追跡──逃亡


 旅するアイドルのキャンピングカーは、背後から迫る警察車両から爆速で逃亡していた。ラムが信号無視や進入禁止の場所を進んでいる。それほどまでに警察に捕まりたくない、いや捕まるわけにはいかないのだろう。


 アイカは右足の止血作業に入っていた。道具を消毒し、弾丸を摘出のあと傷口を修復する。その作業は静かな場所で行っていたが、車体が左右に揺れているので痛みが襲ってきていた。アイカは運転席へ叫んだ。


「おい、もっと丁寧に走れっ」


「無理です。捕まりたいならご自由に」


「あんなことしなくても良かっただろ」


「〈P〉の命令なんですから仕方ないでしょう──しっかり捕まって」


 車両が大きく揺れた。サイドから嫌な金属と激しい激突音が聞こえてくる。

 何処を走っているんだ。アイカが正面のガラスをみると、ビルとビルの僅かな隙間を突き進んでいるようだ。ギリギリの幅をなんとか超えることに成功した。


「おい、人一人ぐらいは轢いちまったんじゃねえのか」


「なんとかそうはならないようには、しています!」


 流石に警察車両は侵入できなかったみたいで、いまごろ迂回していることだろう。


「アイツら何処で拾うんだ」


「それは〈P〉に聞いてみないとわかりません」


「いつもそればっかだなっ。……まずは街から離れたほうが良いかもな。向こうでアイツら救出して連絡よこすだろ、どうせっ」


 〈P〉の戦闘能力をアイカはよく知っている。初めての邂逅の際は、格闘技に精通している者や軍の兵隊よりも優れた動きを見せ付けた。二人を守ることくらい造作もないはずだ。そう思った矢先に、テーブルの上で振動音が聞こえた。アイカのスマホからだった。


「来たぞ……アタシだ」


『アイカくんか。無事で何よりだ。足を撃たれたそうだが、間一髪で助けが来てくれただろう』


「ド派手でたまげたがな。いまはそんなことはいい。そこに二人いんだろ? 何処で回収すりゃいいんだ?」


 すると合成音声が沈黙した。おい、とアイカが電話口に叫んだが、返ってきた言葉はこうだった。


『彼女たちは敵の手に落ちた。ミソラくんの機転で、分断されることはなくなったようだがね。車のほうが無事なら、これから位置情報を送った場所へ来て欲しい。では、私はここで失礼するよ』


 ぶつりと、音が途切れた。沸々と頭に血が上っていくのを感じる。普段は意図的に意識を分散することに努めているが、今回ばかりはそれができなかった。


 スマホをテーブルに叩き付けて、怒張をかます。それも一瞬のことで、しだいに呼吸の意思が整う。我ながら都合のいい考えをしている。

 ラムは渋々尋ねてきた。


「彼は……なんとおっしゃっていましたか」


「二人が捕まった。今から位置情報送るからそこへ迎えだと」


 〈P〉はステージの真下に待機しているはずだった。いざというときに三人を守る盾になると口にしていた。てっきり、地下通路で二人の護衛に当たっていたと考えていたが、敵の手に落ちてしまった。なんだそれは。


 〈P〉は凶弾に倒れたのか。いいや、電話の様子ではいつもと変わらず偉そうな口調で指示を送っていた。


 数分後に、位置情報が届いた。現在、街から離れた最寄りの高速道路を示しているようで、表示が常に動いている。


「来た。……これ、アイツらの居所っぽいな。このまま行くぞ」


「いいえ、この車両の状態では流石に目立ちます。せめて人が少ない迂回路を進まなくてなりません」


「んなこと言ってる場合かよっ」


 フロントミラーでラムの表情をながめた。常に冷静な口調だが、こちらのほうが冷静に物事を見ていると思い込みたかったからだ。彼女は少しだけ微笑んでいた。それが何だが気味が悪かったので尋ねてみた。


「何笑ってやがんだ」


「……少し意外でした。アイカさん、お二人のことを相当心配されているんだなって」


 理由が本当に気に入らない。そうではないと、否定を口にすることもできた。それを言うと、言い訳がましくなって腹たたしさが増えていくような気がした。ラムは柔らかい口調で続けて言った。


「ユキナさんの発作を初めて見たときから分かっていましたけどね」


 分厚い眼鏡の奥底が昔を懐かしむように細まる。ラムは運転手と雑用という認識で居たが、一行のことを一番近いところで眺めていた人物だ。ある程度の人間観察をしていたらしい。


「勝手に言ってろ。それより、もうちょいゆっくり運転してくれ。止血が遅れると、アタシが使い物にならねえからな」


「了解しました」

 そうしてボロボロのキャンピングカーはGPSの後を追っていく。






 高速道路を進んでいる事はわかる。ミソラとユキナは狭間の言葉に従うことしかできなかったが、一応の優位性を保てた。どんなときも、受け身になっては損を被るばかりだ。


「どこへいくつもり? まさか姉さんと兄さんに会わせてくれるのかしら?」


「さあね。彼らに何が起こったのかは、僕も推察することしかできないよ」


 狭間は助手席からそう言った。口調は穏やかだが、油断できない相手であるのは肌で感じる。ミソラの膝の上にはユキナが穏やに眠っている。だが膝に伝わってくる体温は尋常ではないくらいに熱い。今までにない体調変化だ。


「冷たいものくれないかしら。なるべく車内の温度も低めにして」


「わがままなお嬢様ですね」


 後部座席に直接風があたってくる。ユキナの体調が少しでも良くなるといい。

 北陸自動車道から、中央道へ入り大阪方面へ車は向かっているらしい。前方と後方には、まるでVIPの警護のように黒いセダンが並んでいた。ミソラは狭間にある話を振った。


「兄さんとは幼馴染って言ったわね。子供の頃の兄さんの話を聞きたいわ」


「シドの子供の頃か。そうだな、君の想像通りだと思うよ。幼い頃から、今はなき父上からの圧力に負けず、世のため人のためと小学生の頃から口にしていたよ」


 狭間レンの語る兄の像に、次第に話に引き込まれていった。


「僕と彼は小学生の頃からの仲でね。周りが馬鹿だと気づいたのはそう遅くなかった。唯一、彼だけが僕の好奇心を満たした男だったよ」


 しだいにつるむようになり、同じ中学に進学してからは親友と呼べる仲にまで発展していったとのこと。高校は別々だったが、大学のゼミの研究で再び交流が戻ったらしい。二人は互いの足りないところを補い、世をより良くしようと誓いあったと、彼が語った。


「若気の至りだったよ。本当に若かった。だがあの輝きがなければ、僕はいま生きていなかっただろうな。周りは遊びだらけていて、将来のツケが回ることをまるで認識してない。だがレンとレナさんは違った。二人はすでに、未来を見据えていた。取るに足らない人間の幸福を真剣に考え、その夢を決してブレることなく、グループのトップへと上り詰めた。決して届かない憧れは、僕にとって大きな影を作り出すには十分だった──」


 ミソラは、聞くに堪えない自分語りを無視して窓の外を眺めた。要約するなら、努力が報われなかったことを僻み、グループ子会社へ飛ばされたことを嘆いていた。しかし肝心の話はここからだった。


「灰色の人生が色づいたのは、皮肉にも世間が最も恐れたウィルス騒動が巻き起こったときさ。【20年禍】で感染拡大へのノウハウは根付いていたが、やはり根本的な解決はウィルスの排除だ。我々は米国、欧州との苛烈な競争に参加せざる追えなかった。最もやっていたことは、末端研究。ようは雑務みたいなものだ。日本にも感染の疑いのある人間が転がり込んだ。その一人が、原ユキナさんというわけだ」


 落ち着きがなくなっていくさまは、自己顕示欲の高まりが上がりきっている証拠だ。左遷された人間が、兄と対等に話ができるようになるまでの出世街道に、ユキナが深く関わっている。


「カルマウィルスに感染したものは、発症後に肺機能に異常がでる。咳が止まらなくなり、体内の免疫機能を壊してしまうのだ。そうなってしまうと、食事での生活はほぼ不可能。吐瀉物として吐き出されるのがオチ。感染者は例外なく、点滴の生活を余儀なくされた」


 その様相は連日ニュースになるほどだったらしい。日に日にやせ細っていき、苦しみながら死に至る。中学の保健体育の授業で、ウィルスについての知識や対策を嫌でも覚えさせられたことがあるのは、いまを生きている人間たちがその騒動を体験したことに起因するのだろう。


「患者の体を調べ上げるうちに、カルマウィルスを死滅させることのできる特効薬……の元となる化合物が、僕の研究所でいち早くできた。感染者にワクチンを投与しても、解決には至らないからね。後にワクチンは主に感染の広がった欧州で使用されることになった。日本の一企業からの輸出は、国際的に多大な評価をもたらし、その功績で、僕は再び本社へ返り咲くことできたのさ」


 ミソラは、そうですか、と呆れ返った。

 彼がどんな役職に居たのか容易に想像できたからだ。自分の手に余る仕事をして、見事に自滅したのだろう。しかし彼は偶然を見逃さなかった。


 肝心な話が飛び出ていない。まず原ユキナが現在、感染者であることはありえない。特効薬を投与したのならなおさらだ。すでにウィルスは死滅して、この世界にカルマウィルスは存在しないはずだ。すると狭間はこちらへ振り向き、ミソラとユキナを愉快げに眺めた。


「君は疑問に思っただろう。技術の日本はとっくの昔に廃れている。ワクチンではなく、特効薬という形で世に出した理由を、知っているかい? 君の兄の提案だよ」


「……そうなの?」


「ああ。最初は無論、感染してもワクチンで対抗できる方策を誰もが考えたさ。だが君の兄の慧眼は見事だ。当時二十代から、ビジネスの匂いに食らいつき、実行させるカリスマを誇っているのだからね」


「それで?」


「世界の危機の前に、彼は将来を見越したビジネスを優先させた。なにせ、感染の疑いがでた患者は五十名もいた。かつての【20年禍】を危惧した厚労省は、開発した特効薬の認可を手順を無視して早めた。前々から開発していたという風潮を世に流して、事実を誤認させてまでね」


「つまり特効薬は、安全性が確認できていなかったってこと?」


「そうさ。無論、感染者は二十名もなくなってしまった。若者も老人も関係なくだ。他の患者は運が良かった。特効薬を打った三十名のうち、二十人は今も元気に生活できている」


 ふいに膝元が重くなった。ユキナは眠っていると思い込んでいたが、どうやら話を聞いていたらしい。しかし起き上がろとはしなかった。


 狭間は言った。二十人は元気で暮らしていると。だが後の十人はどうした。それではまるで、今は元気ではないと語っているようなものではないか。


 ミソラはユキナが陥った症状を思い出した。激しい咳、血の混じった嘔吐、異常なまでの発熱。ユキナが感染者の疑いがあるといわれ、一時期収容された。だが彼女の体が治ることはなかった。毒が体に残り、発作を起こすまでになった。カルマウイルスに似ているが、平穏なときは異常は起こらなかった。


「残りの十人は、異常を残した……? その特効薬が、特定の人には毒となって、いまもユキナさんの体を蝕んでいる」


「そう、その毒素を排出するための方法を、我々はようやく見つけ出した。原ユキナが最後の生き残りだ」


 狭間が心の底からみせる安堵の表情。ミソラは彼よりユキナの反応が気になった。先程から微かな振動が膝にやってきている。まるで沸騰しかけのお湯みたいだ。体温が熱くなっているのは、発熱のせいではないのかもしれない。ミソラは話を続けた。


「それでユキナさん、あと私もか。体を直してくれる。それともうひとりいるから、後でその人にも治療を施してあげてね」


「ん、ああ、市村アイカか。君、彼女と居てなんにも思わないのかね」


 その言動には自分なりの答えを見つけていた。彼女か何者かは、会場の空気感で察した。


「口が悪くて、そこらの人より強くて、ちょっぴりかわいい女の子だなあってくらいにしか思ってないわ」


「ヤツの父親がどういう人間か知っているのか」


「知らない。有名人だと思うけど、どうせ南極の氷を溶かしたレベルではないと、私はどうでもよく思っちゃうわ」


 氷が溶けるのは困る。地球環境が激変してしまう。アイカのすべてを知っているわけではない。もし彼女が間違いを犯したのだとしたら、関係を断ち切るに値するだけのこと。狭間は揺さぶりをかけたのだろうが、ここから先でユキナを守れるのはたった一人だけだ。


 ふいに穏やかな吐息が膝をくすぐる。ミソラはその頭を優しくなであげたのだった。

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