ひとり旅

あべせい

ひとり旅



 列車の旅は、暗くなる。気持ちが、だ。

 オレはこれという、確とした行く当てもなく、列車に乗ってしまった。東京に妻と4才の娘を置き去りにして。とんでもない野郎だ。

 しかし、これもひとり旅。男のひとり旅だ。一度、してみたかったが、こんな形で実現するとは……。

 職場には、病気でしばらく休みたい、と電話で一方的に告げた。すると、総務の「お局」と呼ばれている年配女性が、

「待ってください。とりあえず、今日だけは出てきていただけませんかッ。人手が足りません。急には手配できませんッ!」

 と、金切り声をあげ、強く出勤を促した。

 その電話の相手が総務のお局ではなく、桧柿久未(ひがきくみ)だったら、オレの対応も少しは変わったかも知れない。もっとも、久未は部署が異なるから、外部からの電話に出ることはないのだが……。

 もォ、オレの気持ちは萎えていて、何をする気力もなかった。

「すいません。ご迷惑をおかけします」

 オレは、こンなにどうしようもない男だったのだろうか。追い詰められるまでは、自分でも、わからなかった。

 列車は各駅停車する。いわゆる鈍行だ。

 車窓から見える景色は、初冬のみちのく。刈り取られたあとの田と、背丈の2倍以上はある大きなビニールハウスが続く。

 財布には、約1月分の給与がある。妻には、「少し旅に出る」という走り書きのメモと、預金通帳を残してきたから、1年は生活できるだろう。

 妻は気丈だから、ダメ夫のこういう事態を予測していたかも知れない。あいつなら、乗りきる。いや、乗り切れる。

「勝手なこと、言わないでヨ!」

 妻はそう非難するかも知れないが、でも、あいつなら、この事態をバネにして、大きく飛躍するだろう。

 オレはいつもこうして、自分に都合のいい解釈をして、世の中を渡ってきた……。

 みちのく……知り合いはいない。遠い親戚がある、と亡くなった祖母から、昔一度聞いたことがある程度だ。

「すいません。こちらの席は空いていますか?」

「どうぞ」

 と言ってから、4人掛けのボックス席の、オレの右斜め向かい、通路側に腰掛けた人物を見た。

 30代半ばの女だ。小さなこどもの手を引いている。

 オレは列車の窓側に、進行方向に向いて腰掛けている。4人掛けのボックス席にひとりでいたのだから、いつかはだれか来るだろう、くらいのことは考えていた。

 いまのオレはだれにも邪魔されたくない。しかし、それがいやなら、徒歩で行くか、レンタカーでも借りればいいのだ。

 列車は、「青森」に向かっている。オレは、漠然と終着駅で降りよう、いや終着駅まで乗ろうと思っている。

 昨夜は、「盛岡」のビジネスホテルに泊まった。東京を脱出して、最初の宿だった。そして、今日は、盛岡で何をするという当てもなく、やはりもっと北に行こうと思い直し、各駅停車の列車に乗った。

「あのォ……、すいません」

「はい、何か?」

 オレは声のした方を見た。右斜め向かいの女だ。

 年格好は、オレと似ている。

 オレは女に対して、いまは好き嫌いの感情が持てないでいる。いや、どちらかといえば、嫌いじゃないといったほうが正確かも知れない。ひどい目に遭ってきた経験がそう言わせるのだ。

 だから、右斜め向かいに腰掛けた30代半ばの女にも、関心は行かなかった。まして、彼女は3才くらいの娘を連れている。その娘は、母の右脇にしっかりとくっつくようにして座っている。

 コブ付きというのは差別用語かも知れないが、ガキを連れた女に興味は湧かない。

 湧かないが、そのときオレはその女に、ふっと、高校時代の英語教師の面影を見てしまった。

 英語教師、名前は影川栄美(かげかわえみ)といった。

 28才、若く、美人で、独身だったせいか、噂が絶えなかった。

 オレたち生徒の間でも、「てめえ、影川先生に付け文したなッ」と囃し、こっそりラブレターを出すヤツが少なからずいた。

 オレは、出来なかった。したかったが、本当に恋焦がれていたから。それが同級生にバレるのが怖かった。でも、好きだという気持ちは伝えたい。それで、オレは……。

「あのォ……」

 また、斜め向かいの女だ。英語教師に似た女。

 高校を卒業したのは、20年も昔のことだから、影川先生が健在なら、斜め向かいの女より、いまはもっともっと年をクッているはずだ。

「何か?……」

 オレは、影川先生を思い出させてくれた女に、初めて関心を寄せた。

「すみません。この荷物、上の網棚にあげていただけないでしょうか」

 見ると、彼女の足下に、手提げの大きなバッグがある。彼女は娘の手を引いて、ここまでバッグを持って歩いてきたのだ。タイヘンだったに違いない。

「気がつかなくて……」

 オレは即座に立ち上がり、そのバッグを網棚に載せた。

「ありがとうございます」

 女はそう言って、小さく頭を下げた。その際、微笑んだ。オレにはそんな気がした。

「いいえ」

 オレはそんなに親切な男なンかではない。初めての人間に、よく見られたくてやったに過ぎない。本当のオレは、もっともっと、意地の悪い、どうしようもない男だ。

 職場の若い女と浮気して、妊娠までさせてしまった。結婚を迫られ、逃げて来た。そういう男だ。

 そういえば、あの女、在庫管理の桧柿久未も、影川先生に似ている。

 そうなのだ。妻の智里(ちさと)も、影川先生似だ。オレは、影川先生から、離れることが出来ないでいるのか。いや、元々、影川先生のような顔立ちの女を好む人間、というだけかも知れない。

 影川先生、いや、これからは栄美先生と言おう。そのほうが、オレの気持ちのなかではしっくりくる。

 高校3年生になった春のある日、オレはオレのクラスの英語担当から外れた栄美先生に会いたくて、放課後、校門近くで待ち伏せした。

 先生の私生活を、たまらなく覗きたくなったのだ。そして、自分の気持ちを伝えるチャンスが見つかるかも知れないという淡い期待を抱いて。

 授業は午後3時20分に終わる。栄美先生は、その日の授業の整理と翌日の準備などをして、4時前後には帰宅するはずだ。

 学校には表門と裏門がある。しかし、最寄駅に行くには、裏門のほうがわずかに近い。オレは通学に自転車を使っていたが、栄美先生は電車通勤だった。

 午後4時35分。栄美先生が紺のスーツ姿で裏門に現れた。授業では、ブラウスの上にいつも、濃紺のジャケットを羽織っている。

 紺色が好きなのだ。オレも服を選ぶ時はこれから紺色にしようと思った矢先、栄美先生の後ろから駆け寄ってきた人物がいた。

 数学教師の立原だ。独身、32才と聞いていた。あまいマスクと長身で、当時、女子生徒の間では、絶対的な人気を得ていた。

「お待たせッ。行こうか」

「エエ……」

 2人は仲良く肩を並べた。

 その時刻には、裏門から下校する生徒の姿もない。2人はそれを承知で、並んで歩いているのか。すると、まもなく手をつなぐかも……。

 オレは、急にメラメラと嫉妬心が湧き起こるのを感じた。

 裏門から駅に通じる幅4メートルほどの道路沿いにある電柱の陰で、オレは人目を気にしながら、1時間近く待っていたのだ。侘しく、淋しく、ダッ。

 当時、オレは離婚した両親に捨てられたような形で、2才年下の妹と一緒に、父方の祖母の家にいた。父も母も、離婚後2年もたたないうちに再婚して、オレと妹には見向きもしなくなった。

 元々は、祖母の家で、両親と妹の5人で暮らしていたが、両親の離婚で、まず母が出て行き、その後、父も女をつくり、祖母の元を去った。オレと妹は、置いてきぼりを食ったのだ。

 幸い、祖母は元気で、父からの仕送りと、自分の畑で作った野菜の行商で、生計を立てていた。だから、オレは祖母に頭があがらなかった。しかし、妹は高校に入学したもののすぐに中退して、水商売の世界に飛び込んだ。

 いまは、浅草で、小料理屋をやっている。5、6人程度しか入れない小さな店。一度覗いたことがあるが、余り流行っていないようすだった。

 妹はオレに似て、表情が暗い。そういう暗さを好む男性客しか、呼べないのだろう。

 オレは赤ん坊のとき、祖母に可愛がられた覚えがある。母といるより、祖母といる時間のほうが長かったのだろう。しかし、両親が不仲になり、家庭不和が始まった小学高学年の頃から、祖母と母の確執はいよいよひどくなり、オレと妹を悩ませた。

 妹が高校を中退して家を飛び出たのは、気の強い祖母とぶつかることが多かったからだ。

 そうかッ、いまようやく気がついた。栄美先生は、祖母の顔に似ている。眼がそっくりといえるほど、似ている。オレは、どんぐりを二つ横にして並べたような、祖母の眼に似た女性を追い求めているだけかも知れない。そうだッ。そうなのだ。そうだったのか。

 あの日。栄美先生は、数学教師の立原と駅まで肩を並べて歩き、帰宅する駅を乗り越し、都心のターミナル駅まで行った。オレが後を尾けていることも知らずに。

 2人は、駅前のデパートに入り、7階のレストランで食事をした。オレは、その間、地下でパンを買い、空腹を満たした。

 栄美先生と立原は、食事をしながらワインを飲んでいた。そして、レストランで2時間近く過ごした後、2人が向かったのは、オレたち男子生徒が冗談で言い合っていた、オレたちガキには入れない、禁断の場所だった。

 オレには衝撃だった。そんなところに、栄美先生が職場の同僚と行くことが信じられなかった。信じたくなかった。しかし、事実だから、しようがない。

 悪いことではない。2人は、未婚なのだから、好きにすればいい。しかし、生徒に見られてはマズいだろう。

 オレは2人が出てくるのを、外で根気よく待とうと考えた。理由は覚えていない。

 ところが、2人が中に消えて10分もしないうちに、栄美先生だけが逃げるように走り出て来た。

 栄美先生は再び、降りたターミナル駅に向かった。

 オレは全速力で、回り道して栄美先生の前方に出ると、素知らぬふりをして栄美先生の方に歩み、栄美先生の目の前で立ち止まった。

 そこは、その種の一郭からは外れた、駅近くの繁華街だった。飲食店が軒を連ねている。だれが歩いていても、不思議ではない。

「アッ、先生ッ」

 すると、栄美先生は、いきなり現れた学生服姿のオレを見て、不機嫌な顔をした。

「どうしたの。こんなところで……」

「父と会う約束があって、お店を探しているンですが、なかなか見つからなくて……」

 よくこんなウソがすぐに口から出たものだが、オレは、両親に裏切られたのがきっかけで、ウソをつくことに慣れっこになっていた。

「そォ、じゃ……」

 栄美先生はオレの家庭の事情を知っているのだろうか。知っているのなら、父親と別居している生徒について、もっと慰めになることばを遣うべきではないのか。

 しかし、栄美先生は、それだけ言うと、オレをやり過ごそうとした。

「先生ッ!」

 栄美先生は立ち止まり、振り返った。

「なに?」

 怪訝な表情をする。通行人はいたが、だれもオレたちに関心を示していない。

 オレは栄美先生に近寄った。その距離30センチ。栄美先生は、不安そうな、妙な笑みを浮かべた。

「先生、好きですッ!」

 オレは、栄美先生の目を強く見つめて、叫ぶように言った。

 すると、

「バカッ!」

 栄美先生はそう言うなり、オレの頬を平手で力いっぱい引っぱたくと、そのまま立ち去った。

 その瞬間、オレの淡い片想いは終わった。

 後でわかったことだが、数学の立原は教育委員長の娘との縁談が進んでいて、あの夜は栄美先生に別れを告げるために誘ったそうだ。

 最後の夜にするつもりだったのだろうが、そんな勝手は許されない。オレだって怒る。栄美先生の怒りの矛先が、生徒のオレに向いたのだろう。しかし、そのときはわからなかった。

 オレは、栄美先生がそういう禁断の場所から早々に退散してきたことで、先生は立原に騙されたのだと勝手に思いこみ、先生に対する清純な印象は変わることはなかった。

 しかし、栄美先生は、その3ヵ月後、学校をやめて、どこかに行ってしまった。


「アッ、サワさんじゃねえの」

 通路を、大きなバッグを肩から下げた年配の女性が、栄美先生似の女性に話しかけるなり、オレの隣の空席にどっかと腰を下ろした。

「麻由未さん、お元気ですか?」

 斜め向かいの、「サワ」と呼ばれた女が応じる。2人は知り合いのようだ。

「八戸さ行って来たよ。その帰りさ。サワさんは、明日からタイヘンだべな。ご主人は気の毒なことしたな。けンど、まだ若いンだから、いいこともあるべ」

「麻由未さん、そうでしょうか」

 サワは、淋しそうな笑みを浮かべて応える。

「うんだべ。あんたは東京から津軽さ嫁いで来たから知らねえども、青森にもいい男はいっぱいいるべさ。そのうち、誘惑されっから、気ィつけなよ。ハ、ハ、ハハハ……」

「そんな……」

「ほんで、民宿はやっていけるのか? 長く休ンでいたから、再開もタイヘンだが、だれか手伝ってくれるもんがいたら、いいンだけども……」

「亡くなった夫が始めたものですし、ほかにできることはありません。ですから、なんとか、やってみます。それに、毎年来ていただくご遠方の方から、すでにご予約もいただいていますから。明日からは営業したいと、と思っています。半年ぶりになりますが……。仙台におられる亡夫のお兄さんに、これからのことも含めてご相談にうかがい、きょうはその帰りなンです。盛岡で少し食材も仕入れてきました」

「そういうことなら、うちの野菜、また明日から届けさせてもらうわ」

「お願いします」

「でも、ミッちゃんが不憫だな。ミッちゃん、元気しとるか?」

「ウン」

 ミッちゃんと呼ばれた娘は、麻由未をまぶしそうに見ながら、頷いた。

「こっちの人は?……」

 麻由未は、オレのほうをアゴでしゃくって言う。

 サワは首を横に振り、

「乗りあわせたお方です」

「それはすンません」

 麻由未はそれなりの礼儀は心得ているようで、オレにペコリと頭を下げた。

「失礼だが、どちらまで?」

「青森で降ります」

「うちらと一緒。津軽の人間じゃねえな」

「東京から来ました」

「今夜の宿は決まってるのか?」

 と言いながら、麻由未はオレの服装を上から下まで、見た。

 綿のズボンに、ブレザーを着て、靴はスニーカーだ。トレンチコートと大きめのショルダーバッグは網棚にあげてある。どう見ても、観光客には見えない。

「会社が倒産したので、しばらく休養しようと出てきました。まだ、宿は決めていません。でも、駅前にはいろいろホテルがあると聞いていますから、なんとか、なるでしょう」

「そうか。そンなら、サワさんの民宿に泊まればええ。ここの民宿は出来てまだ3年、新しいで。ご主人がいろいろ工夫さしてこさえたから使い勝手のええ宿になってるだ。安くしておくが。これは、わたしの言うことじゃねえな。ハッハ、ハ、ハハ……」

 釣られて、サワもオレも笑顔になった。

「どうするべ。泊まるが? ホテルを予約しとンなら、仕方ねえが……」

「じゃ、お言葉に甘えさせていただきます」

「それがええ。サワさん、ええじゃろう」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 オレは思いがけない急展開に、先行きの不安が吹き飛んでいた。

 やがて、車内アナウンスが、まもなく「青森」に到着することを知らせた。

 オレは席を起ち、網棚から、まずサワのバッグを下ろした。そして、自分のコートとバッグを。

「ありがとうございます」

 民宿はどこにあるのだろうか。

「しばらく、お持ちします」

 オレがサワのバッグを持ち、先に立つと、後ろから、

「親切なお客だな。気ィつけなよ。サワさん……」

 というささやきが聞こえる。

「いいえ、ありがたく思っています」

 サワは警戒していない。

 オレは、自分のものとサワのバッグを手に提げ、サワ、娘、麻由未の3人の前を歩いた。

「青森」は知らない。どこにどう行けばいいのか、全く見当がつかない。

 オレたちが改札を出たところで、オレは立ち止まって振り返った。

 サワは、笑みを浮かべている。オレの前で初めて見せた、ゆったりとした笑顔だ。

「失礼ですが、これからどう行かれるのですか?」

「東京の人は青森を知らねえか。駅前から車を持ってくるから、ここさ待っとけばええ」

 麻由未は、バッグをその場に置いて駆け出した。


 サワの民宿は、7部屋あり、今夜は勿論オレ以外に宿泊客はいない。夕食をつくる時間がないため、駅ビルで買った弁当を並べて、サワの居間でテーブルを囲んで一緒に食べた。

 サワは気を利かせたのか、ビールと焼酎を出した。オレは遠慮せずに飲んだ。いつもの悪い癖が出ることを忘れて、したたか飲んでしまった。

 サワの娘は美弥(みや)と言い、依然表情は暗い。

 麻由未は、サワの民宿から100メートルほど離れた農家の嫁で、八戸にいる母の病気見舞いに行った帰りだったそうだ。夫と高校生の息子と娘もいるが、彼女も今夜はサワの民宿に泊まることが、2人の間で決まっていた。

 当然だろう。オレのような馬の骨だ。用心するのは当たり前だ。オレは少しも不快な気分にはならなかった。それよりも、急激に酔いが回り、その場に横になりたくなった。

 オレは2階にある、もっとも広くて日当たりのいい和室をあてがわれた。

 オレは床に就くと、心からの安らぎを覚えた。これが幸先のいいスタートというのだろうか。

 しかし、20数万の現金しかない。クレジットカードがあるから、借金すればいいが、それは恐らく返すことのできなくなる金だ。女房のほうに請求書が送られていく。

 明日はどうする? 青森の先は、津軽海峡を越えれば、北海道だ。青森もそうだが、北海道にも知人はいない。昔、仕事で札幌に行ったくらいだ。横になりながら、夢うつつにそんなことを考えていると、いつの間にか、眠りに落ちた。


「おはようございます」

 元気な声がした。同時に、

「失礼します」

 カーテンを引く音がして、朝の明るい日差しが部屋いっぱいに入って来た。

 オレは眠い眼を開け、外に面した窓を背にした女性を見た。

 ピンクのエプロンを締め、アイボリーのスカートにオレンジ色のセーターを着ている。明るい元気な顔色だ。昨日とは別人のような印象を受ける。

 この民宿は八甲田山の麓にあり、すでに30センチほどの積雪がある。しかし、部屋の中は暖かい。

「阿井(あい)さん、朝ご飯ができてします。下の食堂までご足労願います」

「は、はい」

 昨夜、夕食のとき、互いに名乗りあっていた。オレは、阿井高次(あいこうじ)、民宿の女将は、角田(すみだ)サワといった。お節介の麻由未は、藤川麻由未だった。

 サワが出て行くと、オレは急いで民宿の浴衣を脱ぎ捨て、着替えた。

 朝食は、魚の干物に小魚の佃煮、海苔、生卵、味噌汁とありきたりのものだったが、オレにはどれもおいしかった。久しぶりの手料理だったせいか。それとも、サワという女性の手作りに、感激したのか。

「阿井さん、きょうはどうされます」

「別に、予定はありません」

「それでしたら、部屋のお掃除を手伝っていただけませんか。それと、薪割り。力仕事になるので、どうしようかと思っていたのです」

 サワにそう言われると、断れない。

「昨日の麻由未さんは?」

「彼女、昨夜は遅くなってからご自宅に戻られたンですが、今朝も、すぐ手伝いに来る、って」

 そういうことか。麻由未は、オレを警戒して泊まるようなことを言っただけか。すると、オレはそれなりに、認められたのかも知れない。

 お昼までは、アッと言う間に過ぎた。午後は民宿の前に広がる百坪ほどの小さな畑を耕した。雑草が生い茂っていたのを、鎌と鍬を使い、畑らしく仕上げた。

 オレはこういう作業が向いているのだろうか。東京で妻といるときには、気がつかなかっただけなのか。

 午後4時過ぎになって、昨日の麻由未がやって来た。

「阿井さん、ちょうどよかった。あンたに仕事を頼みたいというひとがおって。あンた、昨夜、メシを食っているとき、北海道さ行って、漁師になる、って言っとっただろう。だったら、北海道まで行かんでも、この津軽で漁師ばしたらええ」

 待てッ。オレは昨夜、何を言ったのか。出された焼酎を拒否せず、飲みつづけ、へべれけになった。

 そして、今朝、目を覚ますまで、正体がなかった。オレは、酒にだらしない。弱いというのではない。酒を飲むと、どうでもよくなるのだ。面倒なことを避け、自分に都合のいいことばかりを話す。何をしゃべったのか。実際、よく覚えていない。

 これまでの経験からすると、きっと思い付きで話したのだろう。しかし、それにしても、「漁師」はいただけない。オレは船に弱いのだから。

「あの話はナシにしてください。ちょっと調子に乗りすぎました」

「そうか。漁師は合わないか。残念だな」

「阿井さん。それでしたら、この民宿を手伝っていただけませんか。少しの間だけでいいンです。軌道に乗るまで、亡くなった主人がやっていた当時の状態にしたいンです」

 サワは饒舌になった。親しい麻由未がそばにいることで、話しやすいのかも知れない。

「でも、私にできますか?」

「勿論です」

 サワが応えると、それにおっ被せるように、

「男手がないと、民宿ってのは、たいへんなンだ。あんた、客商売の経験はねえのか?」

「東京では、バイクをつくる工場にいましたから……」

 ウソだ。職場は衣料品の卸し会社だった。月に1、2回仕入れに来る小売り業者たちの相手をするだけの、のんびりした仕事だった。だから、だからは卑怯だが、在庫管理の久未に仕事中、倉庫の陰で手を出してしまった。

 あんなことをしなければ、妻と娘を捨てることもなかった。

 愛人を殺傷する事件は珍しくない。しかし、オレはそこまでの考えはなかった。オレが消えれば済むことだと思った。

 このままここにいれば、また同じことをやらかすだろう。こンなオレは……。

「サワさん、麻由未さん、すいません。隠していて……」

「エッ!?」

 サワがびっくりしたようにオレを見る。オレは女にモテる男じゃない。いまの女房と結婚したのも、初めての夜に妊娠させたのが元だ。

 女房も不本意だったに違いない。たいして好きでもない男とホテルに行って。後悔しただろう。

「札幌に里帰りしている妻を迎えに行く途中なンです」

 サワと麻由未は互いに顔を見合わせた。

「わたしたち、何か失礼なことをしたようですね」

「いいえ。私がいけないンです。私は一つ所に落ちつけない男です。ここにいると、必ずよくない結果を招きます。いままでもそうでした。サワさん、私はいまから、こちらを出て行きます。本当にありがとうございます。ずいぶんといい思いをさせていただきました。今度、青森に来ることがありましたら、そのときはゆっくりとお話をさせてください。失礼します」

 オレはバッグに慌しく衣類を詰め込み、逃げるようにして、サワの民宿を出た。駅まで歩くと1時間はかかるだろう。しかし、幸い、タクシーが通りかかり、捕まえることが出来た。

 昨晩、何もなかったことが、せめてもの慰めだった。サワはふつうの女だ。むしろ、少し年上の麻由未のほうが美形といえる。オレは、自分より若いというだけの理由で、女を選んだ。いや、そうじゃない。亡くなった祖母に似ているという理由だけで、栄美先生を好きになり、妻を選び、そして浮気相手を決めた。

 そして、いままた、それだけの理由で、民宿の女将に近付いた。こんなことが許されるわけがない。

 明日は東京に戻ろう。

 そして、妻に詫びよう。ちょっと、頭がおかしくなった、と。でも、もう平気だ、と。

 妻は怒るだろうが、それに耐え、新しく仕事を探そう。もう、あの職場には戻らない。いや、戻れない。再スタートだ。

 これがオレのひとり旅だった。妊娠させた桧柿久未をどうするかが、最も差し迫った問題だが、ひとり旅も続けられないオレに、解決する力はないだろう。情けない話だが。


 半年後。

 ターミナル駅で久未とばったり出会った。

 妊娠は彼女の作り話だった。オレにひとり旅を決意させたことが、女の単なるウソと知り、オレはますます不甲斐ない気分に落ちた。

                (了)

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ひとり旅 あべせい @abesei

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