8

 本当に、突然だった。思いもしなかった。天使が、『帰る』だなんて。

 私は声を出すこともできなかった。そして、そんなの嫌だと、今は素直に思った。

 そんな私に、天使はぽつりぽつりと続けた。

 本当は15日間で帰らなければならなかったこと。その間に、はじめに言っていた『幸せにする』という使命を果たさなければならなかったこと。けれど、その決まりを破ってここに留まっていたこと。そのせいで天使は強制送還となり、向こうに帰った後も、どんなペナルティがあるのかわからないらしい。


「なんで、そんな…」


私の口から、やっと出た言葉がそれだった。それを見て、天使は話し始めた。


「俺は今まで天使として淡々と使命を果たして来たんだ。おまえみたいに最初は疑っていても、天使だという証拠を見せると人間はすぐに要望を口にした。もちろん、叶えられない要望もあるけれど、そういうときは大抵すぐに別の要望を言ってくる。俺はそれらを叶えてきた。それで『幸せにする』使命は終わりのはずだった」


そこまで言うと、ひとつ、深く息を吐いた。それから続けた。


「でも、今回は違った。なかなか要望を言わないし。それに、…」


「…『それに』、何?」


そこで言葉を詰まらせた天使に問いかける。天使は少し困ったような顔で答えた。


「毎日、楽しかったんだ。天使の俺にズケズケものを言ってくる人間は初めてだったし、俺が料理を食べて『美味しい』って言った後に見せる嬉しそうな顔が、嬉しかった」


だから自分のわがままで、もう少しだけ、って思っていたら、時間が経ってしまったのだと、天使はてれたように笑った。


 それから、私の頭を手を乗せて微笑んだ。


「もう、シオは大丈夫だよ。今度はきっと、もっといい男が見つかる」


「でも…」


私は動揺していた。どうすればいいのかわからなかった。


「あんまり意地、張るなよ。そのままのシオが一番可愛いから」


そう言って、頭に乗せた手を滑らせて、天使は私の髪を撫でた。

 初めて言われた。『可愛い』だなんて。だけどこんなときに言われても全然嬉しくない。


「じゃあ、もう行かなきゃ。最後にもう1回、シオの作ったごはん、食べたかったんだけどな」


そう言って天使は離れた。その顔がなんだか寂しそうに見えたのは、私の自惚れではない、はず。


「私、」


「ばいばい、シオ」


声と同時に、天使は光に包まれて消えてしまった。天使の声も暗闇に吸い込まれて消えてしまった。その場所に、真っ白い羽をひとつ、残して。


 気付いた。私は、彰のことなんてもう頭になかった。いつの間にか天使のことばかり考えていた。つまらない講義を聞いているときも、天使は今何をしているかなと思っていた。スーパーで買い物をしているときも、今日は何を作ろうかとか、何を作ったら目を輝かせて『美味しい』と言ってくれるのだろうか、とか。そんなことばかり。

 最初に出てくるのは、天使のあの蒼い目と、ちょっといじわるそうに笑う笑顔だった。


 私、今さら気付いた。自分の気持ちに。それなのに、天使はもういない。何も言わせてくれないまま、いなくなってしまった。

 元々住む世界が違うと言われたらそれまでだけれど。でも、私の気持ちも、ずっと傍で見守っていてくれたことに対しての『ありがとう』も、言えていなかったのに。こんな気持ちにさせたままでいなくなるなんて、ずるい。


 「せめて『さよなら』くらい、言わせてよ。"レン"…」


 はじめて、名前を呼べたのに。自分の気持ちに気付いたのに。素直になれたのに。伝えたい相手は、もういない。


 レンの残した羽を大事に拾い上げて、両手でそっと包み込んで、呟いた。

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