第2話「本当のお仕置き」

「さて、昨日しっかりケアしたし、今日こそちゃんとお仕置きしよっか」

 日曜日、朝食を終え食器を洗っていると、後ろから瑠璃が抱きついてくる。何を言い出したかと思えば、本気で前のお仕置きのやり直しをしたいらしい。なんという執念だろうか。

「明日、仕事あるんだけど」

 やんわりと断ろうと話すが、瑠璃は「大丈夫だよ」と耳元で囁く。くすぐったくて背筋が伸びてしまうのを見て、瑠璃は面白がって笑った。

「疲れるようなことはしないから、ね?」

 瑠璃はまるでおねだりする子供のように私に絡んで頼み込む。

「疲れるも何も、一昨日ので十分でしょ。そこまでする必要ある?」

 確かに、あの時は不本意ながらスペースに入ってしまって、正直お仕置きどころではなかったのは認めよう。しかし、お仕置きとして行ったならもうそれでいいじゃないか。流石に瑠璃の制欲解消にそこまで付き合ってられないというか、自分の時間が欲しい。

「私との契約を無視して、会社の命令に従ったのに、そんな態度なんだ」

 瑠璃はまるで軽蔑するように囁く。私の逃げ場を奪うように、その言葉がねっとりと染み込んでくる。私は、反論もできずに黙り込むことしかできなかった。

「ごめん、私が間違ってたみたいだね」

 黙っていると、瑠璃は意外とあっけなく自らの主張を取り下げて塩らしい態度を示す。その様子が、むしろ怖いような、嫌な気配を感じる。

「詩織のDomは私じゃなくて、会社だもんね」

 やはり、嫌な気配は現実のものとなった。そんな、不貞腐れた子供みたいな言い方されても。

「そんな言い方やめてよ。私は瑠璃のもの、それはわかってるから」

 私はできるだけ瑠璃の機嫌を損ねないように、目を見てまっすぐ訴える。この気持ちに嘘はない。どれほど嫌いでも、私にとっての主人は瑠璃であり、そこに確かな恋情もある。どうしようもなく、私はもう瑠璃のものだ。

「そう、あんたは私のもの。だから、私の決定に従うの。それに、そのことを理解していても、ちゃんと従ってくれるかはわからないでしょ」

 瑠璃の言葉に、反論のしようがなかった。それこそ、私はきっと仕事が忙しければそれを優先するかもしれない。仕方がない、そう言って逃げることさえ、瑠璃は許せないのだ。

「何、するつもり」

 私は息を呑んで瑠璃に問う。覚悟は決まってないけど、でも、従うしかないことだけは、瑠璃を見ていれば嫌でもわかる。退路を断たれた私の問いに、瑠璃は笑顔で道具を見せる。その手に握られていたのは、手錠とパーカーだった。

「これ着て。今から散歩行こう」

 瑠璃の言っていることが、上手く理解で着ないままに、パーカーを着せられる。

「それで、手錠を使ってどうするの」

 私は瑠璃のお仕置きに、疑念を持ち始める。まさか、わかりやすく手錠をして歩くわけでもあるまい。いや、瑠璃なら言い出しかねないが、流石に私も本気で怒る。それに、このパーカーも特におかしいところのない普通のパーカーだ。なぜこれを着る必要があったのか。

「パーカーのポケットに片腕、通して」

 私は瑠璃の説明のままに、腕を通す。そして、彼女の考えに気づく頃には、もう片方の腕と、手錠で繋がれてしまった。

「さて、散歩に行くけど、その手錠がバレたらお仕置き追加ね」

 瑠璃はそう言うと鼻歌混じりに玄関まで行く。鍵は瑠璃の手に握られている。文字通り私は今、瑠璃に全てを握られているようなものだ。逆らえば、一体何をされるのだろう。お仕置きの追加って、なんなのだろう。私は未知の恐怖に震えながら、後を追って靴を履く。

「瑠璃、バレたら何するの」

 私はパーカーのポケットに必死に手錠を隠しながら、先を歩く瑠璃を追う。しかし、瑠璃は鼻歌ばかりで私の問いに答えようともしない。

「ねえ、瑠璃」

「詩織、いいって言うまで、お口チャックできるよね」

 瑠璃の言葉に、私はそれ以上の追及はできなかった。主人の命令だ、私は、従うことしか許されない。瑠璃の鼻歌と二人の足音だけが私の耳に流れ込んでくる。それ以上の音のない沈黙が、私を焦らせる。

「これから行くところだけどね、散歩の人気スポットなんだ」

 そのセリフに、私はより緊張を増すことになる。人気スポットなら、きっと、それだけ多くの人がいて、きっと、誰かが私の手錠に気づいて、そしたら、瑠璃は私にお仕置きをするんだ。

「とてもいい場所だから、ゆっくり歩こうね」

 そんな、できるわけない。ゆっくり歩くなんて、バレるリスクが上がってしまう。そんな、怖い、いやだ、助けて欲しい、そう、震えながら必死に目で訴える。しかし、非情にも瑠璃は私の少し前を歩いて止まる気配がない。本気だ、瑠璃は本気で、私を試している。本気なら成し遂げて見せてと、背中が物語っているように感じた。私は、ついていくしかなかった。

 川沿いの散歩道が見えてくると、徐々に人とすれ違うようになってきた。人の目が怖い、いやでも自分の意識はポケットの中に集中してしまうし、身体は緊張に小さく震えている。早く、早く終わって欲しい。それでも、私はその散歩道を知っている。本当に人気で、そして、長いのだ。

「詩織、こっち」

 瑠璃は足がすくむ私を気にせず進んでは手を振って呼んでいる。そうしている間にも、何人も私とすれ違っている。本当に、誰も気づいていないだろうか。チラチラと両脇を見ながら瑠璃の元へと急ぐ。普通なら、脇を流れる川の流れや、木陰の涼しさ、優しい匂いに包まれて、本当に心地よい散歩道なはずなのに、まるで視野狭窄に陥ったように何も感じられない。冷たい手錠の感触と、誰のものかもわからない視線の恐怖のみが、私の全てだった。

 大丈夫、誰にも見えてない。そう強く思い込みながら歩くが、どうしても抑えきれない震えが、私の歩みを邪魔する。

「あの、大丈夫ですか」

 あまりに私の挙動がおかしかったのだろう、一人の青年が心配そうに声をかけてくる。違う、私はそれを求めているのではない。嫌だ、気づかれてしまう。何か、言わないと。だめだ、私は今、瑠璃に静かにするように指示されている。どうしよう、どうすればいい?

 怖くなってしまい、震える足取りで後ずさりしてしまうと、後ろの人にぶつかり、私はバランスが取れなくなる。当然、手を出せない私は、そのまま地面に倒れ込んでしまった。

「あの、本当に大丈夫ですか、ほら、手貸しますよ」

 だめ、私に構わないで、やめて、見られたら、困るの。お願いだから、そっとしていて。そんな言葉も言えず、私はパーカーに隠した腕で、もどかしくも必死に立ち上がる。優しいはずのその男の声が、私を貶めようとする悪魔の囁きにしか聞こえなくなってくる。

 なんとか身体を起こした時、その男は、私の身体を支えようと、腕を掴んできた。そして、案の定手錠は、ポケットを這い出てその姿を晒した。

「なんですか、これ」

 終わった。見られた。私の秘密が、私たちの秘密が、私たちの、異常性が。まずい、瑠璃に見つかったら、お仕置きされる。嫌だ、何をする気なのかもわからない、怖い。どうしよう、瑠璃は気づいたのか。まだ、隠せば。頭の中が、焦りと恐怖とでないまぜになり、訳がわからなくなる。助けを求めるように瑠璃の方を見ると、わざとらしく口を開け、私のことをからかうように見つめていた。とうに手錠のことは、バレていた。

 瞬間、私は必死に逃げた。何もかもが恐ろしかった。空間が、助けようと手を伸ばした男が、瑠璃が、お仕置きが、とにかく怖くて、走りにくい両腕も気にせず、全力で走った。


 気付けば、自宅の玄関まで来ていた。呼吸は激しく乱れ、息は鉄臭い。胸は痛み、心臓は何度も何度も素早く脈打っている。もう、限界だった。扉を前に、私は崩れ落ちる。床のアスファルトが冷たく、少しだけ心地よい。

「詩織、凄いね。速すぎて追うので精一杯だったよ」

 それからしばらくして、瑠璃の影が私の身体に重なる。恐る恐る瑠璃の表情を伺うと、瑠璃は不自然なほど満面の笑みで、私に視線を合わせる。

「どうして逃げたのか、理由を聞こうかな」

 その言葉に、背筋が凍るほどの恐怖と、言葉を放つ権利を与えられる。恐怖から解放されていたはずの身体に、再び震えが帰ってきた。

「仕方、ないでしょ。バレて、視線が怖くて。SNSとかで、広まったら、死んだも、同然なのに」

 声が震えて、スムーズに言葉を発せられない。それでもなんとか紡ぎ出した私の言葉に、瑠璃はそっか、とどうでもよさそうに答えると、部屋の鍵を開ける。

「セーフワードも使わないで、楽しんでるでしょ。それとも、私を舐めてる?」

 乱暴に私の胸ぐらを掴むと、瑠璃はそのまま部屋に引き摺り込む。その目が、その腕が怖くて、抵抗しようと踏ん張るが、あっさりと力負けした。自宅は安全地帯なんかじゃない、瑠璃が私を自由にできる、そう言う場所だと、初めて自覚した。

「ちが、待って、瑠璃」

「待たない。お仕置きだって、言ってるよね」

 私を追い詰める瑠璃は、その声も、視線も、金曜日の比じゃなかった。こんな瑠璃、私は知らない。グレアみたいな、本能や生態に働きかける理屈のあるものじゃない。感情のままに、理屈抜きで威圧している。その姿に、私は気付けば涙を零していた。

「本当にペットみたいだからあんまり使いたくなかったけど、やっぱりちゃんとしたコマンドじゃないと聞けないみたいだし、自業自得だよね」

 瑠璃はうわごとのように呟き、少し考える。なんだっけ、あれ、と考え、思い出したかのように私に命ずる。

「そう、cornerだ」

 今までの、瑠璃の選んだ言葉での命令じゃない、ひどく冷たくて、力尽くで強いるような感覚に、私の身体は意思に反して命令に従ってしまう。部屋の隅に、連れていかれる。

「うん、次、Kneel」

 今度は私は無理に座らされる。ペタンと腰を落とされ、そのまま立つこともままならない。従う私に、瑠璃は次々にコマンドを出していく。その度に、ぞくりと身体が凍るような錯覚に息が乱れ、瑠璃の優しい姿を求めてしまう。

「何、するの。教えてよ、ねえ、瑠璃!」

「Shush。黙ってて」

 口まで、彼女のコマンドに封じられる。恐怖に過呼吸気味になる私の口に、瑠璃は何かを押し込み、猿轡をした。不味い、薬品のような、嫌な味だ。

「石鹸。あんまり歯向かうから、徹底的に躾けようと思って」

 瑠璃は無機質に説明すると、私の手錠を片腕だけ外し、後ろでに回される。そしてそのまま、また手錠をかけられた。

「最後、詩織、Stayだよ」

 瑠璃の出した最後のコマンドに、私はそのままの姿勢で動けなくなる。壁しか見えず、だらしなく座り込み、後ろ手に拘束され、石鹸と猿轡までされた、惨めな私が、そこにはいた。

「じゃあ、私がいいよって言うまで、そのままだからね」

 瑠璃は念を押すように語ると、真っ黒の布で私の目を覆い隠し、耳栓で音まで封じた。完全に、外界と遮断されてしまった。

 今までの瑠璃のやり方とは全く違うそれに、私は戸惑っていた。痛みや、快感、五感に訴えてくるような攻めが多かったはずなのに、今の私は、何も感じられない暗闇に叩き落とされてしまった。口の中に広がる、泡と薬品の味だけが、鮮明に脳裏に焼きつく。あまりに不快で、あまりに寂しい。

 ここまでして、瑠璃は今何をしているのだろう。どこにいるのだろう。何もわからない。自宅にいるはずなのに、瑠璃との繋がりがない。主人の姿が感じられない。どこまでも独りで、瑠璃が、どこにもいない。いつも嫌と言うほど感じる彼女の存在がかき消されてしまう。その事実に、徐々に苦しくなってくる。痛みはない。無理に感じさせられるような苦痛もない。本当に、何もない。何もないことに、耐えられない。声を上げたい。助けを呼びたい。でも、それさえ瑠璃に許されない。やだ、だれか、誰かじゃない、瑠璃、瑠璃に助けて欲しい。優しく抱き止めて欲しい。頭を撫でて、褒めて欲しい。痛くしてもいい、なんでもいいから、瑠璃を感じたい。

 やっと、理解する。瑠璃を主人とする本当の意味を。瑠璃がなぜ、これほどまでにお仕置きを私に求めたのかを。私が、会社を主人だと揶揄されるほど、瑠璃を怒らせていたことを。しかし、それを理解したところで、どうしても手遅れで、私は、何もない暗闇で、泣きながら言葉にならない謝罪を胸の内に吐露することしかできなかった。

 それから、どれほど時間が経っただろう。口の中の石鹸が全て溶かされ、私の服に唾液と共に溢れきった頃、私の視界を覆っていた布が、ゆっくりと解かれた。そのまま、手錠と耳栓、猿轡も外される。

「ちょっとは反省したかな。もう自由になっていいよ」

 後ろから聞こえる瑠璃の声。私はそれに気づくと、服に溢れた体液も気にせずに、瑠璃に飛びついた。

「ごめんなさい。瑠璃のものに、なりきれなくて、ごめんなさい」

 嗚咽でうまく言葉にならないけど、それでも、心からの想いを必死に瑠璃に伝える。

「私、瑠璃だけの、私になるから。もう、口答え、しないから」

 涙が止まらない。瑠璃の体が、本当に暖かくて、本当に嬉しくて、また、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。

「すっかり従順なわんこになっちゃったね。いい子、いい子。よく言えました」

 瑠璃はさっきの冷たい声とは変わって、とても暖かくて、優しい声で私を褒めてくれる。それが、本当に嬉しくて、幸せな気持ちになる。頭を撫でる手が、そっと身体を抱きしめる腕が、本当に、好きで好きでたまらなくなる。

「でも、従順にまでならなくてもいいよ。私のものだって自覚さえあれば、あとはどんなに楯突いてもいい。それくらいの方が、私も燃えるし」

 瑠璃は、悪戯っぽい笑みで話す。それがあまりにおかしくて、私は笑ってしまった。

「本当、あんたはクズだね、ご主人様」

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