市村アイカの挑戦……?



 瞼を開いて周囲の景色を確認する。自分がいる場所があるべきところなのかを確かめるための一種のおまじないのようなものだ。低い天井に狭い空間は自分のいるべき場所ではない。だが一週間以上も過ごせばぐっすりと眠るくらいに慣れていた。


 窓から差し込む光は日中をしらせる。ベッドから降りてから別の寝息が聞こえてきた。二段目のベッドに丸みができていた。どちらが寝ているのだろう。

 ミソラは大きく体を伸ばして、血液のめぐりをよくさせた。軽く顔に水を浴びたいところだが、そのまえに運転席から顔を覗く人に気付いた。


「目覚めましたか、ミソラさん」


 ラムが彼女は振り向いて訊ねた。一瞬、二段目のベッドへ視線をやった。


「いまどのあたり?」


「茨城のキャンプ場ですよ。ちょっとした小休憩で立ち寄ったのですが」


「そうだったわね。……けど、二日も関東圏をぐるぐるしているだけでいいのかしら」


「〈P〉の指令待ちなので仕方ないかと」


「仕方ないことはないと思うけれど、もしかして今までもこんな感じで旅をしてきたの?」


「私達は逃亡者ですから、基本的には都市部には出ず、人気の少ない場所を進んでいます」


 なるほどと、納得する。むしろ二日前の一件で逃亡者の肩書がより強まった。キャンピングカーでの道は国道をなるべく避けて、数時間に一度休憩を挟むペースの旅路だ。

 火災の際に蝕んでいた体の違和感はすっかりなくなっている。空気のいい場所を進んだおかげなのか、元から大した事のないものだったのかはいまでは判別がつかない。


「寝ているのユキナさんよね。彼女、私と同じくらいによく寝ているわ」


「……はい。邪魔にならないよう外に出ましょうか」


 彼女の言うとおりにして扉を開ける。清涼な自然の空気が肺の中に入ってきて、目覚めの倦怠感が一気に吹き飛んだ。見渡す限り人工物は少なく、この場所で寝泊まりできたらいいのにと思った。ふと、ミソラはあることが気になった。こちらにやってきたラムに言った。


「アイカさん、姿が見当たらないようだけど?」


「ここへ付いてからすぐにトレーニングへ出ていきました。彼女の日課です。体が鈍ってしまうからだと、いつも外に出て独りでに出ていってしまいます」


 それからラムはジーンズのポケットからスマホを取り出した。それを未空に差し出して、続けて言う。


「安全のためGPSを取り付けています。アイカさんに食事をとってから出発すると伝えてもらえませんか」


 ミソラはそれを受け取り、ロックの付いていない端末を覗く。追跡アプリと方位磁石アプリしかないホーム画面を確認する。


「もう出るのね。そんな慌ただしいスケジュールだったかしら」


「〈P〉は場所の移動はこまめにと。やはり先日の件で、いろんな勢力が動き出したのかもしれません」


「……実感わきませんね」


「全くです」


 だが彼女の懸念通りに、敵勢力は動き始めた。ならば一つの場所に留まるのはリクスが大きいだろう。ミソラはスマホを片手に、追跡アプリの方角へ足を進めた。500メートルの距離にある森林のなかにアイカはいるらしい。


 長野とは気温や空気がまるきり違う。あちらは冷たく透き通っている空気だが、こちらは木々の香りがはっきりと漂っている。自然が深く根付いている証拠だ。キャンプ場では焚き火やバーベキューを楽しんでいる者が多数いた。大勢でにぎやかに騒いでいる姿には空虚なものを感じずにはいられない。反対に一人で焚き火してぼーっとしている者のほうが、ミソラは味のあるものだと感じだ。楽しみは基本的に一人で味わえるのが本物だと思っている。


 アイカはトレーニングをしているという。実際に目の辺りにした身体能力は、競技としての格闘技を逸脱しており、人をねじふせるためだけにできた純粋な「力」だった。暴力には違いないが、不思議と品を感じてしまう。


 まだ助けてもらった礼をしていないことにミソラは気付いた。華奢な体をした彼女がどんなトレーニングをしているのか興味が尽きない。木の幹でらくらくと懸垂したり、ボクシング的な格闘技を披露しているかもしれない。


 GPSが示すほうへ真っ直ぐ進んでいるうちに、灰色のスウェット姿をみつけた。ラフな格好でも、彼女の持つ天然の金髪が、異国のそこにいるような現実離れした存在感を醸し出している。


「そういえば、あの子のことあまり良く知らないわね……よし」


 彼女が一人でいるときの行動を観察してみようと考えた。人間は一人でこそ、本質が顕れる。木の陰に隠れて耳を澄ませてみる。アイカから微かなつぶやきが届いてきた。



「ったくよ、本当にこんなんで上手くいくのか。よし、もう一度やってみっか」


 悩ましげに唸っているようだ。スマホの音量を最大にして、人のにぎやかな声が鳴っていた。しかしミソラがいる位置からは具体的なものは分からない。人の声から女性のこえ、次第に少女の声へと、ミソラの耳が判別する。微かに甘い声に思えたその声質に、なにか引っかかるものを感じた。


「なにかしら、このキャピキャピした感じは……」


 隅っこに放置したままの発酵食品ような禁忌的な感覚を覚えた。

 正体を知るところまできた矢先に、それはやってきた。



「はいは〜いっ、みんなに笑顔のマジックをかけちゃうぞぉ! ドキドキアイドル、『アイアイ』こと、市村アイカだよぉ〜。アタシの引き金が、世界をトリコにさせちゃうぞ♪」



 本当に妖精がその場にいるのかと思った。普段のぶっきらぼうな口調が、砂糖をふりかけ、ぐつぐつと甘く煮詰めたかのような声になり、取り入れていはいけないものを体に取り入れてしまった気分に陥った。肺の中の空気が大きな塊となって外へ吐き出されていった。


 ミソラはその場で立ち尽くした。そうやってやり過ごすことでしか、現実を受け止めることができない。


「ふう。──こんなのがアイドルなら簡単じゃね? 人に変な声を出すのが仕事かよ。恥晒しじゃねえかよ、これ」


 それも一部分ではあるが、全部ではない。たしか眠る前に、ユキナがアイドルの映像を見た。詳しい部分までは深い眠りに入っていて分からなかったが、甘々系のアイドルをアイカが見たのは明らかだった。


「やっぱ最初からカポエラやっとけやよかった。こっちのほうがまだ実用的だよ──なっ」


 空気を裂く音が届いてきた。ミソラはその場でうずくまる。込み上がってくる衝動をやりすごすためだ。足音が止まった瞬間、ミソラの真上で鈍い打撃音が響いた。


「ひゃっ」


「──よう覗き。アタシ、これからカポエラやりたいんだけど、相手してくれるか?」


 見上げると、アイカがこちらを見下ろしていた。ミソラは焦りをよそに尋ねた。


「あ、あら気付かれるものね。流石というべきかしら」


「クスクス笑ってりゃ気付くだろ。そんなにおかしいものだったか? だったら、やっぱ意味のねえもんじゃねえか」


「私だって同じよ。笑ってしまったのは許してちょうだい。トレーニングってきいてたから、不意打ちを食らったのよ。かれど随分と熱心じゃない。この分だと、案外向いてるんじゃない?」


「相変わらず上から目線だな。……で、ここへ来たってことは、そろそろ出発か?」


「そのまえに食事よ。ラムさんが貴方に手伝ってほしいって」


「どうせカレーなんだから手伝う必要ねえだろ、ったく」


 そう言いつつ、アイカは元の道に戻っていく。ミソラの彼女の後に続いた。もとより会話はなかったが、もともと余計な会話をしない主義の二人にとっては別段なんてことのない道中だった。なのに、アイカが何気なくこぼした言葉があった。


「なあ、ユキナは寝てたろ? どうだった」

「別に、普通に寝てただけ」

「そうか」


 以後、会話がなくなったまま、キャンピングカーへ戻った。

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