第3話 ダンスパーティー

 大学公認の競技ダンス部は日本学生競技ダンス連盟、略して学連に所属し、七泉大学競技ダンス部はその中の東部ブロックに属している。今日はブロック主催の新入生歓迎ダンスパーティーが都内のホテルで行われる。都心に出るまで二時間以上かかるため、七泉大学は東部主催のイベントや試合の全てには出られない。地方大学生であるうちらにとって、今日は上京といっても過言ではない。

 一年生三人は連盟委員の陽さん引率のもと、会場へ案内された。陽さんは委員として今はパーティーの進行に奔走中。俺、舞衣、汐里はダンスシューズに履き替えフロアに立つ。

「うわぁ、本物のダンスフロアだ!」

「本場のパーティーさながらね」

 舞衣はまるで海を見つけた夏休みの子どものようにはしゃぎ、汐里は留学先を思い出して感慨にふける。

「おおぅ。こ、これは踊りやすい!」

 俺は普段とはまるで違う床の踏み心地に感動している。大学の練習場は普通教室で、床はコンクリート。長年使い込まれたその床は、どれだけモップで磨いても滑る所とそうでない所の差があって滑ったりつんのめったりする。材質も硬くて足腰に負担がかかり、変なところが筋肉痛に襲われる。対して、このホテルの床はそんなストレスを全く感じさせない。ステップを踏めば滑り具合はちょうど良く、体重を適度に吸収してくれる。ダンサーにとってはふかふかのベッドに寝転がるような夢心地。

「こんな豪華なフロアで踊っていいのかなぁ。学校戻ったら夢から覚めちゃうよー」

「それなら、舞衣は試合でこの床を踏みに来ることを夢見て練習することね」

「なるほろ~。しおりん、いいこと言う!」

 舞衣と汐里は日に日に仲良くなっている。練習のない日には一緒に出かけることもある。よきかなよきかな。たった三人の同期だからね。俺も輪に加わらないと。

「じゃあ、そのときは俺がリーダーになるわけだ」

 パーティーを先取りして軽い口調で言ったが、舞衣と汐里は無言で目を合わせる。

「あの~、リーダーが少ないからってあまり調子に乗らないでもらえます?」

 舞衣はゴミを見る目で慎重に俺から後ずさり、

「今日は他大学の男性と踊れるのが楽しみね。素敵なリーダーいるかしら?」

 汐里はゴミを成敗した後のようにスカッと言い放つ。

「ぐぬぬぬ」

 く、加われねえ。二人が仲良くなるほどペアワークでハブられることも日に日に増えている。部員が増えたのに孤独を感じるという不思議。

 二人が話しているのは、シャドーカップル制度。学生競技ダンスでは約十年前から他大学の登録選手と学校の垣根を越えてペアを組めるようになった。この制度の最大のメリットは、従来から問題となっていた大学内の男女数不一致によってカップルを組めないシャドー部員が他大学の選手と組んで試合に出られるようになったこと。

 デメリットは主に二つ。一つは、団体戦が不利になる。シャドーカップルは個人登録なので基本的に団体成績に加算されない。そして、もう一つ。この制度を逆手に取る人がいる。気に入った相手が他大学にいれば、うまいこと理由をつけてカップルを組んでしまうのだとか。そもそも人間関係なんて水のように無形に変化するから部員数が男女均等になることなどなく、かといって、部もカップルを組めない人をシャドーのままにさせておくわけにもいかないから認めざるを得ない。団体競技としては同じ大学内、同一学年でカップルを組ませ、卒部まで続けさせたいところだが。この制度は便利でもあり頭の痛い問題も含んでいるようだ。

 これを最近知った俺は、パーティー会場に来るのに複雑な思いを抱いていた。

 無論、パーティーは楽しみだ。都内のホテル最上階でダンスパーティー、会場一面に広がる品数豊富なビュッフェ、そしてこの日のためにドレスアップした若い男女たち。まるで海外ドラマみたいなシチュエーションを目の前にして気分が高揚しないわけがない。パーティー開始前に早くも俺は紳士淑女の世界に足を踏み入れたことを実感している。

 だというのに……。俺は深いため息を吐く。

 胸中複雑な俺を見て、舞衣はキョトンとし、汐里はフフッと笑みを浮かべる。

「どうしたの、そうくん?」

「気もそぞろといったところかしら、蒼樹?」

 自分のもつ魅力に無自覚の舞衣と自覚している汐里。

 そう。この二人、会場に入ったときから降り注ぐほどの視線を浴びているのだ。今日は誰もがフォーマルスタイルの勝負服を着ている。しかし周囲はどれだけ着飾っても、素のレベルが違う二人がドレスアップすれば霞んでしまう。ラッピングされたバラにはどの花束も敵わない。

 舞衣はラベンダーのカクテルドレスに白のボレロを羽織っている。形はシンプルだがスタイルの良い舞衣にはかえってその方が良い。産毛のように柔らかい生地と天然素材なる透き通った肌。色や物は違えど、ともに持つ滑らかさが香り高い紅茶にミルクを溶かすようにマッチしている。胸元にはオープンハートのアクセサリー。そんなコーディネートでつぶらな瞳をしていれば、まるで花園で戯れる天使か妖精を連れて来てしまったかのよう。

 一方の汐里は、いつにも増して妖艶。黒のノースリーブのイブニングドレスは所々がシースルーな上、体全体のしなやかな曲線美を露わにするマーメイドラインのロングスカート。さらには、横ではなく正面にスリットが入っていて、時折覗かれる細く引き締まった美脚が男の視線を奪ってやまない。自分の魅力を最大に引き出した衣装はどう見てもオーダーメイドだが、豪奢なドレスを自然に着こなすあたりに格の違いを感じさせる。

 汐里が抜きん出た美人というのは出会ったときから変わらない。今日のドレスに限らず彼女は常にファッショナブルで、そういった点からも人目を引く。要するに高貴なお嬢様なのだ。舞衣は汐里の家に泊まりに行ったことがあるが、家政婦付きの豪邸らしい。

 舞衣は、汐里ほどのファーストインパクトはないが、それでもキラキラとした瞳や柔和な表情から母性が滲み出ていて、話せば話すほど人を惹きつける魅力に溢れている。加えて、おっぱいも大きいし。ていうか、踊り慣れるまで距離間が保てずラッキーポニョポニョするから下腹部を堪えるのに必死だった。

 対照的なのに圧倒的な魅力を放つ二人が現れれば、「お前、どっちがタイプ!?」とか「連絡先絶対ゲットするぞ!」とか、視線も話題も総ざらいするのはわかっていたが……。

 早い話、俺は二人を誰とも組ませたくない! 今日はパーティーだから他の相手と踊るのは仕方がないけど、正式なパートナーとして自分以外の男と組まれる心境は娘を嫁がせなくてはならない父親そのもので、気が気でいられなくなるに決まってる。よし、決めた! 将来、俺は連盟委員になる。そして、シャドーカップル制度を真っ先に廃止してやる。

「「一年生のみなさ~ん! こんばんはー!」」

「今日は新入生歓迎ダンスパーティーに参加してくれてありがとう!」

「そして、華麗なる学生競技ダンスの世界へようこそ!」

 オープニングの音楽が軽快に流れ、男女二人の司会が進行を取り持つ。フォーマルパーティーだが競技ダンスの世界は体育会系。始めからテンションが高く、女性司会者が会場使用や立食ダンスパーティーのルールを、男性司会者がそれをパリピ調にフォローしながら盛り上げ、すぐに全員でグラスを掲げて乾杯した。

 ダンスフロアの周りには華やかに盛り付けられた食事とドリンク類が置かれている。一流ホテルとあってバーテンダーもいてリクエストにも応じる。俺たちは、とりあえずテーブルに置いてある柑橘系のフィズを手にした。飲酒は、三人とも成人しているから問題ない。部活の後にみんなで夕食に行って酒を飲むこともしばしば。

 少しの閑談後、フロアを空けるよう指示が出された。もう他大同士で踊っている人たちもいて、彼らは名残惜しそうにフロアを離れるが、ああいう積極性がダンサーに必要な資質なんだろうな。それはそうと、ダンスパーティーでなぜフロアを離れる必要があるんだ。

「主役の皆さんをフロアから遠ざけてしまい申し訳ございません!」

「皆さんのダンスタイムがメインですが、ここで前座を設けさせていただきます」

 やけにもったいぶった言い方だ。何か隠しているのは明らか、と思うや否や、会場は一瞬にして暗転。どよめきが起こる中、ファンファーレが高らかに流れた。

「それでは、これより新入生歓迎デモンストレーションを行います!」

「本日のデモンストレーションは皆さんが練習を始めたばかりのルンバ。デモンストレーターは成雅せいが大学、はやし悠斗はると宮野みやの美月みづき組です!」

 アナウンスの瞬間、大きなどよめきが起こった。

「嘘っ!?」「林・宮野組って、あの林・宮野組!?」

「マジ!?」「どこどこ!?」「前座とかありえねえって!」

 前のめりな反応があちらこちらから聞こえてくるが、曲が流れ始めたところで興奮を抑えきれずに皆一様に口を塞ぐ。俺とてこの展開には驚きを隠せない。

「蒼くん知ってるの?」

「期待の新星といったところかしら?」

 一方、反応の鈍い舞衣と汐里。無理もない。二人はまだ学生ダンスの試合を観に行ったことがないから事情がわからないのだ。

「期待のスケールが違う。二人は成雅大学四年生で、ルンバの学生チャンピオン」

「「ッ!」」

「三年生の春にファイナリスト。この前観に行った試合では二位に大差をつけての優勝。卒業後にプロダンス界行きが期待されているカップルだよ」

 俺が二人に説明し終えても暗転状態は続く。ルンバはスローテンポで愛がテーマのラテンダンス。この曲も物悲しいピアノのメロディーラインが涙を誘う。

 それにしても、二人はどこにいてどこから現れるんだ。そもそも、本当に来るのか。パーティージョークじゃないのか。長い前奏に焦らされているそのときだった。

 突如、眩しいスポットライトがフロア中央を照らす。光の下には、見つめ合う男女がいた。あのときと同じ女性のワインレッドの衣装は紛れもない王者の証。光と闇のコントラストで、スパンコールが一層輝いている。間違いない、あの二人だ!

 ステップを踏む前から悲恋の物語は始まっていた。愛おしく男の手を握る女。だが、それが最後の触れ合いなのは痛いほどわかっていた。時が来て、ついに彼女は希望を閉ざし、抗えぬ運命に従うように男から離れていく。それでも男は諦めず、必死に彼女を追う。

 この部分を鮮明に覚えている。決勝のソロダンスでは、男が追いつき、女の肩を強く引き寄せ抱擁するのをきっかけに情感溢れるルンバが始まった。あの演舞がこんなに間近で見られることに興奮を抑えきれない。そう思うのは俺だけではなく、辺りを見渡せば、やはり誰もがこの先の展開に心躍らせているのが見て取れる。

 しかし、目に焼き付いていた光景は鮮やかに裏切られた。男が肩に手を置く前に女が振り向いたのだ。蠱惑的な微笑は観客をあざ笑うかのよう。そして、この驚きさえこの後の仕掛けに比べればさほどのものではなかった。ようやく前奏が終わり、歌が始まったところで踏むシンプルステップに誰もが驚愕した。

((((ベーシック!!))))

 驚く声を、しかし二人の世界を邪魔してはならないと必死に抑える。それなのに、押し殺した言葉の圧力が俺の耳に押し入る。デモンストレーションでまさかのベーシックルンバ。それは俺たち一年生が今まさに教わっているステップで、固定カップル特有のバリエーションステップに比べて派手さはない。だというのに、舞衣と汐里が声を漏らす。

「なんでこんなにも表現豊かに!? あ……熱い」

「本当に私たちと同じベーシックステップなの!?」

 レベル差をまざまざと見せつけられ、俺も茫然とするばかり。差があるのは当然。なんせ相手は雲の上の存在。だが、見惚れている場合じゃない。こんな演技は滅多に見られない。俺とどこが違う? 何が違う? いや、全てが違うのはわかってる! とにかく少しでも何かを盗まなければ。俺は林先輩の動きに集中することにした。

 明らかに違うのは動きに対する音の取り方。俺たち一年生はオンカウントでポーズを取る。音に合わせて動きを止めて、インパクトを見せるためだ。けれど、先輩はオンカウントでポーズを取るものの常に動いている。かといって緩慢ではなく、大きな波長で緩急をつけることで決める瞬間のポーズが映える。

「凄いね」

 見惚れながら舞衣は言うが、俺には胸に渦巻くものがあった。

「ああ。でも……悔しいよ」

「悔しい?」

 目を見開いてこっちを見る舞衣。視線を感じるも、俺は二人のダンスを食い入るように見ながら黙って強く頷いた。

「しなやかだけど強烈なインパクトのある動き。速いのにパートナーとも動きが合うなんて、どうしてあんなことが?」

 自問自答のつもりだったが、それを聞いた舞衣は答えを探すように二人の踊りを見る。

「私たち初心者と比べるのは失礼だけど、一番の違いは、信じ合っているから」

「信じ合う?」

「うん。だって、パートナーは曲のテンポというよりリーダーから与えられるリードで踊っているもの。表現は曲調に合わせているけど」

 舞衣に言われて今度はパートナーを観察する。確かに音の取り方が変則的で次のカウントになるギリギリまで振りを引っ張り情感にふける。それができるのは、リーダーを信じているから。ここしかないという一点のタイミングでリードが来て、彼女は体全体で機敏に応じている。踊りのスケールの大きさは、厚い信頼によるものだった。

 曲調が壮大になる。サビを迎えたところで林組はベーシックからバリエーションへとステップを変える。いよいよ我慢できなくなった俺たちは惜しげもない拍手や歓声を上げた。一度湧いた歓声と拍手は途切れることもなく、男と女の駆け引きはシンクロしながらクレッシェンドしていく。

 そして、迎えるクライマックス。リーダーがパートナーを頭上にリフトアップし会場のボルテージは最高潮に達した。一つ間違えればダンサー生命にも関わる大ケガと紙一重の大技を、二人はこともなげに演じる。歓喜の渦で音楽が掻き消されるが、一体となっている二人の踊りが乱れることはなく、むしろ声援を糧に動きをよりダイナミックにしていく。

 大歓声を浴びながら、二人がフィナーレに向けて展開していくドラマに観客は固唾を呑む。曲のエンディングは前奏と同じピアノソロ。つまり、相思相愛だが結ばれない。男はルンバウォークで遠ざかる。これはルンバの基本ステップで、俺たち一年生も毎日練習しているが、彼のウォークからは身を引き裂くような悲しみが溢れている。女はその背中を両手で追うもついに諦め、思いを包み込んだ手のひらを胸元で抱きしめたところでスポットライトが消えた。

 圧巻の演技に放心する観客。暗闇の中、すすり泣く声さえ聞こえる。

 数秒後、ルンバのサビの部分がリプライズし、会場全体に照明が灯され、王者は笑顔を振り撒く。それにより観客は悲恋が演技であったことを思い起こして感嘆する。クライマックスと同等の拍手が林・宮野組に送られ、二人は正方形のダンスフロアの全てのフロアサイドまで来て気高く礼をする。そこには圧倒的なオーラが漂っていた。

 そう感じるのは学生競技ダンサーの間だけだろう。なぜなら、彼らは芸能人でもなんでもないただの大学生。平日は自校の学食で食卓を囲み他愛のない話で盛り上がるメンバーの一員。でも、俺たち一年生が今一番焦がれるヒーロー、ヒロインだった。

 ひとときの夢から覚めた会場にはBGMが流れ、熱気を帯びたざわつきが戻る。

「凄かったね」

「ええ……」

 舞衣の問いかけに短く応じる汐里。真剣な眼差しは、先を見据えるアスリートのようで彼女なりに何かを感じているようだ。しかし、余韻に浸る間もなくパーティーは進む。

「それでは、前座も終わりましたので」

「いやいや、今の演舞を見せてもらったら冗談でもそんなこと言えませんよ!」

「ちょっ、ズルい! 俺だって言わされてるのに」 

「さぁ、お待たせしました。これよりメインイベント。新入生ダンスタイムです!」

「練習で培ってきたステップは果たして通用するのか!?」

「心配ないです。踊ればすぐにわかります。ぜひ大学間の交流を深めてください!」

「「ダンスタ~イム、スタート!」」

 開始と同時に流れるダンスミュージック。あんなデモを見た後で誰が踊るのかというためらいがちな空気が流れるかと思いきや、すぐに動きが見られる。たいした度胸だが、今日はパーティー。上手い下手とかではなく楽しんだ者勝ちなのだ。そんな雰囲気が会場を満たしていく。 

「お願いします!」「俺と踊ってください!」「ぜひ僕と!」「一曲だけでも!」

 たちまち野郎どもが群がり、舞衣と汐里に向けて無数の手がアイドルのサイン会さながらに差し出された。もみくちゃ状態に舞衣は慌てふためくが、汐里は涼しげな顔。

「そ、それじゃあお手柔らかにお願いします」

「あなたにしようかしら」

 二人は手を差し出し、それぞれフロアへと消えていった。すると、選ばれなかった野郎の群れも泡が弾けたように消えてなくなった。

 俺は二人の飲み物を預かったまま一人立ち尽くしていた。なんだろうこの敗北感。洋画とかでフィアンセをさらわれた男みたい。いや……既視感デジャヴ? ……そうだ。それだ。勧誘時期に散々経験したあれだ。ターゲットの女性を、メジャーサークルの連中にかっさらわれたときそのものじゃん。俺、こういうのハマり役なのかな。

 ボッチになった俺を、会場のみんなは憐れんでいるに違いないが、捨てられた男と踊りたい女性などいない。独りでうろついても惨めさを引き立てるだけ。とりあえず……飯でも食うか。俺は窓辺の目立たないところに避難することにした。

 ああ。おいしいなぁ。立食とはいえ、やはりホテルのディナー。酒もおいしい。最近の美酒といえばバイト先でもらう酒。前のバイト先からの紹介で、下宿後すぐに朝刊配達を始めることができた。配達先でたまに発泡酒をくれる人がいるが、安物でも尊い労働のご褒美だ。こんなお洒落ではないけど。 

 東京の夜景、綺麗だなぁ。まさかこんな所に来るとはなぁ。

 上京すると、俺は必ずシンボルタワーを探す。スカイツリーではなく、東京タワー。見る度に高層ビルに埋もれていくが、ここならすぐに見つけられる。冷たい白色のLEDを煌々と照らすビルの中で唯一、温もりのあるアンティークゴールドがまばゆく輝いている。

 あそこは家族で最後にでかけた思い出の場所。といっても、ママから母さんと呼ぶよう直されたときのことだし、死別するなんて思いもよらなかったから最初は曖昧な記憶だったが、忘れたくなくて、黄昏ては思い出し繋ぎ合わせていった。


 東京タワーの大展望台。三百六十度のパノラマ絶景に心奪われ、下界と称せる約百五十メートル下を覗かせる透明のガラス床の上を歩き、興奮しながら時計回りに一周した。父がトイレに行くと言って離れ、母と俺は夕日を呑み込もうとしている横浜方面の景色を見ながらこんな会話をした。

「蒼くん蒼くん」

 俺のことをいたずらっぽく呼ぶ母は当時三十前後。お洒落に余念がなく、もともと年齢に対して若く見られる方で、今思えばうちの大学の上級生にいてもおかしくはない。そんな母だから、いつも俺に友人のように話しかける。

「ん?」

「好きな子できた?」

「!」

「そっかぁ、寝ぐせ気にし始めたからもしやと思ったけど、もうそんな年頃なんだなぁ。健全な男の子に育ってお母さん嬉しい! けれど、ちょっとだけ寂しいなぁ」

「い、いねえって! なんで急にそんなこと?」

「景色だけでなく周りを見てごらん。カップルだらけでしょ。ここは観光スポットでもあり恋人の聖地でもあるのよ。蒼くんもいつかここに彼女と来るのかなぁ。それでそれで?」

 否定したところで、俺のことを知り尽くしている人には見透かされていた。

 ちょうどその頃、気になる女子はいた。明るくて可愛くてクラスの人気者。そんな子を好きになるなんてミーハーだが、学級で同じ園芸係となり話す機会が増え、相手を意識するようになった。だからといって、彼女と付き合うとか小学生の俺にそういうアイデアはなかったが。ところで、それを親に話すのには抵抗があり、俺は変な誤魔化し方をした。

「マ……か、母さんはさぁ、俺にどんな人を好きになってもらいたい?」

 確かあのときそう言ったんだが、こういうところ、今も昔も変わってないなぁ。思い出す度に情けない気分になるのだが、その問いに母はしっかりと向き合った。

「う~ん、これといったものはないかなぁ。少しは私に似ていると嬉しいけど、恋心は理窟じゃないし。それよりも、蒼くんにこういう男性であって欲しいって願望ならあるよ」

「?」

「蒼くんには、紳士になって欲しい」

「紳士……って?」

 初めて聞く言葉ではなかったがピンとこない。理想の男性ということなら、格好いいとか頭がいいとかスポーツが得意とか、そういうことを言われる気がしていた。

「お母さん、こう見えて学生時代はけっこうモテたのよ」

「はぁ」

 色んな意味合いのあるため息を吐く。反応に困るというのと、母親をそういう目で見られないというのと、自分で言うのもなんだかなぁというのと。実際、母がモテるのは知っている。社交性が高い母には友人が多く、よく家に訪れたものだが、どの学生時代の友人が遊びに来ても、みんな同じことを言う。母は日常茶飯事のごとく告白を受けていたと。

「じゃあさ、お父さんはどうなの? お母さんがモテたとしたら、普通モテるもの同士でくっつくもんじゃない? でも、お父さんモテそうに見えない」

「あんた、自分のお父さんに酷いこと言うのね。まぁ確かに、最近はパッとしないけど」

 酷いことを言っているのは、どっちだよ。

「じゃあ、どうして?」 

「それはね、お父さんは私の――」

 すると、母は遠くにそびえる富士山をビッと指差しながら言った。

「ヒュー・ジャックマンだったからよ!」

「……お父さん、外国人の血が入ってたの?」

「アハハ! そうじゃないんだけど」

 俺の反応がそんなに面白かったわけではないと思うが、母はご機嫌だった。

 そして、そのとき初めて二人の馴れ初めを聞いた。


 幼い頃から外国の恋愛映画が好きだった母は、映画の中に出てくるような紳士に焦がれていた。そのことは俺もよく知っている。映画の影響を受けて、俺をおもちゃ……いや、キャストによく遊んだからだ。小高い所があればタイタニックごっことか、ポストを見かけてはローマの休日ごっことか。そういえば、ローマの休日ごっこをして俺が郵便ポストに手を突っ込んでいたときに、ちょうど郵便物を回収に来た郵便局員に見つかって、死ぬほど焦った俺はガコッとさらに手を突っ込んでしまい、真実の口と化したポストから手が抜けなくなったことがあったっけ……。

 そんなわけで紳士好きな母だったが、とりわけ、セクシーでユーモアに溢れ、プライベートでも愛妻家として知られるヒュー・ジャックマンが大のお気に入りだったらしく、彼の主演作『ニューヨークの恋人』を、日本で公開されるのを待ちきれなくて、なんと本場ニューヨークまで観に行ったのだ。

 目的を果たして大満足で帰国の途に就こうとした母だったが、気分は突然どん底に突き落とされる。ケネディ国際空港で身につけていた宝物のイヤリングを落としてしまったのだ。顔面蒼白となって探していたところ、そこで当時、現地のグランドスタッフとして働いていた父に出会った。母が事情を話すと、父は自分の宝物ではないかと思えるほど懸命に、母の出国時刻ギリギリまで探し回った。

 しかし、結局は見つけることができなかった。父に感謝するも落胆の色を隠せない母だったが、別れ際、父は必ず見つけると母に誓った。

 後日、母の住むアパートに二種類のイヤリングが届いた。

 一つは紛失したはずのイヤリング。だが、不運にも誰かに踏まれてひどく傷んでいた。

 もう一つは、それに酷似した新品のイヤリング。それと、手紙とは呼べないほど短い文が添えられていた。

『もっと早く見つけることができれば良かったのですが、こちらもお似合いかと存じます。お客様にとって、ニューヨークが素敵な街であり続けますように』

 国際郵便なのに驚くほど簡素。それどころか、父は自分の住所すら書かなかったが、行動派の母は翌日に再びニューヨークへと発ち、二人は再会を果たし恋人になったのだとか。


 母は懐かしみながら、ピンクゴールドのイヤリングを愛おしそうに撫でる。 

「お父さんは顔だってなかなかだし、心は本物の紳士よ」

「う~ん。そうなのかなぁ……」

「そうなのよ。それに、今だって実はお父さん、お手洗いには行っていないと思う」

 さっきまでイヤリングを撫でていた指を、今度は探偵気取りで顎にあててにやりとする。

「え? じゃあ、どこ行っちゃったの?」

「雰囲気を察したのよ。この前、私がお父さんに『蒼くん、好きな子いるのかな?』って尋ねたから、こうして直接聞き出す時間を与えてくれたの。打ち合わせなしよ」

「わざわざそんなことを」

「それだけじゃないわ。今頃、夕食の予約をしている。たぶん、先週テレビを観ていたとき蒼くんがおいしそうって言ってたレストランかな」

「そ、そうなんだ。じゃあ、紳士っていうのは気が利くということ? でも、それくらいなら他の人でもいそうな気がするけど」

「いるわよ。でも残念なことに、多くの男性はそれを鼻にかけてしまうのよ。けど、お父さんは違う。見返りを求めない心の広い人。そして、そういう風に気を利かせつつも自分もちゃんと楽しむの。そうすることで私たち家族が幸せになることを知っているから」

「紳士って……大変だなぁ。俺、そんな風にはなれないかも」

「そんなことないし、お父さんと比べる必要もない。蒼くんには蒼くんの良さがあるからそれを活かせばいい。これから経験を重ねて少しずつ形にしていくの。そうね、これはお母さんが蒼くんに授ける人生の課題かな」

「うげぇ……。課題って聞くと、なんだか気が重い」

「それじゃあ、駆け出し紳士の蒼くんに、一つ良いことを教えてしんぜよう!」

「……なに?」

 俺は一歩後ずさる。高所が怖いのではなく、母の企みのある笑顔が怖かったからだ。けれど、母は安心させるように俺の頭を撫でながら言った。

「両手を見てご覧なさい」

「両手?」

 俺は言われるがままに、自分の手のひらを見る。

「さっき手を洗ったばかりだから綺麗だよ?」

「フフ、そうね。爪もちゃんと切るのよ。身だしなみも大切。さて、紳士なる蒼くんは、いつか淑女をその手で迎えるの。そのとき、自分が紳士かどうか手を見て確かめるのよ」

「……何を?」

「それはそのときによるのだけれど。例えば、自分にやましい心はないか、彼女のことを心から大切に想っているか、これからエスコートをするのにちゃんとイメージはあるか。そんなことを、手を見ながら心を整えるのよ」

「う~ん……」

 わかるような、わからないような教えに唸ってしまう。なんだか大切なことを教わっている気はするのだが。

「アハハ、大丈夫よ。そんなに心配しなくても」

「……本当に?」

「本当に本当。だって、蒼くんは紳士と淑女の子なんだから」

 俺の煮え切らない気持ちとは対照的に母は清々しく、そして柔らかな笑みを浮かべる。

 夕日の名残と夜景の始まりが同居する一日の中の僅かな時間。かつて見たことのない広大な都会の空は、橙色と藍色に染められることによって、言葉では表せないほどの細やかなグラデーションが描かれ、街の明かりはまばたきをする度に増えていく。

 そんな風景を背にして微笑む母は、俺が覚えている中で、息子でさえも神々しさを感じる最期の絵画だった。

 

 思い出す度に紳士というワンワードが胸に残る。けれど、駆け出し紳士は駆け出しのまま。紳士という言葉の意味を深く探ることも、淑女を前にして自分の両手を確かめるような経験も未だなきに等しい。

 それどころじゃなくなったのだ。その後、母は交通事故で命を奪われた。被害者遺族は葬式、裁判、男手での慣れない子育てと悲しみに暮れる間もない。憔悴し切った父は勤めていた航空会社を退職し、都内から親戚を頼って人里離れた場所に俺を連れて引っ越した。俺は小中学を分校で過ごし、村外の高校で輪に入りそびれ、放課後は生活のためにアルバイトに勤しんだこともあって孤独な生活を送り、さらにはその後の浪人生活で陰キャに磨きをかけてしまった。

 だというのに、生粋の田舎育ちではない俺は人づきあいが苦手なくせして、ときに人恋しくなるときもあり、次こそは大学デビューしてやるぞと密かに闘志を燃やしていた。二年もの間、燃やしては消えてを繰り返したのだけれど。

 こんな経験から、どうしても東京タワーを見る度に感傷的になってしまう。

 でも、きっとこれでいい。一家の太陽のような母は、もし自分のことを思い出してくれるなら、こんな風に心を温めて欲しいって、もっと高い場所からそう見守ってくれているはずだから。

 そうだ。明るくて洋画好きな母を倣おう。こういうとき恋愛映画に登場するジェントルな主人公は夜景にグラスを傾ける。誰も見ていないことだし、気分を変えるためにちょっと気取ってみるか。俺は迷うことなく東京タワーにグラスを傾け、胸を張って呟いた。

「乾杯」

 チーン

「! っとと。あっ!」

 エアー乾杯をしたつもりが、急に横からグラスを重ねられ、小気味良い音が響く。一人の世界に没頭していた俺は、バランスを崩して中身を溢してしまった。

「ウケる!」

「ウケないし、びっくりなんだけど!?」

 ツッコミを返しながら何事かと振り向くが、さらに謎が深まる。目の前には見たこともない女性がいて、俺の間抜けた反応に腹を抱えて笑っているからだ。

 唖然とする他になかった。

 あなたは誰? 人違いじゃないの? でも、それならそう詫びて去っていくはずなのに、今度は俺の反応を見てニコニコしている。いったい、なんなんだ?

「なら作戦成功だね」

 茶目っ気たっぷりに笑う彼女もまた人目を惹く魅力に満ち溢れていた。リッチブラックのタイトなワンピースはアシンメトリーのオフショルダーで着丈は短い。こんなに独創的で露出多めのドレスは着る人を選ぶが、細身で引き締まった体からは余分な肉など見当たらない。そして、好奇心旺盛な瞳。だからなのか、大胆な振舞いが自然で文句を言う隙もない。俺の慌てぶりは彼女からすれば期待通りのリアクションだった。

「電開大の園田そのだ千咲ちさきさきでいいよ」

「七泉大の未森蒼樹」

「じゃ、蒼樹でいいよね」

 咲は「よろしく」と手の甲を差し出す。フランクというかアクティブというか。ともあれ、これは握手ではない。俺は自分の手のひらに彼女の手を乗せ、フロアへと導く。

 内心ドキドキしていた。美女をエスコートしていることもそうだが、主たる理由は相手が電開大ということ。電気開発大はダンサーなら誰でも知っている競技ダンスの超名門校。この前観戦した試合でも多くのファイナリストを輩出し、見事団体優勝を果たした。

 国立理系大学で女子が少ないのになぜ強いのか。陽さんに尋ねたところ、パートナー校の存在が大きいとのこと。パートナー校とは女子大や女子短大であり、リーダー校の女子部員不足を補うために提携を結んでいる学校のことをいう。そして、電開大のパートナー校は女子体育教育大学。筋金入りのアスリート集団は根本的に運動神経が違う。

「咲って体育大なの?」

「電開の女子部員はほとんどそうだよ」

「女子はみんな運動神経抜群なわけ?」

「基本的にはね。でも、スポーツ科学科の子たちは理論的な観点で研究しているから、それほどでもないかな」

「咲は?」

「私? 西洋舞踏専攻。創作系ね。三歳からやっているけど、社交ダンスは初心者だよ」

「いやいやいや」

 それ、細胞からして違うじゃないですか。こんな子とゆくゆく対決しなければならないの? 学生競技ダンスはほとんどが未経験者だから、スタート位置が同じで平等なスポーツと聞いていたが。あ~、もう聞くんじゃなかった。余計に緊張してきた。

 もうこうなったら、あれだ。話しながら踊ろう。パーティーだし、本気を出さずリラックスして踊る……と見せかけて本気で踊る作戦! みっともないけど仕方がない。

 流れている曲はジルバ。軽快でリズミカルかつステップがシンプルだからダンスパーティーでよく流れる。俺も勧誘のときから踊っているから一番慣れている。

 だから安心。と思いきや、やっぱり彼女はまるでスペックが違った。俺のリードする枠の中で踊ってはいるが躍動感が違う。例えるなら、スポーツカーを運転している気分。親戚のスポーツカーを少し運転させてもらったことがあるが、低速で走っていると車がうずうずしていて、アクセルを踏み込んだ瞬間にポテンシャルを開花させる。飛ばして!という気持ちをぐいぐいと伝えてくるマシーンだった。咲と踊っているとそれを思い起こす。

「デビュー戦いつ?」

 頭の中ではなく、ボディーでリズムを取りながら咲が尋ねてくる。

「特に決まってないんだ。出たいときでいいよって言われててさ」

「じゃあ、安立戦あんりつせん出られるじゃん。いいなぁ」

「安立戦?」

「知らないの? 安城あんじょう大と立帝りってい大が共催している招待試合。規模は小さいけど、一年生が一番早くデビューできる試合なんだよ」

「そうなんだ。咲は出られないの?」

「うちは夏までダメ。夏合宿で生き残った者だけに許可が与えられるの」

 ……なにその地獄合宿。アスリート揃いの女子と合宿なんて、理系男子は生き残れるの? そうでもしなきゃ、スポーツカー女子の相手は務まらないんだろうな。電開ブランドを保つには認めたダンサーしか出さない。再び恐ろしいことを聞いてしまった。

 聞くだけショックを受ける気もするが……これは聞いてもいいよな。

「ところで、咲はどうして俺に声をかけてくれたの?」

 それはあまりに不自然なこと。何か魂胆がなければあり得ないが……。

 俺目当てとは考えにくい。俺のルックスは普通。百歩譲って好みの顔だったとしても、夜景を眺める俺の顔は見えない。大学名というのもピンと来ない。七泉より有名な大学はあるし、団体優勝するダンス部が、それについて尋ねるメリットはない。

 となると、思い当たるのは一つだけ。舞衣と汐里の情報収集だ。並々ならぬ注目を浴びている二人だから、電開大の男子部員から彼女たちと親しくなるためのルート開拓を頼まれた。よって俺は踏み台。屈辱的だが、これ以外の可能性が思い浮かばない。

「私さ」

 トーンを下げる彼女のセリフの先を、覚悟して待つ。

「グラス掲げている人を見ると乾杯したくなるんだよね」

「んなわけあるかー! どんな習性だよ新種の痴女なの?」

「アハハ、何それ? でも、蒼樹はノリがいいから好き」

「そ、そういうの、踊りながら言うの禁止! 即効性ありすぎて勘違いするからやめてぇ」

「え~。勘違いしてくれてもいいんだけどな~」

 話聞いてないよね、この人。そのセリフも禁止だってば。

 ジルバが終わり、シックな雰囲気のスローワルツへと変わる。ワルツにはスローワルツとヴィニーズワルツの二種類があるが、学生が踊るのは前者のみで、それを略してワルツと呼ぶが、スローテンポの三拍子の中に優雅さや抒情性がある。

 曲が変わると相手を代える人もいるけど、俺たちはまるで話足りなかった。人で溢れるダンスフロアだから加減して踊るが、ホールドを組んだ瞬間、咲から踊れるオーラがひしひしと伝わってくる。ワルツを含むモダンダンスは、どんなステップを踏んでも、このホールドというフレームを決して崩してはならない。正しく組むと、パートナーはリーダーから半身ずれたところに位置する。その距離感を利用して、咲は俺の右耳に囁いた。

「私たち、ダンスのフィーリング合うね」

「そ……そうなの?」

 甘い囁きにくすぐったくなる。耳に手を当てたくなるが、ホールドは崩せない。

「俺、三人の女性としか踊ったことがないから、正直わからないんだ」

 いうまでもなく彩葉さん、舞衣、汐里。彩葉さんと汐里はリードしてくれるから組みやすい。舞衣は、最初こそラッキーポニョポニョしていたが、ある程度踊り慣れてくると、これが不思議と違和感がない。咲とは、初めて組んだとは思えないほど踊りやすいが、他の三人とどう比較すればいいのかわからない。

「電開大の一年男子って四十九人いるんだけど」

「四十九人!? って、ごめん」

 耳元で大声を出してしまい詫びるが、一年男子だけでそれだけいるってどれだけマンモスなんだよ。エントリー制限のある試合は相当に熾烈しれつなポジション争いだ。

「けどね……五十人中、一番踊りやすいよ」

「えっ!」

 再び囁かれ、俺は自分でもわかるほど赤くなった顔を隠すためにそっぽを向いた。でも、ホールドはキープ。これだいじ。咲は、繋いだ手をさっきよりもギュッとしてきた。

「ねえ、蒼樹。こっち向いて」

 振り返ると、初めて咲の真顔を目にする。

「将来、私とカップルを組まない?」

 至近距離での告白。愛ではないが、強い意思を感じさせる表情に俺は動揺する。しかし、咲は俺の反応を予想していたみたいで、頬を緩ませ、穏やかな口調で話を繋いでくれた。

「あのね、ちゃんと理由を明かすと……ここにいる男子を一通り見たんだ。そしたら、蒼樹が一番期待もてたの」

「……俺が?」

「そだよ」

 冗談を言っている風には見えないのだが、悪い冗談にも聞こえる。

「男子を一通り見たって、何を? それに、俺は咲と踊る前に誰とも踊ってないし」

「踊らなくても色々わかるよ。蒼樹は、お箸は右で持っていたけど、元々は左利き」

「!?」

 突然言い当てられ、慌てふためいた。咲の言う通り俺は生まれつき左利きだが、箸は親に矯正されて右利きになった。けれど、親の目の届かない野球やサッカーは左利きのまま。

「なんでわかったの?」

「歩き方よ。蒼樹は歩き姿が良かった。けど、まだ脚部のストレッチが左右違うところがある。あ、素人は気づかないレベルだから心配しないで。でね、左足を前に出すときは滑らかだけど、右足を出すときは左に比べれば少し弱い。前進するときって、前足より軸足になる後ろ足の強さがものをいうからなんだけどね」

「それって、例えば俺はサッカーでシュートするときは左足で蹴るから左が強いと思っていたけど、軸足としてはそれを支える右足の方が強いってこと?」

「そだよ」

 今まで意識したことがなかったが、咲の説明は十分に納得のいくものだ。

「体幹は強い方よ。その証拠に、蒼樹はいい背中――ダンサーの背中をしてるもの」

「ダンサーの……背中?」

「背中は、ただピンと張るだけだとダンサーとしては物足りない。ロボットみたいな動きになっちゃう。ダンサーの背中は、張りつつもしなやかな筋肉の動きがある。これを体得するのは容易じゃない。足下から自然な動きを身につけないと上半身まで伝わらないから」

 目から鱗が落ちるようなレクチャーに俺はうんうんと頷くばかり。

「まだキャリアの浅いこの時期に蒼樹がダンサーの背中を得ているのは、先輩から教わったことを部活の練習外でも相当実践しているからだし、センスもあるってこと。気の毒だけど、努力だけではダメなの。何年踊っても身に付かない人ってざらにいるのよ」

「そう……なんだ」

「蒼樹は広背筋もいいけど、これは指導とは別。筋肉は一朝一夕では身につかない。何かトレーニングをしている証。一緒に踊ると、全身にバランス良く筋肉がついていて滑らかな動きも伝わってくる。ランニングとか縄跳び、ストレッチもやってる」 

 この人は、空から俺を見ていたのだろうか。そう思えるほど完璧に言い当てられた。腕立て腹筋背筋は浪人時代からの習慣。ランニング系も頭が煮詰まる度に行っていたし、これらは今も継続している。部活外での練習量も全大学の同期で一番行っていると自負している。量では絶対に負けたくないと先輩たちに懇願して練習メニューを管理、チェックしてもらっているからだ。それもこれも試合に勝つために。

「だから、教えに素直でセンスもあって努力家の蒼樹は将来有望なの」

 まるで身内を自慢するように目を輝かせながら褒めてくれる咲。嬉しいには嬉しいが、褒められることに慣れていない俺はこそばゆくなってしまう。歩き方だけでこんなにも見抜かれているし、なんだか一緒に踊るのがおこがましくなってきた。

「そんなにかしこまらないで平気よ」

「ごめん。そこまで見ていたなんて、さすがは生粋のダンサー」

「ありがとう。でも、そうやって人を見るのは私の癖なの。物心ついたときから人をそういう目で観察しちゃってる。危ない女だよねー」

「それがダンサーとしての矜持なんじゃないの」

「まあね。じゃないと、私が私でいられなくなっちゃうもの」

 咲の憂いを帯びた瞳に吸い込まれそうになる。出会ったばかりだから俺は何も知らないが、彼女は様々な誘惑を我慢あるいは何かを犠牲にしてまでダンスに専念してきた。そんな風に思えてならなかった。

「あとね、蒼樹と私はカップルバランスも良い」

 一転して今度はパッと顔色が晴れる。表情豊かだなぁ。

 カップルバランスとは主に身長差。健さん曰く、男性が女性より十センチ程度高いのが理想。その点では咲と舞衣が自分にとってベスト。俺と汐里の身長差は八センチ。理想の範囲内といえるが、俺が初心者ということもあり、まだ彼女の動きを持て余らせている。

「決め手は相性。うちの男子は理系集団だから話す内容もマニアックだし何かと理屈っぽくって。その点、蒼樹とは初対面でもこれだけ笑い合えるし、やっぱり組む相手は話の合う人が一番。だから、本気で考えて欲しいな」

 真剣なのに穏やかな瞳。きっとこれが咲の本性。こんな人と出会えるなんて、俺は運がいい。今日はパーティーに来て良かった。ワルツを踊りながら、俺は咲を見つめる。

「ありがとう。でも、気持ちだけ受け取っておくよ」

「……どうして?」

 ホールドから咲の指先が強張るのが伝わってくる。

「まずは褒めてくれた分、ちゃんとお返しさせて。咲は、俺にとって最高の女性」

「! そ、それは……どうして?」

 咲はボッと顔を赤らめる。繋いでいる手も急に熱くなった。至近距離というのもあるが、言われるのは案外、慣れていないのかも。ところで、咲の問いかけは簡単で、考えるまでもなくスラスラと出てくる。

「誰がどう見ても可愛いし、明るくて優しいし。ダンスの技術も向上心もリスペクトできる。その上、俺とはカップルバランスも合うし、話は止まらないほど気が合うし。最高以外の何物でもないよ。本当に出会えてよかった。話しかけてくれてありがとう」

「……じゃあ、どうしてダメなの?」

 その問いにも、しっかりと向き合う。

「俺は七泉大学代表として出たい。団体戦でも勝負したいんだ」

「私と組んでエントリーした方が、個人戦で結果を出せるとしても?」

 強気な発言だが、これだけ上手なのだから嫌味に聞こえない。オファーを断ったことに咲が腹を立てるかと身構えたが杞憂だったようだ。咲は笑みを浮かべている。

「勿論、個人戦もこだわるよ。でも二人で組むことが必ずしもベストとは限らなイデデデ!」

 怨という黒いパワーを凝縮させた咲の指先が、俺の背中の凹んだ部分にぐいぐいとめり込んできた。

「ぐはっ! 背中に爪があっ! 肩甲骨けんこうこつの中に指入れるのやめて骨ががれちゃうっ!」

「どうしてそう言い切れるの? これだけお互いを尊重し合えているのに」

「だからだよ」

 怯まず言い返すと、咲のホールドが固くなった。

「きっと最初はうまくいく。でも、そうでないときも絶対にくる。そのとき支えになるのは仲間。咲がいくら上手とはいえ、俺が咲に認めてもらったとはいえ、俺たちはまだ競技ダンサーとしてデビューすらしていない。当面、ダンスに出会った場所を大切にすべきだ」

「失礼な物言いになっちゃうけど、七泉大学は部員があまりいなそうだから団体戦で勝つのは難しいんじゃない?」

「そうだね。今は全員で七名だし、四年生が出場する、いわゆるレギュラー戦に出ているのは一カップルだけ。まずは人数集めからだけど、それでもいつかは団体で勝負できる部にしたいし、電開大みたいに一目置かれる大学になりたい」

「……。蒼樹がこれだけ踊れるのも、手厚く教えてもらっているからなのよね」

「本当にそう。まだ同期がいないときからつきっきりで指導してくれた。弱小校の数少ないメリットかな。そのおかげで咲の目に留まったんだ」

「それを言われちゃうとなぁ……。蒼樹が身内にこだわるのも仕方がないのかな」

「咲だって同じさ。同期の男子と反りが合わないと言っているけど、合宿とか一緒に過ごすうちに相性も踊りも良くなる。苦手な相手である分、伸びしろがあるわけだし。咲の先輩たちも似たような経験を克服してファイナリストになったんじゃない。パートナーの運動神経とリーダーの理系脳をうまく併せることでさ」

「そういう考え方もあるか……。あ~あ、フラれちゃった。私、運命感じたんだけどなぁ」

 なんて思わせぶりなセリフを言うものだから、俺も調子を合わせる。

「一つ組める方法はある。そうなれば運命と呼べるかな」

「なになに!?」

「咲が七泉大学を受験して入ってきてくれれば、そのときは俺も喜んで組むよ」

「無理無理! 私、頭良くないし。だったら蒼樹が受け直してよ」

「電開大って理系だよ。俺、文系――」

「違うよ、うちだよ」

「あんたのところ、女子大でしょーが!」

「あはは」

 ホールドにしなやかさが生まれた。カップルダンスはやはり気持ちの一致が大事らしい。

「だからさ、お互い大学代表としてダンスフロアで会おう」

 少しの逡巡があったが、ワルツが終わる頃に咲はにこやかに応えた。

「わかったわ。ファイナルで待ってるから」

「待つ? それはいつだって男の役目だ」

 俺はホールドを解いて咲を一回転させる。互いに笑顔で会釈した。

 二人で元にいた場所に戻り喉の渇きを潤すことに……したかったのだが。

「ところで、蒼樹。あそこにいる二人って同じ大学の子でしょ。さっき蒼樹と一緒にいたからわかるんだけど」

「そうだけど?」

「気をつけた方がいいわ。一緒のグループにいる連中、成雅大よ」

 怪訝な表情で咲は言うが、意味がわからない。成雅大といえば、さっきデモンストレーションをした林・宮野組がいる大学だが。首を傾げていると、咲から思わぬ忠告が。

「成雅ってお坊ちゃん大学じゃない」

「だね。一流私立大学でもあるけど。それが?」

「電開って色々と情報が入ってくるんだけど、最近、成雅の良くない噂を聞くのよ」

「噂? 金や権力にものをいわせるとか?」

「そんなところなのかな。学校内で合意のないお持ち帰りが頻発してるって。組織的に計画して女の子がことわりづらい状況を作ったり、お酒に何かを仕込んだり」

「……マジで?」

 その手の事件はニュースで聞くが、自分とは縁のない世界だと思っていた。たいした根拠はないが、事件が起こるのは傾向として都会の私立大学が多い。七泉は地方の国立大学。ただ、他大学との交流とあれば、そこで悪事を働かせる奴はいるかもしれない。

「ダンス界で悪質な事件は起こっていないけど油断はしないで、って今日先輩に言われたのよ。犯人はまだ捕まっていないみたいだし」

 フロアの反対側にいる成雅グループの様子を窺うが、ここからではよく見えない。

「中級陰キャスキル『ダンサーの一部』を発動するか」

「え、なに?」

「……なんでもない。念のため、近くで様子を見たい。咲、もう一度踊ってくれないか?」

「もう一度と言わず、もう四年でもいいよ」

「さっき約束したばかりだろ」

 テヘ、なんていたずらっぽい笑顔で咲は快く手を差し出す。あるいは成雅の話を聞いて不安を覚えた俺をリラックスさせようとしてくれているのかも。

 フロアでは幸いブルースが流れている。ブルースはワルツ同様モダン系のパーティーダンス。誰もがすぐに踊れるシンプルなステップで、踊る位置もコントロールしやすい。俺と咲は再びホールドを組み、ダンサーたちを盾にして成雅グループの近くで踊る。

「男子四人、女子は舞衣と汐里の二人。ラベンダーが舞衣、黒のシースルーが汐里」

「オッケー。雰囲気からして一人、リーダー格がいるわね」

 ホールドを組んで踊るブルースは男女が向かい合うため、どちらかしか様子を窺うことができない。それでも怪しまれないよう向きを変えながら、目に映る景色を共有する。

「ゴールドのネクタイをした奴だよな」

「そだね」

 話の内容は聞き取れないが、他の男子の体の向け方からそいつが中心人物なのがわかる。

「取り巻きの男子一人が動くわよ。どうする?」

「グループを注視しつつ、少し追ってみよう」

 今のところ大きな変化は見られない。俺はリードで方向を変えて場を離れるやたら背の高い男を、ブルースを踊りながら追うことにした。男が向かう先はドリンクコーナー。

「バーデンダーに話しかけてるわ」

「オリジナルカクテルを作らせる気だな」

 ウェイターは頷き、数種類の液体をシェイカーに入れて手際良くカクテルを作る。何を作ったのかはわからないが、同じ工程を繰り返したところから、どれも同じ飲み物だと判断できる。男はトレーを借りて受け取ったカクテルを乗せていく。

「やけに黄色いお酒ね。特に不自然には見えなかったけど、蒼樹はどう思う?」

「怪しい」

「どこが?」

「グラスの中身」

「バーテンダーが作ったのに?」

「逆三角形をしたカクテルグラス。あれはアルコール度数高めのものに使用する。カクテルの色が濃いのも、何かを混入させたときに気づきにくくするためかも」

「へえ……。そうやって女の子を酔わしてきたんだ」

「違うよ! ……俺、二浪してるんだけど、二浪目に受けた模試の判定が悪かったときにやけ酒してさ。何杯もあのグラスで飲み、そのとき店員から聞いたんだ、グラスの使い分けを。あのグラスは底の部分にブランデーが溜まるから最後まで香りを味わえるんだ」

「ブランデーみたいな重いものほど沈殿しやすいってことね」

 とはいえ、全員が同じ飲み物。だからギリで許容範囲だった。

 だが、次の瞬間――

「「ッ!?」」

 俺と咲は恐怖で凍りつく。男は誰もいないテーブルに立ち寄り、飲み物に細工を始めたのだ。ショックのあまり事態を完全には把握できなかった。カクテルを他のグラスに足すようにして注ぎ分け、スーツのポケットから錠剤らしきものを取り出してどれかのグラスに入れたところはかろうじて目視できた。幾つのグラスに細工したとか細部までは判別できなかった。

「ダンスはここまで。咲、もっと近くにいこう」

「わかった!」

 考える時間はない。奴がテーブルに戻るまでのせいぜい二十秒といったところか。人数分の飲み物を乗せてさっきよりも慎重に運んでいる。あの中のおそらくは一つか二つの、ロシアンルーレットのような危険グラスを溢さないように。

 俺たちは人込みをかき分け、先回りしてグループに忍び寄り、近くの壁に隠れる。

 どうすればいい? 怪しさ濃厚だが、容疑をかけられときの応対を奴らは用意しているはず。一流大学の組織的犯罪にどう挑めばいい? 下手を踏んで最後まで白を切り通されたら負けだぞ。

 まるでくびれのない砂時計に時間を支配される中、全神経を集中して思考をフル回転させる。何より幸いなのは、今気づけたこと。グループに割って入れば、仮に舞衣か汐里が飲まされても保護できる。咲もいるからペアワークも可能だ。俺は咲に告げる。

「飲ませよう」

「ッ! 大丈夫なの!?」

「何があっても二人は絶対に守る。けれど、未遂じゃダメだ。奴らにとって想定外の方向で完遂させる。現行犯で捕えないと、今日は防げても今後被害者が出る」

「そ、そうね。そんなの絶対に許さない! でも、どうやって?」

「すりかえて奴ら自身に飲ませたい。咲、場を温められる?」

「それならなんとかする!」 

「サンキュ。じゃあ――」

 俺は咲の耳に手を当て作戦を伝える。咲は目を見開くも何度もコクリと頷いた。そして、固唾を呑みながら輪に加わるタイミングを見計らった。

「みんなグラスいった?」

「サンキュー、ヒロシ」「旨そうだな。飲も飲も」

 パシリの名はヒロシというらしい。グラスが行き渡ったところで、件のリーダーが繋ぐ。

「ところでさ、七泉大って決まった飲み方ってあるの?」

「飲み方? 何を飲むとか?」

 舞衣が首を傾げるが、男どもはオーバーに首を横に振る。

しょうくんが言っているのはあれっしょ」

「乾杯の音頭のことかしら」

 汐里が言うと、男どもは首を縦に振った。まるで示し合わせたかのような一体感。

「成雅には乾杯の音頭が色々あるんだ。試合で勝ったとき、負けたとき、励ますときとか」

 翔という男がおもむろに説明を始める。やはりこいつが主犯なのか。

「それで、今晩は何をするのかしら」

「ニューカマー祝福バージョン。やってみようか?」

「「「賛成賛成。じゃ、翔くんよろしく!」」」

 いよいよというところで、俺はポンと咲の肩を叩く。

「面白そう! 私もまぜて~!」

 咲が無邪気な笑みを浮かべて輪に突入した。予想外の展開に男どもに動揺が見られる。だが、翔だけは泰然としている。

「成雅の信成しんじょうかけるだ。仲間からはしょうと呼ばれているから気軽にそう呼んでくれ。君は?」

「電開の園田千咲。咲でいいよ。じゃ、時計回りに聞いてもいい?」

 咲が場をリードし自己紹介が始まる。さすがのコミュ力。俺は容疑者を記憶インプットしていく。

「そういえば、私の飲み物ってないよね?」

「咲、私の飲む? まだ口つけてないよ?」

 人当たりがいい舞衣が、自分のグラスを咲に渡そうとするのは想定内。さて――

「ま、舞衣ちゃん大丈夫だよ! 俺、取ってくるから。咲ちゃん、同じものでいいよね?」

「さっすが紳士、わかってるぅ。じゃ、よろしくね」 

 咲が妖艶にウインクをした。

「俺、紳士だから、すぐに取ってくる!」

「ありがと。あ、グラス持っててあげる」

 ハートを射抜かれたヒロシは飛ぶようにして再びドリンクコーナーへ向かう。

 奴は必ず危険グラスを持ってくる。女子全員を酔い潰すのが手っ取り早いからだ。飲み物の追加は白黒を判断するために俺が頼んだ。彼らのテーブルには違う種類の飲み物が置いてある。あれは急な作戦変更で奴らが使用する予備グラス。もし咲にそれを差し出したら白の可能性もあったが、焦って同じ飲み物を取りに行ったことで限りなく黒に近づいた。

 そして、咲の巧みな話術でヒロシは致命的なミスを犯した。自分のグラスを彼女に預けてしまったのだ。ちなみに、咲がウインクをしたのはヒロシにではない。奴の直線上にいる俺にしたのだ。あれはゴーサインの合図。俺は軽く息を切らすふりをして輪に入る。

「悪い、咲! トイレめっちゃ混んでて。って、舞衣と汐里も一緒?」

「そだよ。私、さっきまで蒼樹と踊ってたんだ。でもなかなか戻って来ないし、後で紹介してくれるって言ってたから、先に七泉の輪に加わってたの。成雅も一緒だよ」

「ごめんごめん。っていうか、これは七泉というより成雅の輪ってこと?」

「私もいるから三校の輪だよ。これから乾杯するんだけど、今、私の飲み物を取りに行ってもらっているとこ。蒼樹も一緒に乾杯しようよ」

「そういうことなら、俺もいい?」

 どんな反応を示すか翔の目を見るが、怪しまれることもなくすんなりと受け入れられた。

「構わないさ。これ以上女性を待たせたくないから、これでもいいか?」

「いいの? 悪いね」

「いいっていいって」

 翔は手にしていたグラスを俺に差し出し、予備グラスを自分の手元に置いた。

 俺は強気な姿勢を崩さないよう振舞うが、内心焦っていた。翔が自分のグラスを差し出したからだ。この場で一番の邪魔者はどう考えても俺。だから、何かしらの方法で危険グラスを渡してくると予測していたが、さすがにこれは危険グラスではない。

 この展開は読みづらい。他に策があるか、もしくは翔は主犯ではないという仮説も立てられる。さっき目を覗き込んだときも、翔からは動揺が微塵も感じられなかった。こうなるとグループ内で白黒の選別をしなくてはならない。飲み会のノリを黒が利用している可能性もある。

「お待たせ!」

 ヒロシが戻ってきた。真相は掴めないが、まあいい。いずれにせよ、まずはこいつから。

「飛び入り参加の七泉の未森蒼樹、よろしく」

「えっ? あ、ああ。成雅の高山広志、よろしく」

「みんなで乾杯~!するんでしょ。俺もグラスもらったよ」

 わざとらしいくらい抑揚をつけて広志に尋ねながら、俺は舞衣と汐里の前に立って両手を後ろに回し、指をクロスして×印を描く。どうか身の危険に気づいてくれ!

「そ、そうか。じゃあ咲ちゃん、俺のを返して――」

「ごめーん。待ちくたびれて口つけちゃった。だから……それ、君のでいいよ」

「……え?」

 広志の顔が凍りつく。やはり持ってきたグラスはビンゴ。当然、こいつは黒。

「な、なら、頑張ったご褒美に口をつけたそれを」

 広志は口を震わせて悪あがきをするが、

「さすがにそれは遠慮した方がいいよ。私たち、初対面だし」

 舞衣が咲に同調する。彼女にしては強めなアクション。

「奨められたグラスを頂戴するのが紳士だと思うのだけれど?」

 低音ボイスで加勢する汐里。よかった。グラスの中に危険が潜んでいることは二人に伝わったようだ。ならば、今度は俺の番。広志を直視して追い打ちをかける。

「あのさ、自分が持ってきたグラスを飲めない理由なんてあんの?」

「いや、そんなのは……ない」

 言葉とは裏腹に、これでもかというくらい目が泳いでいる。加えて、その様子を見て戸惑う男子が二人。証拠は掴めないが、こいつらも黒。そして、グレーが一人。

「理由なんてあるわけないだろ。じゃあいくぜ」

 翔がグラスを高く掲げ、一箇所にグラスが集まる。しかし、強気なセリフのくせして声は控えめ。翔は周囲に目立たず乾杯することで、広志が飲むふりをするという最終盤での作戦変更を目論んだ。だが、

「音頭はまかせてっ! 電開音頭その三。みんな、いっくよー!」

「ハッ!? それでは皆さん、ご唱和ください!」

 すかさず咲が声を張り上げ、舞衣が加勢し、成雅の流れを強引にさらった。ナイス! っていうか、舞衣さん? あなたまで続くとは、どうしても言いたかったんだね、それ。

 ノリノリなテーブルに会場中が注目する。もうこの流れは誰にも止められない。

「エレクトリックに痺れるぞっ!」

「はぁ~いっ! 姉さんビリビリいっちゃってぇ!」

 俺も負けずに大声で呼応する。会場の視線をさらに集めて強制決行。

「皆さん音頭をよろしくね!」

「はぁ~いっ! 電流ビリビリお願いね!」

 なにこれ、超かっこわるっ! あ~もうヤケだ!

「「「「「「はい、一気一気一気一気!」」」」」」

 パリピな会場から禁呪が詠唱される。良い子は絶対にマネしないでください。

 これだけ注目を浴びて飲まない男はいなかった。男は全員一気に飲み干し、舞衣たちは飲むふりをする。飲み終えた者は、空のグラスを高々と掲げて拍手を浴びる。 

 ドスン――巨体が一つ、腰を砕けるようにして倒れこんだ。

「広志っ! 大丈夫か!?」「お、おい! やっべえ……」

 翔以外の二人の男が激しく狼狽する。一方、三人の女子は先読みして手際良く後ろに回り込み、広志が頭から倒れるのを防いだ。何事かと場内は騒然としている。

「最近、成雅で良くない噂を聞いてさ」

 三人に介抱を任せ、俺は翔に吹っかける。

「それなら俺も聞いたことがある。酒で潰して持ち帰るって話だろ?」

 翔は他人事のように応じる。

「それそれ。未解決らしいから気をつけるのは当然だよな」

「そうだな。気をつけた方がいい」

 こいつ強気だな。目の前で悪事が暴かれようとしているのに平然としていやがる。白を切り通す自信があるか何か隠し玉があると考えるのが妥当か。何分なにぶんにも頭のキレる奴だ。向こうにペースを握らせたら形勢逆転される。傍から見れば、割って入って来たのは俺たちで、倒れたのは成雅。濡れ衣を着せられることもあり得る。咲が広志のポケットに手を忍ばせるが首を横に振る。証拠となる薬物はもう残っていない。

 仕方がない。作戦変更だ。証拠を押さえられない限り、現行犯確保は厳しい。舞衣と汐里は守った。あとは二度と同じ状況を生まないことが最重要。

 ……切り札を使うか。

 翔が白か黒か断定できていない状況で、できれば使いたくなかったが、黒が三人いる輪の中心人物が危険でないわけがなく、もし発見が遅れていたら今頃、舞衣と汐里は……。そう思うと胸が締め付けられる。

 奥の手は、向こうが百パーセント乗ってくる自信はあった。

「なあ、本物の勝負をしないか?」

「本物の?」

「今度の安立戦、成雅は出るんだろ?」

「そのつもりだが」

「試合に負けた方が、勝った方の言うことを一つ聞くってのはどうだ?」

 翔は少しだけ考えるが、これについても怯む瞬間がなかった。

「いいぜ」

 想定通り、俺の敷いたレールに乗ってきた。翔とて自ら仕掛けた乾杯が予想外の展開となり、仲間は狼狽え、周囲に注目されている状況が有利というわけはなく、この場は凌ぎたいに決まっている。加えて、成雅というプライドの高い一流私立大学のリーダー格が勝負に乗らないわけがない。そして、勝てば官軍。噂は都合の良い方向に浄化される。

「ならば、俺が勝ったら――」

 翔は名案とばかりに人差し指を上にピンと伸ばす。その指は俺を指す……という予測は外れ、方向を変えて二度指した。 

「どちらかを俺のパートナーにする」

 騒然とするギャラリー。指された舞衣と汐里に視線が集中し、好奇心で二人の反応を窺っている。だが、俺は挑発に乗らない。再び背中から×サインを送り冷静に対処する。

「彼女たちは勝負に関係ない。これは俺とお前の  」

「私はいいよ。しおりんはどう?」

「ルールはこちらで提案させてもらうわ。景品にされているんだもの。そのくらいの権利があって当然よね」

「ちょっ、二人は関係な――」

「あるよ。だって、私たちは蒼くんのダンスパートナー」

「守られても守る。そういう関係でしょ?」

 俺の言葉を遮って二人が宣戦布告し、会場から歓喜に近い声が湧く。

「面白くなってきたな。それで、お前が勝ったら俺に何を求めるんだ? 同等なことを言っていいんだぜ」

 翔、舞衣、汐里の三者で合意がなされた以上、後には引けなくなった。咲から、成雅にはダンス経験者はいないと聞いている。だから勝負を提案したのだが、翔は余程ダンスに自信があるのか。まるで勝利者のような笑みを浮かべている。

「わかった」

「七泉の二人は優秀なパートナーだが、成雅にも優秀なパートナーはたくさんいる。お前が望むなら、この場で彼女たちに尋ねてやらんことも――」

「その必要はない」

 翔の言葉を切る。次に俺が何を言うのか、会場中から注目が集まる。視線という見えないスポットライトに照らされて、熱くて身が焦げそうだ。これでもう逃げ場はない。

「俺が」 

 だから攻める。言葉を溜め、もっと注目を集めて自ら退路を断つ。俺だけではない、翔の逃げ場をも塞ぐためだ。俺は、舞衣と汐里のもとへ寄り、身を挺して守る。

「俺が勝ったら――」

 目を閉じて一呼吸。そして、カッと見開き指を差し返した。

「――――お前は、ダンス界から去れ!」

 どよめくギャラリー。一斉に息を呑む音すら合唱し、翔は目をひん剥いた。さすがに刺激が強かったらしいが、そんな些末なことなど俺は気にも留めない。

 翔を見据え、俺は追放宣言を続ける。

「ダンスを始めたばかりの俺でもわかる。社交ダンスは品があってこそ価値があり、先輩方はさらに価値を高める思いで学生競技ダンスを営み、今日のようなパーティーも開いてくれた。そんな善意を悪用する奴に、ダンスフロアに立つ資格などない!」

 一瞬驚いた翔だったがすぐに落ち着き払い、大物感を漂わせ、黙って俺の話を受け止め、苦笑いを浮かべて一度視線を外した。

 しかし、プライドの塊のような男がそのまま受け流すことはなかった。次に目を合わせたときには鬼の形相と化していた。合わせた視線を逸らす権利は自分にあると言わんばかりに俺を睨み返し、ゆっくりと近づいてくる。 

「一見したところ、俺に不利な条件だが、十分に同等イーブンだ。なぜだかわかるか?」

「さあな。生憎あいにく、お前には興味がないんだ」

「言ってくれるな。ならば教えてやる。これは、生死の問題。その点で同等だ」

「生死?」 

「俺はここを死ぬほど気に入っている。だから、お前の要求は死刑宣告と同じだ」

「だったら、どうして――」

「だが!」 

 俺が問おうとするのを、今度は翔が声を張り上げ、右手で制する。

「次の試合で俺が死ぬことはないし、お前が部を辞める必要もない。それじゃあつまらないだろ?」

「つまらない……だと?」

「ああ、そうだ。俺は、これからもお前を見たいんだ。パートナーを奪われ、死んだ目で生かされる奴を嘲笑することも一興だからな!」

 ギャラリーが沸いている。そっくりそのまま返された形だ。

 俺はといえば……存外、プライドは高いらしい。翔の挑発に、踊るように体が勝手に反応し、気づけば対戦相手との記者会見に臨む格闘家のごとく翔に接近していた。

 そして、もう一度宣告する。

「そうはならない。安立戦が、お前のデビューにしてラストダンスだ!」

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