第4話 間章~特訓

 間章  ~安立戦特別ルール(成雅vs七泉)~


 特別ルール参加者は信成翔(成雅)と未森蒼樹(七泉)とそのパートナーとする

 

 安立戦の競技ルールを遵守した上での特別ルールとする


 競技出場枠は一年ジュニアの部で、ワルツ、ルンバの単科戦だが、参加種目数

は問わない。各自の最高順位で勝敗を判定する(順位がつくのは十二位以上)


 最高順位が同じ場合、全審査員のつけた順位を足し、合計数の少ない者が勝ち


 両者予選落ちの場合、上位予選進出者を勝者、同じラウンドで予選落ちの場合、

その予選でのチェック数で判定。それも同じ場合は引き分けとし、次戦に持ち越し

とする


 予期しない事情でルールを追加、改訂が必要な場合、特別ルールの審判である園

田千咲(電開)立ち合いのもと、両者の合意をもってのみ許可する


 信成が勝者の場合、火神舞衣、海野汐里(七泉)のどちらかを正式パートナーにす

る権利が、未森が勝者の場合、信成を学生競技ダンス連盟から除名する権利が与

えられる

 

 以上を守れなった場合、その者は敗者とする



 特訓


 練習場の雰囲気は、これがあのゆるふわなダンス部なのかというくらいこれまでとは全く違っていた。先輩たちはプレゼン前のビジネスマンのような鋭い眼差しで今日の練習メニューの最終確認をしている。

 昨晩のパーティーであったことは早速、帰りの道すがらメッセージでみんなに報告した。健さんも彩葉さんも勝負の参加を認めてくれたが、勝利至上主義の成雅を相手にするには俺たち一年生を一から鍛え直す必要があるとの見解だった。そして今日の午前中、成雅vs七泉の特別ルールが審判を務めることになった咲から届き、俺はワルツで汐里と、ルンバで舞衣とエントリーすることが決まった。エントリーは作戦の一つになるので、他校に知らせる義務はない。

 先にモダンの練習が始まった。一年生三人は間隔を開けての横一列。俺の両隣に舞衣と汐里。ワルツが流れ、彩葉さんが指示を出す。

「ポイズ&ホールド!」 

 今までとは違うどこかの軍隊の女教官のような厳しい声が響きわたり、条件反射で背筋が伸びる。

 ポイズとはダンスの基本姿勢のことで、モダンポイズは直立姿勢から軽く膝を曲げ、両手を水平に広げてホールドを作る。そして、大事なのが笑顔。競技会では豊かな表情も重要な評価ポイントで、笑顔キープは表情筋の鍛錬に最も効果的なのだ。ダンサーはポイズ、ホールド、笑顔の三キープが基本中の基本。実にシンプルだがキツい。練習では、曲がかかっている間は三キープを徹底させられるが、コツを掴み切れていない一年生では一曲がやっと。腕に痺れが出てきた頃、ちょうど曲がフェイドアウトし、ホッと息を吐く。

 だが、腕を下ろそうとしたとき、肘にムチで叩かれたような衝撃が走った。

「イテッ!」

 顔を向けると、なぜか靴ベラを持った健さんが俺を睨みつけている。 

「誰がホールドを下ろしていいと言った」

「でも、いつもは曲が終わると――」

「今日からはいつもじゃない。めと言われるまでキープしろ」

「……わかりました」

 だったら始めからそう言ってくれればいいのに。俺は不服な顔をして再び肘を上げるが、今度は腹に衝撃が。

「声が小さい。返事はここからちゃんと出せ!」

「は、はいっ!」

 バチーン!

「笑顔でだ!」

「ひゃいっ!」

 不満が一瞬にして恐怖に変わった。でも、笑顔はキープ。見渡せば先輩たちは全員靴ベラを持っていて、舞衣も汐里もペシぺシやられ、痛みに耐えながら満面の笑みを浮かべている。

 無情にも二曲目が流れ始めた。体はキツいが休める雰囲気ではない。靴ベラを手のひらに当ててぺシぺシと音を立てながら監視されている。ここは練習場でなく訓練場なのか?

――二十分経過。

 壁に掛けられた時計を見る。痺れはすでに上半身に広がっているが。止めの合図が出される気配がない。なんとか肘を上げると「肩は下ろせ」と肩を叩かれ、肩を下ろすと「肘を上げろ」と肘を叩かれ、歯を食いしばって肘を上げると、「笑え!」と頬をぺシぺシされ、百万ドルの笑顔を浮かべると「気色悪い!」と、ビチーンと叩かれた。理不尽!

――四十分経過。

 優雅に流れるワルツが空虚に響く。もはや麻痺は上半身から全身に拡がり、靴ベラで叩かれたくらいでは何も感じない。一歩も動いていないのに尋常ではない量の汗が噴き出し、床にぽたりぽたりと落ちる。毎日トレーニングを欠かさない俺でも隣を見る気力すらなく、ときに両耳に怒号や悲鳴が飛び込んでくる。 

――時計の長針が一周しようとしている?

 汗で視界が遮られて景色が二重に見える。時計は二つに見え、健さんと陽さんの判別がつかない。そういや、漫画で立ったまま死ぬ人いたよな。もしホールドしたまま死んだら、人類初か? 朦朧とする意識の中、待ちに待った声が届く。

め!」

 鬼の声が女神の声に聞こえた瞬間、全身の力が抜け、崩れ落ちるように床に伏した。

 廊下にある給水機で冷水をがぶ飲みして急ぎ足で戻るや否や、なぜか腰にゴムチューブを巻かれた。その先には軽自動車のタイヤが括り付けられていて、見れば舞衣と汐里には自転車用タイヤ、陽さんには普通車のタイヤが付いていた。これからラテンの特訓が始まるわけだが……?

「今度は何をさせるつもりですか?」

「勘の悪い奴だな」

「わかりますよ。タイヤ引きですよね。これってダンスと関係あるんですか?」

「高校の野球部員がしているのを見たことはあるけど、やったことないなぁ」

 舞衣はそう言うが、そりゃそうだろ。そもそも、タイヤ引きをする女子なんて見たことない。『タイヤ女子』なんてキャッチーなフレーズに例えれば親近感が湧かなくもないが、その正体が八センチのヒールを履いてタイヤ引きをする女子だなんて誰も思わない。

 この練習で強く立てるようになると陽さんが説き始めたところで、

「続いて、ラテンポイズッ!」

 再び彩葉さんが細い体からは想像できないほどの大声で指揮した。

 ラテンポイズは、直立状態から体重を片足に残したままもう一方の足を、膝を外側に向けた状態で後ろに下げてつま先までまっすぐ伸ばす。真横にいる人に、両足の隙間で縦長の三角形を見せるイメージだ。さらにラテンらしいボディーをシェイプしたダイナミックなラインを見せるため、上半身は正面を向いたまま、へそを外側に向けた状態で後ろ足の骨盤を後方上部へ絞り上げる。これでオッケー。ラテンではこのようなポーズが多く、その際に体重の多く乗った足を軸足、軸足を支えるもう一方の足を支え足と呼ぶ。よし。コツを掴めてきているぞ。

「ルンバウォーク! スロー・スロー・スロー・スロー」

 えっ、ルンバウォークでタイヤを引くの!? そんな無茶な。

「「「「スロー・スロー・スロー・スロー」」」」

 有無を言わせない彩葉さんの声に四人が応じる。ルンバは四拍子。今の掛け声の場合は、一スローで二拍使って一歩前進するウォーク。初級用でテンポが遅い分、正確さが求められる。ルンバウォークというのは、簡単に言えば、前進しながら交互にラテンポイズを作るというもの。

 やるっきゃない! ウォークは家でもやっているから多少の負荷ならいけるはず。

「スロー、スロー、スロうわっ!?」

 つるんと転倒。前に進んだと思ったのはゴムが伸びていただけで、タイヤは全く動いていない。気合が足りないのか? ならばと歯を食いしばって再びトライするが。

「どわっ!」「ひいっ!」「きゃっ!」

 再び転倒した。舞衣も汐里も尻もちをついている。まるで初心者だけでスケートリンクに来ちゃった残念な集団。だが、視界の隅に一人化け物がいた。

「スロー・スロー・スロー・スロー♪」

 鼻歌交じりに前進する陽さん。おもりなんてなんのその。道を切り開く戦車のように前進している。対して、どうして俺たちは進めないんだ? 陽さんの動きを観察していると、彩葉さんが隣に来て、いつもの優しい声でアドバイスをくれた。

「重い物を引こうと気負って力任せになっているわ。教わったことを思い出して」

「えっと……」

 そうだ。振り子の原理を利用するんだ。ダンスは力任せに踊るものではない。気合を入れすぎてパキパキとウォークをしたが、そうではないんだ。ボディーをシェイプしたら、ゴム動力のプロペラ飛行機のように溜めた力を利用するんだ。思い直し、今度は慌てずに体のねじれを解く。すると、支え足は自然に加速し、タイヤがスーッと勝手に動いた。

(やった!)

 この方程式を解くような感覚を掴むと好奇心が湧き、何度も試すが、やはり楽に進む。左右を見ると舞衣、汐里もコツを掴んだようで三人とも何往復か牽引することができた。

 しかし、まだ物取りない。陽さんのウォークは何かが違う。同じステップなのにまるで別物。なぜだ? よく見て、よく聞くと……ん? タイヤを擦る音が全然違う!

 一年生は一歩進む度にタイヤを擦る音が途切れるけれど、陽さんは擦れる音が止まらず、一定の速度で擦り続けている。

(ムーブメントが止まっていない!) 

 ムーブメントとは動きのこと。そして、動きを継続させるには……歩幅を小さくする! そうすることで体重移動が楽になり、ムーブメントである八の字が楽に描ける。俺は歩幅を靴一足分狭め、骨盤を中心に、だが振り子のイメージは保ったまま、体全体で八の字を描く。すると、さっきよりも体とタイヤがフィットする。陽さんには及ばないが、大型犬が大人しくついてくるようなこの感覚は気持ちいい! 

「上達が早いわね」

「これならいくらでもできそうです!」

「そう? それなら――私をドライブに連れてってもらえる?」

 妖しく微笑む彩葉さんが不意に俺の耳元で甘く囁く。なぜこんなタイミングで?と思ったが、まさかのお誘い!

「マジっすか! じゃ、今度レンタカーを借ります。彩葉さんはどんな車が好みぐはっ!」

 全身がグキッとして静止した。今の俺は、飼い主に首輪を引っ張られて硬直した犬状態。

「あら? エンストかしら」

「ッ!」

 後を振り返って愕然とする。……そういうことかよ。彩葉さんが俺の引くタイヤに乗っている。にこやかな表情だが目は笑っていない。私を乗せたままルンバウォークをせよと無言であごをクイッと動かす。なんて挑発的なやり方で男心を焚きつけるんだ。

「知りませんよ。一度俺の車に乗ったら、もう他に乗る気なくすから」

 生意気と思われようがかまわない。なんとしても男を見せてやる! メラメラとやる気が湧いてくるが、力任せでは進まないことを体得した俺は、柔よく剛を制するがごとくタイヤをスーッと前進させる。

「なかなかやるじゃない」

 褒められても喜ぶ余裕などない。気を緩めたらエンストする。というか、ガス欠。一時間ホールド直後の全身に乳酸の溜まった状態ではもはや限界で、声が漏れてしまった。

「お、お、もっ」

「……重い?」

「!」

 彩葉さんの、今まで聞いたことのない氷のような低音が背中に刺さる。靴ベラの痛みとは違う心を凍らせるような恐怖。モデル体型の先輩は断じて重くない。体力全回復時ならヒョイっとお姫様抱っこもウォークをしたまま運ぶこともできるし、なんならそのまま教会まで連れ去りたい。だが、今は……。くそっ、こうなったら限界突破だ!

「お、おもっ、思い人~をのせるぅ~この上な~い喜び~♪」

 魂の即興ラブソングで特別仕様車を前進させる。限界を超えるは愛の力だけ。

「フフ。な~にその歌?」

「ルンバウォークに愛をのせて。知らないんですか?」 

「知らな~い♪ そうそう。ルンバってムーブメントが重々しいでしょ。もとは黒人奴隷が足にかせを履かせたまま踊ったことが始まりと言われているの。ちょうど今みたいに」

 自ら枷となってサラッと怖いこと言ってるんですけど! 無慈悲も愛なのか。

「でも、歌いながらの方が余分な力が抜けていいウォークができそうね」

「で、ですよね~。じゃ、遠慮なく万感の思いを込めて! スローカウントで送ろうよ 二人のスローライフ~♪ ボディーをシェイキンシェイキン! 激しくムービンムービン♪ お? 歌いながらの方が身も心も調子いいぞ!」

「すご~い蒼樹くん。私を乗せて動いてる♪」

「彩葉さん軽いから余裕っすよ。ところで、今度は本物の車で  」

 V字回復ならぬ✓字回復したムードだったが、一瞬にしてぶち壊された。

「歌うといいって本当? じゃ、私も遠慮なく。ダメ元は所詮ダメなのよ お前の苦労ライフ~♪ ハートはバーニンバーニン! 激しくブロークンブロークン! あ、本当だ!」 

「ちょっ、舞衣!? なんだよ、その縁起でもない歌」

「あるレスラーの入場曲だけど? これも愛だよ」

「んなわけあるかっ! 戦う前に負けてるからな!?」

 俺の即興ラブソングを替え歌でデリートする舞衣。だが、これで終わることはなかった。逆サイドからデスソングが忍び寄る。

「私もやってみようかしら。鏡で顔見て身の程知れよ お前の無謀ライフ~♪ 死滅へゴーインゴーイン! バッドなエンディンエンディン! あら、いけるわね」

「いけねえし一片の救いもねえっ!」

「ロンドンで流行っていたルンバだけど? 一周回ってこれも愛」

「一歩も歩き出せないし、俺とロンドンに謝れ!」

 猛抗議するもツンとする二人。訳がわからんが、疲れの限界でみんな変なテンションにはなっていた。

 この一週間、基本の叩き込みで体力の限界までしごき抜かれた。体重は三キロ痩せ、足の裏の皮は分厚くなった。それでも帰宅後の自主練習はこなしたが、布団にたどり着けずに寝落ちする毎日がこうして始まった。


 翌週は一人でベーシックステップを踊るシャドー練習がメイン。相手と組む前に己の精度を徹底的に上げるのが目的だ。俺にはワルツが健さん、ルンバは陽さん。女子二人には彩葉さんがつきっきりで指導をする。彩葉さんはモダンメインだが、美の探究者である先輩はラテンも上手に踊れる。ところでこの三人、本性は鬼だった。

 健さんによるワルツのシャドー練習――

「蒼樹、ホールドの張りが甘い。左右肩甲骨の間隔を2センチ広げろ。ここだ!」

 ピシピシ! 今日も健さんの容赦ない靴ベラムチが飛ぶ。扱いに慣れていて、人の肌を利用してビシンといい音立てやがる。

「ナチュラルターン18度回転不足。もっと右足の裏食管のツボよりインサイドに乗れ! そうだ。腓腹筋内側の負荷は増したか? ここだここ!」

 どこだよその筋肉?と思うよりも早く、ふくらはぎの内側にビシッとムチが飛ぶ。

 健さんは完全に理論派。彩葉さん曰く、これでも俺のためにわかりやすく指導してくれているらしい。でも、18度修正って何? 分度器持参してもいいですか。

「カウントがズレてきてるぞ。声出して大きく踊れ。はい、ワン・ツー・スリー!」

「ワン・ツー・スリー!」

「へそ・けつ・バチーン!」

「ふぎっ・ツー・スリー!」

「もっと・笑え!・バチーン!」

「ぐへっ・うへっ・にぱっ!」

「キモい・バチーン・ブッチーーン!」

「いっでえ!!」

「チッ、折れたか。休憩だ。購買でもっと頑丈なもの買ってくる」

 フロアでピクピク。鬼の特訓は覚悟の上だが、ベラピン増し増しすぎません? 俺をモルモットにして腕に磨きをかけている。あの人、ベラピンの第一人者にでもなるつもりか。購買も、いつも俺の都合を無視している気がするのだが。

 続いて、陽さんによるルンバのシャドー練習――

「蒼樹、そこはもっとビシッとだ」「あ~それは、もうちょいバシッと」

「そこはベシッと」「フワッと」「ビシッとフワッと」

 先週、ウォークは徹底練習し、前進だけでなく後退も踏めるようになった。最も基本的なムーブメントといわれるクカラチャという骨盤で八の字を描く練習も腸がよじれるほどやった。おかげでラテンっぽい動きもダンスの基本用語も覚えた。

 だが、この人の説明は全くわからん。健さんとは対照的に、陽さんは感覚派。この人、本当に哲学科なの? あるいはダンスは感覚で捉えるという哲学なのか。オノマトペばかりで掴みどころがなく、感覚派の鬼だ。

 ふと思うことがある。俺は理論派なのか感覚派なのか。先輩たちは自分が解釈しやすい方法で技術をマスターしてきたが、俺はどっちなんだ? と考えるも、ダンス歴の浅い俺にはまだわからない。ただ、今はどちらも理解しないと上達できない。

「蒼樹、次のカウント1でパートナーをモヒャ~っと回せ!」

 俺はカウント4で接近してくる仮想パートナーを左手で受け止め、カウント1で言われたイメージで時計回りに回転させる。こうか?

「モヒャ~っと!?」

「それはどう見てもブシャーだ」

「梨汁かよっ!」

 やっぱこの人、わっかんねえ!

 フロアの反対側では舞衣はルンバ、汐里はワルツのシャドーステップを踏んでいる。で、誰が教えているのかと言えば……あれは幻だよな? ルックスこそ彩葉さんだが、あれは彩葉さんの仮面をかぶった女王様。誰かそうだと言ってくれ!

「汐里、ホールドは良くなったけど、脇の下のトーンが落ちているわ。ここよ!」

 ビシッ!

「あいっ!」

「あら、少し強かったかしら。傷物にならないようアイシングしてあげる」

 すると女王様はどこからか持ってきた氷嚢ひょうのうを汐里の汗ばんだ滑らかな脇の下へ当てた。

「ひいいっ!」

 汐里は三オクターブ上げた悲鳴を発するが、彼女のあんなに怯えた声、聞いたことがない。

「手当てはすぐにしてあげるから、踊りは止めちゃダメよ。時間がもったいないものね。そこで呆けているあなたのことよ、舞衣」

「は、はひっ!」

 汐里に負けず劣らず、舞衣も奇声を上げてルンバのステップを踏む。

「舞衣は、歩幅が大きくてムーブメントが途切れてるわ。そうね……じゃ、こうしましょ」

 女王様は舞衣の脚の付け根、太腿ふとももに黒いゴムチューブをグルグルと巻き付けた。矯正されたことで歩幅は抑えられ、ムーブメントが生じる。が、女王様はまだお気に召さない。

「そんなにキョロキョロしちゃダメ。そうね……じゃ、こうしましょ」

 今度はタオルを折り、舞衣の視界を遮る。ダンスフロアでまさかの拘束&目隠しプレイ。ハァハァと踊り込みで乱れる呼吸と滴る汗も相まって背徳的なエロスが漂っていた。

「目だけでなく全身で感じるの。続けなさい」

 圧のある教えに過敏に反応し、舞衣はSM、もといルンバを踊る。しかし、癖というのはそう簡単には抜けないもの。舞衣は誤った方向を向いてしまう……そこにあるのは氷嚢。

「ぴいいっ!」

 暗闇から突如、頬に触れる氷嚢の感触って……。その後も女王様は、手を替え品を替え二人を調教、ではなく指導を施す。


 指導は日常生活にも及んだ。学食で昼食をとりながら、彩葉さんは女子二人に教えを説く。

「淑女たるもの、どの瞬間もダンスなの」

 ほへ~っとする舞衣と汐里。最近、二人の表情が似てきたな。

 俺は今日もカレーを咀嚼中。定番メニューの中で最も安価で腹にも溜まるからコスパは最高。う~ん、具がないから消化にいいね。きっと具は熟成に熟成を重ね、溶けてあの世にいってしまったんだ。決して最初から入ってなかったわけじゃないんだ。そうだよね? 俺、こんなんで勧誘にひっかかったのかよぅ。

 教えは彩葉さん自身の美学だろう。舞衣や汐里も上品だが、彩葉さんの場合、さりげないしぐさでさえ流麗だ。さすがは美の探究者。けど、心配だなぁ。それ以上美を求めたら地球上の全男子がキュン死しちゃう。ここは男を代表して俺が――

「蒼樹、ほっぺたにご飯粒がついているわよ」

「んあ?」

 汐里に言われるまで気づかなかった。彩葉さんに見惚れていたらしい。

「どこどこ?」

「待って。取って食べさせてあげるわ」 

 彼女は大胆にも細い指を俺の頬へと伸ばす。躊躇ない様子にドキッとするが、俺は身を任せてあ~んと口を開く。淑女を目指す汐里はご飯粒にそっと触れ――グリッ

「ふごっ!?」

 俺の頬で白米を練り潰した。というか、指ごとぶっ刺された。

「ちょっと待ていっ!」

「なにかしら。頬で咀嚼してあげたのだからありがたく食べなさい」

「んな咀嚼あるかっ! 頬が陥没したぞ!?」

 正論で反論するもムスッとしている。なんで俺が怒られる? 

「まぁまぁ。ところで、淑女たるものと言ったけれど紳士も同じよ、蒼樹くん?」

「なるほど。いやぁ、どうりで彩葉さんはいつ見ても美しいわけです。何か秘訣が?」

「蒼くん、まだお皿にカレー残ってるよ。もったいないから食べさせてあげる」

「え? 舞衣、俺はもう食べ終わっちゃあっ!」

 死角から差し出されるスプーン。俺は、どこぞの神拳の使い手みたいな声を出す。だが、秘孔はづらされた。口ではなく、ほっぺにスプーン裏拳が炸裂。

 ペチン――

 スプーンとほっぺによる二重奏。否、スプーンにこびり付いているカレー(具なし)との三重奏が禁断のハーモニーを奏でた。

「どこで食わせる気だ!?」

「咀嚼してあげたのだからありがたく食べなさい」

「このカレーは最初から咀嚼されてるからっ!」

 猛反発するも、舞衣はムスッと不機嫌面。なぜか食堂のおばちゃんまで目を吊り上げている。

「まぁまぁ。ところで、蒼樹くんからの質問だけど、秘訣はあるのよ。実験してみる?」

「実験って、食堂で?」

「どこでもできるわ」

 言うが早く、彩葉さんはバッグからスマホを取り出す。

「リーダーに手を差し出す練習をするわよ。この連写モードを使って撮影してもらえる?」

 彩葉さんのスマホを預かり、舞衣、汐里、彩葉さんの順でスマホに向けて右手を差し出す様子を連写する。一人につきたった二秒だが約十枚ずつ撮った。

 すぐに画像を確認。舞衣と汐里の画像はほとんどブレているが、最後の一枚は様になっている。まぁ、ポーズとはこういうものだ。

 そう思って彩葉さんの画像を見るが、

「「「!」」」

 俺たちは目を疑った。

 最後の一枚以外はポーズへの過程なのに、その全てが絵になっているのだ。

「二人は指先だけでポーズをとるから決めた瞬間しか映えない。私は、体の内側からムーブメントを起こして正しい順序で外側まで表現している。ムーブメントがナチュラルならいつ撮られても絵になるのよ」

「まるでつぼみが開いて花になったみたい!」

「そのイメージは大切。あとね、花を咲かせるには、花びらの部分だけお手入れをしてもダメ。綺麗な花ほど根元から栄養をたっぷり受け取っているの」

「手先を綺麗に見せるにも体の中や床からムーブメントを起こす。ダンスも自然の摂理なのかぁ。上達のヒントはこんな身近なところから……私も自分で探さないと」

 舞衣も汐里も感銘を受けている。この実験はシンプルだが、表現者を目指す俺たちにとって圧倒的な説得力があった。

 忘れないようスマホに記録しておこう。と、そこで俺はハッと気づき頭を抱えた。

「フフ。どうしたの?」

「……なんでもないです」

 しまった。彩葉さんの画像、俺のスマホで撮影すればよかった!


「とまあ、最近はこんな感じです」

 カウカフェの個室で、仕切りの向こうにいるミイさんに前回の訪問後からの出来事を話した。明日からの踊り込みに備えて体力回復に努めよとのお達しで、今日は久々のオフ。俺はメンタル回復もしたくて訪れた。しかし、

「あのー、ミイさん?」

 今日はミイさんの反応が鈍いがどうしたのだろうか? よく見ると、ミイさんのシルエットがこくりこくりと船を漕いでいる。彼女も疲れているみたいだ。

「し……しばらないでぇ~」

「? ミイさん?」

 何を言っているのかよくわからないが、夢にうなされている?

「ヒヤッはやめてぇ~」

 ボイスチェンジャー効果も相まって、間抜けた声がさらに残念なことに……。

「ぴいいっ!」

「ミイさん! 大丈夫ですか!?」

「ふぇ? は、はひぃ! だ、大丈夫ですよ! じゅる~」

 そ、そんなに悪い夢だったのか。いったい何をすればそんな悪夢を。はて、この逃げ出すヒヨコみたいな声はどこかで聞いたことが……って、それよりミイさんだ。

「出直しましょうか? カウンセリングって大変ですよね」

「大変失礼しました! もう大丈夫です。えっと~、汐里さんと舞衣さんは、彩葉さんに日常生活まで指導されてるって話でしたよね」

「そうなんですよ。予想以上に彩葉さん熱血で」

「二人とも大変。メイクも指導されているだなんて」

「そうそう。素材の良さをもっと活かして……って、そうなんですか?」

「ふぇ? し、淑女たるものというのなら、そこまで及んでいます絶対!」

「な、なるほど」

 そういえば最近、舞衣と汐里のメイクがよりナチュラルになった気がする。ミイさん、三人に会ったこともないのにたいした洞察力だ。今日の報告だって、俺の体調を気遣ってか、あるいは空気を読み取って、睡魔と闘いながらもやたら的確に補足してくれるし。

「それはそうと、蒼樹さん」

 あ。声がシャキッとした。パッチリと目が覚めたらしい。

「大会まであと二週間ですよね。何か不安はありませんか?」

 疲れているにもかかわらず気遣ってくれる。本当の声はわからないが、ミイさんの声色は柔らかい。だから聞いてもらいたくなるんだ。

「練習はハードだけど上達している実感もあって毎日部活が楽しいです。けど……」

「不安はそこではないようですね」

「翔が何を企んでいるか。厳密に言えば、成雅大学がどういう画策を練っているのかに不安を覚えます。前にお話した咲って子に、成雅の情報が入ってこないか尋ねたけど、今回はいつになく情報統制が厳しいらしくて。まぁ、成雅も必死なのかな」

「何かを隠しているのは間違いありませんね。それが何なのか私にはわかりませんが、蒼樹さんでも見当がつかないのですよね?」

「こういうとき、どうすればいいんですかねえ……」

 ため息交じりに言う。聞き上手なミイさんのことだからまずは同調してくれる。そう思ったが、彼女は珍しく主張した。

「何があっても自分たちを見失ってはいけません」

「自分たちを、見失わない?」

「はい。今は対策のしようがない状況で気を揉んでいるわけですよね」

「見えない敵にどう対応したらいいかって感じです」

「ならば、やるべきことに専念する方が得られるものは多いですよ」

 先程の眠そうな口調とは打って変わって強い調子で断言する。きっとミイさんの信念だ。

「そっかぁ。あまり考えても意味ないか」

「向こうも自分たちがやれることをやっているわけですから。それに――」

 一呼吸を置いて、ミイさんは祈るように言葉を繋いだ。

「充実した日々を送れているなら、それをもっと大切にしませんか」

 カウンセラーとしての助言というよりは熱い思いだった。ミイさんの素性は何もわからないけれど、彼女の言葉はいつも心にストンと入ってくる。不安はそう簡単に払拭されない。それでも、温かいものが浸透していき気持ちが和らぐ。

「ありがとうございました。また、一頑張りしてきます!」


 大会まで二週間を切ってからは踊り込みが練習のメインとなった。俺は汐里とワルツを、舞衣とルンバを踊る。地獄の基礎練習時間は減ったが、それは他のときに補っている。例えば、昼食後は廊下でルンバウォーク、家ではホールド矯正機という両肘をかかしのように真横に伸ばす器具を部室から持ち帰って姿勢を矯正している。おかげでホールドを楽に張れるようになり、たまに着用したまま壁に凭れて寝るようにしているが、はりつけの刑に処される悪夢にうなされるときもある。

 舞衣と汐里も自宅での基礎練習に余念がない。それを受けて、最近部活ではテクニックや試合に勝つためのアドバイスに比重が置かれている。

 健さんのワルツレクチャーでは、本番に向けて一つの方向性が示された。

「ジュニア戦の審査基準は二つ。正しいカウントで大きく元気よく踊れているかどうか。ポイズ、ホールドが綺麗かどうか。この二つができれば必ず上位にいける」

「今言ったことが、それだけ難しいということですね」

「まだダンスを始めたばかりだからな。だが、お前らはそれなりにはなっている」

 初めて健さんに認めてもらえて顔が綻びそうになるが、ムチが飛ぶ前に気を引き締める。

「よって、高みを目指す」

 より勝利に近づける気がして、俺と汐里は息を呑んで言葉を待つ。

「ベーシックワルツには明確な勝負どころがある。一つは最初のナチュラルスピンターン。もう一つは最終部分のシャッセフロムPPからのナチュラルスピンターン。この二つを制するんだ」

「具体的にはどうすれば?」

 健さんのことだから繊細なテクニックを求めてくると予想したが、予想外の要望だった。

「もっと汐里を踊らせろ」

「……は?」

「聞こえなかったか? 汐里を、思う存分踊らせるんだ」

「踊らせてますよ? いでーっ!」

 愛のない靴ベラムチが飛んできた。わざわざ腫れているところをめがけなくていいんじゃないかな。試合前の大事な体なんだけど。

「わからないのか。汐里はお前に遠慮しているぞ」

「え? まさか……そうなの?」

「ええ」

「即答かよ! なら、お手並み拝見だ。俺に構わず思いっきり踊ってくれ」

「知らないわよ」

 なに、そのセリフ。超ムカつくんですけど。

 で、汐里百パーセントモードで踊ったが、ロアー(膝を曲げた上体の低いポジション)をすれば、

「ちょっ!? 膝が床着いちゃう!」

 ひざまずきそうなほど低く、ライズ(膝をほぼ伸ばして踵を浮かせた上体の高いポジション)をすれば、

「のわっ! 高っ!」

 首根っこをつまみ上げられた猫みたいに体全体をびろ~んと伸ばされ、

「まだ上がるの!?」

 さらに頂上を目指すジェットコースターみたいに上がり、そこから一気に急降下。

「あんれぇ~っ!」

 汐里の描くワルツの波に乗れなかった俺はフロアの外へ放り出される。コースアウトしたスピードスケーターさながら壁に激突した。

 ゴチーン!

「あだっ!」

 頭に星がチラついてるぅ。

「違いがわかったか?」

「……痛いほどに」

 悔しいけど素直に非を認めざるを得ない。だが、痛みの代償というべきか収穫があった。

「ほう。言ってみろ」

「決定的な違いは、音の取り方。汐里はカウントぎりぎりまでたっぷりと踊っていました。あれだけスローに踊っても音から外れないのは、ライズロアーの高低差を利用することで緩急をつけているから。俺、もっとライズロアーの練習をしないと」

「気づいたか。ならばまずは、ライズロアーの高低差を拡げろ。ライズはどこまでも高く、ロアーはどこまでも低く。それが審査基準である元気良さに直接繋がる」

「はい」

「次に、それをワルツの流れの中でやれ。下半身の最大可動域を一ミリも減らすな。それと、もっと支え足に体重を乗せて、膝と足の裏を柔らかく使え。それらができて、汐里がお前に何を求めているのかを肌で感じられるようになる」

「へい」

「音の取り方や体の動かし方だが、とりあえず汐里に合わせてみろ。テニスでも自分より上手な相手とラリーをすると急速に上達するが、ダンスも例外ではない。試合まで時間のない状況ではこれが最も効率的だ」

「なるほど。でも、それだとどっちがリーダーなのかわからなくなるんじゃ」

「無論、リードすべきは男性だ。だが、パートナーを知ることでリーダーとしての役目も見えてくる。それに、俺はとりあえず合わせてみろと言ったのだが。それともお前は試合でもパートナーにリードしてもらうのか?」

「ッ! 試合では絶対に俺が汐里をリードします!」

 意地で反論したものの、彼女の良さを活かせていないことを痛感した俺は、指摘されたことを頭の中で反芻しながら汐里と踊る。彼女が描く理想のワルツを見つけるために。


「これからルンバの奥義を伝授する」

 いつになく真剣な様子の陽さんに、期待が膨らむ。

 というのも、さっき健さんがワルツの勝負ポイントを教えてくれたが、具体的でわかりやすかった。ルンバはワルツに比べてもステップが多く、掴み所が見出せないでいたから非常に助かる。俺と舞衣は姿勢を正して次の言葉を待った。

「ルンバの究極奥義は」

「「……」」

「4でモヒャ~ッ!とだ」

「「…………」」

「お、おい。何か反応しろよ?」

「頭、大丈夫っすか?」

「今すぐ病院に連れていった方がいいかも」

「そ、そういうことじゃない!」

「そういうことじゃない? あ、そっか! この場合は精神的な方だ。カウカフェに連れていこう。絵里子さんに任せれば……いや、待てよ? あの人も性根はイカレポンチだから二人が共鳴して化学反応を起こしたら学校が滅亡。ならば、ミイさんに頼むか?」

「そ、それは大迷惑! っていうか、もう手遅れ……だと思うんだよねぇ? お願いだから彼女に回さないであげて」

「お、お願いだから俺の話を聞いてくれ!」

「ハァ、まぁ話だけなら?」

「まさかの上から目線!? コホン、まぁいい。やってみりゃわかる。まずは動画を撮るぞ。二人でルンバ七泉ルーティンを踊ってみ」 

 ルーティンとは幾つかのステップで構成されたもので、最後のステップを踏むと最初の状態に戻り、ループすることができる。構成は大学によって異なり、ルーティンの前に大学名を付けて称するのが一般的だ。

 撮影と聞いて緊張したが、俺と舞衣は今できるベストのルンバを踊った。彩葉さんがスマホで撮影をし、一ルーティンを終えたところで陽さんが踊りを止めた。

「ルンバは四拍子だけど、通常、音の取り方はカウント2から始まる」

「ツー・スリー・フォー・ワンって音を取るんですよね」

 これは基本中の基本。

「んだ。じゃあ、決めポーズが一番多いカウントは?」

「カウント4です」

 これも初心者レベルの問い。にしても、今日の陽さんは珍しく理論的だな。本当はそういう指導もできるんじゃ。

「今まで以上にそこを強く意識しろ。口カンで、4のときに大声を出せ。踊りにインパクトが出るぞ」

「口でカウントを取るってことですね。ツー・スリー・フォー・ワンでいいっすか?」

「ノンノン。いつもと違う口カンを取ることで意味が出てくるんだ。ツー・スリー・モヒャ~ッ!・ワンだ。モヒャ~!はビシッ!でもバシッ!でもいい。とにかくそこはマシマシで」

 前言撤回。やっぱりこの人、根っからの感覚派だ。でも、この教えについていかないと。

「「ツー・スリー・バシッ!・ワン」」

「もっと声出せ!」

「「ツー・スリー・バシッ!!・ワン」」

「いいぞ。次は音変えて! ツー・スリー」

「ビシッ!!」「ハイッ!!」

 なるほど4を重視することで踊りにメリハリが出ている。これが、陽さん流上達法か。

「今度は腕を一気に振り上げろっ! ツー・スリー」

「ドバッ!」「モヒャ!」

「よっしゃ! 次は立ちだ。雄々しく、強く立て! ツー・スリー」

「ンガッ!」「フガッ!」

「限界を越えろ! 全身いきり立て!」

「「シャキーン!」」

「チン〇ン勃〇させろ! そのままイッチャえ!」

「イクかボケッ!」「!? モ、モンゴリアンチョーップ!!」

「ぐはっ!?」

 怒りと恥じらいで赤面する舞衣から必殺技を喰らい、陽さんはマット、ではなくフロアに沈んだ。これ、紳士淑女のスポーツじゃないのかよ。

 ともあれ、撮影してもらった二つの動画を見ると、口カン入りのルンバの方が断然良い。自業自得で負傷した鎖骨を抑えながら陽さんは説く。

「要するに、自分が思っているのと人から見えているのにはズレがあるんだ。カウント4でインパクトと頭ではわかっていても、実際に口に出してやってみると自分の表現の甘さを感じただろ」

「ですね。陽さんを信頼する気持ちくらい甘かったっす」 

「そうだね。今度は暴言吐けなくなるようスリーパーホールドで絞めさせていただきます」

「ッ! ル、ルンバはにゃ、ラテンダンチュの中で最もスローなダンシュだけど」

 先輩としての威厳を保とうとしてるのに震えてるし噛んでる。格好悪っ!

「だけど、ポーズの瞬間は他のどの種目よりも早く踊るんだ。殊更、フレッシュさが問われるジュニア戦では一番大事なこと。だから、カウント4ではビシッとモヒャッとキメろ」

 愛がテーマのルンバで、わんぱくさを求められるのもなんだかなぁ……。でも、動画を見比べると、誰が見ても後者がいいのは明らか。

 汐里の指導の傍ら、彩葉さんが来た。

「陽くんの言う通り、競技ダンスは目立ってなんぼ。審査員はフロアにいる十組以上のカップルを一分半で審査しなければならないから、印象の薄いペアなんて見向きもしないわ」

「言われて見れば……」

 初めて競技会を観戦したときにフロア上の全カップルが『俺を見ろ! 私を見なさい!』って全身全霊で訴えかけてきたが、あれはそういうことだったのか。

「綺麗な踊り、色気のある踊り、繊細な踊り。カップルの数だけ個性はあるけれど、どれもパワフルであることが前提なの。日頃私たちが聴く音楽だってそうでしょ。音量が上がっていないと、どんな曲なのかわからないじゃない」

「なるほど。音量が小さいと、ロックだかバラードだかもわからないってことか」

 目指すべき方向性は掴みつつあるが一抹の不安が残っている。俺は陽さんに尋ねた。

「カウント4でキメることの大切さはわかったけど、その瞬間、動きが止まっちゃうんです。でも、俺たちはルンバウォークでムーブメントは止まらない方がいいって教わりました。矛盾してません?」

「それな。一年生のダンスあるあるだ。お前が言う通り、俺が言ったことは矛盾している。本当は、ムーブメントは止めないのが正解。でも、今は4で止めていいぞ」

「どうしてですか?」

「ジュニアルンバの審査基準は、正しいポイズとカウントで元気よく踊れているかどうか。それができれば十分勝ち上れる。蒼樹が言うムーブメントは、練習で試す分には構わんが、ジュニア戦でやる必要はない。というか、まだできないだろ。止まらずにメリハリを出すのは上級生でも難しいんだぞ」

「時期尚早というわけですか」

 教わったことをやらないという意味では腑に落ちないが、精度の甘いものをわざわざ試合でやる必要はない。俺と舞衣は言われた通りにカウント4でモヒャッ!と踊る。独特な助言は的を射ており、試せば試すほど二人のルンバのクオリティーは向上していった。


「とまあ、こんな感じです」

 試合まで一週間を切ったところで、練習前にミイさんに報告に行った。概ね順調にいっていることを伝え、良き相談者を安心させたかった。

「それはよかったです」

 この前来たときはお疲れモードだったが、今日の彼女の声には張りがある。かくいう俺も同じ。ミイさんと俺、体調のバロメーターが似てるな。ただの偶然だろうけど。

「今日はミイさん、お疲れではないんですね」

「疲れていないわけではないけど、私、最近調子が良くって」

「へぇ~。どうして?」

「言えません」

 にこやかにシャットアウト。なんだ、この爽やかで力強い拒絶は。

「最近、ミイさんちょっと冷たいですよね」

 つい本音がポロっと出てしまった。

「そ、そうですか? どういうところがですか?」

「俺に対して当たりが強くなってきたかなと」

「そうですか。では、今後は気をつけます」

「……そのままでいいです」

「……どういうことですか?」

「少しずつ感情をみせてくれるようになったことが嬉しいんです。初めてカウンセリングをしてもらったとき、ミイさんは聞き上手で包容力のある方だなぁって思った。そういうミイさんも素敵です。でも、俺は今のミイさんの方がいいかな」

「! ……どうして」

「等身大のミイさんを感じるから。カウンセラーとしては前の方が正しいという人もいるかもしれませんが、個人的には、自分らしさを見せてくれる今のミイさんの方が好きです」

 饒舌じょうぜつになっているのはわかっているが、そんな自分が嫌いじゃなくなってきた。俺はダンスを通じてポジティブになっている。

 浪人時代は最悪だった。負の感情に支配された精神状態が永遠に思えるほど不変で、感情の起伏は乏しかった。それがダンス部に入って変わった。成長といえるのかはわからない。環境の変化に適応しただけかもしれない。それでも、多くの女性を勧誘したり、競技ダンスという喜怒哀楽を表現するスポーツに夢中になって、たった三ヶ月でものの見方が変わった。サラッと本心を言えたのは、そういった過程の表れだ。

 にしても、ミイさんの反応がなくなった。今日は寝落ちしていないはずだが。それとも、俺なんかマズったか?

「あの~、ミイさん?」

「ひゃ、ひゃい?」

「大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫です! ほら!」

「ほらと言われても、見えませんから」

 ミイさんは大丈夫アピールしようと立ち上がって胸を張るが、シルエットが局地的にぷるんと揺れ、もはや別のアピールとしか思えない。いいものをお持ちなんですねじゅるり。

 と、ともかく、機嫌良さそうで安心した。じゃ、ポジティブついでに尋ねてみよう。こういうのは、互いに気分が良いときの方がいい。

「ところで、ミイさん。実は、前々から聞いてみたかったことがあるんです」

「な、なんでしょう!?」

「ミイさんって」

「……私って?」

「あ、いやダメだ。プライベートなことだった!」

 言いかけて止める。そうだ。それは禁止事項じゃないか。

「プ、プライベートなこと!?」

「はい。だから、止めておきます」

「……そうなんですか」

 あれ? ミイさん、心なしか沈んでいる気が。

「もしかして、尋ねた方がいいですか。原則はダメなんでしょうけど」

「……原則ですから。時と場合によります」

 ミイさん、なんだか自分に言い聞かせてる? まぁ、本人の了承を得ているなら尋ねてオッケーってことなのか。ならば、と俺は自分の頬を叩いて気合を入れた。

「この際、はっきりさせてもらいます。その方が確実に会える時間が増えるし」

「あ、会える時間でしゅか」

「はい。じゃあ、聞きますよ」

「はい……ごくり」

 覚悟を決めるミイさん。

「ミイさんは――」  

「私は――」

「わりと暇な人なんですか? 今のところ、百パー会えているんですけど。俺はよく直前に予約を入れるけど、いつでもいるのであれば、これからは予約なしで――」

「チーン! はい時間です! あ~忙しい。あれ? まだいたんですか? 次の人来るんで、DNA一つ検出されないよう除菌して速攻お引き取り下さい未来永劫永遠に!」

「やっぱり前のミイさんの方がいいかも!」 

 ガラス越しに両手を振り回してぷんすか怒っているシルエットが浮かび上がる。自分の気持ちを見せてくれるようになったミイさんは、ときに舞衣や汐里並みに超毒舌だけど、なんだか温かい。きっと次も会ってくれるだろう……会ってくれるよな?

 試合が終わるまで、もうここを訪れる時間はない。次に会いに来るときは勝利の報告だ。


 ラストスパートの一週間が始まった。基礎練習はウォーミングアップのときのみで、それ以外はひたすら踊り込む。試合でバテないようにするには、一回の競技時間と同じ一分半を、パワー全開で何セットも踊ることが大事とのこと。

 ダンスフロアに飛び散る汗も半端ない。特訓開始から体重は五キロ減り、分厚くなった足の裏の皮はついに剥がれ、巻き爪も悪化し、血染めの靴下が増える。その甲斐あってか、ワルツ、ルンバともに上達しているし、厳しい先輩方から及第点をもらうことができた。

 週後半にさしかかる。緊張感は払拭できないが、踊り込みに専念することで適度に保てればいいと前向きになれている。この調子ならどちらでも十分に勝負できる。

 だが、最悪の事態はいつも予期せぬタイミングでやってくる。

「……すまねえ」

 陽気の象徴である陽さんが雑にドアを開けて、声を詰まらせ、よろめきながら練習場へ入ってきた。明らかな異常事態に舞衣と汐里が踊りを止めて駆け寄る。

「陽さん!?」「大丈夫ですか!?」

「ん? あ……ああ……」

 二人が声をかけるも反応は鈍く、虚ろな目は焦点が合っていない。

「陽さん、一体何が?」

 今度は俺が声をかけてみるが、

「蒼樹、すまねえ。これは……絶対に……勝ち目がねえ」

 顔面蒼白の彼がそう口にしたのは、大会三日前のことだった。

 

 汐里が音楽を止め、彩葉さんと舞衣が陽さんに付き添う。俺は近くにある自販機からスポーツドリンクをダッシュで買ってくる。それを手渡すと、自分でもわかっているのか陽さんは落ち着きを取り戻そうと何度か口に含む。しばらくして、彼はスマホを取り出した。

「健さん、これ。今、連盟の仲間から送られてきたんですけど」

「今度の大会プログラムの切り抜きか。舞衣。七泉と成雅のエントリーを読み上げてくれ」

 すでに何かを察したのか、健さんの口調も険しく、舞衣は緊張した面持ちで陽さんのスマホを預かり読み上げる。

 ジュニアワルツの部

 未森蒼樹・海野汐里(七泉大学)

 ジュニアルンバの部

 未森蒼樹・火神舞衣(七泉大学) 

 自分の名前が掲載されていることに多少の優越感を抱くが、表情を変えない先輩たちを見てすぐに気を引き締める。そして、陽さんが愕然とした理由を知り……耳を疑った。

 ジュニアルンバの部

 信成翔・宮野美月(成雅大学)

 誰も何も発さない間がどれほど続いたか。沈黙に耐えかねて、俺は先輩たちに尋ねた。

「宮野美月って、あのチャンピオンですよね」

「ああ。現ルンバチャンピオンだな」

「何かの冗談でしょ? だって、あの人は四年生。ルール違反じゃ――」

「エントリー枠はリーダーの部歴で決まる。ジュニアの部の参加資格は、リーダーの部歴一年未満。ルール上は問題ないの」

「かといって普通はここまでしないぜ。ジュニア相手に大人気おとなげないからな。せいぜい部歴二年のパートナーと組むくらい。だというのに……こんなの、ありえねえって」

「勝つためなら何でもやる。それが成雅大学なのよ」

 その一言で全てが片付いてしまうことに恐れすら感じる。

 話題を変えようとスマホの画面をスクロールさせる舞衣が何かに気づいた。

「彼のワルツのパートナー、三年って書いてありますが、彩葉さん知っています?」

「どれ? 美里かぁ……。私のことをライバル視してくる同期。ワルツも勝ちにきてるわ」

 いよいよぐうの音も出なくなる。再び訪れた沈黙は入部以来最も重苦しかった。

「俺は……試合で勝てるようお前らを鍛えてきたし、お前らもそれに応えているけど、相手は想像の斜め上を行っている。ルールを守っているとはいえ、こんなのありかよ」

「陽さん気を落とさないで。先輩方のおかげで私たちの踊りは着実に上達してます」

「舞衣の言う通りです。第一、勝負はやってみなければわかりません」

 舞衣と汐里に激しく同意だ。状況は厳しいが、これを受けて対策を練られる。

「そうね。美里も優れたダンサーだけど、さすがに美月さんの比ではないし、汐里なら十分勝負できる。試合の経験値は向こうが上だけど、実力なら私は汐里の方が上」

 それを聞いて光明が差し込み、頭の中で戦術イメージが活性する。

 ちゃんと整理しよう。最優先は勝って舞衣と汐里を守り、翔を追放すること。そのためにはルールを上手く利用する。そう考えれば、成雅はルールを読み込み最善手を打っている。次にうちらの戦術だが、これはもう見えている。ルンバで挑むのは無謀。なんせ翔のパートナーはルンバチャンピオン。向こうに相当なアクシデントでもない限り勝ち目はないが、そんなフラグなど現実では立たない。

 これは、舞衣にとってマイナスにしかならないのでは。勝ちの見えない試合に臨んで自信をなくしたら、翔と組む組まない以前に部活を辞めてしまわないだろうか。

 初めて舞衣が部活に来た日。あのとき彼女は汐里という経験者の存在を知ったことで身を引く雰囲気を漂わせた。心配は杞憂に終わったが、今度という今度は。 

 俺と汐里で舞衣を守る。ワルツで優勝を狙おう。翔はチャンピオンと組む限りルンバで優勝を狙ってくる。もしそうなってしまったら、二位でも負け。ならば、残された時間は。

「舞衣」

 俺は覚悟を決めて、こう切り出した。

「試合まで残り三日、汐里とのワルツに専念させてくれないか」

 こういうときこそ男としてリードしなければならない。どんなに非情と思われても、最終的に守れればいいのだから。しかし、

 …… …… …… …… ……

 誰からも反応がない。

 思い切った提案だから、ある程度の沈黙は予想していた。だが、長すぎる。

 俺は間違えたのか? だが、これより勝率の高い方法などあるのか?

「どうして?」

 尋ねる汐里の声は冷徹だった。でも、ここで怯むわけにはいかない。俺はリーダー。今は嫌われても、二人の未来を守るためにリードするんだ。

「今度の勝負、俺たちは何が何でも勝たなければならない。言うまでもなく、負けたら舞衣と汐里は望まないリーダーと組むことになる。俺が理想のリーダーになれるかはわからないけど、二人には自分の意志でリーダーを選んで欲しいんだ」

 今伝えられるありったけの誠意。多くの大学が二年次に正式なパートナーシップを結ぶ。つまり、ダンスライフの多くはその人と過ごすことになる。そんな大切な時間を、啖呵を切ってくる奴の思うままにさせるわけにはいかない。

「蒼くん」

 舞衣の声は想像していたより落ち着いていた。

「それってつまり、私とのルンバは捨てるってことだよね」

 はっきり言われると心苦しいが、自分の発言に責任をもたなければならない。

「翔はチャンピオンと組むのだから本気で優勝を狙ってくる。こっちも優勝を狙わなければならない。仮に向こうが優勝したら二位でも負けだ」

「それは……そうだけど……」

 舞衣は口ごもる。彼女とて理屈ではわかっている。俺の発言は正論で卑怯。気を抜いたら一瞬で自己嫌悪に陥りそう。いや、俺のことなどどうでもいい。

「俺たちの踊りで完成度が高いのは汐里とのワルツだけど、それでもよりハードに取り組まないと優勝は狙えない」

「…………」

 舞衣は押し黙る。きっと心の中に認めたくない気持ちと言い返せない気持ちが混在している。しかし、そんな心境で彼女が納得できる答えが出るわけはなく、説得するしかない。

 説得方法は、俺が責任を負うこと。自分の主張を貫いて舞衣に諦めるしかないと思わせること。俺のせいにすれば、どういう形になってもまた俺自身がフォローできる。舞衣と汐里のダンスライフを守るためなら俺は悪役にでもなる。

 これ以上婉曲的なのは良くない。俺は心を鬼にした。

「こうなった以上、ワルツに専念するしかないんだ。お願いだから協力してもらえないか」

 理解して欲しいと目で訴える。人と長く目を合わせるのは得意ではないが、強い信念があるときは別だ。

 しばらく俺の目の色を窺っていた舞衣だが、やがて諦めるように視線を落とす。

「……うん……頑張ってね」

 舞衣はダンスシューズを脱ぎ、静かに練習場を出て行った。

         

 これで良かったのかなんてわからない。今、彼女を傷つけたことに違いはないのだから。それを癒せるのは優勝。必ず結果を出して、それからなんとか彼女を温かく迎えよう。

 まずは、不穏な空気になってしまったことをみんなに謝らなければ。

「皆さん、すみません。俺のせいでこんなことに――」

 バシーン!

 俺の右頬に衝撃が走り、乾いた音がダンスフロアに鳴り響いた。

「ふざけたこと言わないでよ!」

 その音を掻き消す汐里の怒号が飛ぶ。気の強い女性だとわかっていたが、実際にストレートに感情と手のひらをぶつけられたのは初めてだ。だが、

「じゃあ、どうすりゃ良かったんだよ! どうやったら二人を守れるんだよ!」

 ヒリヒリとする頬を抑えながら叫び返す。後ろめたさはあるが、感情的にこられて感情的にならずにはいられない。それに、汐里には名案があるってことだろ?

「そんなのわかるわけないじゃない!」

「!?」

 開き直った態度に絶句すると、たちまち憤慨する気持ちが押し寄せて来た。

「わけがわかんねえ! 答えになってないじゃんか!」

「悪かったわね。でも、すぐにわかるなら、陽さんだってあんなに青ざめない。それくらい難問なの、蒼樹だってわかるでしょ」

「そ……それは」

「私が腹を立てているのは、蒼樹が誰の意見も聞かずに一人で結論付けたこと。あなたはそれで私たちをリードしたつもり? そんなのリードじゃない! パートナーにとって、リードと強引はたとえベクトルが同じでも心理的に真逆。強引は突然で、リードは次を明確に示してくれること。光と闇くらい対照的なんだから!」

「ッ!」

 その言葉は、打たれた頬よりもストレートに心に突き刺さった。

 俺がしたことには一片のリードもない。人の気も知らず、俺は舞衣になんてことを……。

「二種目出る蒼樹が一番大変なのは私も舞衣もわかってる。蒼樹が気遣ってくれたことも。でも、一人で背負い込まないで。わからないときは、みんなに聞いてよ!」

 何も言い返せなかった。狭まっていた視野をこじ開けられ、後悔の念がとめどなく押し寄せてくる。俺は何を一人芝居してるんだ。

「乗り越えるべきはお前たちだから黙って見ていたのだが――」

 ようやく口を開く健さん。不自然と思えるくらい三人の先輩が黙っていたのは意図してのことだったのか。こういう経験、今までにもあるんだろうな。

「お前は、ダンスパートナーに一番してはならないことをした」

 言葉の割に優しい口調で俺を諭す。靴ベラ代わりにゴチンと拳骨げんこつを落とされたが。

「相手の気持ちを聞かなかったことですよね」

「事あるごとに言い合えというわけではないが、聞く耳をもたないのは最悪だ。二人で踊る意味がなくなる。競技ダンスにおいて、結果以前の話だ」

「こう見えて、健さんと私はけっこう口論するのよ」

「そうなんですか!? 見たことないのですが」

 彩葉さんの発言はあまりに意外で、汐里でさえ目を丸くしている。

「後輩には見せないようにしているのよ。でも、少し考えたらわかるでしょ。考え方が全然違うもの。私、健さんほど理論派ではないし」

 言われてみればそうだ。ミリ単位の動きを反復練習する健さんと芸術肌の彩葉さんの考え方が常に一致するなんてあり得ない。

「健さんとカップルを組んだ頃、私は遠慮していた。入部したときから指導してくれた先輩だもの。踊りに違和感があっても言えない。私が上達すればいいと自分を責めた。でも、そうやって抱えこむのはやっぱり良くないの。だから、あるとき勇気を出して言い返した」

「かなりやり合った時期があったな。俺も先輩だからリードしなければならないと思っていたし、素直にもなれなかった。だが、その頃からカップリングが合ってきた。口論するほど合ってくるなんて皮肉な話だが、当時はそれだけ必要なことだったんだ。だから、俺の経験をもとに助言するが、こういうときはパートナーの傍にいろ。舞衣と落ち着いて話した方がいい。デビュー戦で仲悪くして得られるものなど何もないぞ」

 経験談ほど説得力のあるものはなく、今、自分がやるべきことがはっきりと見えてくる。

「蒼樹、悪かったな。俺がもっと冷静であればよかったんだが」

「そんなことないです! 陽さんは何も悪くありませんから」

「俺からもフォローするけど、まずはお前から舞衣を頼むな」

「はい。先輩方、ご迷惑をおかけしました。それと、汐里も……ごめん」

 自分の愚かさを気づかせてくれた汐里に頭を下げた。

「私も……少し感情的になりすぎたわ」

「俺も。だけど、おかげで目が覚めたよ」

「そう? それなら、今度から無感情に引っぱたくわ」

「それ、めっちゃ怖いから! お願いだからやめてね」 

 想像するだけで恐ろしい。この人、その気になればマジでやるから。でも、彼女のもつ優しさは俺では計り知れない深さがある。

 だから、この場は良い形で終わらせ、明日以降に繋げたい。

「汐里」

 俺は仲直りと感謝の意を込め握手を求めた。たったそれだけのことだが、今は色々と口にするよりも気持ちが伝えられる気がした。

「ん」

 握手に応じる彼女も似た心境なのか、俺より言葉を発さない。ただ、言葉を形にするように、目を逸らし頬を染めながら俺の手をキュッキュッと二度握り返した。


「舞衣っち? 来てないよ」

 絵里子さんはテーブルで売上を計算しながら返事をくれる。カウカフェは閉店時間を過ぎていたが明かりがついていたので覗いてみた。校内で明かりがついている所は他になく、舞衣が学校にいるならここかと思って来たのだが、肩透かしをくらった。

 でも、絵里子さんに会えたのは幸運。二人の仲が良いのを聞いているからだ。舞衣は絵里子さんを尊敬しているし、絵里子さんも舞衣のことを気にかけているし、ダンス部自体を応援してくれている。だから、経緯を話すのは当然の流れだった。この人相手に誤魔化すことなどできないし、聞いてもらいたい気持ちもあった。絵里子さんは営業時間外にもかかわらず、メモやらスマホやらをいじりながら真剣に俺の話に耳を傾ける。カウンセラーモードの彼女はやはりプロ対応で、俺の話と気持ちを滑らかに引き出す。

「というわけですが……なんて声かければ」

 やるべきことはわかっているが、心理学のスペシャリストの意見も参考にしたい。舞衣もその道を志す人だから。

「それなら、一つ聞かせてもらおうかな。シンプルクエスチョンだよ」

 絵里子さんは人差し指をピンと立て、クイズを出すように尋ねてきた。

「蒼樹くんにとって、優しさって何?」

「優しさ……ですか」

 顎に手を当て唸る。シンプルなものほど奥が深いし、即答できない理由もある。

「二人を守りたくて提案したことが自分の思う優しさだったけど、逆に傷つけてしまって」

「それも一つの優しさだよ。今回は伝え方がちょっと強引だったけどね」

「ですよね……」 

「話を聞く限り、カウンセリングと競技ダンスって似ていると思うの」

「……二人で困難を乗り越えていくところがですか?」

「その通り。両方を知っている舞衣っちのことだから、カウンセラーとは、ダンスでいうリーダーと捉えているかも。相手を導くという点で同じだから」

「そうかも! 絵里子さんさすが」

 その目線、いただきだ。舞衣の気持ちに近づける気がする。 

「だとしたら、ダンスリーダーも紳士的な優しさが必要よ」

「紳士的な優しさ?」

「その優しさとは配慮。自分の思う優しさを、相手にどれだけ与えたかじゃない。優しさの押しつけはただの自己満足だよ。状況が厳しいのはわかっているから、舞衣っちは自分の思いを押し殺した。でも、そんなときは結論を急がず心に寄り添ってあげて欲しいの。今日の舞衣っちは、彼女の望む優しさを蒼樹くんから感じたかな?」

「ッ!」

「心理学科の子だからって特別な言葉はいらないよ。それよりも、ちゃんと寄り添って気持ちを引き出して欲しいな。女はね、そういう紳士的な優しさを汲んでくれる人を慕うわ。そのパワーは凄いわよ。女は変わるというけど、見違えるほど魅力的になる。だから、もっと舞衣っちを信じてあげて」

(紳士的な優しさ……配慮……寄り添う……信じる……紳士的な……)

 目を閉じて、数々の金言を溢さないよう頭の中で反芻する。あるいは声が漏れていたかもしれないが、しっかりと記憶したところで立ち上がった。

「舞衣を探しに行ってきます」

「いってらっしゃい。それと、これを持っていきなさい」

 渡されたのは貸し出し用の大きな傘。いつのまにか外は雨が降っている。

「あと……二十分後に駅よ」

「! 舞衣は駅にいるんですか?」

「舞衣っちはね――蒼樹くんを紳士にしてくれる素敵な淑女よ」

 スマホをいじっていたのはそういうことか。この人の配慮には敵わないな。


 カウカフェを出て駅に着くまで借りた傘をさしている。小降りでもなく激しくもなく、どこを歩いても等速度で落ちてくる典型的な梅雨の雨。予定時刻よりも前に着いたが、すでに舞衣はいた。駅のロータリーで、彼女の周りだけ時が止まったかのように一人立ち尽くしている。俺は、彼女を驚かさないよう穏やかな足音で近づき、暗くなりすぎないトーンで声をかける。 

「舞衣」

「……蒼くん」

 舞衣は弱々しい瞳で俺を見上げた。

「さっきは本当に悪かった。舞衣の気持ちを聞かずに一方的に結論付けてごめん」

「ううん。私こそ自分のことしか頭になくて。それに……勝手に練習場離れて雰囲気悪くしちゃった。どう……しよう……」

 舞衣は俯きながら声を震わせた。彼女は折り畳み傘をさしているが、その割に濡れている。いつものふわりとした髪は水滴で萎み、白いブラウスはしどけなく、肌は透け、形のいい胸のラインが露わになっている。普段は快活な舞衣が見せたことのない無防備で弱気な姿を見て、俺は自分のしたことを改めて恥じた。

「舞衣は何も悪くない。こうなったのは俺のせいだし、先輩たちもわかっているから心配しないで。それより少し歩こう。このままだと風邪引くから」

「……うん」

 舞衣のペースに合わせて歩き始める。口にせずとも向かう先は互いにわかっていた。雨に濡れた状態でどこかに寄ることなどない。俺と舞衣の下宿先は近いので、練習帰りはいつも彼女を送っている。部屋に上がったことはない。

 今さら濡れても平気と思っているのか、舞衣は傘を肩にかけて斜めにさしている。俺はこれ以上彼女が濡れないよう自分の傘を彼女のそれより高い位置でさす。そのことに気づいた舞衣は遠慮したが、「紳士でいさせてくれ」と軽くおどけながら荷物を預かると、舞衣は頬を緩ませ、傘を閉じて中に入ってきた。

 相合い傘で歩く帰り道。閉ざした気持ちを引き出すには今しかない。俺は多くの人たちのアドバイスを胸に、舞衣の心に寄り添う。

――――――――

「迷惑をかけることになるけど、私も試合に全力で臨みたい。だって、今日までみんなで力を合わせてやってきたんだよ。確かに結果は大切だけど、過程だって大切にしたい」

 絵里子さんの言う通り、舞衣はちゃんと向き合えば心を開いてくれて、明確な意思を聞くことができた。彼女の思いはなんとなく察しはついていたが、改めて彼女から発してもらうようリードすることこそ自分がすべきことだと駅に迎えに行くときに何度も思った。こうして寄り添えたのはみんなのアドバイスのおかげだが、中でも胸に残っていたのはミイさんのある言葉だった。

「充実した日々を送れているなら、それを大切にしませんか」

 あの祈りのようなメッセージが、なぜ脳裏をかすめたのかはわからないが、何が何でも三人で臨むべきだと気づかせてくれた。

 さっきの俺は、女子二人を守りたいという自分の願望エゴのみを主張してしまった。浅はかな自分を殴ってやりたい。そう口にしたとき、汐里に引っぱたかれたことを思い出し、そのことを話したら舞衣は目を丸くして驚いた。健さんにげんこつを落とされたことは補足してもスルーされたが。

 アパートが見えてきた。話足りないが、風邪を引いたら元も子もない。わだかまりはなくなり一緒に試合に臨めることにはなった。だが、失いかけたものを取り戻しただけで今後の打開策には至っていない。このまま別れていいのだろうか。

「ありがとね、蒼くん」

「お礼を言われちゃいけないよ、俺は」 

「ううん。来てくれなかったら明日からどうすればいいかわからなかった。こうして私の気持ちを聞いてくれたし、試合ではベストを尽くすから。やっぱり自分の未来を完全に誰かに託すのはお互いにとってよくないもの」

「そっか……そうだよな」

 舞衣はいつも相手目線で物事を考えられる人。俺は想像以上に彼女に支えられている。改めてそう感じる一日だったが……今、俺が心に秘めている思いも通じるだろうか。

 最後の方は猫もくぐれないほどの歩幅で歩いてきたが、アパートに着いてしまった。けれど舞衣は傘から出ない。俺の気持ちを察してのことか、あるいは……。

 競技ダンスは相性が大事。それを一気に高める方法は……。試合前だからリスクはあるがチャンスはそこにしかない。今はいいムードだし、断られたら笑って誤魔化そうか。二人とも成人しているわけだし、振舞うことはできるはず。俺は勝負に出ることにした。

「舞衣」

 まっすぐ見つめながら彼女の手を取る。濡れそぼった華奢な手は冷えていたが、ギュッと握り締めると水滴が蒸発する勢いで火照っていく。

「――今夜、うちに来ないか」

 

 すぐに支度すると言って舞衣は部屋へ戻り、その間に俺は部員に無事と詫びを伝える。普段より一回り大きなバッグを背負った舞衣を傘で迎えてともに歩くこと十分、ボロい一軒家に到着。築五十年の木造二階建てが俺の下宿先だ。家賃は驚愕の一万五千円、地域最安値で屋内のそこかしこで軋む音がする。大家さんは、建築基準法はクリアしていると言っていた。

 三人用のシェアハウスだが、現状はシェアではなく独占モノポリー状態。不況とわめく世の中でも、経済的理由なくしてここに住む人など現れない。住めば都だと俺は思うが。大家さんは大らかで、「全部好きに使っていいよ」と言ってくれている。お言葉に甘えて、一階の共有スペース、二階の八畳二部屋、十二畳一部屋を占拠。まぁ、今日みたいな日はどこも雨漏りするのだけれど。

 初の訪問者が女性であることに俺は浮足立つが、これも三日後の試合の緊張対策だと発想転換してなるべく冷静を装う。舞衣の荷物を持った俺は、彼女を二階の部屋に案内した後、風呂場へ駆けつけ湯船を張り、手早く夕食を準備した。幸い昨日の作り置きがあり、レンジでチンと発酵食品でなんとかなりそうだ。舞衣が下りてくる頃にはそれらを食卓に並べることができ、俺はおかずを一口小皿に取り分け、部屋の片隅にある質素な神棚に手を合わせる。

「私も手を合わせていい?」

「いいの?」

「お邪魔させてもらっているんだもの。そうさせてもらえると嬉しいな」

 舞衣と一緒に手を合わせる。思いもよらないことに母も驚いているに違いない。

 遺影を見て舞衣は何を思うのだろう。気遣ってくれたのか、しばらくはそのことに触れなかったが、母の味を思い出して作った俺の手料理を食べているときに自然とその流れになった。事故の話をすると、多くの人がそのこと自体に興味を抱く。それにはもう慣れているが、舞衣は一旦箸を止めるも深く詮索することなく、ただ料理を味わい褒めてくれた。

 食事が終わる頃には風呂が沸き、俺は舞衣を案内する。彼女は皿洗いをすると言ってきかなかったが、体調管理が一番大事と俺は拒む。変なところで言い合うことになったが、今度は舞衣の順番という提案で譲歩してもらった。

 皿を洗って急いで全ての部屋を片づけ、最後に新しいシーツを布団に敷く。普段はわりかし部屋を綺麗に使うが、最近は疲れていることもあって物が散在していた。

 ホッと一息。だが、落ち着かない。さっきまで気づかなかったが、ボロ家故に一階の風呂場からいろんな音が聞こえてくる。ちゃぽんちゃぽんと浴槽の水が滑らかに揺れる音、シャーッと流れるシャワーの音、キュッと蛇口を閉める音、しばらくしてドアをスライドさせる音。そのどれもが俺よりも丁寧で艶めかしい。普段は一人の空間。そこから自分が起こさない音が聞こえてくるのは、不慣れな俺には生活感よりも背徳的な匂いが……。なんてしょうもない煩悩と闘っているうちに、長いドライヤー音も止んでしまった。トントントンと小動物が忍ぶような足音が近づくと、自室なのに思わず背筋を正した。

「お風呂いただきました。蒼くんも入ってくる?」

「俺はまだいいや」  

 家族風呂の大きさに舞衣は感激していた。血色が良くなり、艶やかでホクホクとした笑顔。練習で作り笑いはするけど、やっぱり天然が一番だな。と、見惚れつつもそこまでは理性を保てるのだが、目の前にいる彼女は未知の魅力を放っている。髪を完全に下ろした姿は大人っぽく、ボリュームを抑えた声は淑やか。動く度に漂ってくる女性用ボディーソープの香りが鼻孔をくすぐり、夜更けなのに人を疑わない無垢な瞳が庇護欲を掻き立てる。極めつけは……やっぱり大きい。もう雨には濡れていないが、生地の薄いTシャツからピンキーが透けている。夜更けの天然シースルーはマズい。それにしてもブラって奥深いよな。単色なのに日光東照宮の木彫り並みに精巧で……って、凝視しちゃいかーん!

 あ~どうしよう。狭い部屋に二人。踊るときより離れているのに近くに感じる。

 ダメだ。もっと冷静になれ。努めて自然に振舞うんだ。

「女子だと、ユニットバスでもお湯を溜めるの?」

「私はほぼ毎日溜めてる。でも、足は全然伸ばせないんだ。三角座りは窮屈だよ」

(……窮屈なのは舞衣だからなのでは?)

「そ、そっか。まぁ、ここは浴槽だけは立派だからね。あ、お風呂の栓は抜いてくれた?」

 同じ湯に浸かるのは嫌がる人もいるから頼んでおいたのだが。

「それなんだけど、抜くのやめたの。だって、もったいないでしょ。溜めておくべきよ」

(抜く……もったいない……溜めておくべき……。俺は意識しすぎか?)

「ん? また入るってこと?」

「これからたくさん汗かくじゃない。できれば、直後にまた入れさせてもらってもいい?」

(タクサンアセカク……チョクゴ……イレサセ……) 

「湯だけに愉悦に浸ることが――」

「お前、わざと言ってるよな!?」

「ん? 蒼くんのぼせてる?」

 紅潮した俺の額に手を当てようと四つん這いにやってくる双丘、ではなく舞衣。まさかの無自覚なのか!? 豊かな双丘がプレートテクトニクスを実証するように局地的に隆起してその標高をさらに高め、いや、この場合は海底に向かってどーん、じゃなくって!

「だ、大丈夫だから! 準備オッケーならいこう」

 素の舞衣がこんなに破壊力、否、魅力に溢れているとは思わなかった。男心を掻き立てるしぐさや会話力は果たして天然なのか策略なのか。基本的には天然だと思っているが、なんせ彼女は心理学者の卵で、カウンセリングに通う俺は変に深読みして悶々としてしまう。あぁ、ダメだ。これ以上意識したら理性が崩壊し、部まで崩壊しかねない。俺は邪念を振り払って立ち上がる。移動先は何も置いていない十二畳板張りの隣室。

「じゃあ、曲をかけるよ」

 手にしているスマホからルンバを流す。敷地が広く、周りを資材置き場と畑に囲まれた我が家は、夜だろうと音量も話し声にも気を遣わなくて済む。

「ダンサーにとって最高の場所だね」

 築五十年の民家は久しぶりに褒められたんじゃないかな。ここはプライベートダンスフロア。大きくステップは踏めないけど二十四時間練習可。ダンス部に入部した日からここで練習をしている。

 まずはストレッチ。疲労は溜まる一方で、試合を目前にした今、ケガを防ぐためにも入念に行う。次いで、ラテンの基本動作であるクカラチャとルンバウォーク。ウォークは数歩しか踏めないけど、ガランと広い部屋なら十分に動きを確認できる。

 この後は踊り込みだが、ここで舞衣に相談したいことがある。俺たちは、地べた座りで向かい合った。

「ぶっちゃけ、今のままで信成・宮野組に勝てると思う?」

「普通に考えたら無理。私なりに努力はしているけど、相手はチャンピオンだもの」

 彼女がそう言うのはわかっている。でも、大切なことは相手の気持ちに寄り添うこと。同じ過ちはもうしない。

「みんなからは、安立戦のルンバの戦略はお前らに任せるって」

「そうだったの。それで、蒼くんは何か活路を見出しているの?」

 問いに対して、俺は静かに頷き立ち上がった。

「試したいことがある。固定観念に囚われずに、俺のリードを感じて踊って欲しい」

「感じ取ればいいんだね。やってみる」

 舞衣も立ち上がり、スッと手を差し出す。その所作は彩葉さんの助言がしっかりと反映され、見違えるほど上品だった。彼女の努力をしっかり活かそう。俺が手を取ると、舞衣は静かに目を閉じて気持ちにスイッチを入れた。

 ルンバは四拍子だが、最初の一歩目はカウント4から始まる。俺も4で踏み始めるが、いつもと違って踏み切らず、ある動作を試みる。動き始めは舞衣が不安になるほどスローに。だが、その後は素早く一気に踏み込んだ。

「ッ!」

 驚く声を発する舞衣だが、フォローに長けた彼女は俺が仕掛けた変則的なリズムの溜めにも軽やかに呼応する。オープンヒップツイストからのファンポジションというルンバで最もありふれた、たった2カウントのステップ。舞衣ともすでに千回以上は踏んでいるが、この一回は別物同然。それなのに、彼女は一度でマッチさせた。

「ジェットコースターに乗ったみたい!」

 大きな目をさらに開けて、まるで本物のそれに乗ったようなはしゃぎっぷり。

「新鮮だろ? でも、舞衣もいきなりそれを乗りこなしたね」

「なんていうんだろ? 予感?」 

「ルンバの作戦を考えていたとき、初めて舞衣が部活に来た日のことを思い出したんだ。ステップを教わってないのに陽さんと踊っていて驚いたけど、あれこそが舞衣の才能で、活かさない手はないって」

「あれは、陽さんのリードが上手だったから」 

「それを感じ取れるってことは、舞衣がフォロー上手ともいえるでしょ。彩葉さんも絶賛してるし」

「自覚ないんだけどなぁ。私は与えられたものに素直に応えているだけ」

「うーん、なんて伝えれば自覚できるのかなぁ。舞衣のフォローの才能は、話で言うところの聞き上手な人。って、舞衣は聞き上手だから、これじゃあ伝わらないか」

「私って聞き上手?」

「え、そうでしょ」

 何を今さら?と俺は思うが、舞衣の顔が綻びる。

「嬉しそうだね」

「心理学科の生徒にとって、それは最上級の褒め言葉だよ」

 確かにカウンセラーには必要不可欠だよな。舞衣、絵里子さん、ミイさん。彼女たちはみんな聞き上手。とりわけ、絵里子さんはリード&フォローの振れ幅が半端ない。

「ところで、今の方向でやってみないか。このままだと勝てないことは明白だし」

「他のステップもこういう感じにやるってことだよね。試合に間に合うかなぁ?」

「わからない。不眠不休の覚悟で臨まないと」

「今夜は寝かさないぞって?」

「……。今夜で終わればいいけどな。動画を何度も見てマネて、自分たちの踊りも撮って隅々までチェックするからな」

「三日三晩、手取り足取り教えてくれるんだ」

「お前、やっぱりわざとだよなっ!?」

 こうして男女が真夜中にルンバを踊る。愛を語らい、汗をかき、床を軋ませ、乱れては裸になる。実態は、競技ルンバについて激論を交わし、何度も踊って発汗し、眠気覚ましにひとっ風呂と、扇情的ムードは皆無。そんなルーティンを何周かするうちに、敷地内で大家さんが飼育している鶏が「ケッコー!」と、けたたましく雄叫びを上げた。

 

「朝日ってこんなにきつかったっけ。新聞配達で浴びるときは清々しいのに」

「本当に一睡もしなかったもの。もう目を開けて歩けないよぅ」

 俺と舞衣はめっちゃテンション低めで登校。冷蔵庫は空っぽになったため、朝は学食で食べることにした。黙ってムシャムシャ。う~ん。眠気が勝って味がよくわからん。

 徹夜の甲斐あって、昨晩の練習はかなりはかどった。それでもまだ夜の家練を続けないと間に合わない。残り二日。学校では汐里とワルツを、家では舞衣とルンバをしようと考えている。睡眠時間は激減するが、気合で乗り切るしかない。

「ごちそうさまでした。授業準備があるから先に行くね」

「いってらー」

 互いに苦笑いを浮かべて別れる。一人になった途端、猛烈な睡魔が襲ってきた。少しでも寝ておきたい俺は崩れるようにテーブルに突っ伏す。スヤスヤ――

「いいご身分ね。ティファニーで朝食かしら」

 夢の中で女性の声がする。あるいは舞衣が戻ってきたのか? まぶたは鉛のように重く開けられず、返事をするのが精一杯。

「あのなぁ。昨晩からそういう思わせぶり多いって」

 ふうっと吐く息はため息なのか寝息なのか。

「ふ~ん……。ゆうべはお楽しみでしたね」

 敬語なのに凄みがあるが、お楽しみってルンバのことだよな。

「楽しいは楽しかった。好きなわけだし、新しい世界が開けたし。でも激しすぎて、今はその反動が……ムニャ~」

「へえ……そうなの」

 舞衣の声ってこんなに低かったっけ。重低音でテーブルが振動してるのだが。

「さぞかしお熱い夜だったのね」

 あ~もう。いい加減、寝かせてくれよ。

「そうだな。床はギシギシ、めっちゃ汗かいたな。二人、何度も風呂に入っ――」

 バッシーーーーン!

「どわっ!?」

 全身に響く突然の衝撃。食卓が跳ね上がり、俺はアッパーを喰らうように吹き飛んだ。

 何事かと飛び上がって体を起こすと、汐里が両方の握りこぶしを食卓に置いてプルプルと体を震わせていた。裁判長もビックリの拳下ろしに食堂が静まり返り、汐里から放たれている暗黒オーラに震えている人までいる。抜け駆け練習したから怒っているのか? 確認しようにも火に油を注いでしまいそうで聞くに聞けない。

 どうしよう……。取るべき行動に迷っていると、汐里はスクッと体を起こし、俺は条件反射でスクッと背筋を伸ばす。彼女はバッグからメモ帳を取り出してのたまった。  

「住所」

「は?」

「ここに家の住所を書きなさい」

 なんで?と、やはり尋ねられる雰囲気ではなく、素直に従うことに。って、よもや壊しに来るわけじゃないよな。あのボロ家、今の破壊神しおりだったら一撃で潰せるぞ。汐里は俺が書いたメモをひったくるように奪うと、今度はスマホを取り出し電話をかける。相手はワンコールもしないうちに出た。

「黒のスーツケースでお願い。住所は七泉市――」

「ちょ、ちょっと待った!」

「電話中なんだけど」

「わかってるよ。相手は誰?」

「家政婦よ」

 こ、こいつ、マジで筋金入りのお嬢様だ。一言目から命令してるし、スーツケースの色を指定しただけで通じ合っているし、すげーな。じゃなくって!

「お前まさか、今晩うちに一泊するつもりか?」

「そんなわけないでしょ」

「そっか、ならいいや」

「今日と明日よ」

「まさかの連泊!?」

「何か文句でも?」

「そりゃそうだろ! なんで家主を無視して勝手に話を――」

「舞衣は泊められて、私はダメということかしら」

「ッ!」

 ……反論できねえ。頼み方に問題はあるが。汐里の言う通り、三人しかいない同期の間に不平等があってはならない。だが、今回に限ってはダメだ。どうしても譲れない訳がある。俺は汐里の逆鱗げきりんに触れないよう平身低頭した。

「普段なら歓迎する。でも、今回はダメだ」

「どうして? 何かやましいことでもあるんでしょ」

「そんなのないって! ちゃんと説明をするから」

 銃口を向けてくる相手に銃を収めてもらうよう冷静を繕った振舞いでなだめると、汐里は不服そうに電話を切った。

「さっきは悪かった。あまりの眠さに言葉が足りなかった」

 それから俺は、舞衣との今朝までの出来事を包み隠さず話した。ルンバの仕上がり具合いを俺と舞衣がどう感じているのか、徹夜で踊り方を色々と試したことなど。汐里は、しばらくは仏頂面だったが、徐々に落ち着きを取り戻して最後まで耳を傾けてくれた。

「そうね。劣勢とわかっているなら、ルンバは一か八かの勝負に出るのもありね」

「間に合えばの話だけどな」

「それで、部活でワルツに専念する分、家ではルンバに専念したいと」

「そうさせてもらいたい」

「わかったわ。じゃあ、私はあなたの部屋で大人しく見ることにするわ」

 どうしてそうまでして泊まりにこだわるのか。

「ダメだ。それじゃ意味がないんだ」

「私、そんなに邪魔なわけ!?」

 静まっていたはずの怒りが一瞬で沸点に達し、汐里は再び拳を振り上げる。俺は飛びつき彼女の両手を押さえた。壁ドンさながら数センチの距離だが怯まない。

「邪魔なわけないだろ! 本当は、誰よりもそばにいて欲しいんだ!」 

「ッ!?」

 汐里はこれでもかというくらい目を丸くする。顔は紅潮し、力の入った拳や腕はへにゃっと脱力し、目が合うとしおらしく視線を逸らした。その反応の訳が、本能的に発した自分の言葉にあると理解して俺まで顔が熱くなったが、ウェーイとざわめくギャラリーをコホンと咳払いで追い払った。とにかく、誤解されないようきちんと伝えないと!

「いつだって汐里は的確にアドバイスをくれるし、三人で楽しく過ごした方が安心して試合に臨める。だけど、汐里は大事なことを隠しているよな」

「……何をよ」

「今、三人の中で体調面に問題があるのは汐里。ふくらはぎや左足首あたりを密かに庇っているよな。一昨日からライズポジションが三ミリ低い」

「ッ!」

 汐里は罰の悪い顔をする。一緒に踊っているのに気づかないとでも思ったのか。

「ワルツに専念する汐里が一番、体がキツいに決まってる。膝の伸縮が大きいから」

 ルンバはニーバックといって、伸ばした軸足を、さらに膝の皿の部分を後ろに引くことで支え足に動力を伝える。つまり、膝の伸縮運動はないに等しい。対して、ワルツは膝の伸縮運動を大きくすることで優雅な流れを生む。三拍子のワルツは一小節に一回、膝の伸縮がある。それは、数秒に一回スクワットをするようなもの。

「それだけじゃない。汐里は自宅から片道二時間かけて通学している。長距離移動は体力を消耗するし、最近は帰りも遅いから睡眠時間も十分に取れていないはず」

 精神的に逞しい汐里は決して弱音を吐かない。故に無理をしてしまう癖がある。だから、こういうときこそリーダーである俺が察してセーブさせるべき。俺が、相手目線で配慮をすべき相手は舞衣だけじゃないんだ。

「ワルツは本命。優勝狙いで長丁場になる。コンディション維持にも努めてくれないか」

 真剣な眼差しがぶつかり合う。しかし、思いが通じたのか、汐里は深くため息を吐いた。

「わかったわよ、もう。……今回は譲ってあげるわ」

「ありがとう」

「でも……体を心配しているのは、なにも蒼樹だけじゃないのよ」

 彼女にしては珍しく、腕を組み、横目で俺の顔色を窺いながらぼそぼそと話す。

「……肝に銘じておく」

 全部員から理解を得られたことで、残り二日間は充実した練習ができた。結局、舞衣との深夜練習は当日の朝にまで及んだ。試合では体力と睡魔とも戦わなければならない。しかし、ここまできたらワルツ、ルンバともに勝ちにいく。何が起こるかなんて誰にもわからないんだ。大会会場に向かう電車に揺られながら、そのことばかりを考えていた。


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