料理でも教えてもらおうか。Subなのに何もできないと言うのは、あまり気持ちの良いものではなかった。と、自分の感情まで揺れ動いていることに気づく。首輪効果、流石に強すぎでは? 嫌いだったはずの感情が、薄まっていた。クズなのに。クズなのに!
朝食を食べ終え、身だしなみを整える。洗顔に化粧に着替え。社会人とは面倒くさいものだ。けど、働くことは嫌いじゃなかった。多分、私にできる瑠璃への奉仕とは、養うことくらいだろうし。
最後のチェックに鏡の前に立つと、昨日付けられた首輪が映る。細くて、文字通りの首輪のようなゴツゴツ感はない、おしゃれなチョーカー。社会での活動を意識してか、ダークな色合いで悪目立ちしない。よくみたら、正面から吊り下がるように付けられた宝石なのかガラス細工なのか、とにかくそれは瑠璃色に輝いている。まったく、変なところで凝ってるんだから。
ちょっとだけ照れ臭くなってしまい、鏡を見るのをやめる。少し早いが、そろそろ家を出ようかと玄関に向かうと寝室の方でガタガタと激しい物音がする。瑠璃が起きたらしい。もう少しゆっくり寝ててもいいのに。振り向いてみると、ひどく慌てた様子で飛び起きた瑠璃が立っていた。
「詩織、あんたなんのつもり」
まだ頭が回っていないのか、こちらをじっと見据えて訳のわからない問いをぶつけてくる。よほど寝ぼけてるのだろう、瑠璃はきちんと起きれるが、そこから頭が冴えるまでが遅い。
「えっと、仕事行くんだけど」
戸惑いながらも返すと、瑠璃は私の目の前まで歩み寄り、顎を持ち上げる。
「黙って出てくと焦るだろ、バカペット」
怒りで引き攣った笑みで、瑠璃は私を責め立てる。どうやら私の気遣いは失敗だったらしい。ごめんと一言謝ると、瑠璃はそれでも顎から手を離さずに私を見つめる。訳もわからず首を傾げていると、瑠璃は何を思ったのか不意に唇を奪ってきた。
「帰ってきたら、舌も入れてあげるし、下にも入れてあげる」
満足したのか、瑠璃はそう言うと私の頭をわしゃわしゃと撫でくりまわしてから、行ってらっしゃいと手を振る。
「セクハラだし別にそこまで求めてないから。じゃあ、行っています」
やっぱり瑠璃は瑠璃だ。下世話で変態で自由で私のことを考えない。クズに違いない。
私は職場前まで来て、少しその足を止めていた。というのも、この首輪を本当に見せていいものだろうかという葛藤であった。いや、世間的な問題はない。Subにつけるための首輪も売られているし、事情を説明すれば雇用主側も受け入れる義務が生じる。故に、私がこれを外す必要はないし、むしろ、社会に対してのアピールというか、一つの意思表示の一面があるのだから、外さない方がいいまである。結局、私がただ恥ずかしいだけだ。これをみて何と言われるだろうか。
いや、悩んでいても仕方ない。そもそも、瑠璃につけてもらったものだ、私に外そうという意思は最初から介在する余地すらないのだ。それこそ時間の無駄である。そう決意を固めて、オフィスに入る。
「あ、詩織先輩、おはようございます。綺麗なチョーカーですね、似合ってます」
出勤早々、よく懐いた後輩の子、綾瀬さんが私の首輪に気づく。褒められると、ちょっと嬉しい。ふたりの世界の外から見ても、似合ってるのだと、自信が持てる。
「おはよう綾瀬さん。ありがとう、嬉しいよ」
「お、柊、やっとカラー貰えたんだな。似合ってるよ」
綾瀬さんに構っていると、同期の城戸くんが出勤してきた。私のSub事情を詳しく知る数少ない友人だ。首輪の件でも、結構愚痴っていたので、城戸くんも心配していたらしい。
「城戸先輩、今のセクハラですよ。それに、詩織先輩みたいな有能な先輩、Domに決まってますから」
綾瀬さんはムッとして、私の手を取って城戸くんに抗議する。懐いてくれるのはいいけど、無邪気というか、純粋ゆえの言葉に少し胸が痛い。それに、城戸くんには少し申し訳なくなる。
「綾瀬さん、大丈夫。私Subだし、これもカラーなの。黙っててごめんね」
私は苦笑いしつつ、綾瀬さんに事実をきちんと話す。騙すつもりはなかったが、結果として騙す形になってしまっていたし、やっぱり申し訳なさがある。私のカムアウトにどんな反応するかとみてみると、やはり綾瀬さんはひどく驚いた表情で、開いた口が塞がらなくなっている。
「まあ、確かになんの配慮もなく話したのは俺の落ち度だがな、悪い柊」
城戸くんは頭をかきながら笑って謝る。私も特に気にしていないので、いいよと返した。
「そんな、あわよくば先輩とパートナーになって、仕事以外にもあんなことやこんなことも手解きを受けれたらなって思ってたのに」
「綾瀬さん、今のあなたの方がセクハラまがいのこと言ってると思うんだけど」
私、そんなにDomみたいだろうか。いや、確かにパートナーのいるSubはそれこそペットと言ったら聞こえが悪いが、主婦生活の方が多いし、それこそ家の中で守られるという認識が強い。多分、SubがDomを養っている関係は、少ないだろう。でも、それを抜きにしたって、優秀なSubもいるだろうし。
「まあ、柊は育成が上手いからな。手慣れたDomって気がしないでもない」
城戸は笑って答える。確かに、最近は新人の育成を何人か任されているし、綾瀬さんもそのうちの一人だ。あまり自覚はなかったが、案外そういう技能はあるのかもしれない。そこに楽しさや本能的な充足感があるかといえば、いまいち頷けないが。あ、綾瀬さんは好きだ。ちゃんということを聞いてくれるし、いい子だし。
「でも、Subとして話は聞けるから、何かあったら頼って」
私は残念そうにしている綾瀬さんに、代わりと言ってはなんだが、提案をして慰める。少しでも機嫌を直してくれるかと思ってのものだったが、効果は思いのほか大きく、あっさりと元の調子を取り戻してくれた。
「本当ですか! 詩織さんの教えを受けられるんだ〜えへへ」
ちょっと、なつきすぎている気はするが。
「柊さん、ちょっといいかな」
そろそろ自分の席で仕事をしようかと思った矢先、私たちの所属するチームのリーダーに呼び出される。なにやら重要な話みたいだが、なんだろう。やはり、Subで働くのは難しいという話だろうか。
「急に呼び出してごめんね。とりあえず、席に座って」
応接室に呼び出され、向かい合うように座る。独特の緊張感に、息が詰まるような心地だ。
「それで、話なんだけど」
チームリーダーは話し始める。
「君に、新規チームのリーダーを任せてみようと思ってるんだ」
その内容は予想外も予想外、まさかの提案だった。
「えっと、どうして私が?」
正直、聞いてもなお信じられないし、ドッキリでも仕掛けられている気分だ。しかし、チームリーダーにとっては、おかしな提案ではないようで、笑って茶化すこともなく真剣な眼差しをしている。
「もともと他の人よりも仕事が早いし、新人の育成も筋がいいので、きっとできるんじゃないかと。それに、パートナーとの関係も良好みたいだから、安定した働きも期待してる」
実際、確かに他と比べて振られる仕事が多いような気はしていた。それこそ、残業して片付ける程度には多かったが。そもそも残業している時点であまり好ましくないような気もするけど。
「ちょっと、考える時間をいただいてもいいですか。その、パートナーとの折り合いですとか、自分の身体との相談もしたいので」
「ああ、構わないよ。労働環境については、今よりよくなると思っていい。リーダーの仕事は、どちらかというとチームに仕事を回すことだしね」
困ったことになった。いったい、どうすればいいだろう。
「ただいま〜」
「お、柊、説教か?」
席に戻ると、城戸くんは茶化してくる。説教の方がまだ気が楽なのだが、ううん。
「もっと重要な話」
項垂れるように話すと、城戸くんはじゃあさ、と提案する。
「今日は飲みに行かないか。酒の席なら色々捗るだろ」
城戸くんの提案に、少しの喜びと少しの不安が生まれる。城戸くんと飲むのはいつぶりだろうか。瑠璃と出会って以来だから、半年近くは飲んでいないような気もする。だから是非行きたいのだが、まあ、半年近く飲んでいない理由こそが、今回の不安であるわけで。
「ごめん、パートナーと連絡して決めていい?」
城戸くんは快くいいよと言ってくれる。城戸くんは優しくて、気が利くいい人だ。彼と結ばれるSubはさぞ、幸せだろう。
『今日、同期の男の人と飲んで帰ってもいい?』
瑠璃のことだから変な条件をつけるんだろうなと思いながら送ると、数秒で返信が来た。
『いいけどアルコール禁止、終電までに帰ってきて。明日は残業なしね』
案の定、厳しい親のような返信が来たが、許してくれるのでありがたく行かせていただこう。
「とりま、久しぶりの同期飲みと、柊のカラーに乾杯!」
城戸くんは勢いよくジョッキを掲げるが、それに付随するものはいなかった。私はそういうキャラじゃないし、そもそも同期はこの二人だけだからである。
「乾杯」
代わりに小さくグラスをあげて、乾杯とする。といっても、私は烏龍茶なのだが。
「柊のパートナーってオカンか何かなの?」
城戸くんは出てきた料理をつまみながら話し始める。オカンではないし、どちらかというとテンプレみたいなDV夫のイメージがあるが、なんと答えるべきか。
「まあ、自分のSubを徹底的に管理したいだけだよ」
ちょっと毒づくように答える。まあ、人をペットとしかみていないクズだとかいうよりはマシだろう。私なりに頑張った言葉選びである。
「いいじゃん、だから柊のパフォーマンスは落ちないんだな〜」
城戸くんはうまいこと都合のいいように答えを解釈してくれた。もともとポジティブシンキングというか、前向きな思考力があるが、こういうところは本当に共感が持てる。
「あ、そうだ、今日チームリーダーに何言われてたんだ」
早速本題である。しかし、本当にどうしたものか。私がチームリーダーなんて、想像がつかない。そのことを正直に城戸くんに伝えると、いいことじゃないかと我が事のように嬉しそうに話す。
「その話通りなら、仕事の量が落ち着いて、新しい経験値も得られるんだろ。やっとけやっとけ」
そういうものだろうか。それで失敗したらと思うと、簡単に手を上げられないのだが。
「むしろ、そういう話なら城戸くんの方が適任じゃないの。Domで人を動かすのにも向いてるんだし」
文句だとか、当てつけだとか、そういうつもりもない、私の本心だった。使う人間と使われる人間、その違いは、ちゃんと見極めて適任を選ぶべきだと思う。
「あー、聞いてなかったのか。俺は柊の補助だよ」
まったく聞いていない話である。というか、それこそ逆だろうに。もしかしてチームリーダーどっちがDomなのか忘れているんじゃないか。
「Subは出世しにくいって通説を覆してやりたいんだと。お前には力があるんだから、俺はやってみて欲しいし、全力でサポートするよ」
その話に、むしろ安心した。私の実力の過大評価ではなく、もう一つ、思惑があったようだ。本当、根っからのSub思考だなと、我ながら笑ってしまう。そういうことなら、少しは使われてやろうか。
「わかった。とりあえず私は前向きに考えとく。実現した暁には、ちゃんと補助してよ?」
それで誰かが救われるなら、なんて言い方したらちょっと大袈裟すぎるけど、まあ、同じような人間が今後生きやすくなるなら、少しくらい頑張ってもいいと思う。
「わかったよ。互いに浮気にならない程度にな」
城戸くんの冗談は、流石に笑えなかったけど。
「あんた本当に見境ないね。私だけのあんたになるんじゃなかったの」
帰って一連の流れを話したら、瑠璃はキレた。というより、呆れてしまった。そりゃそうだ、あんなに泣いて反省した次の日にはこれなのだから。
「まあ、私のメッセを守れただけ許すし、流石に人柄は変わらないよね」
瑠璃はお酒飲まなくて偉いぞー、なんて言いながら私の頭を撫でる。
「いいよ、やってみたら。でも、私との契約は絶対破らせないから」
瑠璃は結局諦めたようにそう返す。それが意外で、本気か確認しようと振り向いたところで、唇を奪われる。今朝と違って、口を無理やりこじ開けて舌まで押し込まれると、歯の一本一本や舌、口蓋と隅から隅まで舐り尽くされる。
「えっと、ありがとう?」
急な口付けに困惑しながらも、ひとまず感謝の言葉を伝える。その反応がおかしかったのか、瑠璃は笑って私をじっと見つめる。
「それは、許してくれたことなのか、口の中を目一杯犯してもらえたことなのかな?」
挑発する瑠璃を押しのけて、急いで風呂の支度をする。
「ほんと、変態、バカ、鬼畜!」
脱衣所まで逃げ込むと、そのまま腰が抜けてしまった。瑠璃の舌使いが良すぎるせいだ。軽率に熱を持つ自分の身体に呆れながらも、私は自分の幸福を知る。きっと、城戸くんの補助なんかより、瑠璃の慰めの方が必要なんだろうなと、身体を抱きながら思うのだ。
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