オナーダンスは君と ~駆け出し紳士のエスコート~

春風 吹

第1話 プロローグ


 学生競技ダンスの話をしようと思う。

 競技ダンスとは、欧州の上流階級で嗜まれていた社交ダンスを元に、その表現力や技術力を競技会の場で競い合う芸術性の高いスポーツだ。

 あまり知られていないけど、世界中を見渡してみても日本は最も競技人口が多く、その数は二百万人を超えると言われている。ダンサーたちの日常はその華やかな印象とは裏腹に、実は意外なほど過酷かつ地味で、甘い物はこの世にはない物と決めつけ、減量中のボクサーのように体中の脂肪を絞り落とし、足の爪や皮が剥がれて出血しようが睡眠中にまで姿勢矯正をして悪夢にうなされようが、生活の全てをダンスに捧げる。

 俺、未森みもり蒼樹そうじゅもその世界に足を踏み入れた大学生だ。

 学生競技ダンサーたちの目標はただ一つ、学生競技会での優勝。試合はときに何百組もの男女ペアが参加し、ステージが進むにつれてその数が絞られていく。

 そして優勝したダンスペアには自由に演舞できるエキシビション、名誉オナーダンスを踊ることが許される。広いフロアにたった一組、観客の視線とスポットライトを一身に浴びながら、祝福と憧憬、嫉妬にまで応えるオナーダンスを踊れるのは、ダンサーとしてこの上ない栄誉だ。

 俺もそこに立つことを夢見る学生競技ダンス部の新入部員。一般的に、ダンス人口は女性が多いため、男性は重宝される。だからダンサーとしての第一歩、つまりダンスパートナー探しは楽勝だと思っていたのだが……。


 プロローグ


 授業が終わり、蛍光灯がチラつく大学の教室、長机と椅子を壁に寄せて作った即席のチープなダンスフロアに、激しいドラムのラテン音楽が流れている。それに合わせて一組の男女が縦横無尽にステップを踏んでいる。男女は両手を相手の手と腰に回し、正面から向かい合いながら見つめ合い、跳ね、抱き合い、仰け反り、体を起こしてはまた見つめ合う。

 官能的な雰囲気を漂わせながら二人の世界に没頭する男女に、教室の四隅から品定めをするように無遠慮な視線が寄せられる。しかし二人は周囲を気にも留めず、ドラムのビートが激しくなるのに合わせて汗で滑る体と荒い呼吸を重ね続ける。

 曲の最終盤で男は片手で女の腰を抱き寄せ、女は床につきそうなほど背中を反らせて最後のポーズを決めた、と同時に音楽も終わった。

 男は女の体を起こそうとするが、激しく体力を消耗した男女は余力がなく、互いによろけて支え合う。静寂の中、聞こえるのは荒々しい息だけ。二人は変わらず視線を浴びているが、かまうことなく余韻に没入している。窓は全開で、清涼な春風が入ってくるも、火照った体を冷やすにはさして意味をもたず、ただハァハァとした荒い息を静め、喉の渇きを潤すために唾を飲み込むことでクールダウンさせる。

 先に体を起こしたのは男。伝えたいことを思い出したからだ。女はまだ体を起こせず、引き締まった男の二の腕に身を預けたまま。ダンスをするため仮初めにポニーテールを高めに結ったが、それによって露出した額や首筋、うなじなど白い素肌の至るところから汗が吹き出しているのが見て取れる。発汗することで彼女固有の甘やかな香りが放たれて男の鼻孔をくすぐり、汗は玉となって彼女の体を舐めるように不安定に伝いながら白いブラウスから見え隠れする胸元の谷間へと必然的に集結していく。その光景に男はつい目を奪われてしまうが、目を閉じて邪念を振り払い、意を決し彼女の耳元で囁いた。

「どう……だった?」 

 あれだけ激しい行為の直後だ。とても一息で尋ねることはできなかった。

「うん。思っていた以上……っていうか……すっっごくよかった!」

 ようやく体を起こす彼女も、息を整えようともう片方の手を胸に当てるが、すぐさま興奮をそのまま口にした。

「それを聞けて安心した」

 などと落ち着きを装うが、俺は内心ガッツポーズ!

 彼女の十分すぎる感想とは満足そうな笑顔を見れば、完全勝利目前といえるだろう。長かったパートナー探しもあと一言で成就し、本格的なダンスライフが始まる。さて、そのタイミングだが。

 急かす男は嫌われる? いや、ここは違う。鉄は熱いうちに打て!

「それじゃ、競技ダンス部に入部して俺のダンスパートナーになっ――」

「え、ムリ」 

「……はぇ?」  

 思わず声が裏返っちゃったけど、聞き間違えだよな? 今のダンスは会心の一撃だったし。え~っと、だとすれば……。

「あぁ、ムヒね! 窓を開けているから仕方ないけど、四月に蚊に刺されると屈辱的というかお前フライングするんじゃねえ!って増し増しで引っ叩きたくなるよね。俺、購買で買ってくる! そ、そうだ! 夏希なつきちゃんは、白いのと液体タイプどっちのムヒが――」

「アハハ、なにそれ。っていうか、違うし」

「そ、そうだ! なつちゃんは、少年なら誰しも歯磨き粉に使ったらどうなる?と想像して渋い顔になったことのあるロングセラーの白いのと、少年なら誰しも脇に塗ったらどうなる?と想像して本当に塗っちゃって、スースーヒリヒリ眠れない夜を過ごした清涼感た~っぷりの液体タイプのどっちが――」

「だからぁ、それ違うって」

「ッ! ど……どっちも液体だもんね」

 罰の悪い顔して苦し紛れにすっとぼけるが、ここでダメ押しが。

「無理って言ったの」

 ……ねえ、知ってた? 「無理」は「ごめん」の三倍は精神的ダメージを喰らうんだよ? 

 ハァ……。これはもう引き際か? 諦めた方がいいのか?  

 いや、まだだ。散々勧誘で断られ続ける中、ようやくつかまえた子だ。彼女とて最初はしぶっていたけどダンス体験まで付き合ってくれて楽しんでいたじゃないか。しかも踊り出したら恍惚の表情を浮かべていた。

 俺も始めはそうだった。されるがままについていったものの、社交ダンス、競技ダンスという未知に近い存在を、年配の人たちの趣味や健康作り、あるいは視聴率を稼げる芸能人の企画対象という先入観で捉え、踊る直前まで緊張と抵抗を感じた。 

 だが一曲踊ると、そんな付き物が剥がれ落ち、イメージが百八十度変わった。

 こんなに魅力の詰まったものがこの世にあるのか。

 男女の間には言葉を交わさずとも気持ちを量り合う恋愛的駆け引きがあって、

 何の道具を持たなくても喜怒哀楽が表現できて、

 芸術的でスポーティーで官能的で背徳的で純粋で気軽で遊び心に満ちていて、

 そして、それら全部含めて愛で。

 どうして今まで知らなかったんだ。どうして視野を広げて生きてこなかったんだ。出会ってしまったら、踊ってしまったら、素敵なダンサーを観てしまったら、全てが素晴らしすぎて、早く始めなかったことに後悔すらしている。

 そうだ。その思いをもっと彼女に伝えなきゃ。今踊ったジルバだって競技ダンスの世界の序幕。最初の一ページに過ぎない。これから二人で二ページ目を開くんだ。

「でもさ、すごくよかった!って言ってくれたじゃん!」

「違う違う。すっっごくよかった!だよ。競技ダンスってこんなに楽しいんだね!」

「でしょ!? 学生競技ダンスには他にも――」

「あ、間に合ってまーす」

 だからさぁ、人の話は最後まで聞けって学校で習わなかったの? 言えない言葉が心で炎上して、俺の脳内ステータス表示はすでにオレンジ色なんだが。

「……き、気持ちよく踊っているように見えたんだけどなぁ」

「それはほら、初体験だったから」「最初からうまくいったんだよ!」「けどやっぱり抵抗あるかな」「始めはそう。少しずつ慣れていくさ」「そういうものなの?」「ああ。それに今度はもっと優しくリードするから」「フフ。罪な人ね」

 俺たち、いったい何の話をしてるんだ。往生際悪く粘ってみるが、ついに痛恨の一撃が。 

「私、彼氏がいるから。彼、けっこう嫉妬深いし」

 あ、彼氏いるんだ。いるのにしちゃったかー。いや、しちゃってもダメではないはず。してるのは立派な部活動だし、俺は純粋にダンスパートナーを探しているわけだし。けど、恋人がいるのなら当然の反応だよなぁ。俺も、もし彼女がいたとして同じことをされたらきっと穏やかにはいられない。まっとうな意見に、俺は立ち尽くすしかなかった。

「そういうわけだから。あ、そうだ」

 教室から去ろうとした夏希ちゃんは何かを思い出し振り返って俺を手招きする。何事かと近づくと、ひそひそ話のしぐさで顔に手を当て囁こうとするので、俺は耳を傾けた。

「勧誘、一生懸命なのはわかるけど」

「?」

「しつこい男は嫌われるよ?」

「ッ!?」

「じゃ、頑張ってね」

「……あ……うん。き、今日はありがとう!」

 痛烈な一言で俺は立ったまま精神的には死んでいたが、それでもここまで来て踊ってくれた彼女に対し、姿が見えなくなるまで笑顔で手を振った。

 ………… ………… ………… ハァ……

 断られてもなお爽やかな男を気取って苦し紛れに捻り出した言葉がこれかよ。

 ねえ、知ってた? 耳元で囁いていいのは愛だけなんだよ?

 厳しい言葉は、優しく囁かれるほどトラウマになるんだなぁ。

 ガックリと項垂れ、ダンスフロア中央で放心する。曲はいつのまにかワルツに変わっていて、俺から漂う負の空気をまるで読まない優雅な旋律に乗って一人の先輩が現れた。

「またフラれたか。これで何人目だ?」

「……五十人目です」

「大台か。だが、まだ更新しそうだな、嫁探し」

 不吉な言葉を残して、再びリズムに合わせて踊り去っていく。二小節後、今度はそよ風とともにサンダルウッドの香水を微かに漂わせ、別の麗しき先輩が慰めに来る。

「お疲れさま。今回のダンス体験会は、悪くなかったわよ」

「……いけると思ったんすけど」

「どんまいどんまい。運命の赤い糸は他にいるってことね」

「はぁ。本当にいるんですかねぇ……ってもういないし!?」

 すでに彼女は、フロアサイドで涼しげにワルツのピクチャーポーズをしている。

「慰めるときくらい社交辞令じゃなくってもう少し寄り添ってくれても、ぐはっ!」

 不意に強烈なエルボーを背中に浴び、俺はフロアに倒れ込んだ。

「おお、わりい。けど、んなところで突っ立ってるお前はもっと悪い」

「ッ……」

 社交辞令すらなく、タッタッと去っていくさらに別の先輩。

 踊り終えたら速やかにフロアを離れるのがダンスマナー。反論の余地はない。

 しかし、しかしだ。

 入学してからずっとこんな日々。勧誘五十人目の夏希ちゃんとはトントン拍子にダンス体験会まで進んで、俺もジルバを踊りながら状況や心境を美化して酔いしれ、絶好のタイミングでアタックするも即刻フラれ、フロアでは邪魔者扱い。俺は辛抱堪らず、頭を抱えて絶叫した。

「うんぎゃ~! 本当にこの世にいるのか|! 俺の運命の嫁ダンスパートナー!」

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