第5話 安立戦

 安立戦は安城あんじょう大と立帝りってい大が共催する招待試合。開催場所はどちらかの大学の体育館で今年は安城大で行われるが、どちらしても七泉からは遠く、今朝は始発電車に乗って来た。

 この試合はシニア三年の部、シニア二年の部、そして一年限定のジュニアの部の三つのセクションで行われるが、俺たちが出るジュニアの部は、モダンはワルツ、ラテンはルンバのベーシック単科戦。つまり、種目別大会だ。

 体育館に入ると、中央のダンスフロアをぐるりと囲むようパイプ椅子が並べられ、背凭れには各大学の名が貼られている。七泉と書かれた応援席に着くと、ちょうどダンスフロアの目の前だった。床は、先のダンスパーティーにあったような特設の木のパネルではなく、一枚が畳二枚ほどの巨大な透明の下敷きのような保護シートで、それがバスケットコート二面分に敷き詰められている。

 選手は応援席で着替える。女性は、小学生のときのプールの着替えで使用したようなバスタオルに身を包んで着替えるが、男性はパンツ姿など見られても平気といった風にスポーンと脱衣するが、それを気にする女性もいない。

 テレビで観る社交ダンスといえば男性は燕尾服、女性は華やかなドレスだが、学生ダンスでは上級生をメインとした学年無差別で争うレギュラー戦と言われる試合では着られるが、今日のような非レギュラー戦ではあまり着られない。

 ジュニアの部では、ワルツ、ルンバともに同じ格好。男性は、上半身に白シャツ、青ネクタイ、タイトな黒のベスト、下は黒のスラックス。そして、社交ダンスの大会とあって競技者は髪上げというオールバックに近いヘアセットもしている。こんな格好の男性が集結するものだから、見ようによってはバーテンダーの会合だ。女性は、上は黒か白のレオタード、下はパニエという光沢のある膝丈のサテン生地のスカートで色は単色でなければならない。男女ともにほぼモノトーンの衣装の中、唯一個性を出せるのがパニエだが、興味本位で触れようものなら、美少女戦士たちに月に代わっておしおきされる。

「一人で踊ってきたのね。あら、襟元が折れていてよ」

 一足先に準備を済ませ、フロアの感触を確かめてきた俺の乱れた服装を、しょうがないわねという感じでクスッと笑いながら、彩葉さんは向かい合って、少し顎を引き上目遣いで直してくれた。あ~もう、幸せ! このまま俺の新妻になってください。

 競技に出ない先輩たちはスーツを着ているが、背筋をピンと伸ばし胸を張った集団は、それだけで華麗な雰囲気を放っている。ま、彩葉さんよりスーツの似合う淑女なんていないけど。ウエストラインの絞られた襟なしのラベンダーグレーのスーツに黒のインナーのレースが覗いているとか、犯罪級のセクシーじゃないでしょうか。

「舞衣と汐里はまだかかりそうですか?」

「今、化粧室でメイクと髪上げを仕上げていて、それが終われば準備完了よ」

 ダンス用のメイクはいわゆる舞台メイクだから男女ともにするが、今日の俺は薄茶のドーランという油性の舞台化粧を顔、首、手の甲など肌が露出する部分に塗り、眉毛用のペンシルで眉毛をキリッと描き整えている。

 女性のメイクはもっと大がかりかつ繊細で余念がない。例えば、アイライン。長い付け睫毛にプラスしてアイラインを太めに引くため目力が半端ない。これで外を歩こうものなら、道行く人を間違いなく目で殺せる。ちなみに、ボロ家である我が家でメイクの練習をしていた舞衣が暗闇から「似合う?」と現れたとき、俺は「化け物!」と悲鳴を上げ、逆水平チョップを浴びせられた。理不尽すぎる。しかし、強烈なライトで照らされるダンスフロアではそれくらいしないと表情が映えない。

「お待たせしました!」「あら、なかなかの紳士がいるわね」

 化粧道具やタオルを小脇に抱えた二人が戻ってきた。

「すぐに最終チェックを始めるわよ。二人ともシャドーで踊ってもらえる?」

「わかりました!」「お願いします!」

 彩葉さんの指示に対し、特訓で体得した張りのある声を出して、二人は人の混んだダンスフロアへ向かいそれぞれがシャドーダンスを始める。メイク、髪型などは一見キマッていても実際にダンスフロアで踊って確認してみないと完成度はわからない。

「二人ともメイクはバッチリ。照明の色を把握した上でよく映えているわ。髪型は……うん、いいわね。崩れる様子はまるでない。それに、ちゃんと個々の長所も活かしているわ。汐里はロングヘア―を上手に束ねることで、長く細い首のラインの美しさがより一層際立っている。舞衣はショートヘアーだから束ねるのに苦労したけど上手にまとまっているし、今日は立てた前髪を横に流すことで目鼻立ちの整った顔が良く見えるわ。普段は前髪を下ろしているけれど、実はおでこ美人でもあるのね。それにしても……蒼樹くん?」

 彩葉さんは、舞衣をじっと見つめながら俺に問う。 

「大会までの最後の三日間、舞衣にいったい何をしたの?」

「家で合宿をしただけですよ。ハッ!? もしかして嫉妬してくれ――」

「舞衣は始めから上手だったけど、それでも三日前とは別人よ。相当追い込みをかけたのね。黒のレオタードもルビーレッドのパニエもまるで体の一部みたいに踊っているし――」

 ……スルーかよっ! ま、わかっちゃいたけどさ。

「――今、フロアでルンバを踊っている一年生の中で、舞衣は一番よ」

「そ……そんなですか」

 彩葉さんからすれば、信じられない成長ぶり。言われてみれば、他大学のルンバを踊る一年生が霞んで見える。ただ、舞衣が相手にしなければならないのは、学生チャンピオン――宮野美月先輩。

 ワルツを踊る汐里がフロアの中央に入ってきたところで、話題が彼女へと変わる。

「汐里は」

 と言いかけたところで、彩葉さんは苦笑する。

「完全に別格ね。ほら、彼女の周りをよく見てご覧なさい」

「周りを……。あっ!!」 

 そこには驚きの光景が広がっていた。練習中のダンサーたちは自分たちの踊りを忘れて汐里に見惚れている! 心を奪われているのは彼ら彼女らだけではない。フロアの外のスーツ姿をした三、四年生までもが汐里のワルツを目で追っていた。

「輪郭のはっきりした美しいホールドによって、黒のレオタードを着て踊る姿が上質な影絵に見える。彼女の持ち味である技術の正確さもここ数日でさらに磨きがかかっていて、寸分たがわぬ足の運び方からロイヤルブルーのパニエが描くラインだけで何を踊っているかわかる。そんなことできるダンサーは上級生でも数えるほどしかいない。今日、ここにいる誰もが海野汐里という名前を覚えて帰ることになるわ」

 彩葉さんに評されることで、二人がいかに優秀なダンサーであるか、そして彼女たちの今日という本番にかける思いがひしひしと伝わってくる。

「それにしても、フロアにいる人が多すぎるわ」

「安立戦に来るのは初めてだから、俺には比較できないんですけど」

「例年とは比べものにならない。安立戦は本来、小規模大会よ。これも成雅の仕業なのね」

「成雅が? そんなことする意味あるんですか?」

「大ありよ。これを見て。背番号順に名前が記載されているのだけど」

 彩葉さんは大会パンフレットのジュニア出場選手のページを指す。

 ワルツ、ルンバともに、俺は27番。すでに背中に、厚手の紙に印字されたその番号を四隅にピン止めして付けている。翔は……99番か。ゾロ目は覚えられやすいだろうな。

「エントリー数はどっちも百二十。昨年は四十程度だったわ」

「三倍!? エントリーを増やす意図はどこに」

「持久戦狙いよ。エントリー数が多いほど予選数が多く、仮に決勝まで進めたら今年は六回。二種目なら計十二回も踊る。翔くんという子は、よほど体力に自信があるのかしら」

 一回のステージで踊る時間は一分三十秒。これは中距離走一本分くらいの運動量。それを最大十二回……そこまで踊れれば嬉しいが、気が遠くなるなぁ。

「もう腹を括ってやるしかないか。俺、後ろでストレッチしてきます」

 一部員のために大会のスケールまで変えてしまうなんて、成雅大学の勝負に対する執着心には目を見張るものがあるし、厄介な相手を敵にしてしまった。俺は浪人時代もトレーニングをしていたから体力にはそれなりの自信があるが、ここ三日間は仮眠しかとっていない。技術的に評価されたとしても、持久戦を持ちこたえて決勝まで残れるだろうか。

「しけた顔してんな。不戦敗でもする気か」

 声をかけられた途端、緊張が走る。信成翔だ。俺はストレッチを止めてパーティーのときと同じように対峙する。シャドー練習から戻って来た舞衣と汐里も遠巻きに見ていた。

「何を言ってるんだ? 心理戦を仕掛けなければならないほど余裕がないのか?」

「ハッ、口先だけは上達したようだな。敗北の弁が楽しみだぜ」

「楽しみ? 羨ましいの間違いだろ。敗北の瞬間、お前は何も語れず消え去るんだもんな」

「てめえ!」

「はーい、スト~ップ!」

 舌戦を、一人の女子が割って入って、両手を広げて制する。

「咲、おはよう。もう来てたんだ」

「早く会いたかったんだもん。みんなキマッてるじゃん!」

 俺たちの衣装を見てオーバーに褒め称える。緊張を解きほぐす咲の気遣いだ。

「役者も揃ったことだし、ルールの最終確認をするわよ。信成君もいい?」

「構わないさ」 

 咲はおどけた声を潜め、俺たちの間で設けられた特別ルールの確認を行う。

「――以上だけど、何か言っておきたいことある?」

 四人とも首を横に振る。翔もこのルールに納得しているようだ。

「じゃあ、私から一言。因縁の対決だとしても、ここは社交の場。競技中はスポーツマンシップに則って正々堂々とダンス勝負をすること。いい?」

 真剣な眼差しを四人に向ける。幼い頃からダンスに身を捧げることで得た彼女の美学なのだろう。

「わかった」「うん」「ええ」 

「始めからそのつもりだ」

「はい。じゃ、二人とも――」

 咲が握手を促す。笑顔にはなれないが、俺は手を差し出す。

 翔は顎を上げ見下すように、それに応じた。


 開会式が終わると、すぐに一次予選が始まった。進行はジュニアワルツ、ジュニアルンバ、その後二年、三年の順で同一ラウンドを並行して行う。

「それでは、ジュニアワルツ第2ヒートです」

 艶のある声で司会の女性がマイクを使ってアナウンスをするが、大学毎に趣向を凝らした盛大な声援に掻き消され、注意していないと聞き逃しそうだ。ヒートとは組のこと。つまり、今はワルツ第2組の選手が踊っている。フロアには背番号11~20の十カップルが一斉に踊り、フロアサイドにいる審査員に懸命にアピールしている。

 ワルツ、ルンバともに百二十組の参加だが、一次予選を勝ち抜き二次予選へいけるのは八十組、三次予選へは四十組、最終予選である四次予選へは二十四組。さらに、準決勝へ進出できるのは十二組、そして決勝は六組で行われる。過酷な生き残りゲームだ。

 審査員は、各人が次の予選出場者と同数のチェックを入れる。例えば、一次予選では全てのヒートが終わったときに八十組のチェックを付け終えている。七人制ジャッジの場合、全員からチェックをもらえれば満点の7ポイントを得られるわけだが、ポイント数の多い上位八十組が二次予選進出者となる。ポイントの持ち越しはなく、一位通過した組もギリギリで通過した組も次の予選では同じ条件で行われる。

「ようやく本番ね」

「……ああ」

 俺と汐里はフロアサイドで、次のワルツ第3ヒートでの出番を待っている。

「もしかして、緊張してるの?」

「なんか吐きそう」

「ちょっとヤメてよ。優勝を狙っている人が言うセリフ?」

「だって冷静に考えてみろよ。いきなり四十組も、つまり三組に一組が振り落とされるんだぜ。厳しすぎない?」

「全然。もっと削ぎ落としてくれた方が楽で済むわ」

 ……。少しは共感してくれると思ったのに。

「決めるのは審査員。私たちは私たちのダンスをすれば、結果は自ずとついてくる。あれだけ練習したんだからもっと自信をもちなさい」

 まるで物怖じしないのは、生粋のお嬢様だからなのか。きっと幼い頃から何かと人前に立ってきたんだろうな。

 パートナーがこれだけ泰然としていると、一人で緊張するのもアホらしくなる。俺は顔をパンパン叩いて緊張を解きほぐす。そうだ。まだ踊っていないのだから余計なことは考えるな。俺にはダンスパートナーがいる。これは、当たり前のことなんかじゃない。ようやく見つけた二人のパートナー。ハードな練習をともに重ね、そして今、ダンスフロアに立てる。このことが何よりも嬉しい。温かな気分になった俺はゆっくり息を吸って――等速で吐いた。 

「落ち着いたようね」

「ああ。もう大丈夫」

「以上、ワルツ第2ヒートでした。続きまして、ワルツ第3ヒート。背番号――」

 音楽がフェイドアウトし司会が前ヒートの終わりを告げる。踊り終えた選手たちが観客に向かって笑顔で一礼して最後のアピールをするが、予選とあって、司会はかぶせ気味に次のヒートのアナウンスを始める。

 さあ本番だ。予選は背番号しか呼ばれないが、それでも嬉しい。俺が汐里を見て右手を差し出すと、彼女は口角を上げて左手を添えた。そして、ダンスフロアへ入って汐里をスターティングポジションへとエスコートし、俺はそこより三歩進んで中央部に立つ。

 おびただしい光と音があった。スポットライトが真夏の太陽のように照らしつけ、三百六十度いる観客がダンスフロア一点めがけて自校やダンサーの名前を叫ぶ。

 ああ、これだ。初めて競技会を観戦したときに目に映った光景を、今俺は内側から見……いや、体感している。パートナーとホールドを組めばフロアに咲く一輪の花となりダンスは芸術となるが、しかしこうして全身を震わせるほどの声援を浴びるとダンスはスポーツと言いたくなる。じゃあ、どっちなんだ?って、初めて会った日にミイさんと話したっけな。帰ったら彼女に伝えなきゃ。どんな枠にも収まらないどうにも熱いもの。それが学生競技ダンスなんだと。

「「「「七泉!!」」」」「蒼樹!」「汐里!」「27番!」

 圧縮された音を引き裂いて、四つの声援が耳に届く。その声が一際大きいのか、あるいは思ったよりも自分が落ち着いているのか。そして、 

「それでは、ワルツ第3ヒートです!」

 汐里と礼を交わして、このときのために磨き上げたホールドで彼女を迎えた。


 ワルツ一次予選が終わると、すぐにルンバ一次予選が始まった。俺の出番はワルツと同様、第3ヒート。一度フロアで踊ってきたことで、俺は心身ともにリラックスしているが、

「うぅ~、緊張するぅ」

 舞衣は体を小刻みに震わせている。あぁ、ついさっきまで俺もこんな感じだったんだな。

「そうだ。良いことを教えてあげるよ」

「うぅ~……なに?」

 それはあるカウンセラーから聞いたアドバイス。俺は得意げにレクチャーする。

「緊張するしないは体質による部分が大きいから、根本的に変えるのはかなり難しい。マインドコントロールという手段はあるけど、それもベストとは言い切れない。これには懐疑的な見方もあるから」

「ッ!」

「じゃあ、緊張する人はどうすれば過度な緊張を減らせるのかといえば、準備によるところが大きいんだって」

「…………」

「要は、やれることをやったって思えれば思えるほどドーンと構えられるってこと。俺たちは寝る間も惜しんで、これ以上ないくらい練習したじゃん。だから、ポジティブ全開でいこうぜ!」

 ミイさんからのありがたいアドバイスを伝えると、舞衣は鳩が豆鉄砲を喰らったような、どこか腑に落ちない顔をしている。おっかしいなぁ。俺にとっては金言だったのに。

「……そうだったね」

「そうだったね?」

「う、ううん! 似たようなこと授業で習ったの! わ、私もその発想に納得したから」

 そっか。心理学科の講義にあったことなのか。ミイさん熱弁していたから、彼女のオリジナルに聞こえたのだが。まぁ、いい。おかげで舞衣にも柔和な表情が戻ってきた。

「続きまして、ルンバ第3ヒート。背番号――」

 

 ジュニア一次予選が終わり、フロアで行われているシニアの部をしばらく観戦していたが、体育館のある壁に人が集まる。予選の結果が貼り出された模様だ。それを見てガッツポーズする人、仲間と握手を交わす人、項垂れて肩を落とす人、泣いているダンサーを慰める人。多くの人間模様が狭い空間に凝縮している。

「入試の合格発表を思い出すね。ドキドキする」

「ドキドキ? ワクワクじゃなくって?」

 舞衣と汐里では見解が違う。というより、汐里の発想の方が珍しいとは思うが。

 俺は、ドキドキとワクワクの半々。七泉大学では合格発表をネットだけでなく学内でも貼り出した。第一志望にしていた俺は見に行ったが、あのときのことを彷彿とさせる。

 三人で人混みを割って入って最深部に到着。壁に二枚の紙――ジュニアワルツ、ジュニアルンバの結果が貼られていた。

 ジュニアワルツ 第一次予選 結果

 合格発表そのものの状況に固唾を呑む。A4サイズの横書きで、一番上には背番号1番が記されていて、慎重に目線を下ろしていく。

 27 未森蒼樹・海野汐里

 名前の横にある各審査員からのチェック欄には全てのチェックが入っていて、合計欄に7と書いてあった。

「フルチェック……ということか?」 

「そのようね」

 フルチェック――いい響きだな。ダンス用語でベストワードだ。このステージでは全審査員に認められたということ。当然、一番右側の順位欄には1と書いてある。

「おっしゃ! フルチェックだぞ、汐里!」

「このくらい当然よ」

 ハイタッチしようと手を上げたが、汐里は手を上げずにすまし顔。この程度はどうってことないってことか。でも、俺を一人にしないでくれよ。一人万歳状態は格好悪い。

「やった! ルンバ、フルチェックだよ!」

「マジで!?」

 手持ち無沙汰になっていた手を舞衣に向けて今度こそハイタッチを交わす。歓喜する舞衣に汐里も付き合うように手を合わせた。ワルツに比べてルンバは不安があったが、フルチェックを取れたことで自信が湧いてきた。

 次いで翔のチェック数を確認する。ルンバはフロアで一番目立っていた。なんせパートナーは宮野美月先輩。ジュニア戦の格好をしていること自体に驚かれ、フロアでは格の違いを見せつけていた。先輩も今日はジュニア戦の特徴であるパキパキと元気よくポーズを決める動きに徹していたが、そのキレたるや半端ない。そして結果は、当然フルチェック。

 一方、翔のワルツはというと警戒するほどではなかった。彩葉さんの同期の美里先輩は確かにフロアの華だった。しかし、翔のホールドは徐々に崩れていき、パートナーがリードをしているのが見て取れた。結果は……5チェック。ギリギリ二次予選には進めるが、ともすると次は危ないのではないか。

 と、人の心配をしている場合ではないか。聞けば、フルチェックを獲得した次のステージで0チェックというバッドエンドはよくあるのだとか。二次予選に向けて集中しよう。


「以上、ジュニアワルツ第二次予選、第2ヒートでした」

 フェイドアウトとともにホールドを解き、汐里を反時計回りにターンさせて審査員の多くいるところに笑顔で一礼して退場する。審査員は退場するまで選手を見る。だから、俺は練習で培ったダンサーの背中で語る。『背番号27を覚えろ!』と。

 フロアを離れてすぐに汐里が言った。

「フルチェックよ」

「予想? 確かにさっきよりも良かったけど」

「いいえ。結果よ」

「? 結果って、今踊り終わったばっか――」

「踊る前に五人の審査員が私たちを見てペンを動かした。最初のナチュラルスピンターンで残りの二人も。私たちは、開始五秒でフルチェックをもらっていたわ」

「!?」

「最後の十秒で三人の審査員が私たちを見ていたわね。ジャッジが終わって、念のための確認よ。次もすぐにチェックをあげられる選手かどうかの品定めも含めてね」

「……全然気づかなかった」

 俺は最後まで全力で踊ることに精一杯だったし、汐里だって本気で踊っていた。しかし、彼女はそれだけに留まらず周囲を見渡すほど広い視野を持ち合わせていた。これがデビュー戦のダンサーのすることなのか。

 自席に戻り、束の間の休憩を取りながら他のダンサーのワルツを見ておく。

 その後、何ヒートか経過したところで異変が起こった。

「審査員の先輩方にお願いがございます」

 出場選手がフロアに入ったところで、司会がことわりを入れる。

「背番号99番は棄権のため、ワルツの採点表からの削除をお願いします」

「99番…………。ハッ!?」

 翔だ……。翔が棄権した! 何かあったのだろうか。まさか負傷? どこかにいないかと会場内を見渡すが、すぐに見つかった。翔は美月先輩とルンバの練習をしている。ケガしている感じもなく、自分の番号がアナウンスされても気にも留めない。

「チッ、そういうわけか」

「ジュニア戦なのに、随分なことをやってくれるわね」

 健さんと彩葉さんが苛立たしげに言う。陽さんは連盟の仕事のため席にいない。

 先輩たちは何かを悟ったようだが、俺にはわからなかった。

「どういうことですか?」

「戦略的撤退だ。翔のワルツはダミー。あのカップルは、練習など一切していない」

「「「え!?」」」

「知っての通り、パートナーは一年生である必要はない。成雅はルンバでその特権を大いに利用している。だが、ワルツは悪用だ」

「成雅は情報統制することで周囲の関心を高め、大会プログラム配信のタイミングで、翔くんが二人の上級生と組むという事実にさらに注目を集めるよう仕込んだ。エントリーを知った人は皆、彼がワルツ、ルンバともに優勝候補だと予想した。私たちも騙され、一種目に専念するのはハイリスクだと避けた。一曲踊るごとに上達するこの時期に、向こうは最初から絞っていたのにね。成雅はその手の中で私たちを転がしたのよ」

「心理面だけではなく体力面もだ。向こうに疲れなどない。始めからルンバに専念しているからな。ルンバなら、たとえ全身の筋肉をしっかり使えたとしても、体力の消耗は足腰に負担のかかるワルツの比でない」

 向こうの手の内がつまびらかになっていく。

「成雅がいろんな大学を招いて、出場者数を増やすことで予選回数を増やしたのも私たちの体力の消耗を狙ってということなのですね」

 汐里の意見は信じがたいが、これも二人は頷く。

「二種目出る蒼樹と、ワルツに専念するパートナーの体力を練習から本番まで奪い続けるのが成雅の作戦なんだ」

 持久戦は丸投げされていたということか。ワルツ、ルンバともに全力で踊る。試合に出る以上、それが勝負というもの。だが、勝利至上主義の成雅はそう考えていなかった。

「それとね。これを見て」

「まだ何かあるんですか!?」

 険しい口調を続ける彩葉さんに対し、感情的な物言いになってしまう。示されたのは大会のパンフレットの審査員紹介欄。

「招待試合はプロではなく、学連出身の卒業生が審査員をするの」

 それは試合前にも聞いている。ということは、何か裏があるということ。

「ルンバの審査員に一人、成雅のOGがいますね。この先、この人が私たちにチェックを入れることはない、ということですか?」

「直接対決となれば、よほどの差をつけない限り、一チェックは向こうに取られる」

 舞衣の予想に彩葉さんが首肯する。つまり、この審査員にとっての引き分けは向こうの勝ちとなる。ただでさえルンバは向こうが有利な状況なのに。

「さらにね」

 底の見えない成雅の作戦に、いよいよ反論する気も失せてくる。

「ラテン審査員の性別を見て」

「男性二名……女性五名! アンバランスですね」

「通常、男性審査員の方が多いからな。故に不自然に映るわけだが、これも成雅の仕業。卒業生との繋がりの強い成雅が、他大学のOGを中心に審査員に誘ったということだ」

「審査員は同性重視で審査をする傾向があるけど、アマチュア審査員なんて特にそう。自分たちが踊ったステップの方がよく知っているもの。その分、厳しい目で審査もできるのだけれど……翔くんのパートナーは美月さん」

「「…………」」

 黙り込む舞衣と汐里。成雅のしたたかさをこれでもかというほど思い知らされる。なるべく優位に立てるように設けた特別ルールだったが、見事に逆手利用された。

 だが、俺は一歩踏み込む。

「成雅のことがよくわかりました。でも、七泉は七泉のやり方を貫くまで。そうだよな?」

 成雅の鉄壁の作戦に今さら対策などないが、ここでまた俺がブレるわけにはいかない。同じ過ちは犯さないって決めたんだ。笑顔と強い眼差しで二人をじっと見つめた。すると、

「私たちが今日良い踊りをしているのは、相手に気を取られていないから。私は私のルンバを最後まで踊り切る。しおりんは?」

「向こうがいくら知恵を駆使してきたところで、私はワルツで黙らせるわ」

 舞衣と汐里の目つきがアスリートのそれに変わった。


「以上、ルンバ第1ヒートでした!」

 最終予選であるルンバ四次予選第1ヒートが終わった。今のところ、ワルツ、ルンバともに順当に勝ち残り、どちらもフルチェックをキープ。それでも油断はしない。第2ヒートのルンバを見るため、駆け足で席に戻る。

「おう。お疲れっ!」

 連盟委員として裏方で働いている陽さんがいた。俺と舞衣はハイタッチで挨拶を交わす。やっぱりこの人がいるのは頼もしい。咲は二階のキャットウォークで手すりに凭れながら観戦している。今回不参加の電開大の席はないため七泉の席に座ることを勧めたが、咲は「公正でありたいから」と誘いを断った。それでも、目が合うと笑顔で手を振ってくれる。

「陽さん、うちらのダンス見てくれてます?」

「ルンバはだいたい見てるし、勝ち進むごとに良くなってる。というかお前ら、三日前とは踊りの質が全然違うぞ。寝ずに練習しただろ」

 慧眼恐れ入ります。一目で変化が見られるというのは嬉しい。

「それでは、ルンバ第2ヒートです!」

 四次予選進出者は二十四組で2ヒート制だが、準決勝からは1ヒートになる。つまり、翔の踊りを直接観られるのはこれで最後。

 信成組は、ここが俺たちの場所といわんばかりにフロア中央を陣取っていた。互いに礼を交わして手を繋ぐ。出だしは俺たちと同じオープンヒップツイスト。同じステップでどう違うのか注視したそのときだった。ここに来て彼らは、明確に踊りを変えてきた。

「「「「ヒップムーブメント!」」」」

 会場が一斉に沸く。ヒップムーブメントとは骨盤を中心に八の字を描く動き。八の字だから理論上ムーブメントはエンドレスだが、実際に動きを継続させるのは容易ではない。骨盤だけでなく体全体の動きが正しくできることが前提となるからだ。そして、以前陽さんが言っていたように、滑らかなムーブメントだけではインパクトが薄れる。故に難易度が高く、試合に取り入れるジュニアはまずいないが、かのカップルは三十秒経ってもムーブメントを継続させ、かつオンカウントでもしっかりと印象を残している。

「これは、決まったな」「ありえねえよ、まだ一年の前期だぞ」「末恐ろしい」

 そんな声が次々と耳に飛び込んでくる。大人と子ども、プロとアマ、主役と脇役、どう例えてもおかしくないほど周囲のダンサーとは格の違う一組のカップルが躍動していた。


「どっちも準決勝進出!」「やったわね!」

 四次予選の結果発表を見て、舞衣と汐里は喜んで抱き合う。始めは冷静だった汐里も目つきが変わってからは感情を表に出すようになった。

 この結果は俺だって嬉しい。二種目ともセミファイナル進出を果たしているカップルはあまりいない。こんなことなら、二種目併せての総合戦で勝敗をつけるよう提案しておけば良かったと後悔すらしている。ついさっき成雅から圧倒的なルンバを見せつけられたばかりだが、三人とも怯むことなく、むしろ逆境を闘志に変えている。

「ルンバでフルチェックは成雅だけだから、状況が厳しいのはわかってる。でも、勝負は最後までわからない。準決勝、決勝は会場も違った雰囲気になると思うし」

「同感ね。ワルツでフルチェックは私たちだけ。でも、舞衣の言う通り勝負はこれから。気を抜かず高みを目指して、七泉は七泉の踊りをするわよ」

 互いを鼓舞する舞衣と汐里。二人が熱く俺を見つめるから、強く頷き高々と拳を上げた。

「準決勝、決勝。二種目4ラウンド。限界突破だ!」

「「おー!」」 

――――――――

 三人で士気を高めた後、俺は人目のつかない体育館裏に一人で来ていた。

「ハァハァ……うっ!……ハァハァ……うぐっ!……ハァハァ……」  

 密やかに応急措置を施す。足の裏の皮は何か所も剥がれて出血し、巻き爪は肉を抉り、どちらの傷もジュクジュクとしている。今日何度目かの絆創膏を貼り替えるが、患部に触れる度に脳に激痛が走る。そのくせ、震え始めた脚部をマッサージしてもあまり刺激を感じない。どうやら下半身が麻痺し始めたようだ。

 競技ダンスがこんなにもキツいものだとは思わなかった。

 舐めてかかったつもりはない。試合に向けて体力強化してきたし、食生活やストレッチといったセルフケアも怠らなかった。不眠不休で追い込み練習をしたことが想定外だったのは否めないが。

 一番の誤算は、今日という本番。

 練習では本番を想定してフルパワーで何曲も踊ったが、本番での体力の消耗はそれとはどこか種が異なる。おそらく緊張感やアドレナリンの分泌量が違う。エントリー数を意図的に増やして予選を多くした成雅の策略もここにきて憎らしいほどに効いている。

 舞衣や汐里も疲労はピークに達していて、精神力でカバーしていることは語り合わずとも踊りから伝わってくる。いくら彼女たちが優秀なダンサーで踊りやすい相手であっても踊りながら負荷を掛け合えば、指数関数的に体力は消耗されていく。

 間もなく、ワルツ準決勝が始まる。決勝へと進めるのは、半分の六組。最初は12あったヒート数もついに1となる。競技のインターバルも短くなり、体力は小回復すら困難になる。頼むから決勝まで踊らせてくれ。自分の体であるにもかかわらず、そう願った。


「これよりジュニアワルツ準決勝を行います。背番号――」

 最終予選で唯一のフルチェックを獲った俺と汐里は、威厳を見せるべく他カップルよりもゆっくり目に入場し、フロア中央を陣取った。そこは人気スポット。にもかかわらず、誰も俺たちの近くに来ない。健さんや彩葉さんの言う通り、一目置かれているのだ。他カップルは俺たちと比較されるのを嫌っている。

 しかし、気は抜けない。1チェック差に三組いる。そのうちの一カップルが隣に来た。背番号95番、成雅大学高山・星野組。パーティー会場で翔のパシリにされ、飲み潰れた広志。身長百九十センチ近くあり、パートナーも俺より大きくカップルバランスもいい。ただでさえ目立つが、踊りにも目を引くものがあった。予選から二人の踊りを汐里とチェックしているが、彼らは体格を余すことなく踊っていて、ゆったりとした様はジュニア選手には見えない。あんな事件がなければ正しく知り合い、ワルツについて語り合いたかった。

 高山を始めとして、セミファイナリストは大きい人ばかりで人の山脈みたいだ。移動距離が長くシルエットラインの美しさに重きを置いたワルツは、身長の高い人が有利と言われている。俺の身長は百七十三センチ。成人男子の平均より気持ち高めだが、フロアにいるリーダーの中では下から数えた方が早い。足の長さ、腰の高さが全然違う。

 ホールドの高さも違い、予選では肩や頭に別カップルのホールドが当たることが度々あった。相手も真剣で、意図的に妨害しているわけではないから仕方がない。

 とにかく、衝突には気をつけよう。

 衝突は、それだけで減点されるということはないが、立ち止まる分だけ踊る時間は減る。審査員も止まっているカップルなど見向きもしないし、一度立ち止まると再び流れに乗るのにも時間がかかる。つまり、減点はなくても損はする。

「――以上十二カップル、ワルツ準決勝戦です!」

 ホールドを組むと、汐里は俺の手をキュッキュッと二度握った。それは二人の秘密の暗号だが、ラッキー!のサインだ。

 流れるワルツは俺たちのお気に入りの曲。競技会では、どの曲が流れるかはわからない。勿論、拍子やテンポなど当該種目の特徴は守られるので選曲による有利不利はないが、好きな曲が流れるのは自信を生み、心理的優位に立てる。俺は汐里の手を二度、握り返した。

 最初から多くの視線を感じるが、自分たちの踊りをするまで。音楽に合わせてボディーを軽く揺らしてリズムを取り、汐里の状態コンディションを、耳を澄ますように肌で感じる。今の彼女は……調子が良い。ボディーは張りが合ってしなやか。予備歩すら出していないのに、軽やかにワルツに乗っている。

 パートナーの些細な変化に気づく俺もまた調子が良い。彼女と波長を合わせ、最初のナチュラルターンを踏む。果たして俺たちが描くラインは、自分でも驚くくらいたおやかでライズポジションは最高地点に達した。力ずくではなく、自然に描いた結果そうなったのだ。視界に入る三人の審査員の手が早速動いた。

 だが、慢心などしない。続くリバースターン~ホイスクを丁寧にこなし、シャッセフロムPPへ。PPとはプロムナードポジション。ルンバでいうファンポジションに近く、男女のボディーの向きが扇子を少し広げた状態になる。ホールドを崩さないことが前提であるため角度の変化は僅かだが、PPをしっかり行うかどうかが次のステップであるシャッセの出来を大きく左右する。俺と汐里のシェイプはイーブン。理想的なバランスだ。

 この後が、健さんが最も大事と言った勝負ポイント。俺はホールドと軸足で汐里の重みを感じる。踊り始める前に彼女から感じたボディーの張りとしなやかさは健在。つまり、理想を保っている。これならもっといける。俺は、今まで以上に膝を柔らかく使ってロアーを開始し、支え足で十分に溜めを作る。ロアーをすればするほどシェイプライン(体のねじれ)は強まり、しなやかさを損なわないギリギリのところでそれを解くと、自然が生み出す反動力に乗って汐里がPPから元のポジションにふわりと戻ってきた。これで一ルーティンが終わり、繰り返しとなる。

 二ルーティン目のナチュラルターン。流れができているからまるでオートマチック。これは、好調のゾーンに入っている。この勝負ポイントで、二人の審査員が俺たちを見ながら頷き手を動かし、さらにフロアサイドが「おおっ!」と沸いた。

「この二人、絶対優勝する!」「断トツよね」「ジュニアのレベルじゃないって!」

 大音量の中、そんな声まで聞こえてくる。期待に応えるように踏むナチュラルターンは冴えわたり、他校の席から大きな拍手が起こった。

 続くスピンターン。ここは気をつけなければならない。調子に乗って余計な力が入るとパートナーを時計回りで運ぶのに遠心力を生んでしまう。俺は高ぶる気持ちを抑えて、適度なリードで汐里を導き、かかとを上げてつま先の方へとバランスをシフトしていく。

 そのとき、背中から覚えのある大きな衝撃が走った。感触と位置から、大柄な誰かが突進してきたのは瞬時にわかった。だが、俺たちはスピンターンの途中の、つま先に向けて立とうとする最も繊細な瞬間。また、疲労困憊の足腰では耐えることができず、俺たちはコマ回しのままフロアから放り出された。

「ッ!?」

 思い出したくもない記憶がフラッシュバックした。忘れられない交通事故。父の運転する軽自動車に脇見運転の後方のトラックがノーブレーキで追突。車は反時計回りに三回転半し、ガードレールにぶつかって大破した。そんなことは後日の事故検証でわかったのだが、隣に座って最期まで俺のことを強く抱きしめた母親だけが立ち会えなかった。あの場に献花されていた菊の花の色は、今でも心が張り裂けそうなほど目に焼き付いている。

 守らなきゃ!

 俺はホールドをはずし、汐里を強く抱きしめる。あのときと同じだ。不可抗力に身を預けるしかない中で、全てがスローモーションに見える。一秒経たないうちに俺たちはパイプ椅子に直撃し、ケガは免れない。俺はかろうじて汐里を守る姿勢を取る。

「ッ!?」

 衝突寸前で思いもよらない回転運動が再び起こる。汐里の左足が起こしたと気づいたときには、幾つものパイプ椅子が激しい音を立てて散乱していた。

「汐里……?」

 床に倒れた衝撃で全身が痺れているが、覚悟していた痛みに比べれば拍子抜けだ。あろうことか、俺は汐里を下敷きにしてしまった。呼びかけるも反応がない。

 音楽がプツッと途切れる。準決勝はまだ終わっていないが、そんなのどうでもいい!

「汐里っ!!」

 今度は耳元で叫ぶが反応はなく、全身からサーっと血の気が引いていく。俺は呼吸が荒く、汐里が息をしているのか判別がつかない。

 祈る気持ちで心音を確かめようとしたとき、

「うっ……」

 微かな呻きが聞こえた。

 よかった! 少しの間、気を失っていただけのようだ。

「だ……大丈夫か?」

「……うん?」

 気を失って白さを増した顔。長い睫毛を潤ませ、あどけない瞳をゆっくりと開く様はまるで眠れる森の美女。だが、体を動かそうとしたそのとき、

「うっ……」 

 激痛が走り、汐里は顔を歪める。衝突の瞬間、俺は彼女の足首から鈍い音を聞いていた。

「「「「大丈夫!?」」」」

 気づけば、目の前にダンス部が全員揃っていた。咲もいる。それだけではない。ぶつかってきたカップル  皮肉なことに、成雅の高山組だった。だが、顔面蒼白しているところから故意ではないのがわかる。後ろには翔もいた。

 しかし、今は競技中。中断しているが、誰も選手に触れることはできない。

「平気です。ご心配、ご迷惑をおかけしました」

 汐里は平静を装い立ち上がろうとしたが、ぐらつき、俺は抱きとめた。

「汐里、これ以上は無理だ」 

「何を言っているの!? 私なら平気って言ったじゃない!」

 痛みを押し殺して俺を突き放すも、左足をまともに床に付けられない。少し触れただけで苦悶の表情を浮かべ、なのに彼女はよろめきながらフロアへ向かう。見ているだけでもつらいが俺はリーダー。彼女を追いかけ、震える両肩に触れて振り向かせた。

「俺をかばってくれてありがとう」

 気持ちの高ぶる彼女を冷ますように落ち着いて礼を言う。彼女が庇ってくれなかったら俺はどうなっていたことか。

 しかし、彼女は思いの外冷静で、少し口を尖らせながら意外なことを言う。

「勘違いしないで。勝負のためよ。私たちは今日、絶対に勝たなければならない。絶対よ。私が負傷しても、蒼樹は舞衣と勝負を続けられる。あなたがケガをしたら終わりじゃない」

「ッ!」

 あの一瞬でそこまで? 自らを犠牲にすることを厭わずに……? 全身が震え、虚脱していく。ああ……そうだった。汐里はこういう人だった。勝ち気な彼女の性格は、こんなときでも勝利の可能性の最も高い方法を探っていた。そんなことができるのは、いつでも強い信念とそれを貫き通すための客観性と配慮があるから。

 そんな素敵な淑女を、俺はどうして守れなかったんだ。

 ……母もそうだった。

 後方車から衝突されて車が回転する中、母は咄嗟に俺に飛びつき抱え込んだ。俺を守りたいという一心で。

 母はほぼ即死だった。最期に目を合わせることも、言葉を交わすことも許されなかった。

 ただ一瞬、「母さん!」と叫ぶと、俺の無事を知った母は涙に濡れた目を閉じたまま微かに笑った。間もなく全身の力が抜け、頭を守ってくれていた世界一温かな手のひらは俺の顔の輪郭をなぞって無機的に落ちた。

 母はもう還らないが、いつか大切な人を守るときが来たら……。そう思って体を鍛えていたのに。あのときの倍くらい体は大きくなって、肉体的には女性一人くらい守れる気でいたのに、この手は何のためにあるんだ。大切な人は皆、俺を守るためにすり抜けていく。

 己の無力さに茫然と立ち尽くし、気づけば情けない両手を見つめていた。

 すると、こんなときだというのに、悔しくて情けなくて申し訳なくて試合中だというのに、あることが思い出され、苦笑してしまう。

 あぁ……。母は俺のことなどなんでもお見通しなんだな。

 きっと……こうして自分を受け止めることからエスコートは始まっているんだ。

 己を知り、状況を冷静に判断し、今すべきことを確かめる。それが心を整えるということなんだ。

「蒼……樹?」「蒼……くん?」

 手のひらを見ながら自問自答する俺を心配する、けれど温かな二つの声。

 顔を上げれば、汐里は痛みに堪えながらも俺に気遣うような柔らかな瞳で、振り返れば、舞衣はダンスフロアぎりぎりの所まで身を乗り出し、今すぐ手を差し伸べたい気持ちを懸命に堪えている。

 そんな思いに、そんな二人の淑女に、

「今、俺が……今、俺が応えなくてどうするんだよっ!!」

 恋愛映画の紳士のように一流のエスコートなんて到底できない。

 母を愛した父のように真摯にエスコートするなんてまだできない。

 母の言うように心を整えたとしても、彼女たちに助けてもらわないとエスコートなんて務まらない。俺はまだ駆け出しだから。

 けれど、もう迷わない。俺は見つめていた手のひらを閉じてグッと拳を握りしめ、舞衣に強く頷き、汐里の元へ向かう。そして、未熟だけど心を込めて手を差し出した。

「わかったよ。汐里」

 負傷した汐里がなぜフロアへと向かったのか。骨が砕けても踊る気なのか。あるいは、俺と舞衣を鼓舞するためか。浅慮せんりょな俺にはそれくらいしか思い浮かばないけど、彼女はいつも先を見据えている。出会ったときからそう。とんでもない人なんだ。

 そんな自分より器の大きな女性でも、守るのは男性の役目。

 そして、期待に応えるのが紳士。心を整え、想像で描いた道しるべを形にすることでピンチをチャンスに変える。そんな状況を自ら楽しむことも忘れてはならない。

 衝撃は事故だけでなく、在りし日の母が言っていたことまでも思い起こさせてくれた。

 俺は震える汐里の手をキュッキュッと握り、笑みを浮かべて強気に誓う。

「絶対に勝つと約束する。でも、それには最後まで力を合わせて戦い抜かなきゃならない。だから、一番そばで見守って。そうして、勝利も笑顔も感動も全て手に入れるんだ!」

 フロア中央で、選手宣誓ばりの公開プロポーズだが、恥じらいなどこの際どうでもよかった。ただ彼女に信じてもらうよう熱く見つめるだけ。

「……まったく、あなたって人は」

 汐里は嘆息して苦笑いを浮かべる。こんなこと、数日前の学食でもあったな。意地っ張りなのか優しいのか。枠に収まらない汐里に合わせて、俺も大きくなるしかない。

「それはこっちのセリフだ。よっ」

「きゃっ」

 有無を言わさず汐里を抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこ。大胆な行動に出て、会場中の視線を浴び、さすがの汐里も赤面している。けれどこうまでされては抗う力もなく、俺の腕の中でしおらしくしていた。

 俺は、本部と審査員に向かって宣言する。

「未森・海野組、試合続行不能につきワルツを棄権させていただきます。皆さま、大変ご迷惑をおかけいたしました!」

 こういうときどうすればいいかわからない。宣言した後は、四角形になっているフロアの全ての辺にいる応援席にいる人たちに一度ずつ頭を下げた。

 静まり返った応援席のどこからか、手を叩く音が聞こえると、たちまちそれは伝播していき、俺たちは今日最も大きな拍手喝采を浴びた。

 勝利者でもないのにこんなに称賛を浴びると戸惑ってしまう。退場口に向かう途中、俺は照れ隠しに汐里に語りかけた。

「ここで称えられるのは複雑な気分だな。まぁ、忘れられない思い出にはなるか」

「本当、複雑ね。ウェディングドレスでないにしても、せめてモダンドレスを着て祝福されたかったわ」

「そっちかよ!?」 

 悪戯にお茶目。そういや、初めて出会った日、練習場へ連れて行かれそうになったときも汐里はこんな顔してたな。

「……そもそも」

「?」

「その相手が俺でもいいのかよ」

「!」

 汐里はビクッとするも何の言葉も発さない。気になって下を見る。目が合うと、彼女は「キャッ」と上擦った声をあげ、心情を隠すように俺の胸元に顔をうずめた。なにそれ、思わせ可愛すぎる。キュンとしたはずみで落っことしてしまいそうで、そうならないようギュッと抱きしめたくなるからやめてくれ。

 退場口で最後に一礼すると、俺は『救護』と書かれた体育館の仮設スペースに汐里を預けた。この後は、ルンバ準決勝。先に整列している舞衣のもとへ急いだ。

「しおりん、大丈夫そう?」

 ひどく心配する舞衣。

「大丈夫。それより汐里が心配しているのは俺と舞衣のこと。だから、俺たちのルンバで彼女を安心させよう」


 ジュニアルンバ準決勝が終わると、俺と舞衣はその足で救護スペースへ駆けた。

 汐里は医師から応急措置を受けていた。ケガは左足首の捻挫で、安静にしていれば全治三週間とのこと。骨に異常はないと聞いてホッとしたとき、一組のカップルが入ってきた。

「本当に申し訳ない!」「ごめんなさい!」

 高山組だった。ワルツ準決勝の後、彼らはしばらく本部から注意を受けていた。

「大丈夫よ。気にしないで」

 手当てを受けながらも汐里は気丈に振舞うが、本心でそう言っている。衝突は、基本的にはぶつかってきた方が悪い。今回、二カップルは同じ方向へ進んだが、ナチュラルターンという最も移動するステップで勢いを緩めずに後ろから飛び込んできたカップルの違反になる。といってもマナー違反であり、処罰が下されるほどのものではない。

 俺と汐里だって、二人の立ち方がしっかりしていればあれほどの転倒は避けられた。だから汐里は気にしないでと言ったのだが、かといって相手が気にしないわけではない。

「決勝では、俺たちの分も良いワルツを踊ってくれ」

 俺は、彼らにエールを送る。これも本心。

「で、でも……」「私たちにはそんな資格が……」

「十分にあるわ。予選からあなたたちの踊りをチェックしていたの」

 汐里から思いもよらない言葉をかけられ、二人は目を見開く。

「あなたたちは必ず決勝に上がっている。私の目に止まったカップルだもの。一緒に踊れないのは残念だけど、踊りたい思いを託してもいいかしら」

 いかにも汐里らしい言い回しだが、こう言われて二人が断れるわけがない。

「……わかった。全力で踊らせてもらう! あと、もう二度と誰にもぶつからない」

「今日は私たちが優勝する。だから、次は待っているから!」

 二人は深々と頭を下げ、会場へと戻っていった。

 入れ替わるようにして翔が入ってきた。反射的に俺と汐里は身構える。しかし、警戒心を解くよう翔は両手でストップと制する。

「待ってくれ! 頼むから少し話をさせてくれ。今回の勝負は無効にしないか」

 意外な提案に俺も汐里も、そして舞衣も息を呑む。

「さっきのアクシデントは本当に偶然だ。意図したものではないと誓う。俺たちはルールすれすれのことはするが、それを超えるようなことは断じてしない」

「誓うと言われても信じ難いが、ルールを超えたことをしていないのはわかってる」

 こいつが言うことはきっと本当だ。確証はないが、誠意は十分に伝わってくる。けれど、ここで情を酌むわけにはいかない。

「ああ……。そう言ってもらえるだけありがたい」

 誠実な態度からはやはり他意を感じない。

「さて、どうする? 私の立ち合いの元、両者の考えが一致なら変えられるよ」

 様子を見守っていた咲が取り次ぐ。彼女は特別ルールの審判を行ってくれている。

 俺は汐里と舞衣を見る。競技続行不能な汐里と、準決勝の結果次第では続行可能な舞衣。二人が同じ目をしていた。

「合意はしない。このまま勝負をする」

「! だ、だが……」

「翔。お前は俺たちに情をかけたつもりか?」

「そうじゃない。パーティーでも言ったが、俺はこの勝負に生死をかけて臨んでいる。だから、ルンバでは絶対に負けない。だが、うちの部員により想定外のことが起こった。今日のところは責任を取らせてもらいたい」

 プライドの塊のような男が頭を下げた。そんなことできる奴ではないと思っていただけに、俺たちは絶句する。ならば、返すべき言葉は一つ。俺は翔の肩を叩く。

「体を起こせよ、翔。お前の気持ちはよくわかった。ならば、責任を取ってもらう」

 言葉に救われたかのように、翔の頬が少し緩んだ。だが、こいつの思うようにはしない。

「ダンスフロアで責任を取れ。ファイナルではお前自身、納得のいく踊りをして自分の責任を果たせ。調子に乗るなよ。俺たちはルンバでも勝ちにいく」

 今度は翔が目を丸くする。しかし、少しの間俯くも、すぐに顔を上げる。その顔は清々しいまでに吹っ切れていた。あの晩のような闘志が湧いている。

「わかった。お前らがそう思うなら、俺は優勝するために死力を尽くすまでだ」

 翔はそう言い残して身を翻し、颯爽と去っていった。

 パワーアップさせてしまったか。壁の掲示スペースにはちょうどルンバ準決勝の結果が貼られた模様。だが、翔は見向きもせず両腕のストレッチをしながら同じくストレッチをしている宮野先輩の方へと向かう。二人はすでに決勝の準備を始めていた。

 

 On the floor ~Soju’s eyes~

「只今よりジュニアルンバ決勝戦を開始いたします! 背番号8番、相良秀・箕輪美幸、安城大学」

「「「「安城―!」」」」「「「「秀! 美幸!」」」」

 選手名がコールされるとギャラリーが沸く。今までとは桁違いの拍手や声援。会場内の空気は熱気へと変わり床や天井の隅々まで埋め尽くす。

「背番号27番、未森蒼樹・火神舞衣、七泉大学」

「「「七泉!」」」「「蒼樹!」」「「舞衣!」」

 ファイナル出場者は敬意を表してフルネームでアナウンスされる。この瞬間、俺は無名のダンサーではなくなった。部員少数の七泉の声援の大きさは他大学のそれよりも劣る。だからこそ伝わってくる。健さん、陽さんのデュオに彩葉さんの澄んだ声……ではないな。朝から絞り出すように応援してくれていたから三人とも声がしわくちゃに枯れていて、それを思うと胸に込み上げてくるものがある。こんなにも誰かに応援されたことが今までの人生になかったから。

 さらに、「蒼樹! 舞衣! 27番!!」と連呼する汐里の声。一声一声がズシンと心に響く。託された思いに応えなかったらまた引っ叩かれる。あのときのビンタは何よりも痛かった。咲の声もよく通っている。今まで成雅に気遣って応援を控えていた分、彼女の声は一際ひときわ大きい。七泉の応援席を見ると、全員がブンブンと大きく手を振ってくれた。

 ファイナルは一カップルずつの入場。背番号の若い順でコールされるため、俺たちは早めにポジション取りができる。中央少し横に陣取り、『隣に来い』と翔を見据えた。

 

 Off the floor ~Shiori’s eyes~

 応急措置を施してもらい、私は自席に戻った。足首に負担がかからないよう上手に固定してもらっているおかげで今はさほど痛みを感じない。包帯を外した後のことは考えたくないけど。席までは咲が寄り添ってくれた。私が着席するのを見届けて咲は去ろうとする。

「最後くらいここで観ない?」

「でも……」

 彼女は躊躇する。特別ルールの審判を任されているため平等の立場でいたいと、七泉の席に座るのを朝から遠慮していた。

「もう大丈夫よ。咲のおかげでルールは最後まで公正が守られた。あとは二組の直接対決。きっと隣で踊り合う。うちは人も少ないし、目の前で全力で応援してあげて」

「……わかった。あの、先輩方、ご一緒してもよろしいでしょうか?」

「当然だ。うちの部員が迷惑をかけてすまない」

「一日中立ちっぱなしだったんでしょ。パーティーのときから色々と気を遣わせてしまって、本当にごめんなさいね」

「ゆっくりしていってくれよな。って、もう次で最後だけどよ」

 正義感が強く礼儀正しい咲のことを先輩たちはとても気に入っていた。私も同じ。常に綺麗な姿勢。私も気をつけているけれど、生粋のダンサーには及ばない。細身だけど華奢ではない引き締まった体。女性らしいボディーラインを保ちつつも踊りに必要な筋肉で成り立っている。体を見るだけで生き方が漂うダンサーに憧れないわけがない。

 ジュニアルンバ決勝戦の選手入場が始まり、二人が紹介される。

「背番号27番、未森蒼樹・火神舞衣、七泉大学」

 私も呼ばれるつもりだった。呼ばれたかった。

「「「七泉!」」」「「「蒼樹!」」」「「「舞衣!」」」

 先輩たちが大声で叫ぶ。普段はクールな健さんが試合ではこんなにも叫ぶなんて意外だ。根が熱いことを思えば先輩らしくもあるのだけど。私もそういうタイプだし。

 だから、私も遠慮なく続いた。

「蒼樹! 舞衣! 27番!!」

 羨望、悔しさ、祈り、興奮。心の中にある全ての感情を吐き出したくて全力で叫んだ。

 ルンバが流れ、フロアにいる六カップルが相手を見合う。どのカップルも闘志をたぎらせている。それにしても、この曲――古めかしい響きの前奏は長く、まさにファイナルにおあつらえの抒情性がある。けれど、それだけじゃない。

「かなりテンポが遅いな」

「ええ。試すつもりね」

「うわぁ……蒼樹の奴、カウントはずさなきゃいいけど」

 曲が遅いと踊りやすいというのはステップを覚えるまで。覚えればスローテンポであるほど表現力が問われ難しくなる。さらにこの曲、前奏に打楽器がなくカウントが取りづらい。そういうときは前奏で踊るなと二人は陽さんからアドバイスを受けている。

 そんな中、他大学の二組が踊り出す。うまくいくなら有効手段だけど、案の定、カウントを余らせてしまっている。通常の速さで踊るからだ。あれでは曲が次の小節に進むまでポーズを決めたまま待たなければならなく、カウント4が訪れる度に間延びするほどの一時停止をする羽目になる。

 三組が続く。信成組も踊り出したが、さすがだ。予備動作にヒップムーブメントを取り入れ、テンポを確かめている。そして、ニューヨークステップからのスタートに構成を変えてきた。それはベーシックの中で最も華があり、かつ音の取りやすいステップ。これで信成組がカウントをはずすことはない、ポーズも冴えわたり、確実に一歩リードした。

 一方、蒼樹たちはまだステップを踏まない。前奏の終盤、ここでようやく打楽器の音が聞こえてくる。いよいよ踊り始めないとマズい。これ以上のロスはマイナス評価になる。

「蒼樹っ!」

 背番号、名前以外の声援はマナー違反。カウントを取ったり、アドバイスをするのはルール違反となる。踊り始めない彼らにやきもきして思いを込めて名前を叫んだ。お願い! 早く踊り始め――えっ? 踊ってる!?

「あれは、ヒップムーブメント!?」

「だけじゃない! ステップを踏んでいないのに、二人の動きがつながってるわ!」

「おい、何がどうなってるんだ!?」 

 立ち上がり驚愕する三人。見たことのない繊細な二人の動きに、私も咲も言葉を失った。


 On the floor ~Mai’s eyes~

 私たちを除く全てのカップルがステップを踏み始めた。でも、私たちは踏まない。

(ステップはまだ。でも、ヒップムーブメントだけは起こしてルンバを始めよう)

 蒼くんのリードからそう伝わってきた。だから、私は彼を信じて動きを合わせる。

 こんなときに、思い出が走馬灯のようによみがえる。

 初めは絵里子さんからのカウンセリング指名だった。それも個室でのカウンセリング。あそこでの相談内容は重いものばかりで、私のような一年生が指名されることは普通ない。それでも、蒼くんの事前カウンセリングをした絵里子さんは私にメッセージを送ってきた。

「彼のカウンセラーは舞衣っちがベスト。よろしくお願いします」

 なぜ絵里子さんが私を推したのか。私が一番彼の悩みを共有できると判断したからだ。カウカフェの採用面接で絵里子さんに「コンプレックスは何?」と尋ねられたことがあった。私は、自分が自分の名前に負けていると打ち明けた。命名されたように生きるのは難しいけど、確かに名付けられた本人はそこにアイデンティティーを感じられると絵里子さんは教えてくれた。

 舞衣という名前はとても気に入っている。私の名付け親はおばあちゃん。

「舞衣ちゃんにはね、伸び伸びと生きて欲しいの。一度しかない人生を舞い踊るように」

 古い民家の縁側で、しわしわで小さく、でも温かな手で頭を撫でられながらそう言われたことを覚えている。間もなくおばあちゃんは亡くなり、舞い踊るという言葉は耳に残った。でも、物心がついたときからピアノを習っていた私は、踊りとは無縁の生活を送った。ダンスに興味がないわけじゃない。クラシックバレエに通っている友達の発表会に行くと心は躍った。けれど、今更始めても彼女たちには追いつけないと憧憬より諦めの気持ちが勝った。今思えばそんなことを気にする必要はなかったし、そもそもおばあちゃんは、私にダンスを勧めたわけでもない。それでも耳に残るフレーズは満たされぬ思いへと変わり、私の心の中でくすぶり続けた。そんな話をしたから、絵里子さんは私が適任と言ったのだ。だからといって、彼の話を聞いて同情したり、責任感じて勧誘されなくていい。そう言われ、私もそのつもりでいた。

 ところが、ガラス越しの彼は勧誘で九十九名の女性にフラれて困憊しているのに、ダンスの話になると目をキラキラと輝かせる。そんなに魅力的な世界なの? 今から始めても遅くないの? 彼は、自分の幸福はその道の先に必ずあると信じている。もしかして私も? 私が興味をもち、彼と組んだら……。

 都合の良い妄想が止められず、翌日、私は競技ダンス部に顔を出した。練習場には三人の先輩たちがいた。事情を知っていながら一年生はいないのかと私は尋ねる。

「一人いるよ。今勧誘中、もうすぐ戻ってくるさ。だから、軽く踊って待ってよう」

 勧誘中なのが蒼くんなのはすぐに察した。ところで、陽さんが言う因果関係のフレーズはおかしい。来るまで軽く踊って待ってようなんて言葉を聞いたことがない。私は遠慮したけど、あれよあれよと導かれ、気づいたら身も心も踊っていた。彩葉さんが言う。

「舞衣ちゃん。あなたが今日ここに来たのは偶然なんかじゃないわ」

 社交辞令にしてはオーバー。でも、見たこともないような美人にまっすぐ見つめられると、ついその気になってしまう。蒼くんが一目惚れしたというのも会ってみると納得。デレデレした顔を見るとイラッとするけど。

 踊らされて、褒められて、気分良くなったところで蒼くんが戻ってきた。立ち姿はガラス越しの冴えない表情とは違う印象。気弱で、二浪したという割には健康体。

 彼の横には彩葉さんに劣らない美人がいた。姿勢も美しく、蒼くんを引きづって入ってきたから先輩だと思ったけど、蒼くんと出会ったばかりのまさかの同期だった。さらに驚いたのは、彼女は健さんと裸足になってダンスフロアに入ったのだ。経験者らしいけど、そうはいっても出会ったばかりの二人が先輩と対等に踊れるの?なんて不安は不要もいいところだった。二人は、まるで波打ち際で戯れるカップルのように自然に、けれど複雑なステップを、灼熱の砂上を跳ねるように舞う。溢れんばかりの情熱を胸に秘めているのに涼しげに振る舞う彼女。そのことが健さんの心を滾らせ、二人の動きが激しさを増し、見る者の心を惹きつける。そう。私はしおりんによって競技ダンスに魅了された。

 だけど……入部することを躊躇った。クラシックバレエのときと同じで、経験者には敵わないと思ったし、蒼くんと組める可能性がなくなったことを思い知ったのだ。 

「素敵なパートナーが見つかって良かったね」

 そう言い残して私は去った。カウンセラーとしての役目は果たせた。初仕事にしては上出来。それでいいじゃない。

 でも、自分に言い聞かせている時点でスッキリなんてするわけがない。私は本当に臆病だ。カウンセラーを志したのに、自分にすら向き合えないなんて。

 翌日、カウカフェに蒼くんが来た。そのときの私の応対は最低。自分の思いを優先して吐露してしまったのだ。失態に気づき、どうしていいかわからなくなってしまった。

 そんなとき、彼は優しく導いてくれた。まるでこのリードのように。

 動きが少しずつ激しくなるのを感じる。そろそろね。

 蒼くん、今度はどう導いてくれるの? どう導きたいの? 私は体内の細胞を総動員して察知する。予備歩の入りは気持ち遅め。でも……まだ。……ここ? ううん、まだだ。

 蒼くんは大きく息を吸い込んで体を膨らませ、全身をストレッチして私の前に壁となってそびえ立つ。二人の距離はわずか5センチ。でも、この壁は強くも柔らかくて包容力がある。蒼くんが息を吐き、リードの兆しを感じ取った。

 ここだ! 彼の体の中から放出されるエナジーに私は飛び乗る。このリードは本当に凄い。例えば、他カップルのパートナーが2カウントかけて二歩進むところを0・5カウントで運んでくれる。速さ四倍。初めて体感したときは、まるでジェットコースターに乗った心地がした。乗り続けるのは大変と蒼くんは言ったけど、私にとってそれほどではない。だって、蒼くんがいつも私の進むべき道に光を照らしてくれるから。


 Off the floor ~Shiori’s eyes~

 フロア中央に異次元のスピードでステップを踏むパートナーがいる。宮野先輩のことではない。無論彼女も凄いが、いくらチャンピオンでも一人で起こす動力には限度がある。先輩はジュニア戦でも一切の妥協をせず予選から本気で踊っているけど、隣で踊る舞衣は抜群のペアワークで宮野先輩をもおきざりにし、ラテン音楽は、舞衣を見る人たちの驚きと興奮で完全に掻き消されている。

 私の頭の中は真っ白。始めは偶然かと目を疑った。数歩だけならばあり得る。けれど、開始三十秒が経過してどのステップを踏んでも二人のスピードは衰えない。

「あいつら……テンションをマスターしてやがる」

「テンション? それって何ですか?」

 陽さんのつぶやきに咲が尋ねると、説明は苦手なんだけど、と前置きして先輩は応える。

「和訳すれば、緊張・伸張なんだけど、わかんないよね?」

「はい」

「じゃあ、直立姿勢で壁を使って腕立て伏せをするイメージでいこう。まずは壁に凭れて体を斜めに傾けた状態から。咲ちゃんは曲がっている腕をどうやって伸ばす?」

「手のひらで、壁を押すことで伸ばします」

 咲はイメージを具現化しようと座ったままエアー腕立て伏せをする。

「そうだね。じゃあ手を伸ばした後、今度は腕を曲げるなら?」

「そのときは、全体重を、手のひらを通して壁に預けます」

「その伸縮運動にかかる力がいわゆるテンションなんだ。壁腕立て伏せなら、リーダーが壁、パートナーが運動をする人ってところ。テンションを上手く利用すると、一人ではできない動きができるようになる」

「でも、壁とは違ってダンスリーダーは動きます」

「そう。動くんだ。だから容易ではない。例えば、急にリードされたらどうなる?」 

「つんのめります。それ、同期の男子によくやられます。いきなり手だけでリードしてくるけど、あれはただ強引なだけですよ」

「だから、そうならないようヒップムーブメントという流れを作ることで次の動きをわかりやすく伝えるのさ。ちゃんと伝わればパートナーとタイミングが一致する」

「なるほど。でも、それなら信成・宮野組はヒップムーブメントを使っていますけど、蒼樹たちほどのインパクトはない。勿論、宮野先輩の踊りはスーパーですが」

「ワンバランス」

「……ワンバランス?」

「俺が勝手にそう呼んでいるだけなんだけどな。信成組はタイミングを一致させるためにヒップムーブメントを使っているけど、各々のバランスで立っている。つまり、カップルとしてのバランス箇所は二つ。けれど、蒼樹と舞衣はタイミングだけでなく、二体を一体にするためにヒップムーブメントをしている。最適解の依存だよ。伸縮を繰り返してボディーコミュニケーションをとり合っている。僅かでも乱れれば二人とも転倒するのに、ギリギリのところで成立している。動いていてもバランスは二人で一つなんだ」

「それは……難しすぎますよ!」

「だから信じられないんだよ! あんなの教えていないし、教えたところで熟練のカップルでないとできない。でも、あいつらは目の前でそれを証明……いや、表現しているんだ」

 分析したところで茫然とする二人。熟練カップルがするようなことがデビュー戦にしてできるのなら、考えられるのはただ一つ。二人の波長が完全に調和しているということ。ついさっき似た感情を抱いた私だからわかる。アクシデントにより断絶されたけど、準決勝で私と蒼樹は今までで一番のワルツを踊っていた。ワンバランスといえるところも随所にあった。けれど、目の前で踊る二人のそれはスケールがまるで違う。二人はともにダンス未経験者で、三日前にはケンカ別れをした。すぐに仲直りをして猛特訓を始めたことも知っているけど、雨降った後の地固まりようが半端ない。蒼樹という同じリーダーと組んだ私と舞衣で何が違うの? 波長を合わせるのに、私には何が足りないの? 二人の優勝を心から願っているし、思いの丈を吐き出すようにさっきから全力で声援を送り続けている。それでもすぐに様々な感情が湧き上がって渦巻く。どうやって二人のルンバに向き合えば……。混沌とする感情をよそに、体はとめどなく熱くなっていく。


 On the floor ~Soju’s eyes~

 ファイナルをどう踊るか、競技開始十秒――翔が踊り始めるまで悩んだ。セミファイナルは、信成組が唯一のフルチェックで1位。対して、俺たちは5チェックで4位。劣勢を挽回したいが、舞衣と家で試した踊りは不安要素を残していた。

 しかし、諦めるつもりはない。貼られた結果を見て、俺と舞衣は会場から姿を消し、二人の理想とする、ムーブメントだけでなくテンションを取り入れたルンバをギリギリまで追求した。

 これを挑戦するにあたって、四つの気づきがあった。

 最初は、ダンスパーティーで林組が披露したベーシック。俺たちと同じステップなのにまるで別格だった。俺は目に焼き付け、その日から家でマネし続けた。

 二つ目は、陽さんのウォーク。彼の引くタイヤは、ステップが止まってもタイヤが止まらない。その答えがヒップムーブメントにあることを突き止め、自宅で一時間ホールドに加え、一時間ルンバウォークを行うことにした。

 彩葉さんが学食で見せた妖艶なムーブメントも衝撃的だった。手を差し出すだけの動作なのに、連写した全ての画像がポーズになっていた。美の探究者だから成せるナチュラルムーブメント。そのとき教わったコツを、俺はボディームーブメントに取り入れた。独学だけど、関連動画を見ては二十四時間夢の中でも試したおかげで、ムーブメントは劇的に変化した。

 それでも決定的な何かが足りない。林組のルンバはなぜあんなにダイナミックなのか。解けない謎に悩む日々が続いたが、意外にも、汐里とのワルツでその答えを見つけた。

 ワンバランス。陽さんがプロダンサーの動画を観るとよく言うが、汐里を彼女の思うように踊らせたいという思いがその領域を実感させた。そこは一人では行けない場所。二人の技術とテンションの加減、そしてタイミングが完全に一致したときにだけ見える究極領域。まるで干潮時にだけ姿を表す島のように小さくて一瞬。しかし、ときに汐里とその場所に触れることができ、舞衣ともできないかと彼女を家へ招いた。

 三日三晩の猛特訓。バランスを保てず相手や壁に激突したり転倒を繰り返してある程度のものになった。けれど、不安を払拭するまでには至らず、また慣れない運動は激しく体力を奪う。一か八かのときまでやらないことに決めた。

 やるかやらないか。信成組を隣で踊らせるよう仕掛けたことで、直前の直前まで考える猶予を手にした。ファイナリストを試すようなスローテンポのルンバが流れ、信成組がヒップムーブメントをさらに大きく使ってきたところで、俺はやることに決めた。

 それにしても舞衣は凄い。俺のリードを察して鋭く応じながらも観客にアピールし、見る人の視線を外させない。舞衣は、過去に経験したピアノの発表会など本番に強いタイプではないと言っていたが、俺との踊りはステップを踏めは踏むほど生き生きとしていく。

 競技は後半に差し掛かる。翔と汐里に宣言した以上、絶対に優勝する。

 俺は、舞衣さえも知らない最後の秘策に出た。


 On the floor ~Kakeru’s eyes~

 本音を言えば、何が原因で、横で踊る未森こいつと勝負をすることになったのか今一つわからない。俺からすれば売られたケンカを買ったまで。気づけば目の敵となっていた。

 だが、なんであれ俺は絶対に勝つ。この部に入るために、俺は成雅に入ったのだから。

 入学式の一時間前、俺はダンス部に入部した。ラテンチャンピオンを目指すことに迷いはなかった。成雅大ダンス部は徹底的な実力主義。試合にエントリーする度に部内戦でふるいにかけられる。俺はそこで優勝し、念願のパートナーと踊る権利を手にした。

 彼女には林先輩という正式なリーダーがいるため、一緒に踊れる時間は制約された。限られた時間を有意義に過ごしたいからルンバに関する動画やフィガーの書かれた本は穴が開くほど目を通し、また多くの先輩方の指導を仰ぎ、自宅でも寝る間を惜しんで練習に励んだ。その甲斐あって、彼女との練習は密度の濃い時間となった。

 それでも、ヒップムーブメントを認められたのは今朝のこと。安城大学の体育館裏で、林先輩やOBに囲まれる中、ヒップムーブメントを取り入れたルンバを披露し、使用許可を得た。秘策として最終予選までは封印。そこから慣らして、決勝でベストパフォーマンスにもっていく。作戦は功を奏し、自分でもこのルンバが最高だと実感している。

 だが、ここに来て未森がヒップムーブメントを仕掛けてきた。

 奴の作戦は無謀だ。緊張と疲労が最も高まる決勝で踊り方を変えるなんて競技ダンスの常識ではあり得ない。どこかで必ずボロが出る。そう思っていたが、依然として観客の目は奴らに奪われたまま。

 競技は後半に差し掛かる。未森たちに宣言した以上、完全勝利を手に入れる。

 俺は、パートナーさえも知らない最後の秘策に出た。


 Off the floor ~Shiori’s eyes~

 試合時間は一分経過。残り三十秒。

 祈るようにして合わせる手から滝のように汗が吹き出し、体の震えも止まらない。

「優勝争いは完全にあの二組に絞られたな」

「まさかこんなことになるなんて、全くなんて子たちなの!」

「信じらんねえ! けど、蒼樹たちは一ルーティン終わるけど、どのステップも大丈夫だ! あとは繰り返し。オープンヒップツイストからのファンポジ――なにいっ!?」

 落ち着こうと一度は着席した先輩たちだったが、再び陽さんが奇声を発して立ち上がる。しかし、それは彼だけではなかった。

「あれはスリースリーズ! 順番、間違えたのか!? いや、でも繋がってる。落ち着け、蒼樹! そこから戻って、次はオープンヒップツイストからのファンポジ――なにいっ!?」

「違うわ! あれはアレマーナ! さらに、クローズ……しないでロープスピニング!?」

「あいつ、構成を変えてきやがった!」

 先輩たちは驚きをそのまま口にする。競技ダンスのステップは繰り返し踊れるよう構成される。そうして繋がったものをルーティンと呼び、七泉大にも多くの種類のステップから選りすぐった『ルンバ七泉ルーティン』がある。二人はそれを踊っていたけれど、二ルーティン目になって構成を変えてきた。でも、なぜそんなことを?

「どうして蒼樹はルーティンを変えたのですか? 慣れたものをやった方が……」

 咲が私の疑問を代弁し、先輩たちに尋ねる。

 大会では極度の緊張感からステップを間違えることもあるが、これはそうではない。だって、二ルーティン目……二人のルンバはさらに輝きを増している! 

 先輩方は誰も咲の質問に応じず、二人のダンスにすっかり目を奪われている。

「舞衣…………綺麗だなぁ」

「ッ!?」

 声を出さずにはいられない。理論派の健さんが、惚けたまま曖昧あいまいな心象を口にしている!

「凄い、蒼樹くん……。凄い! 凄すぎるっ!」

「……彩葉さん?」

「彼は、曲のイメージに振りを合わせたの」

「まさか!?」

 そんな馬鹿な! こんな極限に緊張する場面で!?

「だって、踊りの構成を変えたのはサビに入った瞬間よ。ルンバは女性を立てる踊り。彼は音楽が最高に盛り上がったところで、パートナーが映えるステップだけを連ねている」

「ああ。あれは完全にアドリブだ。舞衣にも知らせていない。だけど、舞衣はさぁ、即興に応えるんだよ。初めて俺と踊ったときもそうだった。蒼樹はあのときの舞衣の笑顔を覚えていて、今、彼女の魅力を最大に引き出している」

「ッ!?」

 私たちは、三人で過去数年分の安城戦の動画を見た。

 入部して間もない一年前期に求められるルンバは、姿勢良く、カウントを間違えず、笑顔で元気に踊ること。それで十分だった。なのに、一緒に動画を見た二人は、目の前で数年先の踊りをしている。

 勝利を手繰り寄せたと思ったそのときだった。

「おい! あれを見ろよ!」

 他の大学の席から大声が上がる。指を差すのは、信成・宮野組。

「「「「スリーアレマーナ!」」」」

 同じ言葉が一斉に重なるが、そんなステップを私は聞いたことがない。アレマーナなら知っている。カウント4でパートナーはリーダーに接近。次のカウント2でリーダーがパートナーを時計回りに回して外へ逃がす。だけど、美月さんは高速回転の後、男性の外側へ出ない。それも、あり得ないバランスでの寸止め。彼女の残像がはっきりと見えた。刹那、高速逆再生で反時計回りをしてほぼ元のポジションに戻った。かと思いきや、再びアレマーナ。ようやくリーダーの元を離れ、ロープスピニングへと移行。

「美月さんが三人……まだ残像が……二つ残ってる」

 咲が、放心に近い状態で言葉を繋ぐ。

 王者は一瞬にどれだけのことを詰め込んだの!? しかも、彼女は観客の反応を楽しんで自信ありげに微笑んでいる。

「彩葉さん。あれは、本当にベーシックステップ?」

 あんなに派手で難易度の高いステップのどこがベーシックなの?

 しかし、先輩は美月さんから目を離さないまま頷く。

「確かにベーシック。でも……私も見るのは初めて」

「!」

「どうしてあれがそうなのか、私にもさっぱりわからない。難しいから学生ダンサーは誰もやらないの。やったところでチェックなんて取れない。なのに、それをジュニアの部で見るなんて……」

 彩葉さんでさえ言葉を詰まらせているのに、私は何を思えばいいの。

「「「「出た!」」」」

 また誰かが叫ぶ。今度は何なのっ!?

「「「「美月スペシャル!」」」」

 ありもしないステップ名を、観客が口を揃えて叫ぶ。

「あれは……オープニングアウトですよね?」

 オープニングアウト。男性の立ち位置を中心に女性がサイドでファンポジションに近い形を左右交互に踏むステップ。カウント2でそのポーズを作り、カウント4で男性とクローズし、次のカウント2で今度は逆サイドでオープンポジションを作る。個人的にこのステップは好き。女性にとって華のあるステップだから。

「そう。でも、美月さんのは独特なの。このベーシックステップを彼女はとても大切にしていて、バリエーションステップでも取り入れているわ」

「そういえば、デモンストレーションのときも、このステップで会場が沸いていました!」

「美月さんは通常より多く繰り返すけれど、音の取り方や表現方法を毎回少しずつ変えて見る人を飽きさせない。あまりの美しさに成雅の後輩たちが美月スペシャルと呼んだことで広まったのよ。翔くんも凄い。美月さんの良さを十分に引き出して最後まで攻めている」

 スリーアレマーナとは対照的にオープニングアウトは初心者でも踏める。それなのに、自分の名前が冠されるなんて……。名付けた後輩たちの練習風景が目に浮かぶ。いつか美月スペシャルと呼ばれることを夢見てオープニングアウトを懸命に踏む姿が。

「以上、ジュニアルンバ決勝戦でした!」

「「「「27番良かった!」」」」 

「「「「99番良かった!」」」」

 割れんばかりの大歓声が、史上稀に見るハイレベルな戦いを繰り広げた二組に注がれた。


 全ての競技が終わった。怒涛の一日に体が悲鳴を上げている。窮屈なダンスシューズが踏み疲れた足をさらに絞めつける。

 ほとんどのダンサーは着替えを済ませているが、ファイナリストだけは競技を終えても服装はそのまま。あと一回、踊れることを信じているから。

「お待たせいたしました。それでは、これよりオナーダンスを行います」

 オナーダンス。

 競技終了後、優勝者のみが披露できる誉れ高きダンス。ファイナリストは、自分の名前がコールされるのを、目を閉じて祈る。

「ジュニアワルツの部。優勝は――背番号――95番、高山広志・星野亜美組、成雅大学です!」

 成雅大学の応援席が一体となって湧く。大所帯の中には飛び上がっている者もいて、尋常じゃないほどのお祭り騒ぎだが、場内にいる人たちも惜しげない拍手を送る。

 間もなく、優勝した二人が何度もお辞儀をしながらフロアに出てきた。

「それでは踊っていただきましょう。ワルツのオナーダンスです!」

 途端、会場は静まり、照明が落とされる。スポットライトが二人を照らし、リッチなワルツが流れ、大学の体育館でできる限りの豪華な演出で勝者を煌めかせる。服装はジュニアでも踊りは本物。初めての栄誉ある舞台に最初のナチュラルターンこそ緊張気味だったが、その後は伸びやかに、チャンピオンにふさわしいワルツを披露する。

「いいワルツ……」

 俺の左に座る汐里が呟く。あるいは、俺に向けたのか。オナーダンスを見ている彼女の横顔は美しいけれど、多くの思いが混在しているように映る。

「本音を言えば、複雑だよ。あそこに立つのは俺たちだった。けど、そうでないなら、彼らで良かった。ちゃんと約束を果たしてくれたから」

 尋ねられたかも怪しいが、素直に語ってもいいだろ? 一緒に踊ったリーダーとしてさ。

「そうね。でも……もう、彼らと約束することはないわ」

 踊り終えたばかりなのに気持ちが再燃している。意思を宿したその瞳は、オナーダンサーに自分の未来を重ねているようだった。

 ワルツのオナーダンスが終わり、照明が戻され、場内がざわつく。

「いよいよだね」

 右に座る舞衣の声は微かに震えていた。こんなとき、彼女の不安を和らげる言葉があればいいのだが、何も思い浮かばない俺は、祈る彼女の両手の上にそっと右手を添えた。

「ジュニアルンバの部。優勝は――」

 司会がさっきのワルツの発表より間を溜める。僅差を物語っているのか? 舞衣に沿えた手は逆に覆い被され、握り返された俺の手の甲は燃えるように熱い。

 体力は完全に消耗したはずなのに、鼓動が激しくなる。それは舞衣も同じで、繋いだ手や寄せ合った体から彼女の激しく波打つ鼓動が伝わってきて、静寂の中、二つの鼓動が暴れ合っている。

 歓喜なのか……絶望なのか……。

 早く言ってくれ! 長い沈黙にもう心臓が押し潰されそうだ。

「背番号――――――――27番、未森蒼樹・火神舞衣組、七泉大学です!」

「「「「「「「「うおーーーーっ!!」」」」」」」」

 その瞬間、陽さんが天高く飛び上がり、健さんは何度も拳をグッと握り締め、女性陣は全員で抱き合う。注目の決着に、七泉応援席だけでなく、辺り一帯が興奮と歓喜の渦と化している。想像以上の反応に俺は放心するが、突如、俺と舞衣はラッシュアワーの電車の勢いさながらダンスフロアに押し出された。

「それでは踊っていただきましょう。ルンバのオナーダンスです!」

 館内の照明が落とされ再びスポットライトが、今度は俺と舞衣を照らす。場内が一斉に静まると不思議と心は穏やかになり、俺は舞衣の手を取った。

 ライトが眩しすぎて周りが全く見えず、暗い海に放り出されてしまったような孤独を感じる。けれど、闇の向こうには無数の瞳が確実に存在して、彼らは賞賛、期待、見極め、嫉妬、各々の本音を曝け出して観ている。それら全てをこれから受け止める。

 ステージ中央へ向かいながら、ふと思う。

 人生でスポットライトを浴びたことはあっただろうか。

 だが、すぐにかぶりを振った。俺は、最近まで光の当たらない人生を送ってきた。そもそも俺は平凡な人間で、学校で表彰されたことはなく、団体競技ではいつもベンチを温めていた。高校では部活に所属せず、学費を稼ぐためにアルバイトに勤しんだ。

 けれど、それは言い訳で、本当は孤独な環境に身を置くことで誰かと比較されることを避けていた。スポットライトに照らされる誰かに拍手を送るのがずっと自分の役目だった。

「蒼くん」

 ギュッと手を握られる。今の自分を認めてくれる温かな手と声。そして、俺に向けられている無数の目の中で、たった一つの共感の眼差し。彼女は、そのつぶらな瞳にいっぱいの涙を溜めて声を絞り出す。

「ありがと……。私と……私と、踊ってくれて……」

「ああ……。こ……こちらこそ……」 

 舞衣の震わせながらも繋ぐ声に涙腺が緩み、気の利いたことが言えなかった。

 オナーダンスにふさわしい優雅なルンバが流れ、前奏が終わるところで踊り始めた。

 深海のような闇に降り注ぐ一坪分のスポットライト。たった一組でフロアを贅沢に独占して自由に踊る。オナーダンサーとしての矜持を心がけたが、何よりも心地いい。例えるなら、夜の海で月夜に照らされた二頭のイルカが戯れているよう。そう感じさせるのは、舞衣の踊りが決勝のときとは違う魅力を放っているからだ。試合の緊張感から解放された彼女は曲調に合わせ、泳ぐように滑らかに踊っている。

 ベーシックルンバはスローテンポだから地味、眠くなるという人がいる。チャチャチャ、サンバ、パソ・ドブレという他のラテン種目はアップテンポだからその論は否めない。

 それでも、俺はベーシックルンバが大好き。1カウント約一秒のスローテンポのこの種目には約四秒に一度、出会いと別れがある。多くのステップがカウント4で、二人が接近し、カウント2で離れる。今も、4で出会って2で別れた。離れている間は相手を想い、全身をムーブさせてその丈を表現し、そして4で再会を喜ぶ。出会いには別れがあり、また出会う。この繰り返し。日常ではあり得ないほど濃厚でドラマチック。今はじゃれ合うイルカみたいだけど。

 一ルーティンが終わると、俺と舞衣は手を取ったままルンバウォークで七泉のフロアサイドへ向かう。次のカウントで舞衣は手を離すと応援席へと消えていった。

 すぐに舞衣は一人の女性の手を引いて出てくる。その人は、目を丸くしてブンブンと手を振りフロアに出るのを拒否するが、仲間によって強く押し出された。突然のことに狼狽する彼女だが、ワルツ優勝の高山・星野組が猛烈に拍手を送ることでそれは瞬く間に広がり、フロアに立つことを全観客が認めてくれた。

 左脚に痛々しい包帯を巻いた汐里に合わせて俺は裸足で迎える。恭しく手を取り、彼女が痛みに耐えられる十五秒ほどのルンバを踊った。脚部は生まれたての小鹿のように震えているけれど、やはり彼女からも出会いと別れが溢れるほどに伝わってきた。

 こうして俺たちのオナーダンスは幕を閉じた。


「それじゃあ、安城戦の成功を祝してカンパ~イ!」

「「「「「「カンパ~イ!!」」」」」」

 至る所で、カチンカチンと一斉にグラスをぶつける音がする。

 会場にほど近い大衆居酒屋。競技会終了後は汗で失われた水分をアルコールで補充するのがお決まりのコースらしい。今日はデビュー戦とあって参加した全ての大学が集っているが、大畳四フロア貸し切りとか壮大すぎる。全員スーツだし、選手は髪上げされたままだし、こんな連中が近くにいたら周りのお客さんも酔うに酔えないだろうな。

 今日の試合を振り返る者、活動状況を語り合う者、最新のダンス事情を共有し合う者。詳細は違っても、どこもかしこもダンスの話ばかり。試合の緊張感から解放されて、少年少女のように無邪気な顔をしている。 

 などと感慨に浸るのも束の間、

「おい、見つけたぞ!」「未森蒼樹くんよね!」「オナーダンサー発見!」

 学年、男女、大学など関係のない多様多種の集団が押し寄せ、一瞬にして取り囲まれた。

「えっと……みなさんは?」

「祝杯を上げに来たんだ。まぁ飲んでくれ」「すげえ格好良かった!」「なぁ教えてくれよ。どうやったらあんなに踊れるんだ?」「ベーシックであんなに興奮したのは初めてよ」

 質問と杯が一斉に飛び交うが、こういう経験のない俺はどう対応していいかわからない。仲間に助けを求めようとするが、

「あなたが火神舞衣ちゃんね」「圧巻のファイナルだった」「美月さんのスピードを凌ぐなんてありえない!」「オナーダンスを違う雰囲気で踊るって、舞衣ちゃん何者!?」

「海野汐里ちゃんもいる!」「予選でもうファンになっちゃった!」「アクシデントさえなかったら絶対優勝したって!」「独特な美しさがあって、どこかで習ってたの?」

「あ、ありがとうございます」「えっと、留学したときに少しですけど」

 二人も群れの圧に押されていた。健さんたちは周囲に気遣って、少し離れたところで他大学の人たちと飲んでいる。結局、俺たちは披露宴の新郎新婦さながら次から次へと来る人たちと会話を交わしては乾杯のグラスを重ねた。

 こうして飲み続けていたが、あまりのハイペースに頭がクラッときたため、俺は逃亡を企てる。囲む人同士でダンス話に花が咲いたところでそろ~っと身を引き、部屋の端の荷物置き場に逃れ、上級陰キャスキル『荷物の一部』を発動。俺は数ある荷物の一部と化して、ダンゴムシのように丸まっていな~いいな~い……。

「ばあ!」

「ぐはっ!」

「ひっくり返ってダンゴ~ム~シ♪ 何をこそこそしてるの蒼樹くん?」

「ッ!? あ、彩葉さん?」

 殺虫剤を浴びた虫さながらころんとひっくり返って死ぬほど焦ったが、声をかけてきたのはダンス仲間との久々の宴にご機嫌な彩葉さんだった。この人、たまに子どもっぽくなるんだよな。まぁ、奇妙な行動を取った俺が言えた義理ではないのだけれど。それに、こういう意外な一面を見せてくれるのはやっぱり嬉しい。

 避難するための苦肉の策だったことを話すと、それならここで先輩後輩の二人で話していれば大丈夫よ、と守ってくれることに。

「三人ともすっかり人気者になっちゃったわね」

「びっくりですよ。こんなに反応があるなんて」

「あんなハイレベルなファイナルを見せられたら当然よ! 一番興奮したのは私たちだけどね」

 そりゃそうだよな。先輩たちからすれば、教えていない踊り方を突然後輩がし出したのだから。やり方は任せると言われていたものの勝手すぎたので後で叱られるかと思ったが、手放しで喜ぶ様子を見てホッとした。

「おまけに、ファイナルで感動は終わらなかった」

「?」

「オナーダンスよ。あれはカップルで踊るものなのに、あなた方はみんなに認められて、三人で踊ったのよ。そんなの学連、ううん、競技ダンス史上初めてかも」

 そっか……そうかもしれない。普通、そんなこと考えもしない。ただ、舞衣とオナーダンスを踊っていたとき、そうさせてもらえればと二人同時に閃いたんだ。

「そうだ。蒼樹くん、優勝トロフィー見せてもらってもいい?」

「もちろんです」

 俺はそばにあるバッグから長さ五十センチほどの箱を取り出し、蓋を開けて差し出した。

「うわぁ、本物だぁ」

 彩葉さんは手に取って目を輝かせる。トロフィーは天井の蛍光灯に反射することで金色に輝いてはいるものの表面は安いメッキ。それでも彼女はまるで宝石でも見るかのようにうっとりとしている。

「ルンバ優勝だから、最上部に男女がラテンダンスを踊るオブジェがついているのね」

「ワルツのトロフィーには、モダンダンスのポーズのオブジェがついているんですか?」

「そのようね。残念ながら、私は一つも持っていないけど」

「え? あんなに素敵な踊りをするのに? 俺、優勝者より先輩たちの踊りが好きです」

「ありがとう。トロフィーは美術関係なら持っているけど、ダンスの場合、最低でもファイナル入りしないともらえないから。私たち、セミファイナルなら何度も入っているけど、ファイナル進出したことがないのよ」

「そうだったんですか。ちなみに、俺はトロフィーも賞状も人生で初めてです」

「それじゃあ、この家宝はどこに飾るのかしら?」

 彩葉さんは冗談っぽく授与するようにトロフィーを返すが、俺は首を横に振る。

「これは、うちでは飾りません」

「えっ?」

「舞衣にあげます。大きいから、彼女を家に送るまでは俺が運びますけど」

「記念すべきトロフィーなのに譲っちゃうの?」

「ちゃんと写真は撮ったので、それは神棚に飾りますよ」

「神棚?」

 そこで俺は先輩に母について話していなかったことに気づく。特段黙っていたわけではないので、俺は舞衣に家の食卓で話したのと同じことを、それと今日のワルツ準決勝でのハプニングで母を思い出したことを話した。

「……そうだったの。そんな大変なことが」

 彩葉さんは目線を落とし、しんみりと俺の話に耳を傾けた。

「だから、トロフィーは舞衣にあげるんです」

「? 今の話を聞いたら、尚のこと真っ先にお母さんに」

「いいえ。これでいいんです。また獲れるよう努力します。そして、次は汐里に。その次に自分。順番間違えて家に持ち帰ったら、母に叱られますよ」

「……」

「彩葉さん?」

「蒼樹くん……」

 本人さえ無意識の、吐息のように漏れたその声はホットチョコのように甘く熱く、そしてその先の何かを言いかけたところで、彩葉さんはハッと口をつぐんだ。気になって目を合わせると、今度は顔を赤らめて伏せてしまった。その様子は凛とした普段とは対極に位置するほど初々しく、先輩らしくないと思ったが、ひょっとしたら滅多に見せない一面なのではないかと察知した途端、今度は俺が、自覚したことのない、心の中のおそらくは父性本能が猛烈にくすぐられていることに気づいた。不測の事態にどうしたいいかわからなくなった俺は、とりあえず手にしていたグラスビールを一気飲みしたが、すでにアルコールが蓄積していたことを思い出したときには上体がぐわ~んと揺れていた。なんとか堪えようとしたら、ひねくれた起き上がりこぼしのようになってしまい、

「プッ……」

「んあ?やは……さん?」

「プッ……アハハハハ」

 挙動不審な俺の行動が滑稽だったのか、彩葉さんはツボに入ったらしく、無邪気に笑い出した。

「アハハハハ……。そ、蒼樹くん大丈夫?」

「笑うなんてひどい。急に黙っちゃうから、どうしていいのかわからなかったのに」

 ひどく罰が悪くなり、かといって腑に落ちない俺は口を尖らせる。

「ごめんなさい。ちょっとね」

 彩葉さんはいつもの調子を取り戻し、レースの付いた淡いピンクのハンカチで目尻の涙を拭い、胸元で人差し指を楽しげにピンと立てた。

「それじゃ、トロフィーをパートナーに捧げる紳士には特別なご褒美をあげなきゃ」

「特別な……ご褒美!?」

「私ができることを一つだけよ」

「私ができることを一つも!?」

 なんだこのラッキーな展開! 果たして俺は夢でも見ているのか? あるいは、

「彩葉さん、もしかして酔っぱらってます?」

「そうね。今夜のお酒は特別だもの」

 クスッと笑いながら男心をくすぐる余裕っぷり。せいぜいほろ酔いといったところ。じゃあ、酔っているのはやっぱり俺か? 夢か妄想と疑い頬をつねるが……い、痛い。

 それでも提案を鵜呑みできない俺は彩葉さんの顔色を窺うが、先輩は「ん?」と首を傾げて柔らかく微笑む。正座を崩して今にも俺に肩を預けてきそうな様はやはり先輩らしくないほどに隙があり、スーツとブラウスの衣擦れした辺りから漂うサンダルウッドの香りがいつもより直接届いて再び俺の理性を惑わす。

「ほ、本当にいいんですか?」

「淑女に二言はないわ。それとも、願い事はないってこと?」

「今、脳内で厳正なる審査が!」

 ヤバい。早くしなきゃチャンスタイム終了とか言われそう!

 これ、甘えていいんだよな。デートを申し込んでもいいんだよな。さすがに付き合ってください、とかは図々しすぎるし興ざめされるだろうけど、デートくらいなら。

 彩葉さんは俺の考えなどお見通しのようで、俺を見てクスクスと笑っている。だとすれば、事実上オッケーなのでは。あぁ、もう! いつもながら、つい妄想が暴走してしまう。

 本当はそれを口にしたい。こんなチャンスまたとない。

 でも……。

 どんな誘惑を断ち切ってでも伝えたいことがあった。俺は目を閉じて心を静めてから彩葉さんと向き合った。

「実は、試合が終わったら尋ねようと思っていたことがあります。俺の願いは、その質問に対する理想的な答えなんです」

「?」

 俺が向ける真剣な眼差しに、彩葉さんは正座を組み直して背筋を正した。

「彩葉さんは三年生ですが、あと一年、卒部までいてくれますか?」

「ッ!」

 学年差のあるカップルは多くの場合パートナーが年下だけど、リーダーが卒部すると部活を辞めてしまうことがある。咲の部活ではそういう人が多くいるのだとか。

 無理のないことだ。 

 初めて試合に出たことで、彩葉さんの気持ちが少しは理解できる。

 俺は舞衣と汐里と毎日練習に励み、苦楽を共にし、何にも代え難い感動を分かち合い、一ヵ月とは思えないくらい濃密な日々を過ごした。

 入学式の日、陽さんは俺に「ダンスパートナーとは、これ即ち、嫁探し!」と言ったが、あれは大袈裟でも何でもない。

 ダンスパートナーはある意味、恋人よりも親密な存在になる。練習すればするほど会う時間は恋人より多く、共通の趣味から同じ目標を、スキンシップをとりながら実現させていく。そんな活動を理解してくれる一般人など簡単に現れるだろうか。

 彩葉さんは三年間、健さんとそんなダンスライフを送っているのだ。四年生の健さんが今年卒部したら彩葉さんが部にいる理由はほぼなくなる。俺だって、仮に舞衣も汐里もいなくなってしまったら、また一から相手を探そうなんて気持ちには到底なれない。

 見れば、先輩の瞳が揺らいでいる。もうすぐ人生の分岐点といえるべきところに立とうとしているとき、ストレートに尋ねられて動揺しないわけがない。

 彩葉さんはどう話すべきか言いかけては止めるが、何度か繰り返した後、ようやく口を開いた。

「先輩と組む人は必ず悩むことなの。私も、健さんと組むと決まった日からそうだった。組んだ日に去り際を考えるって悲しい話よ。実を言うと、今年の入学式の前日に健さんと陽くんに伝えていたの。健さんと同じタイミングで部活を辞めさせてもらうって」

 ……やっぱり。どうしてか、悪い予感というのは的中してしまう。

「絵とダンスは私の全て。その思いは本能でもあり意志でもあって。色々なことを犠牲にして身を捧げるにはそう覚悟しないと困難を乗り越えられなかった。けれど、リーダーがいなくなったらそれも意味を成さない。間もなく私は人生の喜びの半分を失ってしまう」

 真摯に応えようと始めは俺をじっと見つめていた彩葉さんだったが、視線を外し、どこに焦点を合わせるでもなく遠い何かを見ている。俺は思いの丈を述べたが、そんな彼女を見てこれ以上踏み込んではならないと気づかされた。

「ありがとうございます。先輩の思いを聞けただけで――」

「でも、ダンスの神様の悪戯かしら。そう二人に告げた翌日――入学式の日、ある男の子と目が合ってしまったの」

「!」

「それ自体は珍しくないけれど、彼は希少な人だった。最初に立ち姿を褒めてくれたの。嬉しかったわ。絵画に夢中だった私は猫背だとよく母に叱られたものだけど、ダンスに精進することでやっと直せた。だから、九十九人の男性に顔立ちを褒められるよりも体が熱くなるのを感じた。女性慣れしていないのに自分を大きく見せようと懸命なところは可愛かったけどね」 

 フフッと笑って彩葉さんは懐かしみながら俺の様子を窺うが、顔も耳も赤くなった俺は着ていたスーツに頭を潜らせ、即席の巣穴に一時避難。しばらくはうりうりと指でつつかれ、もうしないから出ておいでと言われるまで耐えた。

「今年、私たちが勧誘に消極的だったのは前回失敗したからなのよ。昨年はなりふりかまわず勧誘して、男子だけで三十人近く入部させたの」

「三十人!?」

 素っ頓狂な声が出てしまった。だって、まるで跡形もないじゃないか。

「練習が厳しくてみんな辞めちゃったけどね。きっかけは下心でもかまわないけど、いつまでもそれでは競技ダンスは続けられない。だから私たちは今年、パートナー探しを本人に任せることにした。自分の気に入った相手とならダンスライフを大切にするから」

 そういうことだったのか……。彩葉さんは言うまでもなく、口達者な陽さんがその気になれば部員確保なんて容易い。そういえば、健さんは、俺が相談したら同性を連れてこようとしたが、あれは彼なりのジョークだったのか。

「といっても、ダンスを知らない一年生が勧誘なんて無理難題。入部拒否も同然のミッションだったのよ。けれど、彼は本気で臨んだ。入学式直後からパートナーを探し続け、ダンスを教わっては家できちんと課題をこなしてくる。そこまでする人、初めてよ。厳しく接するつもりだったのに、いつのまにか応援していたなぁ」

「……」

「でも勧誘はうまくいかなくて。私は彼が百人目の女性にフラれることを恐れた。切りの良い数字に達してしまえば、部を辞めてしまう可能性もあるから。そのことを絵里子さんに相談したら、カウカフェに連れておいでって」

 そんな背景が……。三日前の舞衣とのより戻しといい、絵里子さんには頭が上がらない。

「その後は急展開だったわ。舞衣、汐里が入部してくれて。三人ともダンスが大好きで努力家で。そして、力を合わせて優勝を手に入れ、感動をみんなに与えてくれた。私は三人に教える立場なのに、教わることの方が多いって、今日改めて感じた。だとしたら、来年試合に出られなくても私がここにいる意義はあるのかなって、今凄く悩んでる」

「彩葉さん……」 

 手にしたグラスビールの泡を眺めながら思いを打ち明ける彩葉さん。そんな姿も絵になるほど綺麗だけど、本当の彼女の美しさはもっと内面にある。自分らしく生きることに真剣で、そのためなら後輩から学ぶことも厭わない。

「私も頑張らなくっちゃ。健さんとの残り僅かな時間、最善を尽くして初ファイナルを目指すわ。だからごめんなさい。蒼樹くんの願いは、そのときまで預かってもいいかな」

 彩葉さんは俺のことを少し見た後、視線を変えて微笑む。その先にいたのは、舞衣と汐里だった。俺と目が合うと二人ともすぐに逸らしてしまったが。

「勿論です。色々と話を聞かせてくださってありがとうございます」

 俺と彩葉さんは、指切りげんまんというわけではないが、グラスを重ねた。

 デートに誘うチャンスは逸したけど、言いたいことを伝えられ、二人で乾杯もできて、先輩との距離感をデート一回分くらい近づけた。そんな気がした。


「未森君いる?」

 席に戻ったところで、俺は思わぬ人に声をかけられた。現ルンバチャンピオン、宮野美月先輩。成雅大学は違うフロアで飲んでいるのに、突然チャンピオンが現れたことに周囲はおののく。アルコールが進んでいることもあり、ノリで誰かが「控えぃ控えおろう~!」と叫ぶと、一同「へへ~!」と畳にひれ伏した。

 ダンスの女神の降臨に思わず俺も倣おうとしたが、陽さんによって供物のように差し出されてしまった。俺に気づくと先輩はススッと近寄り、口角を上げ流麗に右手を差し出す。

「ここで私と踊ってもらえる?」

「!」

 全身に衝撃が走る。強力な呪文を浴びるが如く、その一言で酔いが一気に吹き飛んだ。なぜ先輩は急にそんなことを? 小動物の本能さながら俺は瞬時に先輩たちの背後に身を隠そうとする。

「健さん助けて。こんなのただの公開処刑、絶対無理――」

「皆の者、何をしておる! 早く支度をするのじゃ~!」

「健さん!?」

「え~い! 早く支度をするのじゃ~! でもって、俺も支度をするじゃ~!」

「陽さんまで、って何の支度をするつもり!?」

 立ち上がり大声で指示を出す健さんと陽さん。なにこの人たち、助さん格さんだったの?

 テーブルは片づけられ、あっという間に畳敷きのダンスフロアができあがり、陽さんはどこかへ消え、大量の触手によって美月さんの目の前に立たされた。誰かのスマホからルンバが流れ、宴会場は大盛り上がり。観念せざるを得なくなった俺はおそるおそるチャンピオンの手を握る。

「よ、よろしくお願いします!」 

 なんだってこんなことに! これ、悪い予感しかしない。コイツ、なんでこんなルンバで優勝してんの?みたいな。でも、もう逃げられない。

 どうなってもいいや! 俺は腹を括り、今の自分が持っている能力の全てを美月さんに注いだ。

 七泉ルーティンを一周してルンバダイムは終わったが、美月さんの踊りは、控えめに言ってもスーパーだった。リードに対する反応が根本的に違う。今日の舞衣がスポーツカーなら、美月さんはレーシングカー。ハンドルとギアを握り締めて感覚を研ぎ澄ましていないとコースアウトする。俺はそんな気持ちで臨んだのに、美月さんにとっては宴会芸の域を出ていなく、要所要所はスーパーだったが、場を盛り上げながら踊っていた。

「ありがとう。……なるほど」

 ひと踊りした美月さんは顎に手を当て何度か頷いている。やはり呆れられているのか。

 少しの逡巡の後、彼女は苦笑いを浮かべ、両手を上げてこう言った。

「これは勝てないわ。相手が悪かったわね、翔」

 すると、隠れて見ていた翔が罰の悪そうな顔をして出てきた。

「そうですか。……わかりました」

 先輩にそう言われたら観念するしかない。でも――

「――でも、俺とどう違ったのか。理由を教えてもらえませんか?」

 翔の言葉と俺の頭の中が一致する。

 閉会式後、陽さんからファイナルの結果を聞いた。決勝は順位法だが、全ての審査員が俺たちに1位、信成組に2位をつけた。成雅OGも同じジャッジで、同性である女性に重きを置くといわれる女性審査員も俺たちに1位をつけた。これほどの結果は予想外だった。

 だが、理由がわからない。相手を見る余裕などなかったが、信成組も多くの喝采を浴びていた。それに、舞衣の踊りはこれまでで最高だったが、それでも美月さんのレベルは桁違いで、今まさにそれを痛感したばかり。

「簡単に言うとね、踊りのスケールが違うのよ」

「スケール?」

 思わず口を挟んでしまったが、先輩は親切に応じてくれる。

「翔と私はヒップムーブメントでタイミングを一致させたけど、君たちはさらにリード&フォローで踊りそのものを一致させていたのね。そうなると、私一人足掻いても勝てない」 

 宴会場は静まり、全員が美月さんのコメントに注目している。

「私は今日無双するつもりで踊った。ジュニア戦で四年生が本気で踊るのは大人気おとなげないと囁かれるけど、ダンスフロアで手を抜くことなど絶対にあり得ない。競技ダンスは結局のところ、二人で1+1をどこまで大きくできるか。今日の私を2人分のスケールとさせてもらうと、私たちは1+2=3だった。でも、あなたたちは1+1=4以上だった。リード&フォローのあるバランスを二人で一つにした踊りは無限の足し算。君と踊ってそう感じたわ」

 チャンピオンのラテン講座に、誰もが何度も頷く。

「ところで、未森君。ううん、今回の勝負に関係した舞衣ちゃん、汐里ちゃん、咲ちゃん、七泉の皆さんにお願いがあるのだけれど」

「「「!」」」

 まさかチャンピオンに名前を覚えてもらっていたとは、と三人は驚き恐縮するが、美月さんは俺たちを後輩扱いせず、対等の立場であることを示すように姿勢を正す。

「今回の特別勝負はあなた方の勝ち。心から認めるわ。その上でのお願いだけど……翔から学生競技ダンスを奪わないでもらえるかな? この子は意地っ張りだから言わないんだけど、パーティーでの一件、他の子たちから聞いたのよ。そしたら、翔はみんなを庇っていたことがわかったの。ほら、ちゃんと説明しなさい」

 俺たちに話すのとは違う厳しい口調で美月さんは促す。後ろには広志と、あのとき同席していた男子二人が神妙な面持ちで肩を丸めて立っていた。

「翔くんは何も悪くない。悪いのは俺たち三人なんだ」

「女の子に飲ませたいという下心はあった。今うちの大学で起こっている犯罪行為なんて絶対しないけど、酒に強いところはアピールしたかったんだ」

 二人の男子に広志が続く。

「でも、俺はアルコールがほとんど飲めないんだけど」

「「「「!」」」」

 衝撃発言に俺、舞衣、汐里、咲が仰天する。

「図体がでかいからザルだと勘違いされるけど全然ダメ。そう打ち明けても、決まってふ~んって顔される。そういう反応をされるのは嫌だし、あの場で飲めないのは格好悪いから、俺はカクテルを他のグラスに移して、自分の飲み物は入れ替えたんだ」

「! でも、危険グラスは?」

「……危険グラス?」

「あ、え~っと……黄色のカクテルに薬物を入れていたよな?」

 俺は、この目で見たことを問いただすが、

「薬物? ……ああっ! あれはウコンだ。酔いを和らげるから」

「「「「ウコン!」」」」

 なに、この合唱。CMみたい。力になってるよ。

 広志の言っていることが真実だとすれば……。そこで俺は咲を見る。あのグラスを広志に上手いこと言って奪ったのは咲だ。そしてそれを一気飲みしたよな。

「咲」

「うん?」

「お前、あのとき、あれ全部飲んじゃったよな? 結果的には大丈夫だったわけだけど」

「そだね。最初にペロッと舐めたとき苦みは感じたけど、いけそうだなぁ~って。もう何杯か飲んでたからよくわかんなかったんだよねー。そっか、あれウコンかぁ」

「いや、危ないだろっ!」  

「どして?」

 なんでそんなに無警戒なんだよ。あんなに警戒し合ったじゃないか。

「お前、お持ち帰りされちゃう可能性があったんだぞ!」

「蒼樹に?」

「ッ! なんで?」

 すると、咲の目がキュピーンと妖しく光った。

「だって蒼樹、あの夜、私のこと熱く見つめながらめっちゃ褒めてくれたじゃん。『咲は、俺にとって最高の女性。誰がどう見ても可愛いし、明るくて優しいし。ダンスの技術も向上心もリスペクトできる。その上、俺とはカップルバランスも合うし、話は止まらないほど気が合うし。最高以外の何物でもないよ。本当に出会えてよかった』って」

 両手を頬に当て、もじもじと恥じらいながら(絶対、演技だ!)まるでコピペかと思うくらい咲は鮮明に再現する。咲ってモノマネ上手なんだね。上手すぎて、なんだか俺の居場所がなくなる気がするんだ。

「だ、だってそれは、咲が俺のことをベタ褒めしてくれ――」

「そだよ。私たち相思相愛みたいだね、運命の出会いなら、流れに身を任せてもいっかなぁ~みたいな? 責任とってカップル組んでくれればいいし、なぁんちゃって~♪」

「さきぃ~!」

 今度は両手を頭に置いてヒュルル~と口笛を吹いてうそぶく咲に、俺は必死にツッコミ返すが、全員から浴びる冷酷な視線でもはや死線を超えそうだ。

「さすがルンバチャンピオン」「よっ、ルンバチェラー!」「エロの化神!」「ヤリキング?」

「変なネーミング止めて~っ!」

 なんでこうなるっ!? あと、舞衣さんはなぜ俺の割り箸をモンゴリアンチョップでへし折っちゃうの? 汐里さんもビール瓶でいい音立ててビンタの試技するのやめてください。 

「まぁまぁ。そんなことを聞いたものだから、この子たちには後日お灸を据えたわ。これからお酒のマナーは上級生が厳しく教育する。だから、お願い! 翔からダンスを奪わないで」

「「「お願いします!」」」

 美月さんと三人の男が一斉に頭を下げた。距離感を取れずにいた翔も慌てて頭を下げる。

 今日、翔と話をする機会が何度かあった。存外、仲間思いなんだと感じていた。汐里がケガをして勝負無効を打診してきたとき、その表情を見て翔の良心に触れた気がした。けれど、今の今まであのときの真相は知らなかったし、真剣勝負に水を差したくはなく、舞衣と汐里の目を見て勝負を続行した。そして今、真相を知って心が晴れた。

 舞衣、汐里、咲を見る。彼女たちは無言で優しく頷いた。

「皆さん、頭を上げてください。頭を下げるのは俺たちもそうです。話を聞かせてもらって、自分が早とちりをしていたのがわかりました。ごめんなさい」

 俺が頭を下げると同時に、舞衣たちも頭を下げた。

 成雅のことを俺たちは誤解していた。成雅ブランドは確かに存在するが、決して冷徹なんかじゃない。厳しくも温かいもの。つまり、同じ学生競技ダンス部なんだ。

「翔」

 先に頭を上げて呼びかけると、翔は気まずそうに頭を上げた。大人しく言葉を待つ姿はらしくないと思ったが、まだ俺の知らない彼の一面なのかもしれない。

「ダンス、好きか?」

 翔は即答せず、頭の中を整理する。

「正直言うと、最初はそうでもなかった。付き合いで入ったところもあるし」

 俺は頷く。よく知らない物事を始めるときなんてそんなもの。俺だって、彩葉さんと出会わなかったら競技ダンスを始めていない。さっき彩葉さんが言っていたように、別にきっかけが下心だっていいじゃないか。それを本心に変えていくのなら。

「けれど、どんどんダンスにのめり込んだ。音楽と相手さえいれば気軽にできて、喜怒哀楽を共有できて、素晴らしい仲間に出会えて。日常生活でもいつの間にか体を動かしているし、授業とか電車の中とか、できないときは頭の中で踊っている。初めて踊った日からどうにも止められないんだ」

 あぁ……。こいつと俺、全く同じじゃないか。

「パーティーで生死をかけていると言ったのは嘘じゃない。そして今日試合を終えて、自分の愚かさに気づいたよ。どうして俺はあのとき軽率な行動や発言をしてしまったんだって。守るべきはくだらないプライドではなく、踊り続けたいという純粋な気持ちなのに……どうしようもなくダンスが好きなのに。それを易々と天秤にかけ、しかも負けてから気づく……俺は最低だ」

「翔……」

 違う。最低なのは俺の方だ。軽率な行動や発言をしたのはむしろ俺だ。

 けれど、パーティーの後、俺たちは一つのことを

 その発言の訂正だ。

 あの日はお互い必死だったから仕方がないにしても、後日先輩たちに相談すれば、真相を究明し和解はできたはずだ。

 成雅にもそれはできた。美月さんもさっき言っていた。後日、後輩から事情を聴いたって。それでも、互いに訂正をしなかったのは……。

 仲間のために労をいとわない男が目に涙を溜め、生気のない表情をして口を開く。

「約束は……守る。俺は今日をもってダンス部を――」

「翔!」

 この先は、絶対に言わせてはならない。俺はここにいる全員に注目してもらうよう大声で叫び、彼の言葉を遮った。

「あの日の俺たちのやり方は間違っていた。けれど、一つだけ良かったと思えることがある。だから、みんなに感謝しよう」

「……感謝?」

「俺たちは勝負をさせてもらったんだ。大きなものを賭けることで本気になって、誰よりも早くうまくなりたい気持ちを汲んでもらったんだ。きっと、そのときすでに先輩方は決めていた。勝敗がついた後、この場で和解させようと。これからの俺たちのために」

「!」

「俺たちは続けていくんだ。ライバルが死んだら俺も死んじまうよ。次の大会、楽しみにしてるぜ」

 俺は茫然とする翔の手を取る。すると、翔は身を震わせながらも強く握り返してきた。今日、こいつとは二度目の握手。でも、今の方が断然温かい。

 宴会場は人で埋め尽くされている。他のフロアから駆けつけた人も大勢いて、試合会場に劣らぬ拍手が湧き起こった。俺たちはそれが止むまで深々と頭を下げた。

「美月さん。お気遣いありがとうございました。これからもよろしくお願いします」

「こちらこそ。次の大会楽しみにしているわ。翔のことも鍛え直しておくからね」

 和やかな雰囲気に包まれた……のは、ほんの僅かだった。

「おい、待て。美月」

「なによ?」

 翔が、今度は怒りを抑えてプルプルと震えている。

「おい、翔! 今言ったばかりだろ。俺たちは先輩に感謝すべきだ。呼び捨てとか、美月先輩に失礼だろ」

 しかし、翔の謎の苛立ちを静めようとするも効果なし。二人の間には独特の雰囲気が漂っている。

「そーだそーだ失礼だ」

「いや、美月さん? その軽いノリもどうかと思いますが」

 不穏の空気が漂い始める状況で、美月さんは場の空気が読めないほどにおちゃらけるが、翔の口から驚愕の事実が明らかになる。

「こいつは今でこそ先輩だが、高校の同級生なんだ」

「……へ? だって、学年が違いすぎ――」

「俺は三浪してようやく成雅に入ったんだ」

「三浪!? いや、俺も二浪だから人のこと言えないんだけど」

 上には上がいる。ん? この場合は下には下がいる? って、この際どっちでもいい。

「不覚にも高校三年のときにこいつに惚れちまって。告白したら、同じ大学入ったら考えてあげるって言われて。でも、こいつ地頭いいから現役で成雅に入っちまって」

 酒の勢いもあって、もう周りのことなど構わんと言った感じで翔が気持ちを吐き出す。

「俺が一浪したとき、成雅に来るまで待ってるなんて言うから猛烈に勉強して。でも、成雅はレベルが高く二浪することになって。模試ではA判定取ったんだけどな。残念会をしてくれたこともあったが、こいつのダンスの残念話ばかり聞かされて。当時はここまで勝てなかったから。で、挙句の果てに俺の服にゲロぶちまけやがって、マジで残念会だった」

「ち、ちょっとそれは言わない約束でしょ!」

「黙ってられっかよ! だいたい約束破ったのはお前だろ」

「「「「…………」」」」

「三浪してようやく合格したのはいいが、今度は彼氏にするのは競技ダンサーだけとかぬかすから、しぶしぶ入部したんだ。早く上達してこいつに似合った男になるために入学式の一時間前に入部して、そこから毎朝毎晩練習しまくった」

 あれ? なんか身に覚えが……。

「さっき言ったように、今はダンスが死ぬほど好きだからいいんだが。こいつ、あろうことか、最近、リーダーの林さんと付き合い出してさ」

「「「「!?」」」」

「この前ルンバで優勝したとき、つい盛り上がっちゃったのよ。ほら、やっぱり一緒に踊っていると色々と情が移るじゃない?」

「つい盛り上がるとか、生々しいこと言うな! ダ~もう! 自分だけ先輩面して教育だとか言っておいて、酒も人間教育も必要なのはお前だ! 先に頭を下げてくれたことは感謝しているが、今まで弄ばれた俺としては腑に落ちねぇ」

「あんた待たせ過ぎなのよ! 女はねぇ、二十歳過ぎたら枯れちゃうの。ねぇ、みんな?」

 尋ねられたところで全員オール絶句。歴史のある痴話喧嘩に一同引きつっていた。待たせる男がいけないのか。思わせぶりな女がいけないのか。これについて男女乱れる酒場で討論したら死傷者がでそうだ。ただ個人的には、なんかもう翔が健気で愛おしくなってきたよ。

 ところで、この修羅場はいったいどうすれば? 二人とも野犬みたいにガルルル言ってるんですけど!? 一途な思いを弄ぶダンスの神様の悪戯なんて、俺たちにはどうすることもできない。

「おっしゃあ! 会場があったまったところで、いっくぞ~!」

 窮地の状況で威勢の良い声。救世主現る! と思ったが、姿を見て愕然とした。

 この場を変えられる空気の読めない神、降臨! いや……ただの陽さんだ。で、なんで裸にトレーなの。さっき「準備する」と言って飛び出したのはそのためだったの?

「ほら、お前らの分だ」

 俺と翔は謎のトレーを二つずつ渡され、キョトンとする。

「脱がせー!」

「「「「「「おー!!」」」」」」

「うわっ! ちょっとやめっ!?」「うおっ! なんだこれっ!?」

 無数の触手にさいなまれ、俺と翔はスポーンスポーンと身ぐるみを剥がされた。陽さんのスマホから祭りの音楽がヒョロロ~って流れる。なんかこの曲、駅前の商店街で聞いたことあるんだが?

「レディース・アンド・ジェントルメーン! それじゃ、夜のオナーダンスいったるでぇ。七泉名物裸踊りいっきゃす!」 

「「「「「「ウェーイ!」」」」」」

「そんな名物ないし、七泉の皆さん捕まるから!」

「心潤す♪」

「「「「七つの泉!」」」」

「みんな笑顔で♪」

「「「「ほっこりさ!」」」」

「合の手絶妙っ!?」

 俺と翔は、始めは必死にブツを隠しながら猛反発したが、やがて観念し、やけくそになって陽さんと振りを合わせた。すると、宴会場のボルテージは最高潮に達した。

「なぁ、蒼樹!」

「あぁん? 何か言ったか、翔?」

 騒音がうるさくて翔の声が届かない。大仰に首を傾げると、翔は笑顔で叫んだ。

「学生競技ダンスっておもしれえ世界だな!」

 なんだ、そんなことか。

「ああっ! さいっっっっこぉ~だあっ!!」

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