第29話
「別に私は、あなたに何かをしてもらいたくて助けたわけではないのだけれど……」
ジョゼフはソフィアの申し出に少し戸惑った。どうしたものかと悩む。これではソフィアのためにはならない。ここでソフィアに命令をしてしまえば、助けた意味がなくなってしまうような気がした。
「本当に、どんな命令でも聞くのかい?」
「はい、もちろんです」
「じゃあもし、今ここで、私があなたのことを突き放したら、あなたはそれに従うのかい?」
「それは……」
ソフィアは、すぐに「はい」とは返事ができなかった。それがジョゼフの望みならば、ソフィアは従う。でも、それでは意味が無い。何も返せない。使ってもらえなければ、ソフィアには生きる価値がないのだ。
「ソフィア、あなたはもう自由だ。だから私は、あなたに命令はしたくない。自分がしたいと思うことをすればいいんだ。私に囚われてはいけないよ。あなたはもう、奴隷ではないのだから」
「ですが……私は……」
奴隷ではないという言葉が、頭の中をめぐる。奴隷でなくなってしまえば、私は何なのだろうか、とソフィアは思った。
かつてソフィアは、奴隷から解放されることを望んでいた。いつか自由になれる日を待っていた。でもそれは、ノエが隣にいたからだった。愛しい弟と共に、幸せに生きていきたいと思ったからだった。
でも今は違う。ノエは、ここにはいない。自由になったところで、ノエがいなければ、何をすればいいのか分からない。
奴隷という立場が、ソフィアの存在価値そのものであった。人に言われるがまま、散々辛い目にあってきた。でも、自由になった今、ずっと望んでいた自由を手に入れた今、ソフィアの存在価値は失われた。生きている理由が、分からなくなったのだ。
「私は……どうすればいいですか……」
ソフィアの目から涙がこぼれる。
「……あなたに助けられてばかりのままで、生きていく理由が分かりません。私は、奴隷なのです。やりたいことなんてありません。ただ、買い主の命令に従うことしか、知らないのです」
「ソフィア……」
「だから、お願いです……私を、使ってください。ジョゼフ様のためなら、何でもします。だから……だから、私を自由にしないでください……あなたのそばに引き止めておいてください。どうか、私を突き放さないでください……」
ソフィアは跪いた。地面には涙の跡が残っている。
ジョゼフはそんなソフィアの様子を見て、心が苦しくなった。きっと、小さい頃から奴隷として生きてきて、それ以外の生き方を、そして世界を、彼女は知らないのだ、と思った。一瞬、助けない方がよかったのか、と考えてしまったが、そんなことはないはずだ。あのままでは、彼女は何も知らないまま、死んでしまいそうだったのから。
ジョゼフは優しくソフィアの頭を撫でた。
「私はあなたを自由にしたい。それだけは分かっていて欲しい」
そしてジョゼフは、思いついたように言った。
「私からひとつ、提案がある。良ければ、私の館で働かないかい? 私にはブラッドという息子がいてね。その子のお世話をして欲しいんだ。ついでに、家事とかも少しやってくれたら嬉しいな。もちろん、あなたの部屋もちゃんと用意するよ。ご飯も三食きっちりね。そして、あなたは好きな時に、やめてもらって構わない。ゆっくりでいいのさ。あなたがやりたいことを見つけた時は、私はそれを優先する。どうだい?」
悪くない提案だと、ジョゼフは自分で思った。
「それは、ジョゼフ様のご命令ですか?」
「そういうことにしておくよ」
ジョゼフは諦めたように言った。今のソフィアには、全部を理解するのは難しい。使ってもらわないと、気が済まないようだ。だから、いつか彼女の考え方が変わる日まで、気長に待つことにする。
それとは別に、ソフィアはその言葉を聞いて、安心していた。ジョゼフが命令してくれた。命令なら、何でもよかった。これでジョゼフに、恩返しができる。ジョゼフの役に立てる。
「ジョゼフ様、喜んでお受け致します」
*
エアスト国の森の中にある館に帰ってきた。懐かしい匂いがする。
「ただいま。ブラッド、アルバート」
ジョゼフが玄関で声をかけると、執事のアルバートが出迎えた。
「お帰りなさいませ、ジョゼフ様。おや、そちらの方は?」
アルバートは幼い金髪の少女の方を見て尋ねた。
「今日からここで働くことになったソフィアだ。ブラッドの世話を頼むことにしたんだ。アルバート、色々教えてやって欲しい」
「メイドということですね。分かりました。ソフィア、よろしくお願いします」
「お願いします」
ソフィアはアルバートに礼をした。メイドという響きに、ソフィアは少し戸惑った。もう自分は、奴隷ではないのだ。
「ところで、ブラッドは?」
ジョゼフは尋ねた。出てくる気配がない。
「あー、その、坊っちゃまはまだ、夢の中でございます」
「なんだって? もうお昼だよ」
時計の針は、もうとっくに十二時を過ぎている。
「申し訳ございません。何度も起こしているんですが、全然起きようとしなくてですね……」
アルバートは困ったように笑った。
「よーし、ソフィア。最初の仕事だ。ブラッドを起こしてきてくれ」
「分かりました」
ソフィアは、ジョゼフに命令されたことが嬉しくて、少し微笑む。ジョゼフの役に立てれば、それで良かった。
ソフィアは、アルバートに教えてもらった部屋まで歩いていった。
ソフィアは深呼吸をし、ドアをノックしたが、返事はない。そのままドアを開けると、中は真っ暗だった。分厚い黒のカーテンで、窓はきっちりと覆われている。目が慣れてくると、広い部屋の真ん中に、何やら大きな箱のようなものが置いてあるのが分かった。
「……棺?」
ソフィアは恐る恐るその棺の蓋を開けた。すると、中にはすやすやと気持ちよさそうに寝ている少年がいた。
「あ……えっと……あなたがブラッド……様?」
起きる気配は全くない。とりあえずソフィアはカーテンを開けた。そして再び声をかける。
「ブラッド様。起きてください。もうお昼ですよ」
すると、ブラッドの瞼がピクリと動いた。
「……もうちょっとだけ……むにゃむにゃ」
「ブラッド様。起きてください。ジョゼフ様の命令で、私はあなたを起こしに来たんです。あなたが起きてくれないと、私が怒られてしまいます」
ソフィアは必死にブラッドを揺らして起こそうとする。
「んん……誰?」
やがてブラッドは目を開いた。真っ赤な瞳が煌めく。
「眩しっ。ちょっと、勝手にカーテン開けないでよ。僕が焼け焦げちゃったらどうするの?」
「ああ……すみません……」
ブラッドは起き上がって、伸びをした。
「君は、何者だい?」
「私はソフィアです。今日からここで働くことになりました。ジョゼフ様の命令で、あなたの世話を頼まれました」
「おお! ついに僕にも専属のメイドが! ということは、父さん帰ってきたの?」
「はい……」
「よーし。じゃあ、早く会いに行こう。お土産話、聞かせてもらうんだ。あと、お腹もぺこぺこだ」
そう言うと、ブラッドはウキウキしながら食堂へ向かった。
変な人だな、とソフィアは思った。
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