閑古鳥はなくなく鳴く

ヅケ

泣く泣く哭く

空が近い。それだけ標高が高い証拠なのかもしれない。

途方も無い、夏。

畦道を彷徨い、さわさわ漂う。

喉が渇いたな。500mlペットボトルのキャップを開け、口をつけようとする。


「水くらい買いなさいっ。」


「わぅっ…」


胸元に緑色の文字で、「After」とだけ記載された白Tを着た女は視線を感じ、

突き放す様に言った。

男が羨ましそうに眺めていたせいである。

こんな田舎町、自販機すら近くに無いよといった表情で弱々しく返事をした。


そンな姿には構わず女は喉をゴッキュンゴキュンと鳴らす。

よく冷えた軟水が食道を暴れ流れ、胃に落とし込まれる。

あらゆる毛細血管が喝采を送り、我先だとスポンジのように吸収していく。

生きるって素晴らしい。


「はぁ…地獄みたいに暑いね。」


都会の夏は厳しい、といわれるがこっちだって中々に暑い。

7月4日、10時25分。

この様子じゃ8月はどうなっちまうんだい。

カッコウもさっきからずっとうるさい。


「ほら、もう行くよ。」


ギシッと女はリードを引っ張り、再び歩き始めた。

絶望すら感じるほど、広がりきった棚田から漂う

くっきりとした雑草の香りで気持ちが和らぐ。


スタスタ歩く。キビキビ歩く。

舗装工事なんかしばらくご無沙汰なのが丸わかりだし、

注意しないとうっかり足首を捻挫してもおかしくない道だけど

こんなの大したことない。

グイグイと首の皮を侵す痛みに気づかぬふりをしながら、

男は一歩一歩積み重ねていく。


しかしまあ四つ足になって久しいが、何事も慣れるもんだ。

最初の2ヶ月は、洒落にならない腰痛に悩まされた。

足を持ち上げ地に着く時、稲妻の様な、声にならない激痛が走るのだ。

腰に爆弾を抱えるとはよく聞くが、私の場合は既に爆発後である。

しかし、止まるとまた腹を蹴られかねない。

男なんだから耐えなければいけない。

あの頃は気力と精神だけが肉体を動かしていた。


懐かしいな。

気を紛らわすため、P≠NP予想について考え続け歩く。

来る日も来る日も地面を見つめながら。

雨の日は四色定理について考えてたっけ。

しばらく痛みに付き合ってあげるとどうだろう。

2ヶ月ほどで嘘みたいに腰は軽くなり、それまでの様に軽快な足取りで歩ける。

なるほどな。

耐え忍ぶだけだ。

そこから今まで体の不調を察知した事は無い。首だって明らかに太くなった。

これが成長なんだ、何事も慣れるというよりは自分のレベルが上がったのだ。


男の3歩先で女は歩く。

ブルンブルンと上下に跳ねて戻る飼い主の尻を追いかけながら。

でも追いつけない、いや追いつかなくてもいいのかも。

追いついてしまったら関係が変わってしまう。


そんなことより、女はこんなにも暑いのにジーパンなんか履いている。

こんなにも暑いのに紺色である。個人的希望だがせめて爽涼な薄い水色であってくれ、視覚から暑さを感じたくない。

私自慢の肉球でその跳ねる肉塊を引っ叩いてやろうか、いややめよう。

そもそも出来もしないのだ。

ムンムンに蒸れてるだろうな、いっそ私みたいになれば楽で涼しいのに。


夏はまだまだソファでふんぞり返っている。

流れる汗もやがては蒸発し、皮膚には白い塩の結晶が不快に纏わりつくのだ。


今日も散歩が終わる気配は無い、つまり歩くのみだ。

それこそが私に課せられた任務であり、責務なのだ。

常に男は、1秒前に女が居た場所にいる。

いくらこんな辺境の地でも人間がいない訳では決してない。

どこにだって居住を構え、生活を開始してしまえるのだ。


滑走路の様な一本道から、女よりは若干高齢に見える女が前方から

ペタペタ歩いてくる。

女同様に高齢の女も、男に似た者を携えているようだ。

世界広しと言えど、飼い主は引き合う運命にある。

出会ったのならやる事はただ1つ。

相手方の携えし者の年齢を聞き、撫で、愛で、褒めるのだ。

無論今回も例外ではない。

口火を切ったのは高齢の女だ。

高齢の女の後ろを、ほぼリールの力で高齢の男が引きづられてくる。


「あら、こんにちは〜。あらまっ、元気な子ね〜何歳なの?まあ3歳なのねぇ偉いわお利口さんにして〜まぁ〜。コラッ、吠えないの!ごめんなさいねぇ、うちの子人見知りなのよぉ〜。ちなみに5歳なんですよ。ねっ、ほらぁ元気でしょう?すごいわよねぇ。まだまだおばさんも頑張らないとね〜。」


「今日はこれからもっと暑くなるみたいなので気をつけてくださいね。」


女は柔和な表情で、高齢の女の一人講演を遮る。

そういえば、天気の話で笑った事無いなと男は考える。

しばらくこの世界で生きているが、暑い、寒い、晴れる、雨になる、

傘は持っているかといった話を何百人分と聞いてきた。

印象に残らなければ、役に立つ訳でも無い、笑えなければ心を動かされる事も同情できる内容でもない、時間の浪費であり人生の無駄遣いだ。

天気と自慢話はオチが無い。

これが人間か。


「あら、そうなの〜?この前まで梅雨で蒸してたのに全くイヤねぇ。」


「早く涼しくなってほしいですよねぇ。」


「ほんとね〜。」


初対面だとこんなものだろう。私が人間に対して過度な期待を抱いていた。

天気と我々の話しかできないのだ。無理もない、情報が少ないし初手から

個人情報を聞くわけにもいかない。


高齢の女はまたペタペタ歩き、その影を踏むように高齢の男が続く。

その後ろ姿を男は見送る。


「もうちょっとお風呂入らせないとね。ほらっ、もう行くよ。」


女は呟き、リールをグッと引っ張る。

首は逆方向に動く、さてまた歩く時間だ。


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