水の苦しみ
というわけで、山間にひっそりと佇む温泉旅館で準備する運びとなった。アイカとラムは護衛の準備で遠出しており、後で旅館へ戻ってくるらしい。〈P〉は車内で泊まるとのことだ。いま部屋にはミソラとユキナと二人きりだった。
隠れ家的な老舗で、これに関してもどうやって予約を入れたのか問いたくなる。
「これからお風呂に入るけど、私は部屋の浴室で済ますわ。その間、絶対に部屋に入らないでほしいの」
「は、はい。それは一向にかまわないのですが……」
「理由、聞かないの」
「理由があってそうしてほしいんですよね。なら聞きません」
そう言って、ユキナは袴一式と入浴セットを手に「部屋に入れるようになったら教えて下さいね」と嫌な顔せずに出ていった。
源泉垂れ流しの檜風呂は最高級部屋に各自備わっており、部屋の中でも箱根の温泉を楽しめる。
浴槽に入る前に、玄関横のシャワー室で体を清める。ぬるま湯のシャワーで一週間ぶりに石鹸で洗い流していく。頭に染み込む水の感触が伝わってくると、無条件に起こる体の反応が起こった。
「はぁ、ふぅ、だいじょぶ、ただのお湯……なにもないから……」
ぬるま湯を浴びている肌の感覚が過敏になっていく。冷たい水を浴びたように鳥肌がたち、呼吸が乱れはじめる。お湯、もとい顔に水を浴びるのはミソラにとって恐怖以外の何物でもなかった。
水は命とつながっている。生きるために、また体を清めるために水は必須だ。もしどちらかの役割に支障をきたすことがあるなら、耐え難い苦痛が伴う。だがと恐怖は表裏一体というわけではない。恐怖を感じるくらいなら、苦痛を耐える人間だっている。
ミソラは水を浴びずに済むならそれに越したことはないと思っている。無色透明な水が生命の源なわけではないということを知っているからだ。
恐怖を紛らわすように、ぎゅっと眼をつぶる。自分から流れていくものを見たくない。体にまとわりつくボディソープの泡さえも目に捉えることを拒絶している。
大方洗い流したら、タオルで体の水滴を拭き、湯船へと直行する。温泉特有の香りを抑え、かといって人工的に添加した香りでもない。周囲は木々の香りに満ちていて、邸宅周辺の景色を想起させた。
右足から順にお湯へ浸かっていく。この際、水面に視線を落としてはならない。視界は常に斜め上だ。髪の毛と体を洗っていたとき、視界を開かなかったのは洗い流したものをみたくないのと、もう一つある。鏡があったのだ。そこで自分の姿を見たくなかった。
水面にも同じことがいえて、たとえ辺りが真っ暗であろうとも、自分を直視してしまったら、その瞬間、耐え難い苦痛を呼び覚まし、夜中の旅館に狼の雄叫びが響き渡ることだろう。そんな事態にならないように気を張る必要がある。
ミソラは落ち着かない気分で湯船に浸かっていた。元々、入浴は好きでも嫌いでもない。体の汚れや垢を落とすために必要なことだから行っているだけだ。代わる手段があるなら、大枚はたいてもそちらを選ぶ。
こんな温泉旅館は贅沢でしかない。部屋に浴室のある部屋など、そこらのホテルで十分だったはずだステージに立つことを〈P〉は『囮』と呼び表した。昔の自分が聞いたら、どう思ったことだろうか。
空を仰いで思案に更けてみる。かつての『わたし』といまの『私』とでは、考え方や価値観が変容している。人が変わる経緯は様々あるが、恐怖と痛み以上に人を変える要素はないだろう。今までは痛みを考える余裕はなく、ひたすらに前へ進むことが絶対普遍の真理だと思っていた。しかしすべての人が同じ価値を求めているわけではない。中には変化のない世界が正しく、好みであると語る人も存在する。相反するようで、一つの心理がここに潜んでいる。
「また、痛みを受けるのかしらね」
誰しも、心や体に痛みを受けたくない。恐怖やストレスを抱えずに生きていくためには、自分以外の、または自分の大切な思う人以外の赤の他人のことを考えることを放棄する。あの日、あの時、ミソラが受けたモノの一端は、普遍的な真理から始まっているのかもしれない。
「十分に、受けたでしょうが」
なりたいこと、やりたいことを叶える力を持った少女が、バケツいっぱいの水を浴びると臆病で人嫌いの少女に変わってしまうおとぎ話の結末は、これ以上の悲劇をもたらすというのか。それはそれで、悲劇として祭り上げるのに十分な素養はある。
そろそろ体も温まってきた頃だ。ミソラは湯船から上がり、再びタオルで全身を拭っていった。嫌いな場所から遠ざかった安堵感で満ちたその時、異様な金属音が耳に届いた。
ミソラは振り向き、その人の姿を確認した。
「へえ、部屋の外に温泉か。先に……って、やっとお前風呂入ったみてえだな」
金髪がこちらを見ている。知っている顔だ。人が入ってくることはないはずだ。鍵はかけた──いや、忘れてしまったかもしれない。
「……ん、お前、どうしたんだその顔……」
「見ないで!」
空間がぐにゃりを歪みだす。首のうしろが体温より熱くなり、視界がぼやけ始めた。この『傷』を誰かがみて笑っている──。
ミソラの額全域と左半分側の顔から、肌色が溶けたようなくすんだ赤色をさらしていた。
続々と人が入ってくる。ユキナの声が聞こえてきた。
「えっと、そこにいるのは、ミソラさんですか?」
ユキナが指しているのは、部屋の隅で毛布にくるまっているミソラだ。顔を隠し、小さな隙間から部屋を眺めると、アイカの他にラムも来ており、ユキナに関しては入浴を終えたようで浴衣に着替えていた。
「事情はこいつに聞いてくれ……アタシが言うもんじゃねえからよ」
他人の心情に有り余るほどに察しがいいアイカだったが、余計な一言を付け加えてきた。
「ま、前日に風邪引くなんて洒落ならねえことになるなよ。毛布の下、裸一貫だからな」
「なっ、大変! いまタオル持ってきますね」
ユキナが出ていった。使っていたタオルは湯船の上に浮かんでいる。アイカが入ってきて、驚きで手放してしまったのだ。そのまま濡れた体のまま部屋に上がり込み、毛布に包まったというのがおおよその経緯だ。ラムがアイカに訊ねた。
「あの、ミソラさんに一体何があったのですか?」
「……さあな」
遠く息を吐き出すようなつぶやきだった。彼女から同情めいたものを感じて、ミソラは気分を損ねる。
「保湿クリームと化粧品置いたら出ていって。私が入っていいと言うまで、絶対に中へ入らないで」
ラムに頼んだ物は、彼女の手にあった。それをミソラの側に置いたところで、ユキナが戻ってきた。ミソラの側にタオルを置いたあと、三人は部屋から出ていった。扉が閉まってから、毛布を取り、再び髪の毛を拭いていく。それで解決かと思いきや、扉の外からアイカの声が届いた。
「なあ、その顔の自分が嫌いか?」
髪を拭く手が一瞬とどまるも、誤魔化すように乱雑に拭っていく。
「まだマシな方だろ。ま、アンタみたいなお嬢様がどうしてそうなってんのかとは思うがな」
「……目が見えなくなったりしたら、本当に絶望していたかも。もしかして他の二人も聞いてたりする」
「アタシだけだ。あいつらがいねえから訊いてみた」
そう、と一言添えて、ミソラは髪の毛をドライヤーで乾かしていった。これ以上三人を待たせるわけにはいかないので、生乾きで終えて、顔のクリームを塗っていく。何処にでもある市販の保湿と美容クリームだ。適量を出して、顔に塗っていく。鏡を見るまでもなく、赤色の肌が他の肌の色と同期していくのがわかる。薄皮を肌に貼り付けているような感覚だ。鏡を見るまでもなく、元の状態へ戻っている。ミソラは部屋の鍵を開けた。
「おまたせ。私、明日に備えて寝るわ」
布団を敷き、そこに寝転がる。流石に電気を消すように言うのは酷なので、毛布をかぶって光を遮断した。それから物音はするものの、ミソラに気を使っているのがわかる。なにせ彼女たちにとっても大事な作戦らしい。
そんな命運を、たった一人の少女に託していいものだろうか。頭の中を整理するために睡魔がやってきてほしいところだ。しかし一向にそんな気配はなく、三人の話し声に意識が向いてしまった。
「ミソラさん、一人でステージに立つんだよね」
「名前を利用するなら、アタシでも行けただろ」
「それは別の意味が出ちゃう気がするな」
どうやらアイカの名前には特別な意味が込められているらしい。もっとも宗蓮寺という名字に比べたら、付加されている価値に差があると思う。
「これから、始まるのでしょうか」
ラムがぼそりと口にした。
「さあな。成果がなかったらそれまでだ。だが、アイツらがここまで派手な動きを見せたんなら、ぜってえ何かある。じゃなきゃ、この国に来る意味がねえ。ただ単に、あの男が生まれ育った国の聖地探訪ってガラだったら楽なんだがな」
アイカが追っているらしき迷彩服姿の男たちとはただならぬ因縁があることを伺える。具体的に言葉にすると不安に襲われそうになるので辞めておいた。ふとユキナが言った。
「アイカちゃん。ソワソワしてるのは分かるけど、明日のためにやることは寝ることだよ。ほら、布団の中に入って」
「は、はあっ、なんでアタシばかり……ってラム、何しれっと寝てんだ」
「すぴー」
「ああもう、お前こそちゃんと寝ろよ」
「もちろんだよ。おやすみ、アイカちゃん」
おう、とアイカは飾り気のない返事をしてから部屋が一気に静まった。
あれが彼女たちの普段の姿なのだろうか。つい微笑ましく感じてしまう。ミソラはゲストでしかない。彼女たちの輪に加わわるより、元々あった輪を取り戻すほうが大切なのだから。
全員が寝静まった頃、彼女たちの寝息が微睡みを誘っていく。別に遅く起きても構わないだろう。そんなときに、布が擦れる音がかすかに聞こえてきた。ミソラのすぐとなりからだった。
「ミソラさんもおやすみなさい」
ユキナがそうささやくと、元の布
団に戻ったようだ。彼女はミソラが目を覚ましていることを見破っていたのだろうか。ただ単にミソラにお休みをいいたかっただけかも知れない。いままで欠かしたことがなかったからだ。
何かが変わろうとする帰路に立ち、命の危機に瀕するであろう自分に、ミソラはそんな言葉を置いた。
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