第2話 あの時
「高坂部長!お疲れ様でした。」
部下の榊さんが後ろから走ってきて、声をかけてきた。
「あぁ。お疲れ。荷物多いね、手伝おうか?」
大きな紙袋を5個も6個もぶら下げ、抱え、足元も見えない榊さんが
「いえ、大丈夫です!軽いんで。」
と、隣に足早に駆け寄ってきた。
榊さんは最近結婚し、食堂で味噌汁だけ頼み、愛妻弁当を美味しそうに食べているときは、この世で1番幸せそうな顔をしている。
そんな榊さんは、私の部下になって3年で、この日も一緒にメーカーを訪れ、大量の紅茶を渡されていた。
私の勤める会社は様々な業種を展開する上場企業で、この度、新しく紅茶専門店を始める為、様々な紅茶を試して、扱う商品を決める。
そのため、メーカーからサンプルを集め、生産工程などの資料などと合わせて、ヒアリングに回っている。
正面玄関の高く広いガラスドアのむこうが、午後3時にして真っ暗で、稲光が見えた。雷か。
黒い雲が覆い尽くした空は、私が出るのを待ち構えて雨を降らそうとしているかの如く、不気味に稲光を見せていた。
「これは土砂降りになるな。」
「あっ…そうですね、これはもう降りますね。」
駅までは少々距離もある、荷物もここまで増えると紅茶が濡れてしまうかもしれない。
正面玄関の目の前は大通り。
これは経費でタクシーに乗るに限るな。
「榊さん、屋根の下にいて。そこのタクシー拾ってくる。」
「はい!ありがとうございます。」
小走りに駆け、正面玄関の右側路肩に停め、休んでいるタクシーの窓を叩いた。
ーーーコンッコンーーー
パッと目のあった初老の運転手により、後部座席のドアが開いた。
同時に榊さんを手招きした。
「運転手さん、○○駅近くのサンクチュアリビルにお願いします。」
「…あい。○○駅の交差点左スグの大きいビルですね?スーパーとか入ってる、あれがサンクチュアリ?」
「はい、はい、はい。32階建で下がスーパーや飲食店の。」
そんな会話をしながら、私は榊さんが来る前に運転席の後部座席に座った。
「高坂部長、ありがとうございます。運転手さん、すみません、こんなに荷物あるんで運転席の隣にお置けます?」
「あい、どうぞ。」
助手席のシートに4袋を積み、2袋抱えた榊さんが隣に腰掛け、シートベルトをはめようとしたが、袋が邪魔で辞めた。
「1つ持つよ。」
「大丈夫です。」
私は何の気もなしに、肩がカサっとシートベルトに触れたついでに、シートベルトをつけてみた。
普段はこのくらいの距離ではシートベルトをしないのだが、なんとなく、触れたついでに。
あの時に戻ることが出来たなら、榊さんにシートベルトを着けたい。
いや、あの時より少し前に戻れるなら、雨に濡れながらでも電車に乗りたい。
あんな事しなければ良かった。
他愛もない会話をした。
途中までよく思い出せないが、後半の会話は鮮明に思い出せる。
榊さんが新婚旅行に行っておらず、今生き先を探している事。
将来子供を授かったら、どれ位お金がかかるのか聞かれたり。
どのタイミングで家を買った方がいいのか。
私がこれまで、元妻に決める事を任せて生きてきて、余り深く考えなかった事に、榊さんは思い巡らせ、とても幸せそうな顔をしていた。
私が畳んだ結婚生活は互いに未練や心残りもない、あっさりしたものだった。
でも、人それぞれで、榊さんのように、生きる意味、稼ぐ意味の、全てが結婚生活にある人もいて、それがキラキラとした幸せとして存在していた。
私ももっと早くに知ることが出来たのなら、こういう結婚生活を選択したかもしれない。
しなかったかもしれない、結婚自体。
他人と暮らしていないほうが幸せだったのかな。
妬みを越したのか、もう逆らうしかないのか。
「あっそこ曲がらないと、次曲がれませんよ。」
会話中、気づいて運転手にそれとなく呟いた。
「あい?っへ?ここ?え」
運転手がとっさに右折レーンに移ろうとした。
物凄い音を聞いた。
わたし、さらば。されど、わたし。 @mizore_special
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