第5話:少女

「はい……」

泥沼の中に石を落としたような声がドア越しにれた。

「新島です」

新島は出来るだけ穏やかさを装う。

「え…ッ…?」

突然発声をかしたらしく、結子が慌ててドア越しの新島に岩のような声を吐いた。

当然である。

一番あり得ない人が一番あり得ない所に見舞いに来たのだから。

先日のあの退部事件りの会話になる。

わだかまり有りまくりだし、第一、二人きりで何を話していいのか分からない。

それよりもいったい何のために自分を見舞いにきたのかさっぱり分からない予想不能なこの妙ちきりんな現象に結子は泡を食っていたのである。

「授業のプリントを持って来たんだよ。いいかい?」

「え……、はい……」

結子の声は許容と拒絶をはらんでいた。

いったいこれから何が始まるのか?。

面倒くさい人間関係を築きたくないというネガティブな気持ちと、

何かしら部活創設においての進展があるかもしれないという少しポジティブな気持ちが結子の頭の中を混沌として支配していた。

一方、新島の頭はというと、

軽音楽部創設の思いとは何だったのかという、

結子の真意を知りたいという強い一方通行で満たされていた。

新島は授業の課題を渡すという大義名分を持って、言葉どおりに従い結子の部屋に入室した。


あまりの地味さ加減……。


性格も存在も地味だが、やっぱりというか、部屋も負けず劣らず地味である。

いまどきの女子中学生の部屋とは思えないくらい殺風景な何も無い部屋だ。

あるのはピアノと本棚だけ。

テーブルは折り畳んで部屋の隅に無造作に置かれている。

カーテンや壁紙も無地で床も絨毯じゅうたんではなく畳。

新島は、「予想通り」以上の「予想通り」に何だかやるせない気持ちでいっぱいになった。

結子もこんなみすぼらしい部屋を見られて胸いっぱいの恥じらいを隠せなかった。

それに病気ではあるが、年頃の女の子である。

無防備なパジャマ姿を見られるというのも何だか気恥ずかしいものである。

しかし、お互い長く恥じらいの感慨にふけっているとお互い警戒されるので、二人はお互い話を進めなければならない。

この極端に虚飾のない部屋は、ちょっとした動作がその人物の心の機微となって表出されてしまうという緊張感をはらんでいるのだ。

それは二人にとってはまったく同じ条件。

ゆえに、はじめに切り出したのは新島の方である。

健康で年上で教師という立場と責任感が働いた。

「欠席中少し授業が進んだからね、家でもやれる課題を持ってきたんだよ、座ってもいいかい?」

「はい……」

結子は気をつかって起き上がろうとする。

見舞いの理由が事務的なものだったので少し安心した。

「ああ、いいよいいよ」

新島は結子を制して妙な間を空けないようにてらいなくドカリと着座した。

結子は明らかに恐縮する。

このあいだの大ゲンカ……。

恥ずかしい……。

そりゃそうだ。

だから新島はを置かずに明るく喋り続ける。

「どーお? 風邪だって?」

「うん……」

「そう、ごはんは?」

「今日、やっと普通のごはんが食べられるようになった」

結子は関西弁まじりの口調で恥ずかしそうに言う。

「あ、そうッ。うんうん」

新島が満面の笑みを作り、優しく嬉しそうに相槌あいづちを小刻みに打つ。

すると、結子は柔らかい表情を見せた。

沈黙が苦痛にならないことを二人は察知し、安心した。

初めてまじまじと結子の顔を眺める新島。

少女は照れくさそうに仰向あおむけに寝ている。

息を呑む。


へえ、こんな顔してたのか……。

何もかも真っ白くて小さい……。

ひまわりの種のような美しい鼻孔……。

博多人形みたいだなあ……。


幽霊部員だと腹を立てて気に掛けていながらも、

新島自身、結子の顔や存在すらも、あの退部事件があるまではほとんど忘れていたというか、はなから覚えていなかったのである。

ずいぶん失礼なことをしていたもんだなあ……と新島は重く身にみて反省する。

それは結子にとっても同じことである。

やはり新島を警戒して嫌悪していた自分を省みた。

最も人間的にも実利的にも信用していた師岡正人と安藤浩一に裏切られ、

もうこの世界に自分を助けてくれるものなど誰も居ないなどと強い厭世観えんせいかんに襲われていた今の結子にとってこの新島の見舞いは、

心の壁中にドロドロとへばりついた彼女自身の深いマイナスな気持ちを綺麗スッキリに洗い流してくれるような、

そんな救われる尊い出来事だったのである。

そして、何だかまた新たに再スタートが切れるかもしれないとわずかばかりではあるが、希望めいた安堵感が体中をじんわり優しくおおってなんとも言えず心地よかった。

二人はお互いを優しくいたわり合った……。

「アイスクリーム買ってきたんだけど、食べるかい?」

「え、ホンマ?」

言葉に覇気を取り戻した結子はゆっくりと起き上がった。

新島はまだカチカチの冷たいアイスを結子に渡した。

「まだ、凍ってるやん」

「ドライアイスを入れてもらったんだよ」

「へえ、頭ええなあ」

「僕も食べていいかい?」

「うん、一緒に食べて」

結子一人に食べさせては彼女自身に羞恥心が芽生めばえると察知した新島は、

場の空気がなごむように自分も同等の立場に降りてスプーンを取ることにした。

それに反応して結子のスプーンも軽やかに進んだ。

「初めて行った店だから、どうかな?」

「おいしい。ホンマにッ」

結子は笑顔でそう言った。

二人は初めて見つめ合った。

二人とも瞳が黒くしっとりと光って潤っていた。

「おかあさん?」

新島は、玄関で案内された無愛想な女について尋ねた。

「ごめんな。叔母ちゃん、愛想悪かったやろ。いつもああやねん」

「下宿してるのかぁ……」

「うん、実家は大阪やねん」

「淋しくない?」

「慣れた」

「クラスの子とは?」

「わからん。私、クラスの人とあまり付き合いたいとは思わん。大阪弁ツッコまれるのイヤやし」

「気まずくない? はんわけするときとか」

「ええねん、別に。あと一年もないから。引きこもってた方が自分には楽やわ」

「強気だなあ、それでいつもマンガ読んでんのか」

「マンガはホンマに好きやねん。マンガって色んなこと教えてくれるよ」

「でも、この部屋、あまりマンガないね」

「今はレンタル。とても単行本なんて買えへんよ。うち貧乏やもん」

「お小遣いは?」

「仕送り少ない。文房具買ったらあっという間やん。私、2年の修学旅行もホンマは危なかってん。旅費が出えへんからアカンなあ思てたら学校が立て替えてくれた。行かんでもよかったんやけど学校が行っとけ言うから」

「そのお金、どうなったの?」

「今、分割で返済してる。叔母さん、ラジオ売れ言うんやけど、これは売られへんわ。これ売ったら私、夜、ホンマに一人やもん。私、ラジオしかないから」

「今、欲しいものある?」

「携帯。深夜放送聴いてるとリスナーの意見募集するやん。あれに私も出したいねん。ホンマはファックスの方が絵が描けたりするからええんやけど回線引かなあかんから無理やわ」

「卒業してアルバイトできるようになったら持てるよ」

「卒業かあ……、ホンマに卒業するねんなあ……」

「中学生は基本留年はないね」

「そっか……」

突然結子は表情を曇らせた。

そして黙考する。

当然その理由は新島には判らない。

しかし、結子が何かをひそめていることは明らかだった。

極めて重い秘密でなければ新島はそれを判明させたいと思った。

その秘密の一端いったんでも掴めれば、わだかまりなく退部事件を謝罪できるのではないかと考えた。

新島は期待して話を進める。

「髪、切ったよね?」

「目立たんようにジワリジワリ切ったんやけど」

「似合う。でも何で?」

「……………………………………」

結子はまたさっきの思案にふけり始める。

新島は少し様子を見る。

沈黙が長引く。

すると当然二人の間にそれが意味を持ち始める。

息苦しいなあという段階に入ってようやく、結子がボソっと、しかし、しっかりと語り始めた。

「私、ホンマは文化祭なんかどうでもええねん。軽音楽部つくりたいなんてウソやねん」

どうやら本題に入った。

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