犬の亜人の犬山さん

青水

犬の亜人の犬山さん

 僕のクラスには亜人がいる。

 彼女の名前は犬山さん。名字から想像がつくと思うけど、犬の亜人である。


 亜人――あるいは、デミ・ヒューマン――というのは、動物などの特徴を兼ね備えた、人間とはちょっと違った種族である。亜人とひとまとめにしているけど、その種類は様々だ。で、犬山さんは犬の亜人なわけだ。


 亜人はこの世界ではなく異世界の住人らしい。何十年だか前に、この世界と異世界とを繋げるゲートができて、そこから彼らは移住してきたのだ。

 最初、地球人は亜人に戸惑った。けれど、今ではそれほど珍しくはない。僕のクラスにも何人か亜人の生徒がいて、犬山さんはその一人だ。


 犬の亜人の犬山さんには、僕たち人間にはない器官が備わっている。頭の上には二つの垂れた耳。そして、お尻の辺りには尻尾。


 犬山さんはクールというか、感情が薄い。いや、正確に言うと、感情がないわけでも薄いわけでもなくて、感情を表情にあらわしにくいというだけだ。常に涼しげな顔をしている。

 だから、僕は犬山さんと話していて、少し不安になる。僕の話がつまらなかったりしないだろうか、と。そういうときは、尻尾を見ることにしている。


 機嫌がよかったり、楽しかったりすると、犬山さんの尻尾がふりふりと左右に動くのである。逆に、機嫌が悪かったり、悲しかったり、寂しかったりすると、尻尾がしゅん、と垂れ下がる。尻尾が独立した生き物のように見える。


 今日も、僕は学校に来るとまずは犬山さんに話しかける。


「おはよう、犬山さん」


 すると、犬山さんは読んでいた本を伏せて、顔をあげて僕のことを見る。そして、か細く綺麗な声で、


「おはよう」


 と、言った。


「何読んでるの?」

「ロビンソン・クルーソー」

「へえ」


 としか言えない。

 聞いたことはあるけど、どんな話なのかは知らない。


「正式には『自分以外の全員が犠牲になった難破で岸辺に投げ出され、アメリカの浜辺、オルーノクという大河の河口近くの無人島で二八年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に海賊船に助けられたヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述』というタイトルらしいわ」

「なんだか、今の『なろう小説』みたいなタイトルだね」


 僕は感想を述べた。


「なろう小説……?」


 どうやら、犬山さんはなろう小説のことを知らないようだ。まあ、彼女が普段読むような小説とはだいぶ方向性が違うだろうからね……。


「面白い? ロビンソン・クルーソー」

「ええ、面白いわ」


 犬山さんは無表情で答えた。とても面白そうな声音じゃなかったけれど、彼女はいつもこういう風なので僕は気にしない。

 本好きの犬山さんにとって、大抵の本は面白いのだと思う。彼女が『この本、つまらないわ』と言う姿はうまく想像できない。


 僕が書いた異世界物の小説ならば、もしかしたら『つまらない』とはっきりと言うのかもしれない。作者の僕ですら駄作と感じるのだから、肥えた読書家の犬山さんなら尚更である。


「鳴海くんは最近、何を読んだ?」

「うーん、最近ね……」


 僕も読書は好きである。

 僕と犬山さんはクラスメイトというだけでなく、同じ文芸部員でもある。文芸部に在籍しているのは、大体が本好きな奴である。とはいっても、それぞれ好みのジャンルはばらばらだったりする。


 僕は一応、小説なら様々なジャンルを読むけれど、好んでよく読むのはライトノベルである。

 一方、犬山さんは、ライトノベルはそれほど読まない。まったく読まないというわけではないらしいけれど、超がつくほどの有名なタイトルじゃないとわからないんじゃないかと思う。


 ライトノベルの話では盛り上がらないだろうな、と思った僕は、それ以外のジャンルの作品名をあげる。


「海外の作品だと、レイモンド・チャンドラーとか」

「ああ、フィリップ・マーロウね」

「そうそう」僕は頷いた。「『撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ』ってね」


 そのセリフを僕が知ったのは、『コードギアス』というアニメだったのだが、その元ネタがレイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』だと知ったのは、最近のことだった。

 この『撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ』というセリフは、だいぶ意訳されているらしいけれど、いいセリフだな、なんて僕は思う。


「後は、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』なんかも読んだね」

「面白かった?」

「うーん……よくわからなかったな」


 それは、正直な感想だった。これが真のパリピか、というしょうもない感想を抱いたことは、もちろん言わないでおく。


「国内の作品は?」


 平板な口調だったが、いつもより少し早口だった。

 椅子の後ろに垂れている尻尾が、ぶんぶんと左右に揺れ動いている。表情からはまるでわからないけれど、犬山さんは僕との読書トークを楽しんでいるようだ。

 顔に出ないって、得より損のほうが大きいよな……。


「ライトノベル以外だと、ミステリーが多いかな」

「たとえば?」

「えっとね――」


 そこで、チャイムが鳴った。

 犬山さんと話す時間はとても楽しくて、楽しい時間というのはあっという間に過ぎ去るものだ。この高揚感がずっと続けばいいのに、と僕は思う。


 じゃ、と言うと、僕は自分の席に着いた。僕の席は犬山さんの席より後ろだった。位置的に、彼女の横顔を観察することができる。


 そう、僕は犬山さんに恋をしているのだ。


 ◇


 いつから、犬山さんに恋をしているのか――はっきりとしたところはわからない。一目惚れってわけではないと思う――けれど、気がついたときには彼女のことが好きになっていた。


 僕が文芸部に入ったのは、犬山さんが文芸部に入ったという話を小耳に挟んだからだ。僕もまあ、読書は好きだけれど、彼女が文芸部に入らなかったら、僕が文芸部に入ることはおそらくなかったと思う。

 同じ部活に所属していれば、会話する機会は当然増える。同じクラスというだけだったら、今の時点でここまで親しくなれなかったと思う。


「鳴海くん、部室に行きましょう」


 犬山さんは言った。

 気がつくと放課後になっていた。同じ部活じゃなかったら、こうやって『部室に行こう』と話しかけられることもない。

 僕はカバンを持つと、犬山さんと並んで廊下を歩いた。


「入学当初は……」

「……ん?」

「入学当初は、たくさんの人が私のことをじろじろと見てきたわ」

「僕もそのうちの一人だったかも」

「鳴海くんは違うわ。あなたの目は、亜人を珍しがる好奇のそれではなかったわ」


 そう言われて、僕はドキッとした。

 僕が犬山さんに好意を抱いていることが、彼女にバレていたらどうしよう……? いや、でも、それがバレていたところで何の問題もないんじゃないか? むしろ、好都合のような……。


「どうしたの、鳴海くん?」


 犬山さんが僕の顔を覗き込むようにして見てきた。感情に乏しい、綺麗で大きな瞳。ドキッとして、思わず唾を飲み込む。


「何か、考えごと?」

「ううん、別に……」


 僕はオーバーに首を振った。

 廊下ですれ違う生徒の多くは人間だ。でも、中には犬山さんと同じように亜人もいる。犬の亜人もいる。亜人だから容姿端麗とか、そういったことはない。そこは人間と同じ。


 人間と亜人のカップルも当然いるが、亜人は亜人同士でくっつくことのほうが多いらしい。亜人と一括りにしてしまったけれど、同じ種族の亜人という意味だ。

 犬山さんの恋愛対象に人間は含まれるのだろうか? もしかしたら、犬山さんは犬の亜人の男以外には一切の興味がないのかもしれない。

 そんなことを考えて、僕は少し気分が悪くなった。


「どうしたの? 気分が悪いの?」

「ううん、大丈夫」

「……そう」


 犬山さんは少し心配そうな顔をしているように見えた。彼女の尻尾は微妙に元気がなく、ゆっくりと左右に動いている。

 僕は尻尾マスターというわけではないので、犬山さんの尻尾の様子から彼女の感情を極めて正確に読み取ることはできない。ただ、なんとなくこうかな、と予測するくらいだ。


「……本当に、大丈夫? 気分が悪いのなら、保健室に――」

「大丈夫。気分が悪いってわけじゃないんだ」

「じゃあ――」

「犬山さん、質問なんだけど……」

「質問?」


 犬山さんはきょとんとした顔をして、足を止めた。

 開いた窓の外からは、早くも運動部の掛け声が聞こえてくる。廊下を歩いている生徒は、僕たちのことなど気にも留めない。ちょっと大きな石ころとでも思っているのだろう。僕も歩くジャガイモだと思っているのだからお互い様だ。


「犬山さんって――」

「あ。おやおや、鳴海くんに犬山ちゃんじゃないか」


 僕の後ろから聞こえてきた声。

 ほんの少しだけむっとしながら振り返る。


「森川先輩」


 森川先輩は僕たちより一つ年上の二年生であり、文芸部の部長でもある。つまり、立場的には僕たちよりも少し上。しかし、僕と犬山さんが、彼女のことを敬っているかどうかは微妙なところ。


「部室に行くのかい? そうなんだろう?」

「ええ、まあ……」

「いえ、部長」


 犬山さんは少し首を振った。


「鳴海くんは気分が悪いようですから、保健室に連れていこうかと」

「なんだい、病気か?」

「いや、そういうわけじゃなくて……」

「ははあん。わかったぞ。病は病でも恋煩いというやつだね?」

「……」


 あながち間違ってなかったので、僕はなんとも答えられなかった。

 沈黙は否定よりも、肯定と受け取られやすい。


 図星だな、と森川先輩はにたあと笑みを浮かべた。彼女は犬山さんとは裏腹に、感情が随分表に出るタイプだ。彼女を見ていると、感情を表に出すことが必ずしも良いこととは限らないんだな、と実感する。


「恋煩い?」


 誰に恋をしてるのかしら、といった感じに首を傾げる犬山さん。僕を一瞥して、それから森川先輩に目で尋ねた。


「さあ? 誰に恋してるんかねえー」


 確信的なごまかし。

 どうやら、森川先輩は……僕が犬山さんのことが好きなのだと知っているようだ。案外、侮れない観察眼を有している。


「立ち話もなんだしさ、部室に行こうよ」


 森川先輩は僕と犬山さんの手を取って、ぐいぐい引っ張りながら歩き出した。

 犬山さんは引きずられながら、僕のことをじっと見てきた。その瞳からは、感情の色合いをはかれない。


「なに? 僕の顔になんかついてるかな?」

「いえ……その……」


 犬山さんは彼女にしては珍しく、もじもじした恥ずかしそうな顔をした。尻尾を見ると、狂乱的にジタバタと揺れている。

 一体、どういう感情なんだ……? 僕にはわからない。

 犬山さんが何か言うのを待っていたのだけれど、結局何も言わずに黙っていた。


 気がつくと、我らが文芸部の部室に到着していた。

 文化系の部活にはそれぞれ部室が与えられている。部屋のサイズは部活の規模(人数)や実績によって変動することもある。

 文芸部に所属しているのは一〇人くらいだったと思うけれど、その大半は幽霊部員だ。もしかしたら、中には本物の幽霊も混じっているのかもしれない。


 部室に入る。

 もちろん、誰もいない。


「多分、今日はあたしたちだけだから」


 文芸部には本がたくさん置いてある。それらを読んでもいいし、家から持ってきた本を読んでもいいし、本についてディスカッションしてもいいし、本とはまったく関係のないことをしても構わない。

 文芸部は強豪の運動部とは違って、かなり緩い部活なのだ。この緩さを、僕は案外気に入っていたりする。


 森川先輩は昨日見たドラマの話を僕にした。ドラマの原作が小説や漫画というわけではなく、つまり文芸部要素のない世間話である。

 そもそも、森川先輩は読書好きってわけではない。どうして、彼女が文芸部に所属していて、あまつさえ、部長を務めているのか……? 実に不思議だ。


「それでさ、ヒロインが車に撥ねられて、面白いくらいにとんでいってさあ……」


 森川先輩は、犬山さんよりも僕と話すことのほうが多い。それは、僕のほうが好きだから――というわけではなくて、犬山さんがクールだからだ。リアクションが薄くて淡々としている。聞き手としてすばらしいとはお世辞にも言えない。


 僕が森川先輩の話を一方的に聞かせられている間、犬山さんはいつものように読書をしていた。読んでいるのはSF――フィリップ・K・ディック。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』くらいしか、僕は読んだことがない。


 しかし、今日の犬山さんはいつもとは違う。読書に集中しきれずに、ちらちらと僕のほうを見てくる。で、僕と目が合うと、すぐに本へと視線を移動させる。

 どうしたんだろう? 気分でも悪いのかな?


「犬山さん、どうかしたの?」

「……いえ。なんでもないわ」


 しかし、その言葉とは裏腹に、不自然な様相からは何かありそうに見える。

 まあ、本人が『なんでもない』って言っているのだから、これ以上しつこく尋ねるのはよしておこう。


 部室に来て三〇分ほどして。

 森川先輩のスマートフォンがぶるぶる震えた。


「……ん。あ、忘れてたわ」


 独り言を言うと、鞄を持って立ち上がる。


「ごめん。あたし、ちょっと用事があるから。先に帰るね」


 一方的に告げると、僕たちの返事を聞かずに、ばびゅんと部室から走り去って行った。なんだか嵐のような人だな。


 文芸部の部室という閉鎖的な空間に、僕と犬山さんの二人だけになった。緊張からか、思わず唾をごくりと飲み込む。

 犬山さんは本を閉じて、僕のことを見た。


「鳴海くん、先ほどの話なんだけど……」

「先ほどの話?」


 先ほど、先ほど……僕は犬山さんとどのような話をしていたんだっけ?


「ああ……僕が読んだミステリー小説の話?」

「いえ、それじゃなくて……」


 犬山さんは言い淀む。俯き加減に机の木目を見ながら、


「恋煩いの話」


 と、そっと言った。


「恋煩い?」


 ああ……そういえば、先ほど森川先輩が僕をからかうため(?)に、そんなことを言っていたな。恋というのはまるで病のように、肉体を――精神を蝕んでいくんだよな、なんて気取ったことを考えた。


「鳴海くんの好きな人って、誰なの?」


 じとーっと粘着質な視線を、犬山さんは僕に送ってくる。

 こんな質問をストレートに投げかけてくるということは、犬山さんはよほど僕の好きな人が誰なのか気になってるんだな。

 僕は何と答えたものか、大いに悩んだ。


「あー、えー……」

「森川先輩は知っているのよね。ということは、私が知っている人という可能性が高い……」


 犬山さんは立ち上がって、部室内をゆっくりと歩いた。その様子は、本格ミステリー小説に出てくる名探偵のようだった。尻尾も一定のリズムで動いている。そのうち、華麗な推理を披露してくれるかもしれない。


「その、森川先輩じゃないよね?」

「まさか」


 僕は真顔で首を振った。

 森川先輩は美人だとは思うけれど、恋愛対象に入るタイプではない。彼女が誰かから告白されたなんて話、僕は聞いたことがない。


「じゃあ……」

「……」

「……」

「……」


 沈黙が気まずい。

 犬山さんは彼女にしては珍しく、なんとしてでも僕の好きな人を聞き出そうとしている。


 僕はどうしようか悩んだ。それはつまり、今この状況で犬山さんに告白するか否か、という話である。

 このまま、いつまでも秘めたる思いを明かさずにいたら、気がついたときには高校卒業だ。いつかは告白しなければならない。それなら、できるだけはやく――今、告白するべきなんだ。


 僕は立ち上がって、犬山さんに向き直った。夕日がカーテンを突き破って、僕たちを黄昏色に照らす。


「あのさ、犬山さん」

「うん」

「犬山さんの恋愛対象に、人間は含まれる?」


 僕の質問に、犬山さんはきょとんとした後、


「もちろん、含まれるわ」


 それを聞いて安心した。

 僕は清水の舞台から飛び降りるような、そんな気持ちで、犬山さんに告白する。


「僕の好きな人は犬山さんだよ。だから、その……恋煩いを治すためにも、僕と付き合ってくれると嬉しいな」


 何言ってるんだ、僕。

 もっとかっこいい告白の仕方はいくらでもあっただろうに、頭の中が真っ白になって何も思いつかなかった。ダサい告白だった。


 犬山さんの返事を、早く聞きたい。

『イエス』でも『ノー』でも……早く、早く!

 しかし、犬山さんは動かない。口も開かない。石像になってしまったように固まって、微動だにしない。


「あの、犬山さん……?」


 微動だにしない――いや、彼女の尻尾を見てみると、今までに見たことがないくらいに激しく動いていた。何らかの感情の発露が尻尾に集約されている。顔は無表情というか、気を失っているんじゃないかというくらいに、呆然としている。


「鳴海くん……の、好きな人は私……?」

「うん」

「……そう」


 犬山さんは頷くと、再び黙った。


「あの、僕の告白に対する返答を聞きたいな」


 僕が催促すると、犬山さんは――。


「うわっ!?」


 ――がばっと飛びついてきた。


 驚きのあまり、思わず甲高い声で叫んでしまった。

 犬山さんは僕にぎゅっと抱きつきながら、相変わらずクールな顔を僕の胸にうずめた。彼女が犬の亜人ではなくて、犬のように見えた。


「私も、鳴海くんのことが……好き。嬉しい」


 僕たちはしばらくそのままの体勢でいた。つまり、二人きりの部室で抱き合っていたわけだ。このまま、流れでキスまで行きそうだったけれど――。


「あ」


 部室のドアが少しだけ開いていて、その隙間から大きな瞳がこちらを凝視しているのが見えた。一瞬、妖怪か何かだと錯覚したけれど、よく見ると森川先輩だった。


「森川先輩」


 僕が言った瞬間、犬山さんは俊敏な動作で離れた。

 ――と同時に、ドアががらがらと開いて、先に帰ったはずの森川先輩が入ってきた。


「うふふ。いいものを見せてもらっちゃった」

「森川先輩、先に帰ったんじゃ……」

「いやあ、用事がキャンセルになったんだよ。で、戻ってきたら後輩二人がいい感じになっているじゃないかってね」

「で、ずっと覗き見してたんですか……?」

「森川は見た」


 森川先輩は犬山さんの頭を、犬を撫でるみたいに撫でる。

 彼女は犬山さんが僕を好きだということも知っていたように見える。とすると、この人は僕たちが両想いだと知っていて、一人にやにやしていたのか……。知ってたんなら教えてくれよ、と僕は思った。


「いいもの見れたし、今度こそ帰ろうかな」


 森川先輩はニヤついた顔で言った。


「今日は誰も来ないことだし、存分にいちゃついてくれても構わないよ? なに、ドアとカーテンをしっかり閉めておけば、バレやしないよ」

「いちゃつきません!」


 恥ずかしさを紛らわせるために、語気が強くなってしまった。余計に恥ずかしくなる。

 森川先輩としては半分冗談半分本気くらいだったのだろう。くすくす笑うと、手をひらひら振りながら、今度こそ完全完璧に去っていった。

 どっと疲れて、僕はため息をついた。


「鳴海くん、大丈夫? 気分、悪い?」

「いや、むしろ、最高の気分だよ。犬山さんは?」

「私も、最高の気分」


 ほとんど無表情で犬山さんは言ったが、尻尾は口ほどに物を言う。


「あー……どうする? 帰る? それとも、もう少しここにいる?」

「もう少し、鳴海くんとお話ししたいわ」


 というわけで、僕たちはいつものように共通の趣味である小説の話をした。関係性がクラスメイトから恋人に変わったところで、会話の内容が劇的に変化するわけではないのだ。

 でも、会話がいつもより盛り上がったように感じた。


 夕方六時過ぎ。

 僕たちは部室から出た。鍵をかけ、職員室に返しに行く。それから、校舎を出て大通りを二人で歩く。どちらともなく手を繋いだ。犬山さんの手はすごく温かかった。

 最寄りの駅までの距離を、いつもよりゆっくりと歩いた。できるだけ長い時間、犬山さんと手を繋いでいたい、一緒にいたい、と思ったから。


 駅に着くと、僕たちは別れた。乗る電車の路線が異なるからだ。

 別れ際に、つないだ手を離し、それから僕は言った。


「犬山さん、また明日」

「ええ。また明日」


 犬山さんは微笑んだ。彼女の笑みを見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。


 犬山さんが尻尾を揺らしながら階段を下りていく様子をぼけーっと眺めた後、僕も階段を下りてホームに向かった。

 やってきた電車に乗ると、外の景色を眺めながら思案する。


 もしも、この世界と異世界を繋げるゲートができなかったら、僕と犬山さんが出会うこともなかったんだな。ゲートを作った誰かに、僕は心の底から深く感謝をした。

 先ほどまで繋いでいた手を閉じたり開いたりしながら、明日以降のことを考える。『また明日』って言ったけれど、明日まで待てない。夜に電話をかけよう。


 僕と犬山さんの恋人関係がいつまで続くのかはわからない。ずっと続いて結婚するのかもしれないし、案外すぐに別れることになるのかもしれない。その可能性だって決してあり得なくはない。


 でも今は、犬山さんと紡ぐ桃色の日々に思いをはせながら、幸せな気分に浸ろうじゃないか。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

犬の亜人の犬山さん 青水 @Aomizu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ