11

 一度カウンターに戻って、お水なんかを準備してテーブル席まで戻る間に、なんだか気になってしまって、ちらちらとお客様の方を見ていたけれど、キャップを取るような感じもない。

 けれどいろんな方がいるし、あまり顔を見せたくない方なのかなと思って、気にしないことにした。そしてお水とメニューを持ってお客様のもとへ向かった。


 「ご注文、お決まりになりましたら、お呼びください」


 静かにお水とメニューをお客様の前に置いて、笑顔と共に軽くお辞儀をした。そしてそこから離れようと思ったら、手首を掴まれた。

 突然のことに驚いて、慌てて振り払おうとすると


「シオ」


名前を呼ばれた。

 そうして、そのお客様は顔を上げた。それまでキャップでよく見えなかったそこには、蒼い目がふたつ、優しく微笑んでいた。見覚えのあるそれは、…


「…レン…」


 驚きすぎて、名前を口にしたら固まってしまった。

 だって、ずっと会いたいと思っていたから。もう一度だけでも、会いたいと思っていた、けれど、もう会うことなんてないと思っていた。

 その、レンがいたから。


「いつ気付くかなと思ってたのに。全然気付かねえんだもん」


そうしていたずらっぽく、けれど嬉しそうに笑う。


 レンだ。本物の、レンだ。


「だって…会えるなんて、思わないじゃない…」


私から出た音は、自分で思っていたよりも小さく掠れていて。けれどそれはきちんとレンに届いていたみたいで。


「ああ、ジジイに喧嘩売ってきた。"もう天使なんて辞める"ってな」


言いながら、レンは帽子を取った。蒼い目が、私をじっと見つめる。


「なんで? どうして辞めちゃったの?」


驚きやら嬉しいやら、よくわからない気持ちが混ざりながら、目の前がじんわり滲んでいく。

 今は仕事中だって。きちんとしないとって。わかっているのに。とめられない。


「わかんない? 俺、シオに恋しちゃったから。これからもずっと傍にいたいって、思ったから」


「でも、…」


 もう、空に帰れないよ? 私なんかのために、そんなことしちゃっていいの?


 いろんな思いが頭を過るけれど、どれも言葉にはならなくて。


「いいんだよ。シオがいてくれれば。他には何も要らないから」


まるで私の心の中の声が聞こえているかのようにレンは言った。そうして立ちあがり、私の目元を拭った。

 それでようやく、私は自分が泣いていることに気付いた。


「だからもう、泣くなよ」


 小さく震えている私の肩を、レンはそっと抱きしめた。けれど、抱きしめられたら余計に涙が止まらなくなってしまって、私はレンにしがみついた。レンは私の髪をそっと撫でながら


「ごめんな。でも、ありがとう」


と言ってくれた。


 私が言う前に"ありがとう"って言わないでよ。


なんて、可愛くないことを思ったけれど、声にはならなかった。

 レンの声が今までのどんな時よりも優しかったから。まるで愛おしいと言っているような声で囁くから。涙が次々溢れてきて、止まってはくれなかったから。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る