第5話
「あー、まるで地上の楽園でしたね」
「満喫してたな。これでもかってくらいさ。俺、途中置いてかれたよ」
犬カフェを出て直ぐに、虎見はうっとりとした表情を浮かべ先ほどの余韻に浸っていた。しかし、突然どことなく不安そうな表情で俺を見上げた。
「黒峰君は?……黒峰君は楽しかったですか?」
「あ、いや。言い方が悪かったかな。楽しかっよ、本当にさ」
「それなら良かったです。あ、そうです。先ほどジャーキー代を出して貰えたし、これから喫茶店でも行きませんか?私、奢っちゃいますから」
安心したのかは分からないが、俺に視線を向けたまま微笑んだ。だけど、ほんの少しだけその表情に違和感を覚えた。いや、お誘いのラインを貰った時から既にあったことにはあったけど、それが確信に変わった瞬間と云うべきなのかな。
「なあ虎見。どうして今日、俺を誘ってくれたんだ?」
「……だからお伝えしたじゃないですか?弟に断られて」
「それは嘘じゃないかもだけど、お前は友達も多いし、同性の子を誘うのが普通じゃないか?いやまあ。俺が、異性を誘えないチキンなだけかもしれないが」
少しだけ間をおいて、彼女はぽつりと呟くように声を発した。
「黒峰君の元気が無かったので。その」
「俺を元気つけようとしてくれたのか?」
コクリ。と、静かに首を縦に振る虎見。ただ、まだ何かを隠している様な態度が少々気になった。短い付き合いだけど彼女は勘が鋭い。もしかしたら、俺が東野にフラれたことに気が付いていたのかもしれない。
「もしかして。俺がその、女性関係で悩んでいることとか知ってた?」
「い、いえ!全然、分かりませんよ!東野さんの事とかは」
「それ、もう白状している様なものだからね?!分かってるよな、絶対」
隣の自称妹といい、俺ってそんなに分かり易いの?!
ムウーと唸った虎見は、思案気な表情を浮かべると言葉を選ぶようにして俺に問いかけた。
「ええっと、それで、黒峰君は東野さんの事を諦めるんですか?」
「俺は……」
二の句を継げずに立ちすくむ俺の顔を覗き込むと、虎見はくるりと背を向けてポツリと呟いた。
「汝、隣人を愛せよ、と云う言葉がありますよね。あれって、結局のところ自分の為にある言葉だと思うんです。自分を愛するように相手を愛しなさい。つまり、自分の事を好きになって初めて誰かを愛せるという事です」
「虎見、突然どうしたんだ?」
「お隣さんが暗い顔をしていたら気になるじゃないですか。折角の貴重な将棋仲間ですよ?つまらない表情ではなくて、楽しくお話しがしたいですよ」
ふわり、スカートを翻した彼女は満面の笑みを俺に向けてくれた。いつものどこか幼げな表情を残しつつも、夕日で染まった彼女の顔つきは、いつもと違って大人びていた。
「もしも、黒峰君が心の底から楽しく笑うために東野さんとのお付き合いが必要だというのなら、私は貴方を応援したいと考えています」
目が合った瞬間、急に恥ずかしくなって目を逸らすことしか出来ない。だって、彼女の持つ優しさが余りにも眩しくて、嬉しくて、これだけ優しい奴と同じ時間を共有できることは幸せ以外の何ものでもない。
「ありがとうな、虎見。俺もう一度頑張るよ。駄目かもしれないけど、東野にもう一度告白する。やっぱり、俺は東野が好きなんだ」
「はい!黒峰君なら、きっと大丈夫ですよ」
グッと、小ぶりなガッツポーズを披露した彼女は、またいつもの彼女に戻っていた。幼さが残るあどけない表情で、可愛くて、そして誰よりも優しい隣人に。
そして帰り道、吹っ切れた俺は最高の友人とのトークを存分に楽しんだ。虎見が気が付かせてくれた可能性。そうだよな、一度駄目だったら再びチャレンジしては駄目なんて誰が決めたんだ。憑き物が落ちたような、そんな晴れやかな気持ちでまた一歩と進んだ時、不意に強い風が吹いた。
「んっ」
という声を出した虎見は、片手で目のあたりを抑えると正面から吹き続ける風を避ける様に、俺の方を向いた。
「虎見!?大丈夫か、どうしたんだ?」
「あ、いえ。風のせいで睫毛が目に入ってしまって。ちょっと痛いですけど、大丈夫です」
「あんまり擦らない方が良いぞ。ちょっと見せてみろよ」
心配になった俺は、彼女の目を抑えている手を取ると瞳を覗き込んだ。
「はぅ」
変な声を出して、顔をそむける彼女。何故か頬が赤くなっている。
「そんなに痛いのか?待ってろよ。直ぐに見つけてやるからな」
何故か顔を逸らそうとする虎見の顎を片手で固定して、注意深く観察する。……あった。長い睫毛が縦方向に刺さるかのようにピンッとしている。
「動くなよ。直ぐに済むからな?」
「い、痛くしないで下さいね」
「ああ。任せてくれ」
しかし、慎重に手を伸ばしたつもりが指が僅かに彼女の鼻に触れてしまった。
「くぅ~ぅ」
またしてもおかしな声を出す虎見だが、その吐息がかかった瞬間こちらの方がおかしくなりそうだった。暖かな吐息が頬のあたりをなぞる様に吹き抜けた。確かな熱を帯びている彼女の柔らかそうな頬とか、小さな薄紅色の唇とか色んな所に意識を持っていかれそうになりつつも‥‥‥
「取れたぞ」
俺の人差し指には、睫毛が一本ついていた。それを、親指の腹で擦る様にすると風でどこかへと飛んで行った。
「あ、ありがとうございます」
2人して、ハアハアと呼吸を荒げながら僅かに距離を取る。このまま近くに居たら脳がショートしそうだった。虎見は、数秒間フリーズしたかのように固まった。その瞼にはうっすらとに涙が溜まっている。彼女はハンカチを取り出すと、自身の目を拭くようになぞった。
やべーよ、気まずいわコレ。
冷静になって考えたら、俺がさっきやったのって所謂、“顎クイ”じゃね?聞いたことあるぞ、好きな男子にやって欲しいランキングで毎年上位に名を連ねているって。じゃあ、好きじゃない男子にされたどうなるの?あの涙って、睫毛のせいだよね?俺は悪いことしていないよね。
というか、本当についさっきまで“俺は東野にもう一度告白する!”とか言っていた癖に、流されすぎじゃね?自己嫌悪とでもいうべきか。自分の意志の薄弱さとか、思春期の男子ならこんな展開になったら多少は流されるよね?みたいな言い訳の舌戦を脳内で繰り広げていた時だ。ふと、視界に見覚えのある綺麗な黒髪が入った。
「あっ」
まるで浮気を見つかった男の心境だ。背中とか、額とか至るところから嫌な汗が吹き出してきやがった。彼女はピタッと動きを止めると、俺たちを静かに見据えた。
「ひ、東野。どうしてここに‥‥‥」
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