騒々
練習とは失敗ない確率を高めるためのものでしかない。本番ぶっつけで成功する人もいるが、あれも本人が知覚しえない偶然が介入していただけ。
三人たちのパフォーマンスはどっちつかずだ。成功も失敗もない。やや失敗よりと言っていだろう。全力でやったことに価値があると、何処かの誰かは口にするだろうが、商売とは客の反応が全てだ。優れた人間でもそうでない人でも、等しく時間を割いてくれている。言い訳は不可能だ。
アイカとユキナは歌詞通りに歌いきった。足りなかったのは、パフォーマンスそのものに手を抜いたミソラにあった。なぜなら、全くパフォーマンスに熱が入らず、騙し騙しやりきっただけになった。
最後のメロディが終わり、ミソラは胸に手を添えるポーズをとった。他の二人もそれぞれ同じポーズをしたと思っていた。微妙な観客の反応はフィードバックしにくいと思いながら、アイドル活動なんてやっぱり無駄だった、と感じていた。
ふいに生々しく床に何かがぶつかる音がしたのはその時だ。
ミソラの眼下に何かが横たわっていた。黒い髪の毛が一心不乱に揺れていた。それだけではなく、よく見ると白い衣装に水色のモチーフカラーが、陸に出た魚のようにのたうち回っている。
「……ユキナさん?」
その声に、ユキナが顔をあげた。ミソラはその顔を見て戦慄した。メイクが崩れている。多量の汗によって、溶けてしまったのだ。だが一曲のパフォーマンスで崩れる代物ではない。尋常じゃない汗の量が額から流れていた。
観客が困惑している。ミソラは膝を付き、ユキナの方へ近づいた。アイカも慌てて近づいてきた。
「……ごめんなさい、二人共。私、最後までできなくて……」
「いいのよそんなことはっ、今から救急車読んでくるから──」
そう言って離れようとしたとき、袖をユキナが掴んだ。力強い眼で、何かを訴えようとしている。
「げほっ、げほぉっ──。アイカちゃん、ごめんね。やっぱり私、最期まで足手まといで……」
「しゃべるなっ。いまアイツ呼んでくるから」
咳き込みが激しくなっていくユキナをみて、ミソラは初めて彼女と出会ったときのことを思い出した。咳き込みが激しい姿に、手負いのミソラが心配になるほどのものだった。以後、咳き込む回数は少なくなっていったので、一時の風邪ぐらいの認識でいた。
段々と咳の数を増やしていく。その様は発作に近いものだ。くしゃみをするような大きな咳をしたあと、口から赤い吐瀉物を吐き出した。瞬間、会場のどよめきが一層高まったあと、こんな声があたりに響いた。
「カルマウィルスだっ!」
「まだ感染者が居たのかっ! 逃げろぉ! 早くここから離れるんだ」
耳朶にこびりつくような言葉に、ミソラは戦慄した。
会場にいた観客たちは動揺を強めた。一足先に出ようとするもの発端に、流されるように観客たちは逃げていった。場は混然とした力を作り出し、悲鳴も少なからず上がった。
ミソラは動けなかった。この事態に対しても、ユキナが血反吐を吐いて苦しそうにしている方が辛そうに見えたからだ。
カルマウィルスは今から十年前に流行った致死性の高いウィルスのことだ。欧州から感染が認められ、間接接触によって日本にもやってきた。だが世界にはウィルス対応のノウハウが蓄積されており、いち早く封じ込めに成功した。感染者数が爆発的に増えることもなかった。日本も二十名の犠牲者がでたが、パンデミックに陥ることなかった。
あれは特効薬のおかげで死滅したはずだ。現在、あのウイルスに罹っている患者は0だ。
「ユキナさん、ユキナさんっ」
確かに伝え聞いた症状に似ている。カルマウイルスは感染後に発作を起こす。ひどい咳込みと高熱にうなされ、最低でも二週間弟子に至る。しかしユキナの体は順調に動いていた。発作を除けば──。
今は必死に訴えかけることしかできない。背中をさすって、吐瀉物を吐き出してあげることがこの際は楽なのだと思い込んだ。
それからだ、アイカが厳しい口調になったのは。
「……なるほどな。うまーく、邪魔者を排除したってわけだ。さっきウィルスだって騒いだ奴らは、ずぶずぶのサクラちゃんだったんだな」
ミソラはそれを聞いてはっとした。会場の方へ視線をやると、一部の人がまだ残っている。二階と三階からこちらを眺めているものがいた。明らかに一般的な雰囲気を感じなかった。
中でも中央で座っているスーツ姿の男に見覚えがあった。海老名のステージで、ミソラを捕まえようとし、アイカにサマーソルトキックを食らった中年の男だ。彼は足を組みながらこちらを愉快げに眺めている。
「よお、一週間ぶりだな。あのときはどうも」
「……顎、相当傷んだようね」
顎に白い包帯を巻いていた。彼は愉快げに笑みを浮かべて言った。
「そこの金髪にな。安心しろ、こんな場所で報復したりしないさ。俺はただ命令されてここにいるだけだ」
「それがさっきのウィルス騒ぎ? やってること、デマ撒き散らす輩と変わらないようだけど」
「信じちまう方が問題だ。いまの現代は、ただの反応で生きてるようなもんだ。あれを俺は同じ人種とは認めたくないね」
同感だ、と内心同じ気持ちだった。それでも彼らの行為は看過できるものではない。
「アイカさんにまた蹴り食らわせたくないなら、いますぐ消えたらどう? もうすぐで警察とかくるでしょ」
「かもな。だが周囲を確かめてみろ、お前ら全員、銃口を向けられてるに等しい状況だってな」
ミソラは周囲をざっと眺めた。〈P〉がサクラが半分だと推察していたが、実際の数はそれほどではないようだ。アイカが耳打ちしてきた。
「逃げ切れるかどうかわからねえぞ。多分、目に見える以上に敵が潜伏している。半分サクラだってのはあながち間違ってねえ」
一応、脱出のプランはいくつか立てている。しかし相手がどう行動を取るのか読めなくなった以上、うかつに手札を晒すわけにはいかない。ステージ下では〈P〉が待機している。しかし居たところで、数十人の挟撃から三人を守れる保障はない。ミソラは考えを張り巡らせた。なぜユキナの倒れたときを見計らって、彼らが現れたのか。ここは賭けに出ることにした。
「──貴方達の目的は私じゃなくて、ユキナさんを連れて行くことね」
一部から動揺を示す反応をみせた。スーツの男は組んだ脚を元に戻し、面倒くさそうに立ち上がった。
「そういうことだ。なぜだか知らんが、シンデレラより、そこに倒れている白雪姫をご所望のようだ。でよ、勝手に調べてみたら、こいつは体内に毒りんごを飼っていた。カルマウィルス、もうウィルスはこりごりだって世間がなったときに起こったもんだから、本当に大変だったぜ」
「いいえ。彼女にはそんなものにかかっていないわ。何週間も一緒に居たけど、今も生きているし。致死性のウィルスなら、とっくのとうに私たちは死んでいるはずよ」
「まあ、子供でもわかる論理だな。この女が買っている毒は俺も詳しくは知らん。だがお前がこの世に存在することが悪なように、そいつも存在しているだけで不利益被るやつがいるらしい。つーわけでだ、先にそいつわたしてくれねえかな。お嬢様は見逃してやるよ」
にじり寄ってくるまばらな服装をした男達、逃げ場はない。こうなれば、仕方がない。奴等が欲しがっているものを先んじて渡したほうがいいだろう。
「アイカさん、お願いがある」
「なんだ。こっちがどう逃げるのか考えて──」
「必要ない。……正直気がすすまないけど、アイツがボロボロと喋ってくれたおかげで突破口開けそう」
ミソラはその案をユキナにも聞こえるように伝えた。
「はあ?」と声を漏らしそうになったアイカだったが、ミソラの目を見て寸前のところまで押し込めた。時間を稼ぐにはこれしか方法はないと分かっている目だ。しかしアイカはユキナを見て、気が進まないという顔をしていた。少し意外に思った。彼女はユキナに対しては心をひらいているゆえの、悩みだろう。
「……どうなるかわからないよ」
「私はやる。一回死んだ身だもの。覚悟はできてないけど、あとからしても遅くはない」
このまま銃弾で一瞬で命を奪われるのは、二回も死にかけた身からしては生ぬるい。たとえ倫理感のない行動を取ろうとも、生き残るほうが大切に決まっている。
「アイカちゃん……いいの?」
「お前が良いってんなら──」
「私じゃなくて、アイカちゃんに委ねる」
アイカから初めて動揺を見たような気がした。それほどにユキナの瞳が切なげに訴えかけている。ミソラより付き合いの長い二人のあいだにかわされる言語が少しだけ増えている。だからこそ、アイカは戸惑い悩んだのだろう。
「アタシが先に死んだら、ゴメンな」
そう言って床に力ばっている赤い吐瀉物にアイカが手を伸ばした。お先に、アイカがそのように言ったような気がした。次にミソラも同じようにした。周囲がどっとざわめいた。
「お、おい。お前らどうしたんだ? トチ狂いでもしたのか」
スーツの男が乾いた笑いを浮かべた。余裕を失っている。いま死なれて困るのはミソラなのだろう。
「忠告してあげる。次から、手にした情報を大切に扱うことね」
ミソラとアイカは掌に付着した血を舌ですくい取った。一滴残らず、血の跡をなくすように。舌の上に鉄と酸っぱい味が広がった。不快さを抑えつつ、ミソラはゴクリと喉を鳴らして胃の中へと飲み込んだ。
「……これでシンデレラは毒りんごを口にした。フフ、いい面白そうな童話になりそうね」
この場にいるものの任務はユキナを連れて行くことだ。果たしてそれだけだろうか。ミソラは後に必要となるはずだ。アイカはもしかしたら凶弾に倒れるかもしれないが、絶えず周囲に気配を配っているので、いざというときはミソラたちを守ってくれるだろう。
「さて、お話し合いしましょうか」
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