世界一嫌いで世界一愛してる

園田庵

第1話「私の全てを奪う人」

 私は彼女が嫌いだ。何よりも嫌いで、顔すら見たくない。何度も、死んでしまえと思った。

 反面、私は彼女に恋心を抱いていることも、大変不本意ながら否定できない。自宅を出る足取りは重く、会社を出る足取りは、心持ち軽い。自分への節制はできても、彼女へ向けては財布の紐が緩くなる。何より彼女に触れられると、私の体は他のどんな経験よりも昂り、熱を持つのである。愛憎入り混じった自分の思いに、我ながら呆れてしまう。それでも、それが私という生き物のどうしようもない本能なのだから仕方がない。

 金曜日、彼女との契約で金曜日は残業をしないことにしていたのだが、気づけば私の元に仕事がいくつも回ってしまっていた。全くもって私の落ち度ではないので、余計にストレスとなる。23時、流石に寝ているだろうか。

 自宅のアパートにたどり着くと、電気がついているのが見えた。こんな時間まで起きている必要もないのに、一体何をしているのやら。

「ただいま」

「おかえり、詩織。ずいぶん遅かったね」

 私が部屋に入ると、彼女は私に迫る勢いで問い詰める。癖のない腰まで伸びた錦糸のような髪に、細く長い手足、私よりも頭ひとつ大きい背丈。身体だけじゃない。切長の目や均整の取れた骨格、高い鼻。どこまでも優れた容姿に、私はまた愛憎の混じり合いに困惑する。

「無職の瑠璃さんには会社の理不尽がわからないんでしょうね」

 私は毒づいて靴を脱ぐ。そのまま部屋に上がろうとするが、瑠璃の身体が邪魔で入れない。

「そう、私にはわからない。だから詩織が悪いんだよ」

 瑠璃は強引な理屈で丸め込んだかと思うと、急に抱き止めてうなじに顔を埋める。いつもこうだ、私の気分や感情を全部無視して自分のルールで動く。しかも無駄に体力があるせいで私には押しのけることができない。

「離して。私疲れてるんだけど」

 必死に押しのけようと踏ん張るが、余計に強く抱き寄せられる。不意に、うなじに鈍い痛みが走った。

「い゛っ……何してんの!」

 痛みの後に、瑠璃は私から離れて満足げに笑みを浮かべる。どうやらうなじを噛まれたらしい。まったく、この顔が嫌いだ。好き放題に私を弄んで、本当に腹が立つ。

「何って、お仕置きだけど」

 そしてこの、それが当然だと信じて疑わない、本当に自由気ままなヒモ野郎。私はどうしてこいつを居候させているのだろうか。本当に、追い出してしまえば楽になれるはずなのに。解放されたことでようやく部屋に入れる。本当に疲れた。半分くらいはこいつのせいなのだが。

「ごめん、明日構うから今日は寝てもいい?」

 ストレス、眼精疲労、眠気。正直もう余裕がない。スーツさえハンガーにかけずに脱ぎ捨てる。化粧は……流石に化粧だけは落とさないといけないか。面倒臭い。

「だめだって。お仕置きって言ってるでしょ」

 化粧を落として寝ようと寝室に向かうと、私の腕を強く掴んでくる。痕が付きそうなくらいに痛い。私は離すように訴えようと彼女を見据える。彼女の目は、私の心臓を潰さんとばかりに掴んできて、為す術もなくその場に崩れてしまう。震えが止まらない。

「その目、本当にやめて」

 確かに何も連絡を入れずに遅れて帰ってきたのは百歩譲って私が悪いかもしれないけど、だからって疲れた体をおしてかまっている余裕はない。しかし、それは瑠璃には関係ないようで、私はその場に座らされたまま、今度は鎖骨に噛みつかれる。

「嫌ならセーフワードでも使えばいいじゃん。契約なんだから」

 瑠璃は痛いところをついてくる。そう、確かにただ一言、合言葉を言うだけで瑠璃は止まる。そういう決まりで、そういう生き物だ。しかし、それで断って狸寝入りができたら、多分私は瑠璃をとうに追い出しているのだろう。つまり、私は彼女の求めに応じることしかできないのだった。

「本当に、調子のいい奴」

 私のぼやきに、瑠璃は笑って「知ってる」と答える。本当に、そういうところが調子のいい奴なのだ。

「いいでしょ、あんたの好きな顔のいい女に抱かれるんだから」

 ベッドに行って仰向けになりな、と瑠璃は私に命令する。瑠璃のささやかな謙遜に少しだけおかしくて笑ってしまう。体だって十分にいい女だろうに。本当、妬ましくて、愛おしい。

「その度に私は劣等感で吐きそうになるんだけど」

 私は命令のままにベッドに身を投げ出すと、瑠璃はまたがって頭を撫でる。それだけで、あの目の恐怖が、身体を噛まれる痛みが、全てどうでも良くなってしまう。しかし、どうして瑠璃は私を相手に選んだのだろう。私はお世辞にも顔のいい女ではないし、背は低いし手足も短い、若干無駄な肉はついているし、とにかく、負け組なのだ。その格差に、ひどく自尊心が爛れてしまう。

「吐けばいいよ。あんたみたいな負け犬、何したって同じでしょ」

 瑠璃の言葉に、私は絶句する。そんな、そこまで言ってしまうか。そのセリフにむしろ吐き気が引いていく。自分がわからなくなりそうだ。負け犬、そう呼ばれる自分が、否定できないのも確かなのだが。

「あんたの容姿の100分の1でもいいから心も綺麗なら良いのに」

 私の言葉など興味がないと言わんばかりに、瑠璃は噛み跡をいくつも付けていく。身体中が瑠璃の痛みに犯されていく感覚に、意識がぼかされる。

「餌は黙って食われてな」

 耳から流し込まれる毒のようなどろりとした言葉に、いやでも腰が浮く。どこにそんな体力が残っているのかわからないままに、瑠璃を求める自分がいた。

「本当、気持ち悪い」


 私が目を覚まして最初に感じたのは、身体中の鈍い痛みだった。考えるまでもなく、昨夜の瑠璃のせいだ。うっすらと働く意識で身体を見回しても、ゾッとするほどの噛み跡に、ため息すら出なかった。まるで耳なし芳一の体を覆ったお経のようだと思ったが、むしろ逆だと思い至る。しかも、耳にまで痕がついているのだから笑えない。

「おはよう、詩織。コーヒー淹れてあるよ」

 当事者であるはずの瑠璃は、平気な顔をして居間で寛いでいる。ベッドを降りてそっちまで向かおうとするが、瑠璃は加減を知らないのだろうか、全身が動くたびに痛みを主張して苦行でしかない。

「その気遣いができてなんでこんなことをするの」

 コーヒーを啜りながら、悪態をついてみる。これを飲んだらシャワーを浴びなくては。噛み跡はどうすれば消えるか調べてみると、なにやら温めてやるのが良いらしい。浴槽も張っておいた方がいいか。

「気遣いはやろうと思ってするけど、それは本能だからかな。抑えようと思ってないし」

 ちょっとは抑える努力をしてほしい。まさか、ここまでやられるなんて、思わないじゃないか。

「しかし、お仕置きは失敗だね」

 瑠璃は笑いながら伸びをする。失敗って、これほど痕をつけておいて、何が失敗か。訝しむ視線で彼女を見つめると、気付いて煽るように見つめ返す。

「だって詩織、噛んでるうちにスペースになっちゃうんだもん」

 瑠璃の言葉に、私の顔は一気に赤く染まる。

「そんな、なってない」

 散々噛まれてスペースなんて、まるでドMの変態だ。そんな、自分がそんな存在であると、認めたくない。

「可愛かったよ、甘ったるい声で鳴いて、噛んでるだけでいきそうになってさ」

 瑠璃の口から暴かれる、私の知らない私の本性。慌てて耳を塞いでも、その事実を塗り替えることはできなかった。瑠璃は私の耳を塞ぐ手の上から、誘うように呟く。

「痛いのが好きな、変態subさん」

 その一言で、もうダメだった。恥ずかしい、消えたい、殺してほしい、こそばゆい、くすぐったい、もっと、感じたい。マイナスの感情を塗りつぶす欲求を自覚してしまい、余計に恥ずかしさで身体が熱を持ち始める。

「もう、本当にやめ——」

「お仕置きによく耐えたね、いい子いい子」

 私が文句を言うのに覆い被さるように、瑠璃は私を抱き寄せて体を優しく撫でた。好き、嬉しい、気持ちいい、そんな、幸せな感情が乱暴に私の心を染め上げてしまう。嫌いなはずなのに、憎くて、死ねばいいとさえ、思ったはずなのに、彼女の手が、声が、抱き寄せるその温度が、全部が全部、好きでたまらなくなる。

「どうせ言いくるめられるんだろうけど、一つだけ反論っていうか、文句を言ってもいい?」

「分かってんなら聞くなよって言いたいけど、いいよ。面白そうだし」

 瑠璃は余裕そうに笑ってこちらをじっと見つめる。

「負け犬って、そんな負け犬に養われているヒモのあんたは負け犬じゃないの」

 私の問いに瑠璃も多少は頭を悩ますかと思ったが、そんなことかと呟くと、挑発するような目で私を見る。

「アタシみたいなクズを養わずにはいられないあんたの負けだし、ヒモも才能なのよ」

 流石に屁理屈だろうと否定しようとするが、自分の身体を見てはその文句も引っ込む。私はここまでされてもまだ、彼女を追い出せない。今の状況が、瑠璃の証言の証左であった。やはり私は負け犬なのだと、つくづく思い知らされる。ここまで勝てないものか。

「はいご褒美、お風呂お湯入れてあるから、入ってきな」

 瑠璃にぐいっと身体を離され、バスタオルを渡される。本当、気遣いや優しいことができないわけじゃないのに、いつも瑠璃は私をいじめたがる。お仕置きだって、流石に度が過ぎてると思うし。

『噛んでるだけでいきそうになってさ』

 瑠璃のセリフが、頭の中で反響する。そんなはず、ない。そう思いたいが、記憶が完全に残っていないために、確認のしようがない。それでも、もしそうだとしたら、この噛み跡は、私が求めたものなのだろうか。思考することもままならないままにそれを求める自分の姿を想像する。それも、あの瑠璃に。

 その想像が、あまりにも鮮明で、そして、確かな感覚が想起されていくのを感じる。ちがう、これは想像じゃない。それは、昨日の記憶だった。

「ほんと、勘弁してよ」

 瑠璃は私の全てを奪う。お金も、時間も、身体も、愛情も、全部全部、瑠璃のものだった。

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