オフィスの一室にて……
東京のあるオフィスビルの一角にて、顎に包帯を巻いた男が患部をさすりながらサラリーマンの列に加わる。
最難な目にあった。昨日の仕事は簡単に終わると思ったが、思わぬ邪魔者によって仕事は失敗して、怪我まで負う結果となった。
「いつっ、あの女、何者なんだ」
松倉の脳内で支配しているのは、逃亡する三人の少女だ。ターゲットの少女はこの会社と縁の深そうな人物だ。宗蓮寺ミソラ、
「おいおい、松倉さんよ。どうしたよその顎は。女に灰皿で殴られたか?」
社内に入ってすぐ、同僚の声が聞こえてきた。そちらを振り向くと、茶髪の若々しい姿の男がニヤニヤと駆け寄ってきた。こういう態度を取ると、面倒な話題をふっかけてくる。
「別に、ちょっと顎を打ち付けただけだ」
「なんだよつまんねえ。つーかさ、朝のニュースとか見ただろ⁉ あの子、ミソラちゃんだよ」
見てはいないが、大きな話題をかっさらっていることは予想がついた。上の方も報道したからには、メリットがあって行ったのだろう。
「いやぁ、まさか前会長にあんな妹いたなんてなあ。まだ十代だぜ、なんかたくましい感じするよな」
「別に。世間知らずのお嬢様って印象しかなかったんだがな」
松倉は勅命を受け、海老名のショッピングモールで、宗蓮寺ミソラの『保護』任務を請け負った。なんでも、急遽イベントのトリを任されることになったらしく、グループの情報筋が発見したとのこと。彼女が本当に宗蓮寺の関係者かを調べるためというのが表の理由だ。
宗蓮寺麗奈、志度両名が一線を退け、隠居生活を営んでいるのは少なくとも会社内では周知のことだ。なので、その二人が行方不明だと知って会社内では波紋が広がっている。宗蓮寺ミソラが出した表明のせいだ。テレビのニュースでは報じられていないが、ネットでは目に余るほどのメディアがこぞって報じた。テレビで報じていないのは、ひとえに宗蓮寺グループの働きかけのおかげだろう。そのせいで宗蓮寺グループへの不信感が募ることになったらしい。
自分のデスクへたどり着き、部署の人間と軽い挨拶を交わす。始業まえにスマホに連絡が届いてきた。
「……はぁ、一日ぐらい休ませてくれよ」
通知には一言「事後報告1945」とあった。溜息を付いてから、松倉はごく普通の会社員の業務を始めた。八時間の業務のあいだ、どんな小言と食らうのか憂鬱な気分で過ごした。
業務が終わり、退勤していく同僚たちを見送り、腕時計で時刻を確認する。ちょうど約束の十分前だ。松倉はエレベーターで上に乗り、最上から一つ下の階で降りた。そのエリアはどの階にもありそうな廊下が広がっているのだが、威圧感のようなものが一歩ふい入れた瞬間に襲ってきた。
松倉はある扉の前に辿り着き、網膜センサーの前に立つと、数秒くらいで扉が自動的に開いた。中へ入る。一歩踏み込んだが最後、光を完全に遮断した空間に迷い込んだ気分になった。ここへ入るときはいつもそうだ。
それから歪な声が空間内に響いた。
『さて、これから忙しくなりそうだよ松倉くん。君の失態のせいでね』
暗闇から光の映像が浮かび上がった。数は三つ。彼らの実態はわからないが、おおよそ権力を持った年寄りであることに間違いはないだろう。
三つとも若々しい男の姿をしていた。利発な青年、強面の青年、穏やかな青年。ただし見た目とは裏腹に、言動と価値観が今どきの若いものではないと松倉はみていた。そもそも彼らに己を隠すつもりは毛頭なく、姿を表に出さないために仮初の姿を模しているに過ぎない。
一つでも発言を間違えれば、手痛い目にあう。彼らの素性より、性質を重んじるほうが松倉にとっては大切だった。
「昨日の失態、完全に私の油断が招いた結果です。ですが、彼女を保護している集団を絞り込むことができました」
『ほう聞かせてもらおうか』
強面青年のホログラムが言った。松倉はスマホで部屋の中にあるプロジェクターにアクセスした。すると、三人の少女が浮かび上がり、それに関連したデータも同時にでてきた。松倉は仕事中に組み立てた言葉を放った。
「まず例の少女、宗蓮寺ミソラからです。前会長、宗蓮寺麗奈と志度の妹を自ら名乗りました。実態は定かではありませんが、親族の可能性は十分にありえます。現在も行方知れず。Nシステムや監視カメラを巧妙にくぐり抜けている模様……それから、彼女と行動を共にしている者たちも特定しました」
次に金髪で小柄な少女──松倉にとっては顎にサマーソルトキックを食らった憎き相手を説明する。
「彼女が一番難敵です。父親はあの国際犯罪テロリスト、市村創平(いちむらそうへい)の愛娘ということが判明しました。彼女は市村アイカ。各国の諜報機関が公式にマークしている未成年警戒リストに彼女の名前がありました。工作に参加した記録はありませんが、彼女の並外れた身体能力からテロリストの一員であるでしょう」
『それは君の所感のように思えるのだが。顎、そんなに痛むのならいい病院を紹介しようか』
「い、いえ、それはお気遣いなく」
松倉は今日何度か触ったかわからない顎に手を当てた。彼女の一撃により脳震盪を起こし気絶し、救急車にて搬送されてしまったことはまだ先日のことだ。幸い、日常生活に支障を起こすことがないと医師の判断もあり、昨夜に病院を後にしたばかりだ。
金髪で日に焼けた小柄の少女を、利発な青年が卑しく笑った。
『いやいや彼女も我が国へやってくるとはねえ。大方、元お仲間を追っているのだろう、実に健気な少女だ。しかも大の大人三人を難なく捻り潰したその実力、是非私の手にしたいものだよ。君、彼女も捕獲対象に入れてもらえるかい?』
その提案に松倉は苦笑いを浮かべてやり過ごした。この国は誘拐が犯罪妥当認識はないのだろうか。市村アイカとは長い縁になるかもしれない。湧き上がる憎悪を抑えこめ、最後の人物を紹介する。
「最後、黒髪の彼女は原ユキナです。神奈川県出身の、まあ、至って普通の少女といったところでしょうか。両親も存命で、現在高校を休学中。この一派にいる理由は不明。あえて特筆するところをあげるなら、幼い頃に半年ものあいだ入院と、その後も通院を繰り返していることくらいです。まあ、病状が明らかになっていないので、大したことはないと思いますが」
それ以上に説明のしようがない。彼女に関しては、経歴に特別な事情が薄い。一派に加わる理由もミソラとアイカと比べて乏しい印象だ。
しかし彼女に対して反応をしてみせた者がいた。穏やかな青年は彼女に視線を向けたまま、
『こんなところにいたのか。いやはや、運命とは面白い』
「その、原ユキナがなにか?」
『いや、気にしないでくれ。それより、私としては当日現場付近で目撃された仮面の人物について気になるのだが』
「あ、はい。イベント当日、仮面を付けた不審な人物が現れ、音響スタッフの元にデータを無断で送信したようです。その後は行方がわからず。目撃者の証言によれば、黒仮面に灰色の鎧のようなものをまとってましたとのことです。その人物が流した曲が宗蓮寺ミソラがパフォーマンスした曲でして、仮面の人物も彼女たちと関係があると……」
仮面についてはそうおおびらかな問題ではないと踏んでいた。だがこれに一番反応してみせたものがいた。強面の青年だった。
『黒い仮面か。君、その仮面についても十分警戒するようにしてくれ。見つけたら、報告するだけでいい』
「分かりました」
三者三様、思惑が見え隠れしている。今この瞬間も、互いの急所を探し当てるのに必死なのだろう。
それから青年たちは「そろそろお暇としよう」と告げた。
『ではいい報告を待っているよ、松倉くん。宗蓮寺グループの安寧のためにな』
彼らは決まってそう言って、通信を切る。真っ暗な部屋に戻り、背後の扉が解錠する音を聞いた。そのまま扉が独りでに開き部屋から出ると、目に眩しいほどの光が溢れ出してくる。
「はぁ、面倒なことばかり押し付けやがって」
ふと廊下の突き当りに黒い影を認めた。
若い男がいた。スーツ姿の茶髪で、彼はこちらへ歩いてきた。
「フィクサーから指令は下りましたね。ここからは、私が主に作戦指示を行います」
「あんたは?」
いい顔たちの男だ。ルックスのいい男は怪しい雰囲気を常に漂わせている。この男も例外ではない。
「僕は狭間レンといいます。宗蓮寺ミソラを発見次第、僕と接触させてほしいのです」
「……先程の指令にはなかったが」
あえて話の種を蒔いて反応を伺う。彼は端的にこう言った。
「それも指令の一つです。僕のはあの中の誰かの側近と思っていただければ」
「じゃあ、俺が適当に考えた作戦を実行しなくてもいいわけだ」
「はい。しばらくは通常業務に勤しんでください。任務の際は、こちらから連絡を入れます」
そう言って、狭間レンは一足先にエレベーターに降りていった。どこの誰の思惑かはわからないが、少しぐらい給料を上げて欲しいと願うばかりである。
この世には関わっていけない人種が山程いる。平和が約束されている日本でも例外ではない。そんな連中と関わって普通に暮らせるわけがない。
自宅には妻と息子がいるが、妻に関心はない。息子と遊べる時間だけが減っていくのは結構なストレスだが、妻との問題もいずれ解決する必要もある。
そんな圧倒的なストレスを一時でも解消すべく、松倉もエレベーターに乗り込んでつぶやいた。
「たばこ、吸いにいくか」
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