第2話 勧誘

 舞い散る桜の花びらを素直に美しいと思えたのはいつ以来だろう。二浪した俺にとって春は世間に背を背ける季節だった。だが、そうやって春をやり過ごしても四季があり、木花の見頃に付随した伝統祭事に沸く人々の姿は否が応でも目に入ってくる。その目を逸らしてなんとか平常心を装っても、土足で踏み込んでくる輸入イベント――ハロウィン、クリスマス、バレンタイン。ミーハーにいいとこ取りをして世界で最もパリピな国となってしまった日本で、俺は大学受験失敗を境に強制的に陰キャルートに引きずり込まれ、苦しみを味わった。石の上にも三年とはいうが、そんなルートに置かれた石に座ったところで、心はキンキンに冷やされただけ。 

 だが、それも今日で終わり。長い回り道だったが、ようやく進むべきルートに戻ることができた。受験勉強の最中にあっけなく成人し、青春という言葉にすでに抵抗感を覚えるようになってしまったが、それでも俺は大学デビューをするんだ。

 七泉ななみ大学入学式……の後の新入生勧誘風景はその盛況さで有名だ。

 都心から約二時間。地方にある国立大学とあってオープンキャンパスに訪れたときには地味な印象を抱いたが、今日はまるで一年分の陽を圧縮したような別空間。学生たちが密集し、無数のユニフォームや仮装が高画素カメラで写した写真のようにキャンパスに色彩を加えている。学生数の多い七泉大学では入学式を三回に分けて行うのだが、間もなく二回目が終わる頃で、上級生が今か今かと新入生を待ちわびている。新入生が通る花道の両脇にはロープが張られ、勧誘する団体にルールを守らせるために腕章をした学生が所々で見張っている。ここを通る新入生はレッドカーペットを歩くハリウッドスター気分を味わえるが、甘い誘いに乗ってロープを超えてしまったら、そこはもう下界。上級生の餌食だ。

 俺、未森みもり蒼樹そうじゅは競技ダンス部の勧誘のビラを握り締め、新入生が出てくるのをスーツ姿で待ち構えている。

 花道の外で、なぜ俺だけスーツなのか。 

 さっきまでは天界あっち側にいたのだ。一回目の入学式終了後、会場の体育館を出て僅か三十秒で花道の外にいる一人の女性に目を奪われ、吸い寄せられるようにロープを乗り越えて堕天使となってしまった。その色気にほだされてヒョコヒョコとついていき、学食でカレーをご馳走してもらい、気を良くした俺はいつのまにか入部届にサインしていた。高校卒業後、契約金一億円でプロ野球選手になる人もいるが、俺はカレー一杯で一発サイン。あ~もう、コスパ良すぎ!

 ついさっきの出来事を思い出して悶えていると、体育館入口から入学式を終えた新入生たちが続々と、ダムが放水を開始した勢いで、桜のトンネルに向かって溢れ出した。

 緊張で体が強張る。誰に声をかけよう。 

 俺に課せられたミッション――ダンスパートナーを探せ! 

 何人も入部させる必要はない。たった一人、自分とともに踊ってくれる女性を勧誘すればいい。そこに愛はいらない。愛なら、今しがた心に決めた人がいる。競技ダンス部三年、木ノ下きのした彩葉あやはさん――俺を瞬殺で虜にした人。

 彼女はまるで一輪の花だった。凛とした立ち姿から放たれるオーラは神々しく、まさに周囲をモブに変える呪文そのもの。アイボリーのスプリングコートにターコイズを基調としたスカーフ。シンプルでもハイセンスなコーディネートが後ろ姿からでも高校にはいなかった大人の女性を予感させる。

 春光をスポットライトにして彼女が振り向いた。整った顔立ち、透き通る白い肌という美人の条件を完璧に満たしていることに加え、とりわけ長い睫毛と透過した瞳にはそこだけで豊富な経験を語る妖艶さがあり、見つめられてもいないのに、俺の心は桜の花びらみたいに舞い上がった。高ぶる気持ちをどう抑えようか悩んでいるうちに、気づけば彼女の前に立っていた。

 ヤバい……吸い寄せられてしまった。どうしよう……。目の前に来てしまった以上、何か口にしなくては。え~っと……。

「お……俺に何か?」

 お……俺はバカか? 

 美貌に吸引されてキョドった末に、どんだけ上から目線なんだよ! 後悔の波に襲われ、自己嫌悪に頭を抱える。目にはうっすらと涙が。

「なんでもないですごめんなさい!」

 失態を速攻デリートしたくて、一目散に退散しようとしたのだが、

「ナンセンスね」

 彼女は、優しく諭して俺を呼び止めた。第一声からダメ出しなのに、微笑むあたりに大人の余裕を感じる。さらにはこんな思わせぶりなことも。

「七秒よ。本当になんでもないのかしら?」

 まるで映画みたいなセリフ。でも、この人が言うと似合ってしまうのが恐ろしい。彼女は俺が見惚れていた時間のことを言っている。完全に弄ばれているが、ポジティブに捉えるならば、もう少しだけ話すチャンスを与えられたということ。

 ならば、玉砕覚悟。いや、すでに玉砕しているかもしれないが、失う物などこれ以上ないじゃないか。こうなったらいっそのこと開き直れ! 映画には映画だ!

「本当は、立ち姿があまりに綺麗なので三秒ほど見惚れてしまいました」

 言ってて恥ずかしけど、大学デビューの日くらい調子に乗ってもいいだろ? 弱気な自分にそう言い聞かせる。それに、立ち姿や振り返る様が流麗だったのは事実。気品高く、所作そのものがまるで踊っているように見えた。

 彼女はといえば、褒め言葉のどこかに思い当たる節があるのか、一瞬目を丸くし、今度は好奇心に満ちた目を向けてきた。

「残りの四秒は?」 

「この気持ち、感じるままに生きてみたらどうなるのか。先の人生を想像していました」

「熟考を重ねたのね」

 クスッと笑う彼女。思いの外、良い反応をもらえた。ありきたりの言葉では美人の心は動かせないというが、それが功を奏した形だ。けれど、所詮は言葉遊び。

「勧誘中ですよね。邪魔してすみませんでした」

 肩をすくめて諦める。わかっていた。ただの社交辞令に過ぎないと。こんなミスコンで受賞していそうな全国区の美人が俺に興味を抱くことなど万が一にもない。彼女はメジャーサークルの華。男たちは、誰もが彼女にしたいと焦がれ日々争っていることだろう。そんなリア充の溜まり場に陰キャの新入りが参戦するのはいくらなんでもハードルが高すぎる。入学早々良い経験をさせてもらった。一期一会に感謝。会釈し、俺は足早に立ち去る。

「待って!」

「…………」

 いつも好意を寄せられる人が、男の背中に声を響かせる経験などあるのだろうか。なぜそうまでして俺を呼び止めたのか。

 気になって振り向くと、彼女は口角を上げる。言葉遊びはまだ終わっていなかった。

「これが、運命だとしたら?」

 蠱惑的な笑みで試されたものだから、男として応えずにはいられなかった。

「もう少し、時間をもらえませんか」 

 俺は強がって花道のロープを超えた。

  こうして、一日にして勧誘する側に回ってしまった。

 男女の駆け引きに不慣れな俺にはあれが精一杯だったが、当然のことだ。平々凡々な高校生活を送り、その後は二年の浪人生活に突入。ようやく闇を抜けたばかりの俺にあの天使とも悪魔ともとれる微笑は、トンネルを抜けた後の白銀の世界ほどに眩しく、他の女性を見る気など完全に失せてしまった。こんな特別な女性のそばにいられるだけで俺の大学生活は散らない花となる。

 そんなわけで、ダンスパートナーイコール好きな女性でなくていい。なのだが……さっき学食で言われた悪魔のささやきが耳鳴りしている。


「ダンスパートナーとは、これ即ち、嫁探し!」

 競技ダンス部三年、三度みたび陽太ようたさんことようさんは数年伸ばし放題といった髪をかき上げ、その手を俺に指差し断言する。この部は先輩ではなく、さん呼びでいいらしい。ところで名は体を表すというが、この人はまさにその典型。無駄に明るいがその分親しみやすく、初対面にして後輩のツッコミを許す懐の深さがあり、そこに惹かれるものがある。 

「嫁探し?」

「想像してみろよ。競技ダンスほど男女が密着するスポーツが他にあるか?」

 目を閉じて、自分の知る競技ダンスをイメージする。社交ダンスを競技形式にしたものが競技ダンスというらしいが……。浮かんできたのは、とあるテレビ番組で芸能人カップルが競技会で踊っている姿。ポーズを決め、強く見つめ合っている。

「……ないですね。見ようによっては、抱き合っているようにも見えます」

 無論、彼らは仕事と割り切って踊っているのだろうが。

「そう、それだ! いいかぁ、想像を続けろよ。そんな半ば抱き合っている男女が汗をかきながら同じ目標を目指すとぉ?」

 意気揚々と説明を続ける陽さん。俺は再び目を閉じるが、すぐに見開いた。

「恋っ!」

「ザッツライッ!」

 俺のリアクションが良かったのか、陽さんはサムズアップしてそれはもうご満悦。 

 あまりに楽しそうに話すものだからつい乗せられてしまうが、嫌な気は微塵もしない。雪のように積もった闇を、太陽が急速に溶かしてくれる心地さえする。

「競技ダンスの世界では、男女が相手探しのために対面して試し踊りすることを、お見合いっていうくらいなんだぜ」

「お見合い……ですか。パートナー探しって婚活みたいですね」

「そう思っておけ。だいたいよ、一緒に踊るならいい女がいいだろ?」

「そりゃそうでしょ! 何を当たり前なことを」

「いいか。お前は自分で嫁を選べる状況にある。言うなれば、世界はお前を中心に動いているんだ! ほれ。この意味分かるよな?」

 陽さんはドヤ顔で食堂の透明コップの水をワインのように転がす。

「女を転がせってことっすか!?」

「んだ。今日は初日。転がし放題だ。おっとぉ? そろそろ二回目の入学式が終わるぞ!」

「こうしちゃいられない! ごちそうさまでした。ビラ、持っていってもいいっすか?」

「た~んと持っていけ」

 カレーを平らげ、急いで食器を片づけて大量のビラを握りしめた。そうだ。今日はまだ誰も入部なんてしていない(俺を除く)。より取り見取りの今のうちに! と、勢いよく飛び出した。

 しかし、入学、入部したばかりではダンスのダの字も知らなければ勧誘経験もない。チュートリアルも知らずに冒険に出たレベル1の俺は、この後完膚なきまでに撃沈した。


 数日後――昼休みの学食。

 入学式で陣取り合戦をした各団体は、一度敷いた縄張りが暗黙の了解となり、そこが通年憩いの場となる。俺も昼食だけでなく、空き時間はここで過ごすようになった。

「あの~、健さん」

「なんだ?」

 ダンス部四年、光間こうま健成けんせい先輩ことけんさんは生物学の本を読んでいる。いつ尋ねてもこちらに目もくれないが無視されることはない。陽さんとは対照的で気難しく、釣り目型の黒縁メガネがいかにも理系男子を物語っている。元の雰囲気に加えて、最上級生で部長という肩書もあり最初は話しづらかったが、徐々にこの人との距離感を掴みつつある。

「あの~、なんていいますか……もしもの話ですよ?」

「早くしろ」

「! もしもダンスパートナーが見つからなかったら、俺、どうなるんですか?」

「シャドーだな」

「シャドー? ……影ですか?」

「一人で踊ることをシャドーという」

「シャドーボクサーみたいなものですかね」

 面と向かって話す気になったのか、健さんは本を閉じ、しかし指をしおり代わりに挟んだまま俺に顔を向ける。

「パートナーと踊る前に自分自身の踊りのクオリティーを上げる必要がある」

「でないと、相手に迷惑をかけるからですよね。そう言われて練習しているわけですけど」

 嫁探しに失敗する日々だが、練習は入学した日からしている。嫁がいつでも嫁げるよう準備は怠らない。そういや、地元の農業団体も田舎に嫁ぐ女性を歓迎するために色々やってたな。あれこそ本当の嫁探しだが、まさか勧誘で親近感を覚えることになるとは。

「でも、それって……相手あってのことで。けれど、シャドーの大会ってないんですよね? 最悪の場合、俺は競技会に出られもせず、ずっと一人……」

「そんなに落ち込む必要はない。発想を変えるんだ」

「発想?」

 健さんは眼鏡をスチャッと上げ、それでも本は挟んだまま両手を広げて発した。

「シャドー・ダンスライフ・フォーエバー!」

「英語にしただけですからね!」

 響きだけは格好良く聞こえるけど、和訳すると『永遠に日の当たらないダンス人生』ではないか。想像しただけで身の毛がよだつ。その辛辣さはいかようにも例えられる。荷造り万端で雨天中止になった遠足。ピースを失い完成することのないパズル。ティザーサイトの先のないゲーム。いったいどれに満足できるというのだ。このままパートナーが見つからなければ生涯シャドー。そんな浪人生活みたいな大学生活はもう御免だ!

「あの~、健さん」

「なんだ?」

 すぐに読書にふける健さんに再び声をかける。このやりとり、さっきしたばかり。

「こういうときって、先輩たちから誰かいい人を~」

 おそるおそる申してみる。というのも、なぜか先輩たちは勧誘を手伝ってくれないのだ。自分の嫁は自分で探せという方針はある程度は理解できるが、これだけ後輩が四苦八苦しているのに、ここまで徹底するのは果たしてどうなんだろうか。

 すると気持ちが伝わったのか、健さんは本ではなく俺を見る。

「いいんだな?」

「えっ、紹介してくれるんですか?」

 パタンと本を閉じる音から伝わる強い意志。今度はページに手を挟んでいない。

 だが、再びスチャっと上げた眼鏡が怪しく光った。

「選り好みしているから任せていたが、それならそうと早く言え。案ずるな、今すぐ捕まえてきてやる。仮にも俺はその道のプロの卵だから、ホモサピエンス的区分は心得ている」

「……は?」

 ホモサピエンス……って、これ勧誘の話だよね?

「科学が発展し、ジェンダーイクオリティーという道徳的観点からも性差がなくなりつつある。焦点は――」

「け、健さん?」

「ホルモンバランスの人為的変更を快諾するサンプルをいかに良好状態で捕獲――」

「ダーッ! やっぱり自分で探します!」

 立ち上がり出口へ向かおうとする健さんを、俺はトライを阻止するラガーマンばりにその腰に巻きついた。

 おかしい。この人、やっぱりおかしい! というか、この部はおかしい!

 俗に、ダンス部といえば圧倒的に女子が多いものではないのか。それはまるで女子校に若い男性教師が着任するイメージを抱いていた。ルックスがそこそこでもチヤホヤされて、知略を巡らしさえすればハーレムまで築けるのではないかと。俺の妄想は当たらずとも遠からずといったものかと。

 彩葉さんに勧誘され「うちは競技ダンス部よ」と言われたとき、そんな甘美な世界を想像した。学食に着いたときは誰もいなかったが、きっとみんな勧誘中で、それならそれで彩葉さんと二人きりでいられると有頂天になっていた。

 しかし、類は友を呼ばない。間もなく現れたのは黒縁メガネを光らせた理系男子とキューティクルとは無縁なロングヘアを無造作に伸ばしたもさい二人の男子。

「え? ダンス部ですよね?」

 想像していたスポーティーな雰囲気の欠片もない出で立ちだった。無料で飲める給茶機から緑茶を淹れて四人でまったり。彩葉さんばりの年上美人が続々登場するのを待つも一向に現れない。

「……もしかして、これで全員ですか?」 

「違うな」

「ですよねー。いやぁ、もうびっくりしたぁ」

「現状、留学中の女子一人加えて勢揃いだ」

「もっとびっくりなんですけど!?」

 衝撃発言に、俺は椅子から転げ落ちた。

 七泉大学競技ダンス部は男子二名、女子二名、犠牲者一名。総勢五名の部だった。


 三十――勧誘失敗数。

 最初のうちは、失敗しても勇気出して声をかけることができた数、なんて開き直ってカウントしていたのだが、これだけ失敗が重なると笑えない。この数とて面と向かって会話ができた数であって、話を聞いてくれなかった人を含めると軽く百は越えている。

 フラれ方も様々。無視されたり、笑って逃げられるのはまだマシ。目を合わせて話しかけているのに終始真顔で無反応なのは心が折れる。

 精神的に不安定にもなる。ここ何年も女性とまともに話していなかった俺だ。一人にフラれるだけでもネガティブになり、先輩たちにダンス指導を受けて競技ダンスの魅力を再認識することでポジティブ思考を取り戻す。最近はそんな日々を繰り返している。

 今日も練習前に学内のメインストリートである桜並木で勧誘をしているが、桜はすでに散っていて、悪い予感を増長させる。

 誰に声をかけようかと吟味していると、一人の女子がベンチに腰掛けた。アジアンビューティーな華やかさを兼ね備えている容姿からどこかの団体の主要メンバーかと思ったが、彼女が履修登録の冊子を読み始めたところで、俺はラッキーとこぶしを握り締めた。あれは新入生の必須アイテム。登録を済ませていない→誰にも相談していない→団体未所属、という俺的方程式が解を導いた。よし、いくぞ!

 しかし、度重なる失敗が頭をよぎり躊躇してしまい、その一瞬の迷いが命取りとなった。

「ちょっといい? 大丈夫。怪しい者じゃないよ」

「ちーっす。うちらこんなサークルなんだけどさ」

 どこかのサークルに先を越されてしまった。俺は慌てて踵を返し、陰キャスキル『風景の一部』を使って桜の木の下で読書をするフリをして聞き耳を立てる。ちなみに、このスキルは浪人時代に知り合いを見かける度に無詠唱で発動していたからすでに神レベル。

 声をかけているのは、イケメンとチャラ男の二人。羽織っているシャツをめくり、中に着ているTシャツを彼女に見せる。あれは、メジャーサークルの王道パターンで身分証明のつもりらしい。ユニット感を出すことで安心感を与え、活気あるサークルと匂わせる、いわばブランド力の誇示。そんなに誇らしいのなら、本物のブランドショップで店員に向かってやってみてくれ。そして不審者通報されてくれ。

「……何系なんですか?」

 幸い彼女はさして興味をもっていない。さすがは俺が目につけたアジアンビューティー。

「オールラウンドになるのかな。バスケ、テニスがメインだけど、スノボとかもするから」

「夏は海でBBQもすっし、うちら大所帯でバス、民宿貸し切って割安で行っちゃうし」

「はぁ」

 ほら。反応が薄い。その子は、自分を持った人なの。パリピにはならないから。

「それはそうと、もしかして履修で悩んでる? えっと、チャイ語?」

 すると、空気を読むのが上手なイケメンが彼女の様子を見てさっと話題を変えた。

「はい。でも、簡単な日常会話はできるから、できれば少数民族の研究をしたいんですけど、そういうのってレアですよね?」

「あーね。いーや、ありありのアリよ。アッシさんとかたまさんとか、なんかその手の卒論書くとか言ってたっけ。中国は南部に少数民族が多くいっからどれにしようかって」

「そうなんですか!?」

 ……あれ? 今、彼女の目の輝きが変わったぞ? ぐぬぬ、チャラ男の分際で。でも、大丈夫。彼女は自分を持った  

「この前の飲み会に来た卒業生の一人が中国内をあちこち出張しているみたいでさ、二人とも熱心に現地情報に耳を傾けてた。就活支援もしてもらえるって喜んでたし」

「やっば! めっちゃ聞きたい! でもぉ、とりま、どれ履修すれば効率的かなぁ~って?」

「『あざーす!』プツッ――電話したっけ、アッシ&たまさん、学食いるからおいでって」

「いいんですか!?」  

 彼女は自分を  

「食堂のスペースも列確保してるし、今ランチサービス中だから話だけでもどう?」

「いきますいきます! ちょうどお腹空いていたし」

 自分を見失っちゃったよ!

 イケメンとチャラ男は、熟練のナンパ師みたいに新入生をさらっていった。

 メジャーサークルの鮮やかで容赦ない勧誘活動。あ~あ、遠くの少数民族マイノリティーより近くの競技ダンス部マイノリティー大切にしようよ。アイヤー……アノコ、ヤラレチャウヨー。

 ハァ……。あんな風にできたらなぁ……。

 勧誘成功率を高める三種の神器は、サークル、オールラウンド、部員多数。

 それに引き換えうちは、体育会系、マイナースポーツ、部員少数。せめて一つくらい武器があれば、と願ったところでどうにもならない。マイノリティーとしては、一にも二にも数打たなきゃ当たらない。俺は首を横にブンブン振って気持ちを切り替えることにした。


 ゴールデンウィークが明けた。パートナーを見つけられない俺にとって気分はちっともゴールデンではなく、主にバイトを掛け持ちして生活費を多めに稼ぐ連休を過ごした。

 練習は欠かしていない。さすがに勧誘はできなかったが、いつもより多く先輩方からレッスンを受け、自宅では教わったことを反復練習し、体力トレーニングにも汗を流した。一人でできることは全てやっているつもりだが。

 七十――カウントアップが止まらない。

 五十人目の女性である夏希ちゃんに「しつこい男は嫌われるよ?」とフラれて以来、完全に調子が狂った。

 俺はなぜこうまでして勧誘活動を続けているのだろう。本当にダンスをしたいのか? ただ意地になっているだけでは? それとも、浪人時代のように、諦めなければいつかは報われると心のどこかで期待しているのか? でも……もう諦めた方がいいんじゃないか? 正常な感覚は麻痺し、負の連鎖に陥っている。

 心はモヤモヤとしたままだが、久しぶりに話を聞いてくれる人が現れた。

 季節を先取りした褐色肌の、ノリの良いラテン系の彼女。

 この子にはチャラ男系でいこう。俺は失敗から学んだんだ。メジャーサークルのイケメンとチャラ男にアジアンビューティーをさらわれたときは、なんでチャラ男なんかにと妬んだが、違うんだ。もっと奥深いものなんだ。あいつはただチャラいんじゃない。話しやすい雰囲気を併せ持っていて、彼女は会話を通じて自分を理解してもらえたと感じたからついていった。いわば気高きチャラ男だったんだ! って、そんなわけないか……。ともかく、変なこだわりは捨て、話しやすい雰囲気を作って彼女の気持ちを引き出そう。

「――とまあ、ざっくりこんななわけ」

 この時点ではまだ部とは言わないのがミソ。部にはサークルと違ってハードなイメージがあるから構えられてしまう。何事も大切なものは最後まで取って置かないとね。じゃないと帰られちゃう!

「ふ~ん。で、なんで私に?」

 きたな。よし、ここはあげぽよでいくぞ。ん、ぽよって死語か? 俺の会話センス、数年間アップデートされていないし。まぁいい。俺は、心の中に陽さんを召喚させた。

「それな。だって踊りが上手そうじゃん! なんだろう?ブーツカットのセンスの良さ?」

「本当に? きょコ、セブンティーズ系じゃない? あ、でも、まんまだとオールドファッションになっちゃうから」

「パンツラインを気持ち控えめにした……みたいな?」

「それな! わかってくれるんだ!」

「んー、わかりみが深い」

 いや、全然わかんねぇ。彩葉さんからファッション雑誌借りて読み漁って、陽さんの話術やキャラを憑依させることでギリギリ凌いでいるだけ。失敗を重ねることで話のタネや度胸は身についているが……。おっと、今はあげぽよタイムだった!

「もち、ディスコサウンドもイケるよね?」

「余裕! スライとかJBとか毎日かけてるし。私、好きオーラ出ちゃってた?」

「めっちゃ出てた! ってか、ただ者ではないオーラ溢れてるし」

「アハハ、やっぱり?」

「今度好きな曲持ってきなよ。バイブスヤバめのステップとか教えてあげるから」

 セブンティーズディスコ系は、拍子とテンポさえ合えば競技ダンスとして十分使える。まぁ、俺は教えられないけど、「俺に任せろ!」って陽さんがゆってたもん。

「マ!? じゃ、いこっかなー」

「おいでおいで。みんな優しくてノリのいい人たちばかりだから。これうちのビラね。場所はここに書いてあるから」

「オッケー。じゃ、考えておくね」

 にこやかにビラを受け取って勧誘した女子は正門方向へ向かう。

 よっしゃ。俺、頑張った! なんだ、最初からこうすればよかった。イケメンもチャラ男もあれでいて試行錯誤の末にいきついた立ち回りなんだよな。俺は誤解をしていたよ。

 明日あたり来てくれないかなぁ~、と去りゆく彼女の姿を目で追うと、

 ――クシャッ

 何食わぬ顔でビラを握りつぶして丸め、近くのゴミ箱めがけて~……ナイッスロー! うん。ちゃんとゴミ箱に捨てるなんて偉い。ポイ捨てはダメ。じゃなくって! それ、ゴミじゃなくて宝の地図! 幸福行きのパスポートだから! ちょっとなんなのあの子!? ひょっとして社交ダンスに超向いてるんじゃない? だって、社交辞令完璧だったよ。完璧すぎてあのビラが俺の胃に見えるぅ、イタタ。

 ……さげぽよー。慣れないテンションで話したから疲れがドッと出た。やっぱりチャラ男系はやめよう。俺には似合わない。あぁ、数分前の自分が恥ずかしい。

 だがしかし、されどもめげている場合じゃない! たった一人。たった一人でいいんだ。声をかけていない一年生はまだいる。半ば言い聞かせ次のターゲットを探す。

 けれど、勧誘シーズンはとうに終わっていて、婚活しているつもりが終活のごとくひっそりとしていく。


「…………」

 学食のテーブルに突っ伏す。溶けたスライムばりにテーブルとの隙間がなくなるくらい脱力し張りつく。

「これで何人目なん?」

「九十九」

「お~。カンストか。新入部員にして極めてる」

 人の気も知らずに陽さんは呑気なことを言う。

「RPGじゃあるまいし、九十九で止まる気配ないっすよ。あぁ、でもそっか。俺、レベル1ではぐれメタル倒しにいってるんすよ。そりゃムリゲーですよねー、俺のはぐれ嫁タル……はぐれたくね~」

 わけのわからんことを言うものだから、陽さんと彩葉さんが肩をすくませてる。

「おおそうじゅよ! 死んでしまうとはなにごとじゃ!」

「あれ、シリーズで微妙にセリフ違うんすよ。初代なんてセーブ機能として復活の呪文ていうパスワードがあって。でも呪文を間違えると永遠に復活できなくて……今の俺みたい」

「あのね、蒼樹くん」

「……変なこと言ってすみません」

「いいのよそれくらい。それはそうと、一つ話があるのだけど」

「誰かいい人いましたか?」

 最近は先輩たちも知り合いを通じて嫁探しに協力してくれている。そのことにとても感謝しているし、勧誘を諦めないモチベーションにもなっている。

「残念ながらそうではないのだけれど、カウカフェに行ってみない?」

「カウカフェ? なんですか、それ。牛でも飼ってて、新鮮な生乳が飲めるんですか?」

「フフ。どうかしらね?」

 人差し指を振りながら面と向かってウインクするものだから、レベル1の俺は違う意味で再びテーブルに突っ伏す。たたでさえ美人なのにダンスで身につけた所作が日常生活にあって、そんじょそこらの美人とは濃度の違う色香。マジ、ラスボス。でも、結婚したい。

「じゃあ、さっそくいってきます!」

 照れを隠すように勢いよく立ち上がると、意外なことを言われた。

「今はやっていないわ」

「カフェなのに? 昼休みやらないで、いつやっているんですか?」

「十五時オープンなのよ」

「へえ……」

 そんなんで成り立つのか? 尋ねようとしたが、彩葉さんは無言のままニコニコとした顔を向けてくる。この笑顔には裏があることを知っている。練習のときにされることがしばしばあるからだが、つまりは、あとは自分で考えなさいを意味する。


「ホットコーヒーお待たせしました。よろしかったらミルクもどうぞ」

 その日の放課後、俺はカウカフェでコーヒーを嗜む。値段は良心的で、ここが儲けを第一にしたお店でないことがわかるが、完全にノーマークだった。というのも、お店のある10号館は理系棟で、女子が少ないことから眼中になかった。

 カウカフェとはカウンセリングカフェのこと。うちの大学の看板学科である心理学科の学生が運営を任され、ドリンクや軽食を販売している。さらに、希望すれば未来のカウンセラーによるカウンセリングを無料受診することができる。

 彩葉さんが勧める意図は読めた。カウンセラーに話を聞いてもらってストレスを軽減し、気が合えば今後の相談相手にもなってもらうということだ。なるほどありがたい。カウンセラーであれば的確なアドバイスも期待できるし守秘義務もあるから気軽に相談できる。

 一見すると普通のカフェ。ボサノバの音楽がリラックスした雰囲気を醸し出しているが、どのテーブルでもカウンセリングが行われている。二人席がほとんどで、一方がやや興奮気味、一方が耳を傾けているところから、前者が客、後者がカウンセラーなのは一目瞭然。話の内容が聞こえないようテーブル間が離れている。

「君が蒼樹くんだね!」

 不意に名前を呼ばれて正面を向くが、その瞬間、体中に電流が走った。肌身離さず抱えていた勧誘のビラがヒラヒラと舞う。ショックのあまり、返事しようにも声が出ない。

 シルバートレーを小脇に抱えた女性が目を爛々と輝かせて仁王立ちしていた。

 黒髪に白カチューシャ、童顔、フリルエプロン、黒ワンピ。落としたビラを拾うときに下も確認したが、やはり白ニーソックス、厚底エナメルシューズで、ある種の隙がない。フロア係はみんな牛模様のエプロンをしていて、この人も同じ色でトータルコーディネートしているが、いかんせんテーマが違う。一人だけ異世界、というか秋葉原。数々の神器を揃えた彼女は、なぜかふんす!と鼻息を荒くしている。

「じゃ、失礼しちゃうねー」 

 ……座っちゃうの? まさかカウンセラー? んしょんしょとメモの支度してるけど、追加注文とかだよね。カウンセリングに来たのに、なぜ俺にだけメイドが配属される?

「まずは挨拶しなきゃね。改めまして、おかえりなさいませ~」

 天使のようなスマイルとふんわり声。ほ~ら、やっぱり定番の文句が始まっちゃったよ。俺はご主人様じゃないっつーの。どうしてこの空間だけメイド喫――  

「漆黒の迷宮に迷える~~よ! 枯渇した魂を我に捧げたまえ、ヒャッフーイ!」

 雷鳴のようなドス声と、ダンサーもびっくりするほどの迫力で、どこぞの福造ばりにドドーンと俺を指差す。すでに蓄電状態だった俺は、感電して椅子から落下。落ち着いたムードのカフェで斜め上を行く展開に開いた口が塞がらず、這いつくばって体を起こす。見上げると、デビル目のメイドはサディスティックに俺を睨み、シルバートレーを舌で舐めずり回している。

「し……食用にされるっ!?」

「キャハハ! のっけからナイスリアクションだね~。さっすが彩葉の秘蔵っ子!」

「……」

「さ、始めよっか。私、丘野絵里子。えっと、君は未森――」

「展開早すぎっ!」

 ぐぬぬ……なんともキャラの濃い。この人といい健さんといい陽さんといい、俺の周りって変人が多い。同類と見なされないよう、ここは努めて冷静にいこう。

「だから俺の名前を知ってたんですね。秘蔵っ子ではないですけど」

 即座に否定する。別にダンスを買われているわけではない。それどころかダンスパートナーを見つけられず、もはや足手まといにまでなっている。

「ダンスはいい筋しているし、勧誘も頑張っているし、謙虚な姿勢も買われているよ。そもそも、色々と認められないと、あの子はここを紹介しないから」

「そんなもんですかねえ」

 一定の信頼を得ていると受け取っていいのだろうか。絵里子さんと彩葉さんには信頼関係があるようで、故に俺の担当者が絵里子さんなわけだ。競技ダンス部のことも知っている風だし、見かけはあれだが案外話しやすいのかも。

「少し話を聞いているよ。勧誘で苦戦してるんだって?」

「そうなんです。ダンスパートナーは自分で探せって流れで勧誘を始めたのですが」

「ペアダンスは相性が大事だもんね。ただ、それで見つかるならいいけど、好きなタイプを見つけて勧誘ってムリゲー同然。緊張状態でナンパにいくようなものじゃん」

「ですよね! 嫁探しだなんて言われてるんですよ」

「あちゃー。もはや婚活! 最初はどんな子に声かけたの? やっぱ高めの子?」 

「わかっちゃいましたか。そうなんすよ、無謀にも理想高めに――」

 気づけば、俺は今までのことを話していた。絵里子さんは聞き上手で、話のもっていき方も巧みで、錆びた心に油をさされたみたいに言葉がスルスルと出た。けれどさすがはカウンセラー。この話は彩葉さんと共有していい、いけないという確認もマメで、なるべく弱音は伝えて欲しくない俺としては助かる。絵里子さんは、守秘部分は口が裂けても誰にも話さない、と真剣な眼差しを俺に向けた。

「こんな感じなんですが、何かアドバイスをもらえるとありがたいです」

 不思議と気分は軽くなっていた。解決していないのにそうなるなんて。

 絵里子さんは俺の話を聞きながら通訳者みたいにバインダーに挟んだ紙にメモしたりスマホをいじったりしていたが、やがてそれらをテーブルに置く。

「少しは気分が晴れたでしょ?」

「こんなに楽になれるとは思いませんでした」

「それだけ重症ってこと。ストレスって自覚していないときほど溜めちゃうものよ」

「なるほどそうかも。気をつけないと……」

 深くため息を吐く。精神的に余裕がなくなってきているのは否定できないが、専門家に指摘されるとなかなかに凹む。

「でも、案外うまくいくかも」

「えっ!? 話のどこかに光明がありました?」

「じゃ、いこっか! コーヒーは初回特典でサービスサービスぅ♪」

 質問に答えることなく絵里子さんはスクッと立ち上がる。この人、相談してるときは落ち着いた声で会話の主導権を握って名カウンセラー感漂わせるのに、通常時はキャハハ声のお気楽メイド。落差激しすぎるだろ!

「あ、ありがとうございます。ところで、行くってどこへ? 一緒に勧誘してくれるとか」

「お? それもいいね! じゃあ、それは最終手段にしておこっか」

「他に案があるということですか?」

「そうよ。むしろ、ここからが本番。そいじゃ、特別室にご案内~」

「特別室? なんですかそれ? ち、ちょっと先輩、急に引っ張らないで!」

「君には集中治療を施すね。大丈夫。推しメン予約してあるからグヘヘヘ」

 言いながら先輩は指をパチンと鳴らす。見れば、またデビル顔してる!

「それでさっきはスマホを……え、集中治療!? 俺、心は病んでいても健康体だから間に合ってます! って、あんたたち誰?」

 怪しい言葉の響きに抗おうとすると、突如、マッチョな男二人組が現れた。

「体は健康。心は末期。特別室、一名様入りま~す♪」

「「イエッサー」」

「わっ、暗い! なにすんだよ! って、ぎゃあ~!」 

「いってらっしゃいませ~、迷える~~よ! ヒャッフーイ!」

「だから、それはおかふぃふぇふぉ!?」

 マフィアのボスと不要とされた手下の構図。俺は、いきなりタオルで顔を覆われてヒョイっと担ぎ上げられた。フガ~!っと悲鳴を上げるが、抵抗虚しく鮮やかに拉致られた。


「……ここは?」

 タオルを外され尋ねてみるものの、用心棒はそそくさと退室し独り言となる。

「特別室、ってことか」

 鍵をロックする音。自問自答となってしまった答えに賛同するかのようだ。拉致られてすぐ放り込まれたところから、カフェにほど近いのはわかる。つまり、本気で監禁するわけではない……よな? にしても、心の集中治療ってなんだよ。 

 一坪の個室。この空間はまさしく、あれだ。ドラマで目にする被告人と関係者が限られた時間だけ面会できる空間そのものだ。けど、雰囲気はまるで違う。設置されたスピーカーからヒーリングミュージックが流れ、暖色系の壁は少々だが安らぎを与えてくれる。飲みかけのコーヒーもいつの間にか置いてあり、狭い部屋に香りがたちこめている。

「こんにちは、未森さん」

「!?」

 スピーカー越しに挨拶され、腰が浮きそうになる。

 正面にはガラス製の仕切り。向こう側にはアイボリーカラーのロールカーテンが敷かれ、シルエットがぼんやりと浮かんで見える。女性だ。この人から挨拶されたようだ。

「こ、こんにちは……えっと」

「ミイです。ここではそういう名前にしていますので、気軽にそう呼んでください」

「ミイさん……ですか。なぜ芸名なるものを? あ、俺のことは蒼樹でけっこうです」

「わかりました、蒼樹さん。さっきまでいたカフェと違い、ここは姿を見せずに話した方が効果的と判断したときに使われる部屋。カウンセラーが名を変えるのもそのため。始めは不安かと思いますが、少しずつ慣れていきますよ」

「ネットでチャットするような感覚ですかね。俺はやったことないけど、面識をもたない相手だからこそ腹を割って話せるって聞いたことがあります」

「近いかもしれません。ただ、私はカウンセラーですから、そういったものより価値があると自負していますよ」

 落ち着いた物言い。絵里子さんの推しカウンセラーだけあって、口ぶりに説得力がある。

「それは、失礼しました」

「お気になさらないで。早速ですが、ここを利用する際に気をつけなければならないことはお互いにありまして、それに同意してもらえないとカウンセリングは行えないんです」

「どんなことですか?」

「日常生活で専属カウンセラーを探さないこと。蒼樹さんの場合、私にあたります。万が一勘づいても執拗に関わらないこと。カウンセリングをさせていただく以上、私たちは患者さんの情報を把握しないわけにはいきません。カウンセラーは絶対に守秘義務を守りますが、必要以上に自分自身のことは話しません。一方的で申し訳ないのですが」

 情の問題だとすぐに察しがつく。話を受け止めてもらえれば、患者がカウンセラーに好意を抱くこともある。でも、カウンセラーも同じ大学に通う学生。一般教養の授業や学食で会うこともあるだろうが、そういったところで接触すると患者とカウンセラーの関係が破綻してしまう。この人のように女性であれば、ストーキングに遭う可能性もあるだろう。

「大丈夫、約束します。声も少し変えていますよね。ボイスチェンジャーですか?」

「ご理解ありがとうございます。仰る通り、正体を明かさないために使用してます」

「鶴の恩返し並みの徹底っぷり。まぁ、俺は何も恩を売っていないし、それどころか相談を聞いてもらう立場なんですけど」

「フフ。姿を見せないという点ではまさしくそうですね。ですが、私たちも修行の身ですから、良い経験をさせてもらっています。そういった意味では恩返しでもあるのですよ」

「ミイさんは、謙虚なカウンセラーなんですね」

「それを言うなら蒼樹さんこそ謙虚な患者さんです。とても話しやすいです」

 最初から波長が合うし、この人はきっと頼りがいがある。勧誘で五百人ほどの女性に話しかけた結果、メンタルは削られたが、第一印象で人柄を予測する能力は磨かれた。

 ミイさんは使命感が強くて温かさもあり、患者の幸福を最優先にカウンセリングしてくれるに違いない。俺はコーヒーの香りを嗅いで心を落ち着かせ、さっき絵里子さんに話したことを、まるで繰り返すように話した。絵里子さんとの比較もできるからだ。


「とまあ、こんな感じです」

「かなり大変な思いをされているんですね」

 ミイさんは真摯な姿勢で聞いてくれた。思っていたより抑揚があり快活。かといって出過ぎることはなく、カウンセラーならではの安心感をもたらしてくれる。

「どうでした? ミイさんが思うことを率直に言って欲しい。俺なら平気ですから」

「私が思うことを、率直に……ですか」

 専門家から何を指摘されるだろう。勧誘の仕方かな。押してダメなら引いてみろとか。あるいは女性との接し方改善。ここのところ焦りから急いていたし。

「わかりました。では、そのようにさせてもらいます」

 何か明確なアドバイスがあることを感じさせる口調に息を呑む。

 ところが、彼女が口にしたのは、思いもよらないことだった。

「競技ダンスって……ものすっっっっごく楽しそうですね!」

「えっ!?」

 急にテンションを上げて自分を出すミイさんの意外な感想に声が裏返ってしまった。

 しかし、同時に疑問も生じる。俺が話したのは勧誘の苦労話や部員のことばかり。

「どうしてそう思うんですか? 競技ダンスがどういうスポーツかなんてあまり話していないのに」

「では、もっと詳しく聞かせてもらえませんか。私は社交ダンスを競技形式にしたのが競技ダンスということを知りませんでしたが、競技は何種目あるのですか?」

「俺もまだ全部は踊れないんですけど、学生競技ダンスには八つの種目があり、モダンダンス四つ、ラテンダンス四つに二分にぶんされます」

「ワルツとかタンゴとかがモダンダンス?」

「そう! 男性が燕尾服を、女性がウェディングドレスみたいなものを着るのがモダンダンス。ラテンダンスは、男性は黒とか白のラテンシャツと競技用の黒いスラックスを着用します。女性はラテンドレスといって体の動きが見えるよう肌を露出するものが多いのですが、ごめんなさい、細かい規定まではよくわかりません」

 嬉しくてつい補足したくなる。俺も素人同然だが、これだけ興味を示してくれることは今までの勧誘ではなかった。

「サンバとかルンバで着ている衣装のことですよね。ダンスはテレビで少し観たことがあります。芸能人が出ていたものなので、一般的なものと思っていいのかはわかりませんが」

「そのイメージで大丈夫です。ただ、生で見た競技ダンスは……学生競技ダンスは……」

「?」

「凄まじいなんて言葉じゃ収まらない。あんな世界がこの世にあるなんて」

 あぁ、思い出すだけで胸が熱くなる。

「そ……そんなに?」

「初めて見た者の人生を軽く変えてしまうほどに」

 目を閉じ、競技会を観戦したときのことを回想する。

「前楽園ホールに行ったときのことなんですけど」

「前楽園……そ、そんな立派なところで!? だって、あそこは格闘技の聖地! あ、うちの家族、格闘技好きで、みんなでプロレス観戦に行ったことがあるんです」

「そうなんですか!? いつも前楽園というわけじゃないみたいですけど」

 ミイさんの第一印象は淑やかだったから格闘技好きとは意外だが、家族の影響は大きい。それならそうと、状況は伝えやすいか。

「イメージできます? あの階段から会場に入る瞬間」

「球場に似たあの階段! 真っ暗だけど最上段の先から光が差し込んで。そこを上ると?」

「一面煌びやかな世界。客席は上映直前の映画館みたく暗いのに、ダンスホールには無数のスポットライト。ダンサーたちは光を浴びながらひしめき合うようにして舞っていた」

「そのコントラストは! ……スパンコールのドレスが輝きを放ちますね~」

 ミイさんの表情が蕩けているのが声でわかる。どんな顔立ちかはわからないが。

「あれはまるでウィーンの舞踏会だったなぁ」

「あぁ……華麗なる世界ですねぇ」

「いや……そう言われると違うかな」

「違う?」

「衣装は舞踏会と似てるし品はある。でも、舞踏会の雰囲気は微塵もなかった。華やかだけど、それを掻き消すほど熱気が半端なかった」

 夢中のあまりタメ語になってしまったが、ミイさんも気にしていないし前のめりだ。

「上品なのに熱気が半端ないって、矛盾しているというか……聞いたことがない」

「でも実際、競技音楽は爆音だけど、声援でその音が掻き消されていたし」

「紳士淑女の集う場なのに!? じゃあ、競技会は芸術というよりスポーツ?」

「う~ん。でも、美しいんだよなぁ。遠くから全体を見ると、何十組ものドレスが舞っていて一枚の絵画みたいだったし。あ、そうだ。撮影した画像があるんだ」

「えっ? 見たい!」

「えっと、どうすれば……」

「ここに置いてもらってもいいですか? すぐに返しますので」

 よく見ると、仕切りの下にスライド式の小さな引き出しがついている。俺はスマホを取り出し、画像を開いて引き出しに置いた。数秒後  

「うわぁぁ……」

 ガラスの向こう側からミイさんのうっとりしたため息が聞こえてきた。

「まるでおとぎの国の舞踏会。蒼樹さんが言ったことはオーバーでもなんでもない。こんな世界があるなんて。万華鏡みたいにひらひらと舞うたくさんのドレスは、世界中の色という色を集めたくらいカラフルでゴージャス」

「そういや彩葉さん、絵画専攻だからよく描くって」

「当然です。これを目にして創作意欲の湧かない芸術家なんていない。まさに芸術」

「でもなぁ、そう言われると違うような」

「もう、どっちなんですか! はっきりしてくださいよ!」

 煮え切らない俺の態度に、ミイさんは怒っているような、喜んでいるような。

「美しいと感じたのは遠くから見たときだったし」

「近くで見たら芸術性が直に伝わってきそうだけど?」

「いやいや。あれは、芸術という枠にすんなりと収まるものじゃない。だって、近くで見たら怖かったんだ」

「怖い? どうして?」

「選手全員、俺をガン見してきた」

「どういうこと!?」

 あの特異で衝撃的な光景は目に焼き付いていて、もう何日も夢に出てくる。

「フロアには十組以上のカップルがいて、一回の演技で踊れる時間はわずか一分三十秒。次のステージに勝ち進めるのはいつもだいたい半分だから、みんな全力で踊り、猛烈にアピールしてくるんです」

「そ、そういうことですか。でも、そんな密度で激しく踊ったらぶつかるんじゃ」

「ないこともないけど、ぶつからないようにみんなうまく踊るんだよなぁ。あと、競技会では衝突を避けるために、反時計回りに進むというルールもあって」

「なるほど」

「ところで、全てのダンサーが同じ進行方向に進みながら観客にアピールしてくると、観客側からはどういう風に映るかわかります?」

「うーん……」

「メリーゴーランドに乗っている人全員が間髪を入れずに訴えてくる感じ。『俺のダンスは最高だろ!』とか『私以外を見ないで!』って、目、表情、体全体で訴えてくるんです」

「怖っ! というか、ヤバいですそれは! ……もしや、その中に七泉の選手も?」

「さっき話した健さん、彩葉さんカップルが大活躍! タンゴ、クイックステップに出場して、惜しくも決勝は逃したけど、二種目ともセミファイナルトップの7位!」

「凄いっ! 二人とも幼い頃からさぞかし一生懸命――」

「幼い頃から? いやいや、ダンス経験者なんていないから! そういう人は、学連に所属しないでアマチュアの大会に出るんだって」

「えっ? じゃあ」 

「そう、スタートラインは」

「「みんな同じ!」」

 二人してハモってしまった。

「大学でどんなダンスライフを送るかが重要ってこと? じゃあ、お二人はどんな風に?」

 次々と飛び交う質問。聞こえてくる声は一つなのに取材陣に囲まれているようだ。

 でも、俺は嬉しい。こういう声が聞きたかったし、こういう話がしたかった。勧誘ではいつもビラに書いてある程度の表面的な話ばかりを繰り返していたから。

「学業以外は全てをダンスに注いでる。健さんはこだわり派。練習で一歩しかステップを踏まない日もある。曰く、『ダンスは実験と同じ』って。何百何千回も繰り返し踏んで、膨大なデータから分析して最適解を導く。ダンスにはそれほどの魅力があるんだとか」

「すご……」

「彩葉さんは美の探究者。男なら誰もが惚れてしまうほど超絶美人で所作も美しい。なのに、全ての誘いを断ってる。『理想の恋人たちと付き合っているわ。絵とダンス。もっと素敵なものってこの世にあるの?』って、まるで洋画のセリフをサラッと言って様になる人」

「そんなに素敵な人がうちの大学にいるんですか!? でも、理論派と芸術肌の二人が織り成すダンスっていったい」

「最高以外の何物でもない。はっきり言って、俺は優勝者より二人のダンスが好き。二人の後輩で、いつもそばで見られて幸せです。特に、タンゴはゾクゾクするほど怖いから」

「怖いのに好き? って、待って! タンゴって情熱的なダンスなのに怖くていいんですか?」

「いいんです。ていうか、情熱的なだけでは珠玉のタンゴとはいえない。二人のタンゴはそれを通り越して、ともすれば愛をも通り越して戦い合っている。例えば、健さんのリードで彩葉さんの上体が飛ばされるステップでは、彩葉さんの首から先が落ちてしまったんじゃないかと観客が床を確かめてしまうほど激しく」

「ッ! そ、そんなに!」

「勿論、それは激しさ故の目の錯覚で、実際はリードを受けた彩葉さんは基本のポジションをキープしつつ腰の高さまで上体を反らす。限界のボディーラインを描いたらその反動で戻ってくる。その間、0・2秒」

「0・2秒!? 上体を反らして起こすのに、そんなの可能なんですか!?」

「熟練のカップルだけが成せる神速の技なんです。そして、パートナーは何事もなかったかのように振舞うことでリーダーを挑発する。すると今度はもっと激しいリードが起こる。あの空間に何か物を入れたら風の刃でスパッと切れる。だから超怖いけれど目が離せない。次は何をする?って、何度見ても引き込まれてしまうんだ」 

「そう……ですか」

「す、すみません! 俺、つい夢中になって」

「大丈夫ですよ。私も夢中になってしまいましたから。ただ、こうして話を聞かせてもらって、改めて感じることがあります」

「なん……でしょうか?」

「蒼樹さんのダンスを愛する気持ちです」

「……そんなでしたか?」 

「そんなですよ。勧誘、部員、競技会。蒼樹さんの踊りたい気持ちがどれからも溢れています。苦労話はご自身のものですが、それ以外は自身の周囲のことですよ。それなのに、気持ちが溢れるなんて凄いですね。それに、まだ私は蒼樹さんご自身のダンスについては尋ねていません。そこにはもっと熱いものがあるのではないでしょうか。果たして試合に出るようになったら、すでに溢れている気持ちはどうなっちゃうんでしょう?」

「…………」

「蒼樹さん?」

「……もしかして……ミイさんは……はじめから」

「フフ」

 ……そっか、そういうことか。

 俺は気づいた。いや、ミイさんによって気づかされた。悶々とした思いを吐露することで心を浄化し、自分の本心を気づかせることがミイさんの狙いだった。この人、凄い!

 それにしても……。自覚してしまうと、もうどうにも気持ちが止められない。憧れは心に秘めることができても欲望は押さえきれない。

 俺は、早く踊りたい! あのフロアに立って、そして勝ちたい! 入学した日から練習しているし、勧誘も頑張っている。女性にフラれる度に心は滅入ってしまうけど、絶対にやり遂げたい! だから、目標だけは失ってはいけない。カウンセラーに弱音を聞いてもらってでも諦めてはいけないんだ。

 思えば、浪人生活だってそうだった。うちは父子家庭。予備校に通えず自宅浪人をしたが、本当に孤独な二年間だった。一言も話さない日なんて星の数ほどあった。二浪が決まったときはこのまま孤独死すると本気で思った。それでも諦めず七泉大学へ入れたのは、他大と比較して学費が安く、地方だから生活費も安く、かつ教わりたい教授がいるから入りたい、という願望があったから。そういう思いを絶やさなかったから今がある。

 パートナー探しに苦労する日々はまだ続くだろうし、出会う確率も減っていくけれど、必ず見つけてその人と一緒にあの舞台に立とう。辛いことがあっても信念だけは見失うな。

 でも、どうすればパートナーを。ここで何か手掛かりを掴めるとありがたいが。

「蒼樹さん、今までどのくらいの人を勧誘したのですか?」

「……話を聞いてもらった人だけで九十九人」

「九十九人!?」

 ミイさんの声がひっくり返る。

「情けないっすよね。でも、今日ミイさんに話を聞いてもらえて良かった。次フラれたら百人目。そこでまたショックを受けます。けれど、絶対に諦めない。ミイさんが諭してくれましたが、俺だってあの舞台に立ちたい。今までこれといった特徴のない人生を送っていたけど、大学で変えたいんです。必ずパートナーを見つけて、華やかなあの舞台でスポットライトを浴びる、幸せなダンスライフを送りたいんです!」

「その調子ですよ。ところで……蒼樹さん……」

 ミイさんは言いかけて黙り込む。何か思うことがあるのだろうか。俺は熱く語った分、今さら喉の渇きに気づき、コーヒーを飲みながら彼女の言葉を待つ。

「蒼樹さんもダンス未経験なんですよね」

「はい」

「何かのスポーツをやっていた人が有利とかはあるのですか?」

「彩葉さんが言うには、どんなことでも活かせるのがダンスの魅力なんだとか。例えば、健さんは理論派。陽さんは感覚派。対照的だけど、各々の思考を極めたところに理想のダンスはある。当然、経験も活かせます。体育会系は鍛えた筋肉や集中力を、音楽をやっていた人はリズム感を、演劇部だった人は喜怒哀楽を。そんな風に自分の長所や経験を表現すればいいから、競技ダンスは奥が深くて面白い」

「ダンス未経験でも感性と人生経験を十分に活かせる……ということですか。では、蒼樹さんは何を活かすつもりですか?」

 聞かれると言いづらいのだが、アイデアは確かにある。

「俺は……浪人生活」

「浪人生活?」

「二浪してるんすよ。だから、暗黒時代に経験したものを活かすつもりです。挫折から這い上がった精神面、受験勉強で鍛えた思考力、新聞配達を始めとするアルバイトで培った持久力、英単語や古文用語を詰め込みすぎて頭がパンクする度に衝動的に筋トレして鍛えた二年分の筋力とか。暗かった道を前から照らすことで、これも必要な道だったんだって受け止められるようになりたい」

「フフ……」

「変……ですよね」

「そんなことないですよ。蒼樹さんってユニークな方ですね」

「そうですか?」

「ええ。言い換えるならポジティブシンキングの持ち主です。日常生活の些細なところからヒントを得て自分の力に変えていくのが得意なんですね」

「そうなのかなぁ。往生際が悪いだけのような」

「物は言いようです。きっと……ううん、必ず近いうちに良いことが起こります」

 何かを確信しているかのようにミイさんは告げる。曖昧な言葉だが、話し方にはそう思わせるものがあった。

 ひとしきり話を聞いてもらった俺は、ミイさんに礼を言って個室を後にした。

 状況が変わったわけではないが、心は明るく弾んでいた。メンタルケアの大切さを実感。心の状態が違えば、同じことをしても不思議と結果が変わる気さえしてくるのだ。

 そして、予感は的中。カウカフェの訪問により事態は思わぬ方向へと転じた。


 昨日カウカフェに行ったことで、やるべきことが明確になった。こうして校舎を歩いていても、歩く速さに応じて微かな風を感じ取れるほど、どこか心に余裕がある。

 不安がないわけではない。なんせ百にリーチがかかっている。あと一回失敗したら、また憂鬱になってしまうかな。そのときはまたミイさんに愚痴を聞いてもらおう。

 などと都合の良いことを考えていると、向こうから女性が歩いてきて――目を奪われた。

 一言でいうならクールビューティー。スレンダー系モデル体型でスカイブルーのワンピースが最初に目に飛び込むが、トップには薄紫のリボンが付いた麦わら帽子、足元はヒールの高い麦編みのサンダル。頭から足元までお洒落に余念がなく、颯爽と歩く姿はキャンパスをランウェイに思わせるほどの魅力に溢れていた。

 ため息を吐いたのは美しさのためだけじゃない。こんなに洗練された一年生はいない。勧誘して気づいたが、女性は学年が上がるほどファッションも佇まいも洗練されていく。

 見惚れていたのがバレたのか、通り過ぎるとき、彼女は俺に会釈をするように微笑んだ。

 愛嬌とわかっていてもドキッとする。彩葉さんと出会ったとき並みの衝撃。彩葉さんとこの人、どっちが好みか男性に票を取ったら真っ二つに分かれそうだ。

 勧誘対象ではないが、目の保養になった。それで終わりになるはずだった。

「えっ?」

 だが、を感じ過敏に反応してしまった。俺が発した声に彼女が振り向く。

「……何か?」

「あ……いや、まさか」

 別に引き留めようとしてフラグを立てたわけではない。声が漏れてしまったのだ。

「私に何か付いていますか?」

「いえ……付いているのではなく、

「吹いている?」

 彼女は小首を傾げる。そりゃそうだ。これだけでは、言葉が足りなくて単に怪しい奴。変態もいいところ。俺は、誤解されないよう言葉を付け足した。

「社交ダンスされてますよね?」

「! ……どうして?」

「同じ風が吹いたんです。俺、競技ダンス部一年なんですが、部活の先輩と同じ、ダンサー特有の風を感じました。うまく説明できないけど、姿勢が綺麗で無駄な動きのない人は、歩くと空気を切るんです。鋭く切られた空気は微風を生み、通り過ぎる人にとても心地良い風を与えてくれる。競技会場でも上手なダンサーが通り過ぎたときは――」 

「あっ、いたいた!」「汐里しおりちゃん!」

 気分良く説いているところを二つの太い声が遮り、その者たちが駆け寄る。俺のことなど眼中になく割って入って来た。

「ずっと探したよ。最近、うちのサークルに顔出さないじゃん」

「そうだよ。みーんな待ち望んでるよ。汐里ちゃん入ってくれたら最高~!って」

 え、彼女はまさか一年生? 信じられない! こんなに洗練された人がそうだとは。

「顔を出していないと言われましても、私はたまたま隣で食事をしていただけです」

 この手の輩の扱いに慣れている。彼女は笑顔を崩さず、けれど凛と応対する。

「ま、まぁ、そうなんだけどさ」

「でも、気が向いたらまた来てくれるって約束してくれたじゃん」

「ええ。気が向いたら、そのときはお邪魔します」

 完全に社交辞令。この二人も薄々気づいているはずだが、諦めが悪いのは、なんとしてでも彼女を入部させたいという下心と執着心があるから。

「あのー」

「何、きみ?」「あ? 男子はもう募集してねえから」

 男どもの声が一オクターブ下がった。本性を表してきたな。

「失礼な人たちだ。安心してください。俺もこういうサークルに入るつもりはない」

「んだと?」「てめえ、誰に向かって口きいてんだ!」

 二人仲良く怒気をはらませるが、その挑発で俺の闘争心にボッと火がつき、浪人スキル『年上ですが、なにか?』がオートマチックに発動する。こいつらはパシリという時点で最上級生ではなく、俺にとっては年下かいいところタメ。ならば絶対に負けない。俺には苦労して大学に入ったから、人一倍大学生活を大切にしたいという思いがある。こんなモブキャラに邪魔される筋合いはない。

 ケンカを売られてビビらないわけではないが、相手は沸点の低い小物。通行人がいることから暴力を振るわれる可能性は低いし、俺も勧誘活動で度胸はついてきたし、何よりもこっちに過失は微塵もない。以上、分析完了。勝率激高。陰キャの洞察力&脱陰キャを目指す者の勇気舐めんな! 俺は頭の中で導き出した最善策で強気かつクールに対峙する。

「さあ? 彼女と話していたところを割って入って来た邪魔者かな。いきなりキレるし、どっちが失礼なんだろう。えーっと、サークル名は」

 周りに聞こえるよう大きな声を出しながら揃えているシャツを覗こうとすると、二人はシャツを隠してたじろいだ。

「お、おう。それは悪かったな」「じゃあ、話が終わるまで待つとするか」

 譲歩する姿勢は悪くないな。だが、その手には乗らない。雑魚とて複数を相手に話を長引かせるのは得策ではないし、貴重な勧誘時間も削られてしまう。

「残念ですが、うちらの話はこれからです。じゃ、いこう」

 俺は彼女に目配せをし、ダンスリーダーが入場するときのように肘を彼女に差し出す。すると、やはり彼女は慣れているようで、意図を察して俺の肘に手を添えた。

「そうね、いきましょ。私、もう入部していますから。そういうことでー」

「えっ? ち、ちょっと待って汐里ちゃん!」「まだ俺たちの話が!」

 彼女はさも楽しそうに笑顔を振りまき、俺についてきた。呆気にとられる先輩たちを後目に、俺たちは目に見えぬダンスフロアを歩いた。

「はぁ……緊張した」

 角を曲がったところでフーっと息を吐く。

「あら? 緊張してたの?」

 俺に話しかける彼女は、さっきよりもフランク。

「仮にも相手は先輩だし、男二人だし。こっちには君がいる。何かあったらヤバいじゃん」

 同期とわかったからか、あるいは気が抜けたからか、俺もリラックスしていた。

「おかげで助かったわ。あの人たち、しつこくって。でも、これで安心ね」

「似たようなケース、他にもいっぱいあるでしょ?」

「そうね」

「部活かサークルに所属しないと、諦めてくれないんだろうな。面倒だ」

「そうね」

 ……ん? まるで他人事みたいな口ぶりだな。

「もしかして、もう何か入ってんの?」

「ええ」

「だったら、言えばいいじゃん、あの人たちに」

「言ったわよ」

「……え?」

 すると、彼女は再び俺の肘を取って、強引に引っ張る。

「ちゃんと責任取ってね。さ、次はみんなに挨拶しないと。練習場はこっちかしら」

「ち、ちょっと待っ!」

 勇ましいリードに俺はズズズーっと運ばれるのだが、これではどっちがリーダーなのか。

「わ、わかったから! ちゃんと案内するから引っ張らないで!」

 せめてものプライドを守るため、俺は一度彼女から離れ、品良く肘を差し出す。これからダンスフロアに向かうんだ。こうでもしないとリーダーとして格好悪すぎる。


「放送学科一年、海野うんの汐里しおりです。よろしくお願いします」

 滑舌の良い澄んだ声で挨拶をするが、もしやアナウンサー志望!? 気品と華やかさに満ちた笑顔から漂う雰囲気がそう直感させるが、彼女みたさにテレビをつける視聴者が多くいても全く不思議ではない。実際、笑顔の裏で何を企んでいるのかわからないところや芸能界で必要とされる強かさまでも完備しているし。それはさておき、俺が呆気に取られているのはそこじゃない。なんと彼女は入部届にサインをしてしまったのだ。

「応用生物学科四年、光間健成。健でいい」

「同じ芸術学部ね。私は、美術学科三年、木ノ下彩葉よ。これからよろしくね」

 曲のボリュームを下げ、挨拶を交わして俺たちはフロアサイドの長椅子に座る。

「汐里、本当にいいの?」

「何がいけないの、蒼樹? 部の雰囲気もアットホームだし、先輩方の踊りも素敵だし、ちゃんと見て決めたじゃない。それとも何か隠し事でも?」

 練習場へ向かいながら互いに自己紹介を済ませた。その際、汐里から同期部員になるのだから下の名前で呼び合おうと約束させられたのだが、陰キャの抜け切れていない俺にとっては一大事件だ。出会ったばかりの、それも洗練された美人を呼び捨てにするなんて。

「何も隠してなんかないよ。ここに来る際に部活のことはちゃんと話したし」

「なら平気よ」

 実にあっけらかんとしているが、そんな軽いノリで決めてしまっていいのか。俺も勢いで入部したから人のことを言えないけど。

 しかし、問題はそこじゃない。このまま入部したらどうなるのか汐里はわかっているのだろうか。普通にいけば俺と組むことになる、男の余りは俺しかいないのだから。陽さんにもパートナーはいる。二年生で、海外留学中なのだとか。

「隅に置けないわね、蒼樹くん」

 彩葉さんがうりうりと肘で小突いてくる。この人、大人っぽいのにたまにこういう無邪気な一面を見せてくる。それがまた男心をくすぐるのだけれど。

「いや、なんていうか、これは想定外ですよ」

「これって、どれが?」

「どれがって、そりゃ」

「一度に二人も来たことが?」

「そうなんすよ。一度に二人も来たのは完全に想定外って……二人って?」

「ほら、ちゃんと見なさい」

「えっ、あの人一年生なんですか?」

 フロアの奥で、陽さんは一人の女性と踊っている。彼女の存在に気づいてはいた。ただ、あまりにも自然に踊っているので陽さんのダンス仲間かと思っていたが、よく見ると、時折ジルバのレクチャーを受けている。ジルバは学生競技種目にはないが、初心者でも踊れるパーティーステップで俺もある程度踊れるが、彼女は俺の知らない難易度の高いステップを踏んでいる。

「あの子、いいセンスしているわよ」

「いいセンスって……彼女、ダンス経験者ですよね?」

「いいえ。それどころか、踊るのは今日が初めてよ。他のダンスも未経験」

「マジっすか!? めっちゃ上手だし、姿勢もいいですけど」

 とても初めてには見えないが、だからセンスがいいということなのか。驚くべきは、姿勢が崩れていないこと。俺が彩葉さんと踊ると、ズンと踏み込まれると腰が引けてしまい、強気に踏み込むと今度は体がのけ反ってしまう。動いても正しい姿勢をキープするのはそれだけ大変なことなのだ。

「恵まれたプロポーションをしている人は姿勢がいいものよ。姿勢をキープできるのは才能だけど、音感の良さが関係してるようね。でも、彼女の一番凄いところはそこじゃない」

「では、どういうところなのですか?」

 汐里も純粋に興味があるといった様子で、踊っている彼女に敵対心は抱いてなさそう。

「あの子、誰もステップを教えていないのよ」 

「「ッ!?」」

 ……嘘だろ? だって俺はステップを覚えるのに苦労したし、ましてや彼女は難しいステップをリズミカルに踏んでいるのだ。俺は反論気味に聞き返した。

「さすがに今のは冗談ですよね? だって、俺は――」

「パートナーはね。ステップを知らなくても、リードが良ければフィーリングで踏めるの」

「そうですね。けれど、今日初めてであそこまでできるのは……才能かぁ」

 汐里はうんうんと頷くが、俺は首を捻るばかり。

「いや。いくらなんでもステップを知らずに陽さんと踊るなんてことは」

「あら? 蒼樹も私に似たようなことしたじゃない」

「? 俺、まだ汐里と踊ったことないじゃん」

 いったい何を言っているんだ?

「そうね。でも、ここに来るまでリードしてくれたじゃない。私、練習場がどこか聞かされないままあなたについていったのよ」

 言われてハッとする。そっか。そういうことか。リードって何もダンスに限らないんだ。

 俺の反応を見た彩葉さんが微笑む。

「リーダーが少し先回りしてリードをしてくれれば十分なのよ。それを機敏に感じ取るのがパートナーの役目。リードに対してフォローというの」

「フォローですか。つまり、彼女はそれに長けていると」

「今まで見た中で、舞衣ちゃんは最高。あれほどフォロー上手な女性を見たことないわ」

「そんなに!」

 断言する彩葉さんは真顔。何百何千のダンスパートナーを見てきた彼女の言葉には重みがある。舞衣とはあそこで踊っている人のことだろう。当の本人は自分の才能に気づいていないが、初めて踏むステップに驚きつつも陽さんのリードをフォローし続けていた。


「ふわぁぁ。こんなに面白いものだとは思わなかったー」

 気分爽快!といった清々しい笑顔を浮かべて彼女は伸びをするが……それ、話しかけながらされると目のやり場に困るのだが。ほら、豊かなぽよよんがあげぽよさげぽよしてる。

「ほ、本当に上手で驚いたよ」

「ありがとう。でも、今のを一人で踊ってと言われても無理。私、ステップ覚えてないよ」

「それはそれで凄いことなんだけど」

 全員で自己紹介を終えた後、俺は長椅子に彼女と腰かける。

 火神かがみ舞衣まい、心理学科一年。

 掲示板のポスターを見て来たとのこと。よくもまぁ、無数に貼られたポスターの中から競技ダンス部のを見つけたものだ。課金を重ねても入手困難なカードくらい激レアだぞ。

 汐里と舞衣が来てくれたのは嬉しいが、なんとも言えない気持ちもある。だって俺、ずっと勧誘頑張ってきたのに、自ら呼び込んだという達成感がない。二人とも思わぬ形でやってきたのだ。完全に棚から牡丹餅。

 だが、この縁を絶対にモノにしなくてはならない。

 さっき陽さんからアドバイスを囁かれた。汐里が入部したくらいで安心するな、すぐに気が変わることもある。才能ある舞衣も入部させて二人とも逃すな。彼女らを逃したらいよいよお前は生涯独身だと。表現はともかく、今日以上のチャンスが二度と訪れないことは重々承知している。汐里はダンス経験者でモデル系美人。舞衣は恐るべきポテンシャルを秘めていて、柔和な表情とクリっとした瞳が愛らしくてグラマー。美人系と可愛い系で系統は違うけど甲乙つけがたいほど二人とも魅力的で、今まで勧誘した九十九人の女性よりダンスの期待値もルックスレベルも比べ物にならない。そんな二人が一度に来るなんて、今日は何がどうなってるんだ。俺、一生分の運を使い果たしちゃったかな。

 とにもかくにも、まずは未来のパートナー候補とのトークを盛り上げなくては。

「舞衣はどうして見学に来たの?」

「あ、うん。面白そうだなって」

「そういうものなのか、ダンスって」

「そういうものなのよ、ダンスって」

「……」

「……」

 なんだろうこの沈黙。聞いてはならないようなバリアを感じる。ならば話題を変えるか。ダンスから離れて意外性のある話題を……。学校のこととか。でも、学科が違うと話が噛み合わないものだが、彼女は心理学科って……ん? 俺はある閃きにポンと手を叩く。

「カウカフェ知ってるよね?」

「ふぇ!?」

 舞衣はやたら敏感に驚くが、これなら盛り上がれそうだ。

「俺、実はさ、昨日行ったんだカウカフェに」

「へ、へぇ……。そ、そうなんだ? どうして行ったの?」

 目が泳いでいる気もしないでもないが、舞衣からすれば降って湧いたような話だもんな。

「ちょっと話を聞いてもらいに。情けないことに、ずっと勧誘がうまくいかなくて」

「そういうこともあるって。情けないなんてことないわよ」

 舞衣は気遣って話を合わせてくれる。さすがはカウンセラーの卵。

「いや、そういう次元じゃないんだ」「じゃあ、どういう?」「それはなんていうか異次元というか」「二次元とか四次元とか?」「そうじゃなくて」「あぁ、九十九人にフラれたって」

「……え? 俺、その話したっけ?」

「ふぇ? ち、違うの! 九十九人の思考が一致しても、一人が違うと心理学としては定説とは呼べないの! さっき授業で教授が力説してたから脳裏に焼き付いてて!」

「へえ、そうなんだ」

「そうなのよ!」

 うんうんと頷く舞衣。踊った後でも講義内容が頭にあるなんて……勤勉なんだなぁ。

「タンゴ一曲かけまーす」

 ラジカセのボタンに手を当て、陽さんが声を張る。

 フロア中央には、ホールドというモダンダンスの基本姿勢をしてパートナーを迎える健さん。その中に入っていったのは彩葉さんではなく、汐里。彼女はダンスシューズを持参していないため靴を脱ぎ裸足となり、ケガをさせないよう健さんも彼女に合わせた。汐里の力量を測る流れとなったのだが――二人が組んだ瞬間、俺と舞衣は驚愕する。 

「なんだこの一体感っ!? まるでジグゾーパズルの二つのピースが噛み合ってワンピースになっている」

「二人って、出会ってまだ一言二言しか話してないよ!?」

 健さんが汐里の手をグッと握る。あれは、気合の表れ。お試しとか言っていたくせに熱くなっている。その証拠に、健さんは挑発的に汐里を見つめて、いきなりノーステップで踊る方向を変えた。否応なしに仕掛ける健さんのリードに俺はハラハラしたが、汐里は健さんの目線を涼しげに受け止めるも同じタイミングで体の向きを変えたのだ。

 ステップを踏んでもワンピースは崩れない。二人が踏んでいるのはタンゴのベーシックステップ。それは共通ステップだから、知っていれば初めて踊る二人でも合わせられる。最初はどうなることかと思ったが、俺はホッとしながら二人を見る。

 と、安心したのはほんの僅かだった。突如、二人の動きが激しくなる。ベーシックはもう十分と言わんばかりに、健さんがバリエーションステップへと切り替えたのだ。

 それは、ベーシックを発展させたカップル独自のステップ。厳密に言うと、完全にオリジナルというわけではないが、構成や表現に独自性をもたせるため、固定カップルで何年もかけて熟成させていくもの。それほど息を合わせるのが難しいのに、健さんは彩葉さんと踊る同じステップを容赦なく汐里に仕掛ける。だというのに。

「汐里は全て応えている! こんなことって!?」

 興奮のあまり立ち上がるが、それは舞衣も同じだった。

「健さんと彩葉さんのタンゴを見せてもらったとき、真のタンゴというのは情熱的という一言では収まらないものだと思った。だって、二人の動きのキレが鋭すぎて、近くにいたらこっちの身が切られてしまうほどの凄みを感じたんだもの。だから、ああいうのは滅多に見られないって」

 舞衣は回想しつつ、汐里から視線をはずさない。いや、違う。視線を奪われたまま口だけが動いているのだ。

「でもね、私、今……鳥肌立ってる。どうして? どうして初めて踊る二人がこんなにも」

「俺にもさっぱり。しかも、汐里とだとこんなにも印象が変わるとは」

「どっちも情熱的だけど、健さんと彩葉さんのタンゴは戦い合うような迫力がある。でも、汐里ちゃんはむしろ逆。なんていうか、優雅」

 舞衣の言うことに俺は頷く。一番の違いは体の反らし具合。彩葉さんの方が上体を大きく反らす。モダンのバリエーションは男女で回転運動をするステップが多いため、彩葉さんみたいに大きく体を反らすと男女の動きは立体的に見える。汐里は彩葉さんほど上体を反らしていないため、この二人が描くラインは比べれば平面的。

 かといって見劣りなどまるでしない。それどころか、本来のパートナーである彩葉さんより初めて踊る汐里の方が健さんとの距離が近く、細やかなステップも強いスタッカートで調和している。シューズを履いていないからパワーは押さえられているが、本気で踊ったらどうなるのだろうか。こっちを好む審査員もいるはず。距離感が違う印象をもたらしているのではないかと舞衣に話すと、彼女はこう例えた。

「カップルで回転運動をすると、彩葉さんは花びらが開いたみたいに見えるけど、汐里ちゃんはトランプを対角に軽くつまんで、息を吹きかけて回転させたときみたいに見える」

「ああ……そうかも。ヒラヒラと面が変わる様子は、表がキング、裏がクイーン、手品で使われそうなトランプみたいに表裏一体でミステリアス」

 素晴らしいダンスほどもっと見ていたいと願ううちに終わってしまう。一曲踊り終え、戻ってくる二人を全員が惜しげのない拍手で迎えた。

「凄いわ、汐里ちゃん! とてもエレガントなタンゴだった!」

 歓喜して迎える彩葉さん。汐里に握手を求め、勢いそのままにハグした。

「あ、ありがとうございます。でも、先輩方のタンゴ、私は好きです。私には彩葉さんのような力強さはまだ表現できません」

 汐里の顔が火照っているのは運動後だからか、同性もうっとりするような美人にハグされているからか。

 俺はホッとする。即戦力になるほど汐里は上手だから、どちらかがライバル宣言したらどうしようかと思っていたが、そうはならなそう。う~ん、ユリユリ大事♪

「汐里ちゃんは、WDC系なのね」

 彩葉さんの聞き慣れない言葉に、俺は思わず割って入ってしまった。

「なんですか? そのプロレス団体みたいなの」

 ところが、彩葉さんに尋ねたのに、なぜか真横からケッと辛辣なツッコミが。

「それを言うならWWFでしょ。まったく、これだから素人は」

「そうなの? 舞衣はプロレス詳しいんだ。……あれ? 最近どっかで似た話題を」

「! う、うちの地元、プロレス人気あるの! 巡業地になるくらいだから」

「へぇ」

 俺は浪人時代、あまりテレビを観なかったからよくわからないが、プロレス好きの女子が意外に多いというのは聞いたことがある。

「彩葉さんすみません! その~、私も知りたいのですが」

 話を逸らしてしまったことを詫びて、舞衣が尋ねた。

「わからなかったわよね、ごめんなさい。WDCはある競技ダンス団体の略称なのだけど、モダンだとイングリッシュスタイル寄りのダンサーが多いのよ」

「国によってダンススタイルが異なるということでしょうか?」

「そこまで種類はないけど、一昔前、モダンはイングリッシュスタイルとイタリアンスタイルの二つが主流だったの。大まかにいえば、前者は優雅、後者は力強いのが特徴ね」

 そう言われてピンときた。汐里の踊りが前者。健さん、彩葉さんは後者だ。

「汐里ちゃんは留学先でダンスを教わったと言っていたけど、イギリス?」

「はい。一年ほどロンドンの語学学校に留学して、学校のサークルで教わったんです。教えてくださった先生はモダン専攻だったので、私、ラテンはあまり踊れないのですけど」

「社交ダンスの本場で教わったのね。あぁ、いいなぁ。本場の先生に教わっただけあって、汐里ちゃんの踊りには、日本人のダンサーにはない独特のムードがあるわ」 

「そうなんでしょうか。他を知らないので今一つピンとこないのですが」

「こういうタイプのダンサーと踊るのは、俺にとっても初めてだった。WDC系の研究もして、汐里の良さを失わないよう指導していかないとな」

 健さんはタオルで汗を拭きながら話に入る。普段はわりと寡黙な人だから上機嫌なのがありありと伝わってくる。ならば、気になったことを聞いてみようか。

「あの~、健さん?」

「なんだ?」

「先輩たちはなんでイタリアンスタイルなんすか? イタリア人に教わったとか」

 素朴な疑問から尋ねただけなのに、どういうわけか健さんと彩葉さんは無言でアイコンタクトを交わす。隠し事があることに違いないが、そんなことより俺は二人の間に流れる空気が気に入らない。購買にムードを吸引する空気清浄機売ってないかな。でも、二人は付き合っていないからね。彩葉さんに恋人がいないこと、ちゃんと確認しているから。これだいじ! して、問いの答えは?

「コホン……俺にはイタリア人の血が流れているからな」

 出てきた言葉はとんでもなかった。ギャグのつもりだろうか。

「こ~んな偏屈なイタリア人ばかりだったら、みんなパスタ食べ残して家に引きこも――」

「なんか言ったか?」

「い、いいえ何も! イタリアン、ブラボー! タンゴ、グラシアス! ベサメムーチョ!」

「後半スペイン語だぞ。コホン……。まぁ、詳しくはそのうち教える。何はともあれ、二人とも楽しみだ」

 両者、見苦しい話題の逸らし合い。やっぱり何かが裏にある。まぁいい。それより今は舞衣を入部させることが先決。まだ彼女は入部届にサインをしていない。まぁ、時間の問題だとは思うが。

「そ、そんなことないです! 私、今日やってきたばかりのド素人ですから、汐里ちゃんと比べないでください!」

「問題ない。汐里は見ての通りだが、舞衣にも十分なセンスがある」

「実感はまるでないのですが」 

「最初はそういうものだ。センスは、己と向き合うことで徐々に知っていくもの。彩葉も汐里もそうだったはず」

「そうね」「仰る通りかと」

「そういうものですか……」

「心配ない。これほどの適応力があれば、早く自分の才能に気づく――」

「あの~、健さん」

「なんだ?」

「俺のこと忘れてません?」

「忘れてた。お前も大丈夫だ」

「気持ちが全然伝わってこないんですけど!」

 どうにも腑に落ちないが、こうして俺の嫁探しならぬパートナー探しはひとまず終わった。今までのことを思えば夢の舞台へ一歩前進といっていい。舞衣と汐里、どちらと舞台に立つにしても力を合わせていきたい。たった三人の同期なのだから。

 ただ、部活後に全員でご飯を食べに行こうと盛り上がったとき、舞衣は用事があるからとそそくさと出て行ってしまった。十分に楽しんでいるようにみえたのだが。別れ際、「いい人が見つかって良かったね」と、よそよそしく手を振られたことが気がかりだった。


「とまあ、こんなことがあったわけですよ」

 翌日、俺は報告とお礼も兼ねてカウカフェの特別カウンセリングルームにいた。

 絵里子さんに話すと、「さっすが私!」と薄い胸を張った。根拠はわからないが、結果的には彼女の言う通りになったのだから先見の明があるのだろう。アポなしでミイさんに会えるか尋ねたが、いるとのこと。今日は拉致られることなく普通に案内された。

「そうですか。それは……良かったですね」

「ん? ミイさん、ちょっと引いてます?」

 喜んでもらえると思ったのだが、彼女はどこか歯切れが悪い。

「そ、そんなことないです! 期待以上の結果に、感慨に浸っていただけです」

 そっか。そうだよな。一昨日、駆け込み寺のように尋ねたのに、こんなに早く結果を出してきたら反応に困るよな。しかし、ここを訪れてから事態が好転したのは明らか。俺にとってカウカフェは開運スポットでミイさんは幸運の女神。次に進む上でも尋ねてみよう。

「それで、今日はまた新たな相談があるのですが」

「相談?」

「そんなこんなで一度に二人が来てくれたのですが」

「えっと、汐里ちゃ……失礼しました。汐里さん、それとわたぁっ!」

「ミ……ミイさん?」 

 まるで経絡秘孔の一つでも突いたような声が聞こえた。

「ごめんなさい! ちょっとお茶を溢してしまいまして!」

「大丈夫っすか!」

 ガラス越しでは拭いてあげることもできず、慌てる彼女が落ち着くのを待った。

「だ、大丈夫です! えっと、相談というのは汐里さんと舞衣さんの件ですね」

「はい……どうすればいいかと」

 何か良いアイデアをもらえるかと期待したが、意外な返答が。

「汐里さんを選べばいいことです」

 選ぶ? ミイさんが断言するものだから、俺は真意を聞き出す。

「どうしてですか?」

「だって、ダンス経験者で先輩方から太鼓判をもらっているんですよ」

「それは舞衣も同じです。彼女も太鼓判を押されていました」

「あくまでも期待を込めてというだけ。社交辞令ですよ」

 ミイさん、随分と舞衣に対して厳しいな。

「社交辞令なんかじゃない。彩葉さんや健さんはそういうところで飾らない」

 俺も強く言い返す。でないと、ここにいないとはいえ、舞衣が気の毒だ。

「では、仮に先輩方の言っていることが本音だとします。それでも、フォローが上手というのは漠然としていませんか。汐里さんと違って、形としては表れにくい部分ではないでしょうか。しかも、本人からすれば自覚がないのに、何を信じればいいのでしょう」

「それは……」

 穏やかなミイさんの口調が激しくなる。ただ、彼女が言っていることは正論。俺は昨日、舞衣と踊らなかったことを激しく後悔した。踊っていれば、何か言い返せたはず。

「蒼樹さん、あなたは上手く踊れるようになりたいんですよね」

「はい」  

「結果も出せるようになりたいんですよね」

「決勝進出者をファイナリストというのだけど、俺もそうなりたい。そして、いつか必ず優勝したい。優勝カップルだけが踊れるダンス――オナーダンスを、俺は踊りたいから」

「ならば、私に相談するまでもないことです。……汐里さんを選ぶべきです」

「ミイさん、ちょっと待って――」

「もうはっきり言わせないで。勝負の世界では当たり前だから気にしないで――」

「ちょっと待った!」

「!?」

 ミイさんのシルエットがビクっと震えた。早口になる彼女を制するのに、つい語気を強めてしまった。でも、そうしてでも聞いてもらいたい。

「みんな同じです。みんな上手に踊れるようになりたくて部活に来たんです」

「そうでしょうか? 汐里さんはともかく、舞衣さんが同じ気持ちで来たとは限りません」 

「ひょっとしたら……そうかもしれません」

「ッ! あなたは私をからかって――」

「けど、舞衣は誰にも話せない深い気持ちを抱いている! 話せないけど来たということは、そういう何かがあるからでしょ!」

「ッ!?」

「それは、上手に踊りたいと思うのと同じ価値。聞き出せないほど尊いもの。……舞衣は別れ際、寂しさを帯びていた。ひょっとしたら彼女はもう来ないかも」

「……」

「俺は舞衣と踊りたい。一緒にダンスライフを送りたいんです。けれど彼女は思慮深い人で、俺と汐里のことを思って身を引こうとしている」

「…………」

「今日俺がしたい相談はどちらかを選ぶということではありません。いつかそういう未来は来るでしょう。ミイさんの言う通り勝負の世界ですから。でも、今はそのタイミングじゃない。大切なのは、各々の志をむこと。どうすれば舞衣を引き止められるでしょうか」

「……そうでしたか。すみませんでした。カウンセラーなのに話を最後まで聞かずに話してしまって。大変失礼しました」

「いいえ。誤解を生む尋ね方をする自分がいけませんでした。すみません」

「…………」

「…………」

 感情的な論戦の後の沈黙。ミイさんとて対処に困っている。これ以上困らせてはいけない。彼女はカウンセラーである前に女性。こういうときこそ男がリードすべき。

「昨晩、久しぶりにノート一冊使いました」

「……ノート?」

「浪人時代、どうしても覚えなくてはならない単語熟語があるとき、習うよりも慣れろと夜通し書き込むことが幾度となくありました」

「私も受験勉強でよくやりましたね。それで、蒼樹さんは昨晩何を?」

「どうすれば舞衣が正式に入部してくれるか」

「!」

「めっちゃ怪しい奴ですよね! ごめんなさい。舞衣はミイさんと同じ学科で、もしかしたら知り合いかもしれませんが、ここは守秘してください!」

「わ、わかりました。カウンセラーとして守ります。そうですよね。自分のことを書かれているのを知ったらドン引きしてしまうかもしれない。その結果、部活どころか校内ですれ違っても目を合わせないとか、人によっては半径二百メートル以内には立ち入らせないよう訴え……って、あれ? 蒼樹さん?」

「ハッ!? ショックのあまり気を失ってた! うぅ、ですよねー。舞衣のことから派生させて部活のことまで書いてたら一冊書き終えていて。悪口なんて一切書いていないですよ! とにかく守秘でお願いします。ん? でも、そんなに心配しなくても大丈夫か?」

「?」

「特別カウンセリングルームはミイさんのような名カウンセラーが任されるわけで、いくらなんでも入学したての一年生の舞衣が任されるわけない。なんだ全然大丈夫。ノープロブレムじゃん、ハッハッハッ!」

「…………」

「ミ、ミイさん?」

「あっ、はい大丈夫ですよ! あと、誤解しないでください。誰かのことであっても善意であるならば、メモを書く行為自体は決して悪いものではありませんよ?」

 ミイさん、なんだか自分に言い聞かせている? 過去に似たような経験があるのかな。

「ところで……ノートには具体的にどんなことを?」

「一番書いたのは、舞衣がどういう思いで突然部活に来たのか。彼女はポスターを見て興味を持ったと言った。けれど……直感だけど、そうではない。何か別の理由があると思うんです。それを想定できれば、今後話しやすくなるかと」

「変なところだけ、鋭いなぁ……」

「何か言いました?」

「何でもありません! 気持ちを察するためにシミュレートするのは、相手の目線に立つ上で有効手段です。それで?」

「書いては消しての繰り返し。これといった理由はわかりませんでした」

「そう……ですか」

「ただ、二つほど思い至ったことがあります」

「二つ? ……何と何ですか?」

「一つは、彼女の名前」

「!」

「舞衣という字は踊りに直結している。どんな思いが込められているのかはわかりませんが、ダンス経験のない彼女としてはコンプレックスを感じるときがあって、それを克服するために来たのではないかと。考えすぎですかね」

「そ……それは。あながち間違っていないかもしれません。もう一つは?」

「もう一つは……たとえ入部理由を教えてもらえなくても、一緒に踊りたいという思いに至ったことです」

「……どうして、そこまでして」

「色々思い巡らせたけど、彼女はこの先も理由を明かさないと思ったんです。心理学科の生徒だから一度決めたら自分のことでも守秘するかと。だったら、尋ねなければいい」

「……気になりませんか?」

「そりゃあ気になりますよ。気になって夜通しメモ書きしたくらいですから。でも」

「でも?」

「大切なのは、明かせない理由を聞き出すことではない。そんな思いを抱いてまでも来てくれた彼女を歓迎したい」

「ッ!」

「そのことを、昨日、ミイさんが気づかせてくれました」

「……私が?」

「ミイさんは一度の出会いで俺をあるべき道へと導いてくれた。だから、ミイさんのことだって気になります。でも、気にしすぎると本末転倒になる。ミイさんと俺はカウンセラーと患者という良い関係を築ける、と思ってます。ならば、舞衣の気持ちをそっと見守れば一緒にダンスライフを築ける。同じ発想ではないでしょうか」

 ミイさんが顎に手を当てているのがぼんやりとわかり、俺は静かに待つ。

「一つ聞いてもいいですか?」

「一つと言わず」

「仮にですよ? 仮に、入部理由に蒼樹さんが関係していたらどう思いますか?」

 慎重に尋ねるものだから身構えたが、そういう発想も一つとしてあるのか。

「今まで舞衣と接点がないので考えにくいけど、仮にそうだとしたら俺は嬉しい」

「嬉しい? 重くありませんか?」

「内容によっては重いかもしれない。でも、それこそ競技ダンスの醍醐味じゃないですか」

「醍醐味?」

「重さを変えればいい。俺が一人で抱えてもいいし、ともに分け合ってもいい。そうできること自体、幸せだと思いませんか? だって……相手がいなければそれすらできない」

「!」

 こういうとき、どうしたって浪人時代を思い出してしまう。あのとき俺には父親以外に話す相手がいなく、父親とだってそんな話をするわけでもなくて。卑屈な俺は、世の中の多くの人が本当の孤独を知らないと心底思っていた。

 そして、その気持ちは今でも変わらない。

 本当の孤独とは無なのだ。何もない部屋に期限なくいなければならないようなもので、抗う要素さえ無なんだ。よく人間関係がうまくいかず孤独を感じるという話を聞くが、そんなの、相手がいるだけいいじゃないか。

「競技ダンスって、初心者の俺が言うのもなんだけど、最も二人三脚な競技です。身も心も重くて当然ですよ。というか、重みがなければ競技にならない。だから、その重みを楽しむ方向に持っていくことが醍醐味だと思いませんか。息が合えばやって良かった、パートナーに出会えて良かったと思うじゃないですか」

「蒼樹さん」

「はい?」

「あなたは、きっといいリーダーになれますよ」

「そうかなぁ? そうなりたいけど」

「でなければ、先輩方はとっくに見捨てていますよ。飾らない人たちなんでしょ?」

「ぐ……言われてみれば。でも、都合のいいからかい相手にされている気が」

「それも人徳です」

「そうですか? えぇ、そっかなぁ?」

「今日ここで話したこと、初心を忘れないでくださいね。そうである限り、二人三脚……いいえ、三人四脚は楽しめますよ」

「はい。肝に銘じます!」

 そして、その翌日。

 一年生三人が集まっての練習が始まった。俺の心配は杞憂だったのか、舞衣は来るや否や入部届にサインをし、意思を宿した瞳で黙々と励んでいた。この日、例年より早めの梅雨入りが発表されたが、俺の心は入学以来、最も晴れやかだった。

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