第28話

「彼女は私が買います」


 目の前に現れたのは、裾がコウモリの羽のような形をした黒いマントを羽織った、紳士的な男だった。フードを被っていて、顔がよく見えない。

 ソフィアは男に連れられて行く。

 この男は金持ちそうだ。だから、またあの地獄のような日々が戻ってくる。休む暇もなく働かされる。

 でも、それでもいい。ノエはもう、そばにいないから。ノエとは、奇跡が起きない限り会えないと分かっている。奴隷は自由に行動できないうえに、たくさんの奴隷たちの中から、ノエを探し出すのはほぼ不可能だ。

 だから、自分はもうどうなってもいいと、ソフィアは思った。


 ソフィアは男に、オースター国の外に連れていかれた。国を出るのは、生まれて初めてだ。一体どこまで行くのだろうか。


「あなたの名前は?」


 男は優しく尋ねてきた。フードのせいで表情は見えないけど、なんだかこの人は、普通の人とは違う、そんな雰囲気を感じた。


「……ソフィアです」


「ソフィアというのか。いい名前だね」


 男は褒め、そして名乗る。


「私はジョゼフ。世界を旅しているんだ」


「旅……?」


「そうだよ。自由気ままに、世界の色々な所へ行くんだ。色々な出会いがあって、楽しいよ。私の生きがいなんだ」


 ずっと囚われた生活をしていたソフィアにとって、ジョゼフの話は信じられなかった。世界が広いことを初めて知った。


「とりあえず、新しい洋服を買おう。それからご飯を食べよう。何か食べたいものはあるかい?」


 ジョゼフはそう尋ねた。ソフィアは耳を疑った。


「……私は、奴隷ですよ」


「ここはもうオースター国の外だ。だからあなたは奴隷じゃない」


 それならば、この男が自分を買った意味が分からない。奴隷は所有物だ。だから散々こき使われて、人権なんてないはずなのに。


「私は、今はあなたの物です。あなたに買われました。あなたに良いように使われ、そして必要が無くなったらまた売られるのが運命です」


 ソフィアは淡々と言った。


「私はそんなことはしないよ、ソフィア。人間を、物のように扱うなんて惨いことはしない」


「……分かりません」

 

 ソフィアは俯いた。ジョゼフの目的が分からない。


「何故私を買ったのですか? 奴隷は他にもたくさんいます。それなのになぜ私を? 私を使わないのなら、あなたは損をするだけではないですか」


 ソフィアは恐る恐る尋ねた。するとジョゼフは、優しく答えた。


「あなたが、誰よりも、絶望しているように見えたからだよ。他の人たちは、今の現状が変わることを望み、微かに希望を抱いて抗おうとする表情が見えた。でも、あなたは違った。全てを諦めたような、抗うことをやめて、希望すらも求めないような、そして今にも死んでしまいそうな顔をしていたからね。心が痛くなったんだ。だから放っておけなかった。ただ、それだけだよ」


 他の人から自分は、そんなふうに見えていたんだとソフィアは知った。それでも、わざわざお金を出してまで自分を買ったジョゼフのことを理解できなかった。たくさんの奴隷たちの中から、ソフィアを見つけ出し、大金を払ってまで助けようとしてくれたジョゼフのことが。


「納得がいかないという顔をしているね。でもね、ソフィア。あなたが虐げられるのも、人間が人間の所有物になるのも、おかしいことだと私は思うんだ。人は自由であるべきなんだ。あなたも、旅をしてみれば分かるはずだよ。世界がどれだけ広いのかが」



 ジョゼフはソフィアに綺麗な服を着せた。それから店で、おなかいっぱいご飯を食べた。こんなに美味しい料理を、満腹になるまで食べられるなんて、夢みたいだった。

 ノエにも食べさせてあげたかった。自分だけが、こんなにいい思いをしていいのだろうか。ノエは今頃、過酷な労働をさせられているのでは。そう思うと、罪悪感が生まれた。


「どうしてあなたは、私を、その、救ってくれただけではなく、優しくしてくれるんですか? こんなに綺麗な洋服も、美味しいご飯も……私は何も、あなたに返せるものを持っていません」


「私は見返りなど求めていないよ。ただ、人と仲良くなりたい。困っている人がいたら助けたい。そう思っただけだ。他に理由は必要かい?」


「それは……」


 ソフィアは何も答えられなかった。世界にはこんなに優しい人がいて、初めて親切にされて、おまけに見返りも求めていない。今まで人間によって虐げられてきたソフィアは、ジョゼフが神様のように思えた。


「あなたは、他の人とは違いますね。まるで、神様のようです」


「残念ながら、私は、人でも神様でもないよ」


「え?」


 ソフィアは驚いて聞き返した。神様はともかく、人ですらないとは、どういうことなのだろうか。


「夜になれば、全て分かるよ」


 ジョゼフはフードの中で、少し悲しげに微笑んだ。



 やがて、夜になった。今日は満月だ。

 ソフィアとジョゼフは、森の中で一夜を過ごすことになった。


「ごめんね。あまり人間が多いところだと、正体を晒したくないんだ。怖がられてしまうからね。今夜は外で寝ることになりそうだ」


「いえ、大丈夫です。外で寝るのは慣れているので。むしろ、ふかふかの布団で寝ることの方が抵抗があります」


 とソフィアは答えた。


「それじゃあ、いいかい?」


 ジョゼフは、満月をバックに、ソフィアの前に立った。


「もし怖くなったら、逃げていいからね。でも、これだけは知っておいて欲しい。私は絶対に、人間を傷つけるようなことはしないと」


 ジョゼフは先に注意すると、フードに手をかけ、勢いよく取った。

 そこにあったのは、風になびくさらさらの黒い髪、透き通るような白い肌、血のように真っ赤な瞳、とんがった耳、そして、唇の隙間からのぞく鋭い牙。


「あ、あなたは……」


「そう、私は吸血鬼のジョゼフだ。はじめまして、お嬢さん」


 ソフィアは息を呑んだ。吸血鬼は危険な生き物だと、どこかで聞いたことがあった。だけど、彼は違う。絶対に、危険なんかじゃない。これだけ優しくしてくれたのだ。もし、騙されていたとしても、それでも構わないとソフィアは思った。


「驚いたかい?」


「は、はい……ですが、怖いとは思いません。私はあなたが、良いお方だと知っていますから」


「そうかい。それは良かった。私が町を歩けば、人々は悲鳴をあげるからね。それに日光も苦手だから、私はこうして、いつもフードを被って過ごしているんだよ」


 そういうことだったのか、とソフィアは納得した。

 そして、満月の光に照らされて微笑むジョゼフの姿が、尊く感じた。


 やっぱり彼は、私の神様だ……


「ジョゼフ様」


 ソフィアは真剣な表情で、彼の名前を呼んだ。


「私はあなたに、一生、忠誠を誓います」


 ジョゼフが吸血鬼だろうと構わない。彼が、自分を助けてくれたことに変わりはないから。だから、彼が何の見返りを求めていなかろうと、何かを返したかった。彼の役に立ちたい、彼のそばにいたいと強く思った。


「私に、命令してください」

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