第10話 送り人

 多野信治の手に持った剣鉈の刃先から血が滴り落ちていた。150mmのダマスカスは多野の荒んだ生活には不釣り合いな代物だった。


「これ、あなたにあげるわね」

 角田の愛人の田川律子は多野に体を摺り寄せ、耳元で囁いた。

「あんた、時世ちゃんを好きなんだってね」

 律子は女の臭いがする。多野は固唾を飲んだ。経験したことのない世界に引き擦り込まれ金縛りに遭っていた。

「あの子と結婚したいんでしょ? 女はね、関係を持てば言いなりになるわよ」

「か、関係 !?」

 突然、律子は多野の股間を握り、その指をゆっくりとくゆらし始めた。

「そう…これを入れてやるのよ」

 多野は固まったまま次第に滾っていった。

「時世ちゃんはそうしてもらうことを待ってるのよ。このまま余所者に渡していいの?」

 余所者とは権田原のことである。時世が東京に行ってしまうことに多野が悶々としていた時期である。そして村長の角田が時世に手を出した時期でもある。

「言う事を聞かなかったら、このナイフで脅してやればいいのよ。関係さえ持てば、あとはあなたの言いなりになるわよ」

 律子は角田から時世を遠ざけたかった。その後時世が上京し、多野は時世の事を忘れられずに荒んでいったが、彼女は再び雉追平に戻って来た。風間が匿っていたがどこからともなく時世の帰郷が噂になった。震災のあの日、時世は神社に避難して来た。噂は本当だった。律子の言葉が蘇り、多野は150mmのダマスカスを握り締めた。


 65歳の苦痛にゆがんだ多野の体は崩れ落ちた。

「権ちゃん…あとは任せろ! 時世ちゃんを!」

 風間は、立ち尽くしている権田原に檄を飛ばした。権田原は部屋の片隅で震えている時世を抱き起し、その場を去った。


 自宅に戻った権田原は時世に掛ける言葉が見当たらなかった。ふたりは息子の晃一の寝顔を見ながら無言だった。時世は消せない過去への懊悩に、権田原は罪なき二人への慈悲に言葉を失っていた。

 半年ほど前から里山を不穏な噂が流れ始めた。ユートピアだったはずの里山が、時世が追われた鬼隠ヶ浜の悪しき時代に戻ろうとしていた。権田原には時世の苦しむ姿が耐えられなかった。日に日にやつれて行く姿にどうすることも出来ないまま、悶々と時だけが過ぎていた矢先の出来事だった。


 権田原は、“あの日” を思い出していた。鬼隠神社の石段で津波に浚われようとした“あの日”、勝五郎は必死に自分の手を引っ張っていた。

「あんたに詫びるまでは死なせねえ!」

 そう唸って津波から救ってくれた。勝五郎には権田原を助けなければならない理由があった。生前に父親が残した借金を返さなければならなくなっていたが、その借金に村長が金を出してくれることになった。村長はその金を時世に受け取りに来させるよう指示した。そして時世は村長の毒牙に掛かってしまった。時世はその忌まわしい出来事から離れて、東京で権田原との新生活に救いを求めたが、時が経っても良心の呵責からは逃れられなかった。

「あんたと別れて帰って来た時世は、一生懸命やり直そうとしていた。だが、ある日を境に急に様子がおかしくなった」

 時世は勝五郎に全てを打ち明けた翌朝、息子を道連れにダムに身投げしたのだが…権田原は “ある日を境に急に様子がおかしくなった” という勝五郎の言葉と、津波の日、時世一家がなぜ避難所から消えたのかが引っ掛かっていた。


 いつの間にか眠ってしまったのか、目を開けると地べたに居た。寒い…権田原はむっくり起き上がると、辺り一面が白く覆われ始めていた。

「…“あの日” !? またワープしたのか!」

 久々だった。どうやら津波から勝五郎に助けられた “あの日”…らしい。権田原は急いで時世を捜し始めた。あの時は油断した。時世一家が見当たらなくなったが、境内のどこかに居るものと思い、後で捜すつもりだった。兎に角今は火を熾こさなければと…しかし、どういう事情があったのか時世たちはその間に居なくなったのだ。まだ誰も火を熾していない…今すぐに捜せば見つけられるかもしれないと、神社の裏に差し掛かった時、誰かと口論をしている時世の姿を見付けた。権田原は逸る気持ちをぐっと堪えて物陰からその様子を窺った。

「村長との事は忘れてやるから、オレと結婚してくれ。小学校の時からずっと好きだったんだ」

 権田原は驚いた。避難所に居た男だ。

「…多野」

 時世は頭を振って強く断った。すると多野は豹変した。

「これからみんなが集まって来る避難所で“あのこと”が噂になってもいいのか。オレと結婚すればそんな噂を広げるやつらを黙らせてやる。おまえのためなんだ。オレと結婚しろ」

「そんなことを今言われても…」

「ならここでオレと結婚の約束だけでもしろ」

「嫌です!」

 時世は男の前から走り去った。時世一家が姿を消した理由が分かった。多野は結婚を断られたことを根に持っていたに違いない。権田原が多野に駆け寄ろうとすると、風景が歪んでいきなり目の前に見覚えのある建物が現れた。

「どうなってるんだ、このタイミングでまたワープか?」

 権田原が放り出された叢から見覚えのある建物が見えた。

「…あれは確か、嫁入峠の宿泊施設…」

 叢越しにその宿泊施設に向かう上原久代や遠山美穂ら地元女子大出身の女性らの姿があった。権田原が近付こうと一歩踏み出すや、多野が現れたので身を隠した。

「おまえら、時世の噂知ってるか…あの女のガキの父親が誰か知ってるか? 村長の子だよ。東京でちゃっかり別の男と結婚して澄ました顔で暮らしてたんだがよ、それがバレて離婚されて戻って来たんだよ」

「時世さんが !? そんなの信じられない」

「ごめん、私これから宿の仕込みがあるんで、先輩たちに話を聞いといてもらってもいいですか?」

 そう言って遠山美穂は宿泊施設に向かった。

「男がまたバカでよ。こんな田舎まで追っ掛けて来て未練たらしく無理矢理復縁を迫ってんだよ」

「性質の悪い噂でしょ」

「噂なもんか! オレは近所に住んでたから、あそこんちの事情には詳しいんだよ。親はそれを苦にして自殺未遂の大騒ぎだった」

「やだー…聞かなきゃよかったわ」

「あの女は、この里山に住む資格なんてない女なんだよ」

 そういうことだったのかと、権田原は歯軋りした。今すぐに出て行ってぶちのめすことは容易だが、何の解決にもならない。冷静に考えてみれば、多野にとって時世が里山で幸せそうに暮らすことが我慢ならなかったはずだ。10年経った今になっても一向に思いどおりにならない不満が、一気に爆発して時世の過去を喧伝するしかなくなったのだろう。しかし、このまま見過ごせば時世に対する里山の住民の目は、またあの日の鬼隠ヶ浜の住民の目と同じになってしまう。権田原は多野への報復に後ろ髪を轢かれながら、風間や善次郎らに相談しようとバンガローに向かった。権田原が去るのと入れ違いに時世が現れた。

「多野さん…お話があります」

 多野はにんまりした。


 権田原はバンガローで善次郎と風間に相談していた。そこに遠山美穂が駆け付けて来た。

「風間さん、多野が!」

「今、権田原さんから聞いたところだ」

「偶然、見掛けてしまったんだ」

 美穂らは風間に多野の行動監視を頼まれていた。そのため美穂の仲間の二人は敢えて多野の聞き役になり、美穂は風間に報告する段取りになっていたのだ。そこにたまたま権田原がワープしてしまった。

 風間は多野の行動を予期していた。権田原は風間の裁量に改めて驚いたが、なぜそこまでして時世を守ってくれるのかは分からなかった。それにはわけがあった。時世の祖父・勝の借金は、事業を起こそうとしている自分に田畑を売ってまで用立ててくれた上、足りない分の借金の保証人にまでなってもらった恩義があった。その恩義に報いることが出来ないまま、勝は他界してしまったことで、孫の時世を襲った不幸には目を瞑れなかったのだ。

 そこに息せき切った上原久代と香山マリらも駆け付けて来た。

「大変! 時世さんが多野と一緒に彼の家に!」

「いかん!」

 権田原が走った。風間も権田原を追った。

「太三郎、この娘たちを頼む!」

 善次郎はそう言ってカムイを連れ、風間の後を追った。太三郎は逸郎と良平に指示し、善次郎の後を追わせた。


 権田原が表戸を蹴破って多野の家に入ると、正に時世を襲おうとしているところだった。

「多野!」

 権田原が怒鳴ると、多野は手に持っていた剣鉈を構えた。

「刃物で脅さねえと女ひとり自由に出来ねえのか!」

「うるせえ!」

 多野は権田原に剣鉈を突き刺そうと向かって来た。その腕を捻られて勢い自分の腹に刺さった。

「…この…やろう」

 多野は己の腹に刺した剣鉈を抜こうと必死にもがいた。

「やめろ、抜いたら死ぬぞ!」

 そこに風間たちが追い付いた。多野は唸りを上げながら剣鉈を抜くと、鮮血が噴き出した。よたよたと権田原に近付いて、その手がだらりと垂れ、刃先から血が滴り落ちた。

「余所者がーっ!」

 多野は苦痛に歪んだ表情で叫ぶと、傷口から鮮血を吹き出し、膝から頽れた。

「…時世」

 多野はバッタリとうつ伏してそのまま動かなくなった。風間は、立ち尽くしている権田原に檄を飛ばした。

「権ちゃん…あとは任せろ! 時世ちゃんを!」

 風間は、立ち尽くしている権田原に檄を飛ばした。権田原は部屋の片隅で震えている時世を抱き起し、急いでその場を去った。


 時が止まったように静かだった。浜から迷い込んだのか、時折、イソヒヨドリの鳴き声がする。

「…そういう事だったのか」

 権田原は端から真実を話してほしかった。しかし、時世に話せる機会があったろうか…新婚生活に浮かれていたのは自分だけだったのか…もう戻らない過去にやるせない脱力感を覚えた。部屋で安心して眠っている時世をじっと見つめていた。そうしていたかった。時世は静かに目を開けた。権田原は咄嗟に目を逸らした。いざ話し掛けようと思っても何も言葉が浮かんで来なかった。

「…何もかも話すわね」

 時世は穏やかに話し出した。

「…あの日」

 時世は、離婚用紙と鍵をポストに入れようとしたが、思い直して部屋の中に戻った。ふたりで暮らした部屋は何も変わっていなかった。何かを書き残さなければと、傍のメモ用紙を取り書き始めた。“私の事情です”…しかし、ペンはすぐに止まった。ふいに涙が溢れて来た。

 部屋に居れば居る程、思い出すことで胸が締め付けられ、時世は部屋を出た。ポストに鍵を入れると、権田原との糸が完全に切れた音がした。保育園に晃を引き取りに向かう途中で、離婚届を置いて来るのを忘れたことに気付き、駅前のポストに投函して列車に乗った。

 東京に向かったあの日は救いの列車だったが、故郷へ向かうこの列車は護送車に思えた。結局、自分に降り掛かった災いに権田原を巻き込んで何とかしようとしたが、余計苦しみをばら撒いた浅はかを嘆くしかなかった。


 監察医として仙台の職場に就職した頃の時世は輝いていた。監察医は全国に2000人弱しかいない希少な存在である。美しい時世はすぐに職場の花になった。或る日、東京との関連事件の担当鑑識官として権田原が仙台に出張になり、時世と初めて顔を合わせた。お互いが一目惚れだった。権田原は二度目の出張の時にプロポーズし、結婚の約束を取り付け、将来設計はこれからゆっくりしようと、遠距離交際が始まった。

 不幸はその最中に起きていた。時世の祖父の他界で大枚の借金が父の勝五郎に降り掛かっていた。相続放棄すればいいものを、勝五郎にはそうした知恵が回らず、角田からの甘い誘いに従うしかなかった。それがまさか角田が時世に伸ばした悪意の触手だとは気付かなかった。そして時世は角田の蟻地獄に吸い寄せられてしまったのだ。

 角田の邸で起こったことを父の勝五郎に話せるわけもなく、かと言って、婚約者の権田原には絶対に知られたくないことに、時世の心は次第に追い詰められていった。時世は自殺を決意し、権田原と別れの関係を持ったが、職場が多忙を極め、ついに妊娠が発覚するまで時が経ってしまった。体調が悪く、もしやと思い市販の検査薬で試すと妊娠していた。同時に権田原の子でなかったらという思いに愕然とした。しかし、もし神様がいて、この妊娠が愛する人の子だったらと、時世は自殺を思いとどまった。田舎での出産は上京への迷いだった。愛する人を巻き込むことになったら取り返しが付かないと、葛藤の日々が続いた。

 出産後、権田原に請われるまま上京し、幸せな新婚生活のスタートも、心に蟠りが残ったままだった。一年が経とうとしていた頃、一縷の望みを掛けて昔の同僚に匿名でのDNA鑑定を依頼した。鑑定の結果は残酷にも息子の父親が村長だと確定するものだった。

 そして三年後、権田原の留守に “私の事情です”と書いた置手紙をして帰郷。鬼隠ヶ浜の駅に着いたものの、実家に帰りあぐねて途方に暮れていた所を偶然にも風間に声を掛けられた。風間は責任を感じていた。時世に会えたことを寧ろ感謝さえした。そして地元の人間からも身を隠すべく彼の所有する空き家に住まわせてもらうことになったのである。


 権田原が見て来た一連のワープの幻覚は何だったのだろうか…いや、全てが幻覚とは思えない。見渡す限り瓦礫の風の感覚、避難所の重苦しい空気、報復同盟の存在…消せないものもある。時世にまつわる疑念は解けたが、自分の身に起こった不可解な疑念が新たに襲ってきた。

「晃さんは自由なんだから…」

 弱々しい時世の言葉が哀しかった。権田原はポケットからくしゃくしゃの紙を取り出した。

「オレたちは今も夫婦だから…」

 紙を広げると離婚用紙だった。

「これ、もうやぶいていいよね」

「…ばかね」

「…そんなことは、オレには分からん」

 権田原は離婚用紙を破いてゴミ箱に放り込んだ。時世は再び寝息を立て始めていた。


 深夜、浅野逸郎と千田良平は、多野の住まいからブルーシートに包まれた遺体を運び出した。カムイを連れた善次郎が先導し、保護区の出入り口に向かった。鉄柵の前に着くと、善次郎が鍵は開け、逸郎らが多野の遺体を中に放り込んだ。

「箍が緩んだ罰だ」

 そう言って善次郎は鉄柵を閉めて鍵を掛けると、カムイが遠吠えした。間もなく、狼たちに伴われた二頭の熊が現れた。善次郎が育てた “きばり” と “のた” である。

「持ってけ」

 善次郎の言葉に “きばり” は多野の遺体を銜え、引き摺って狼たちと共に奥に入って行った。“のた” が名残惜しそうに善次郎を見ていた。善次郎は慈愛に満ちた表情でじっと見つめて頷いた。“のた” は満足して“きばり” の後を追った。


 翌朝、権田原と時世は晃一を連れて里山を散歩していた。住民からの “あの目” は微塵もなかった。権田原はホッとした足で嫁入峠に上ると、遠くに里山に向かう捜索隊らしき一行が見えた。

 かつて捜索隊を引連れて現れた柳沼刑事一行が保護区の中で行方知れずとなって一ヶ月程が経っていた。風間は事の顛末を鬼隠ヶ浜警察に報告していたが、その後いっこうに連絡がなかった。そして一ヶ月後、何の前触れもなく突然、第二の捜索隊が里山に現れた。

 家宅捜索は通常、証拠隠滅を防ぐため対象者には予告なしに突然現れるのが常であるが、一ヶ月も経ってからの捜索は、保護区が想像以上に危険区だったため、計画にかなりの時間を費やしてしまったようだ。指揮の郡司匡茂は防犯カメラに穏やかに挨拶し、捜索令状と差押令状を一括した「捜索差押許可状」を提示した。

 善次郎は、モニター越しに郡司一行を確認した。

「カムイ、来たぞ」

 善次郎の言葉にカムイは保護区の鉄柵越しの山道を駆け登って行った。カムイを見送った善次郎は、里山出入口の解放スイッチを押すと、郡司らが待つ表門の鉄柵が開き、捜索隊一行30名は里山への長い通路を入って来た。里山の入口では今日の見張り係の浅野逸郎が待っていた。

「お待ちしてました。今、開けますね」

 郡司は逸郎に捜索の立会人を要求して来たが、逸郎は気怠く答えた。

「前回の捜索でお分かりのように、保護区の中は危険なのでね…」

 郡司は、想定していた答えにたたみ掛けた。

「そうですね。こちらもそのつもりで刑事訴訟法題114条2項・第222条1項に基づき、地方公共団体の職員の方を同行させてまいりました」

 刑事訴訟法題114条2項・第222条1項を要約すると、家宅捜索はその住居の住人の関係者が立ち会わなければないが、それが出来ない場合は隣人か地方公共団体の職員でも捜査が可能という条項だ。

「オレらには難しいことは分からねえんで、なら、そのようにお願いします」

 逸郎は人を呼ぶわけでもなく、一見無防備な態で捜索隊をすんなりと保護区の入口に案内して行った。善次郎たちはその様子をバンガローの監視映像で見ていた。


 逸郎は、保護区の入口の鉄柵の錠を開け、保護区に入ろうとする郡司に一言断わった。

「お分かりでしょうが、保護区での発砲は禁止されてますんで…」

 郡司は、半ば逸郎の言葉を無視して捜索隊を保護区の中へ誘導した。一同が中に入るのを見届けた郡司は逸郎に振り向いた。

「危険が襲えば発砲も有り得ます」

「なぜ発砲が禁止されてるか分かってますか?」

「動物愛護の精神に触れるからでしょう」

「…それだけじゃねえんだが…」

「危険が迫れば我々は緊急避難を適用するしかありません」

「一応禁止の件は申し上げましたんで。それにここは私有地であることも忘れねえでください」

 そう答えるなり鉄柵に鍵を掛けた逸郎はさっさと帰り掛けたが、足を止めて呟いた。

「…緊急避難ね。保護区の中にそういう場所って…」

 そう言い掛けて言葉を止め、にんまり顔を残してバンガローに戻って行った。ふてぶてしい逸郎の背に郡司は嫌な予感がした。本来であれば土地の所有者である風間が応対し、何かと条件を要求する筈である。しかし、見張り番に任せたまま要求も出させず、誰も出て来ない。前回、20数名率いる柳沼班はこの保護区で全員行方不明のままである。唯一の証言者だった片桐弘子は現場で脳卒中を起こし突然死している。それから一ヶ月、県警は周到な捜索計画を準備しての再登場だった。柳沼隊が生き延びる限界日数は推定10日間あったが、その期限もとうに過ぎている。生き延びている可能性は低いが、何としても手掛かりだけでも見付ける決意で臨んだ捜査だった。一介の見張り番の背にその決意が脆くも砕かれてしまうのは何故なのだろうと、郡司は自分の薄弱な意志に腹が立った。


 カムイの遠吠えが聞こえた。保護区に一陣の風が通り抜け、朝焼けの空は絵に描いたように次第に黒雲に覆われ始めた。捜索隊は郡司が率いる隊と郡司の部下の織田恭平が率いる隊の2隊に別れて距離を取り、保護区の地形沿いに里山の北側頂上に向かって捜索を開始した。獣道の進路は次第に深い森の繁みに阻まれていった。時折、野鳥の羽ばたく音に身を固くしながら進むうち、山は次第に薄暗い急斜面になり、捜索隊に不安の陰りが濃くなっていった。

「…おかしい」

 郡司は違和感を覚えていた。鳥の羽ばたき以外、生き物の気配が全くしない。先行隊の柳沼たちは今頃どこでどうしているんだろう…とその時、沢の音がした。地形図にない沢のようである。郡司は柳沼たちが沢伝いに進んだのではないかと流れの音に向かって歩を進めてオヤッとなった。さっきまでなかった獣の臭いがする。いや、これは獣の糞の臭いである。彼らの生活圏内に入ったに違いない…そう、入っていた。そればかりか郡司らの隊はすっかり獣たちに包囲されていたのだが、彼らは深刻な事態に気付いていなかった。その時、ひとりの隊員が呟いた。

「今、唸り声がしなかったか?」

 その一言が一瞬にして隊に緊張感を越え動揺を齎した。

「…気を付けろ」

 先頭を進む郡司は銃を握った。斜面の叢がガサゴソと揺れた。郡司は思わず発砲した。

「郡司さん、発砲は禁止されています!」

 向こう側の隊を率いる直下の織田恭平が叫んだ。

「緊急避難の威嚇射撃だ!」


 権田原と時世の散歩の足は、嫁入峠を下り、工藤峻斗や河合沙月らが作業する陸上養殖場に至っていた。突然その場に時世が倒れた。頭部に銃弾を受けていた。時世は権田原の子を身籠って正産期に入っていたため、掛かり付けである里山の病院に急いだ。身籠っていた男児は救われたが、時世は即死だった。

 里山病院長の小笠原憲伸が処置を終えて警察に通報していたが、その表情は次第に怒りに変わっていた。

「保護区から発砲されたと思われる銃弾で里山の住人が死亡したんです。被害者は妊娠しています…当然、捜索隊の発砲じゃないんですか? 早急に対処してください!」

 ひと通り話し終えた小笠原院長は憮然と受話器を叩き切った。予想どおりの警察の対応に溜息を吐いた。

 風間が病院に駆け付けて来た。

「権ちゃん!」

 風間は、生まれたばかりの胎児を抱く権田原の横で白布を被った時世を見て愕然とした。善次郎もカムイを連れて駆け付けて来た。

「保護区で発砲しやがったか!」

 風間と善次郎は発砲のあったであろう保護区の北側出入口に向かうことにした。


 翌早朝、鬼隠ヶ浜警察署長の滝澤が部下と地元消防団員ら急遽の救助隊を結成して10名程でやって来た。その日の見張り番の太三郎は彼らを保護区北側出入口に案内し、鉄柵の鍵を開けた。

「どうぞ。いつ弾が飛んで来るか分かりませんが…」

「誰か案内人は居ないのか?」

「保護区は危険ですからね。いや、今や保護区だけじゃなくて里山全体が危険になった。あんたらの仲間の発砲で死人が出たんですよ。案内など飛んでもありません」

 滝澤は躊躇していた。

「どうしました? 入らないなら閉めさせていただきます」

「いや、入る」

「待て!」

 風間が仁王立ちしていた。

「警察の不用意な発砲で人が死んでいる。一言の謝罪もなく好き勝手はさせない」

 滝澤は狼狽えた。

「これから詳しく調査して適切な対処をと…」

「てめえらが何しようと関係ねえ。この報いは覚悟して置け」

 風間はそう言って去って行った。

「どうします? 入るの、入らないの?」

太三郎が気怠く聞いて来た。

「鍵を開けてもらおうか」

「もう開けたろ」

「ああ、そうだったな」

「発砲は禁止。撃ったらその報いは覚悟しなきゃね。では、さようなら」

 捜索隊一同は恐る恐る保護区の中に入ったが、誰一人率先して山の奥に進もうとする者は居らず、入口に団子のように固まった。そんなことには構わず、太三郎は鉄柵の鍵を閉め、さっさとバンガローに引き上げて行った。その背に滝澤が叫んだ。

「ここを出る時はどうすればいいんだ!」

 太三郎は返事をせず、鉄柵沿いの山道を速足で下りて行って見えなくなってしまった。救助隊は仕方なく奥に入って先遣隊の跡を追うことになった。獣道を進むとすぐに叢に覆われていった。消防団長の小岩井正三が突然頭上に宙吊りになっている人間を発見した。

「見ろ!」

 救助隊は怯んだ。保護区の奥で獣用の罠に掛かって宙吊りになっている隊員が見えた。郡司だった。滝澤らは郡司を救出しようと藪を掻き分けて行くと、その凄惨な姿に体が硬直した。郡司の体は、獣に喰い散らされた後だった。気配に気付き、空を見上げると黒雲を背に猛禽類が弧を描いて飛んでいた。周囲を見回したが先遣隊の姿はひとりも見当たらなかった。

「生存者を捜すにはもっと奥に入るしかないな」

 その一言に恐れをなした消防団長の小岩井が滝澤に進言した。

「部下をこれ以上危険に晒すことはできません。我々はここで退却させていただきます!」

 滝澤にとって信じられない言葉だった。

「あんたら何の為にここに来たと思ってるんだ!」

「これだけの危険には部下を晒せないと言ってるんです。我々消防団は軍隊じゃありません」

 滝澤はそれ以上強要できなかった。消防団員の退却を急かすように、時折、大粒の雨が落ちて来た。小岩井が号令を掛けた。

「消防団員は撤退!」

 消防団長が断を下し、6名の地元消防団は全員退却して行った。

「臆病者どもが…」

 消防団員らに滝澤は苦虫を咬んだ。

「我々は警察官である! 今後は我々だけで救助を行う! 仲間を救助するまで前進あるのみだ!」

 しかし、先遣隊が保護区に入って一ヶ月も経っている。救助という言葉は余りにも現実離れしていた。滝澤の檄に部下らは動かなかった。

「何事だおまえら!」

 堪り兼ねた隊の先輩格である後藤田陸男が進言した。

「署長! 部下をみすみす危険に曝すのですか!」

「それでもおまえは警察官か!」

「しかし…」

「私の命令に背くのか!」

 後藤田率以下4名は仕方なく滝澤の隊に合流した。

「前進!」

 雨脚が徐々に早くなった。歩き始めてすぐに先頭の滝澤が斜面の藪に足を取られて転倒した。

「署長!」

 後藤田が走り寄ると滝澤の目は前方を凝視していた。後藤田も動きが止まった。藪の奥から睨んでいる鋭い視線と目が合った。獣の目だ。一頭だけではなかった。行く手の藪の陰に獣たちが立ち塞がって今にも襲い掛かろうとして牙を剥いて潜んでいた。滝澤は一瞬たじろいだが、隊に叫んだ。

「攻撃!」

 しかし、保護区が発砲禁止であることは隊員皆が自覚していた。滝澤の命令は所有者との約束に齟齬があったため、隊員たちの誰もが発砲を躊躇した。その一瞬に獣たちの総攻撃がなされた。攻撃は狼が主導した。狼たちに弾き飛ばされて銃を失った隊員に猪が突進し、滝澤一隊は蜂の巣を突いたように斜面を転げ落ちた。


 雨脚が激しくなる中、滝澤は隊員たちが獣の犠牲になって行く姿を横目に、ひとり鉄柵まで逃げて来た。鉄柵の外には丁度、風間と善次郎が立っているのが見えた。滝澤は二人の姿に安堵した。

「助けてくれ!」

 風間と善次郎は答えなかった。そして彼らの後ろには黒装束で喪に服した里山の住人たちが大勢集まって来ているのに気付いた。

「早くここを開けてくれ! 獣に追われてるんだ!」

 住民たちは無言で滝澤を睨み付けていた。

「何をしてるんだ! 早く開けろ!」

 滝澤の耳に熊の唸り声が聞こえた。ゆっくりと振り向くと、2頭の熊が牙を剥いていた。“きばり” と “のた”である。滝澤はヒステリックに叫んだ。

「何をしてるんだ! 早くここを開けろ!」

「里山の住民に不幸があり、現在我々は喪に服しています。三日間、死者の冥福を祈り続ける間、何も出来ません」

「何を言ってるんだ! この状態が見えるだろ! 緊急事態だ、ここを開けろ! 命令だ!」

「私の所有地での発砲は許可していません。それにも拘らず、里山の住人は保護区から発射された銃弾で命を落としました。その償いはしてもらいます」

「分かった、償いはする。だから早くここを開けてくれ!」

「償いは今してもらいます」

「今 !? どうやって償えというのだ!」

 喪に服した黒装束の里山住人たちは合掌し、バケツを引っくり返したような豪雨の中、般若経を唱え始めた。滝澤は銃を構えた。

「開けろ! 開けなければ撃つ!」

 突然、滝澤の体が引き摺られ、地面に倒れ込んだ。その反動で銃が弾け飛んだ。滝澤は “きばり”と“のた”に片足づつ銜えられ、勢い森深くに引き摺られて行った。


 経が終わる頃、雨脚は弱くなり、黒雲から陽の光が射し始めた。赤子を抱いた権田原が現れた。

「喪に服している間に保護区でのゴミ掃除が終わるだろう。そしたら時ちゃんには嫁入峠の頂上で眠ってもらおう」

 権田原は力なく頷いた。その時、鉄柵の向こうからカムイと妻のイメル(稲光)が子どもたちを連れて現れた。

「おまえに家族が出来ていたか」

 善次郎が嬉しそうに鉄柵を開けると、カムイは長男を銜え鉄柵の外に出し、自分は保護区の中に留まった。善次郎はカムイを見つめた。

「今度はこの子を育てろというのか?」

 カムイとじっと対峙していた善次郎は、権田原に振り向いた。

「権ちゃん…あんたの息子の用心棒だそうだ。この保護区はあんたの息子に託されたんだ」

 カムイはこの保護区の頂点に君臨している狼である。自分が善次郎の元にあったのも、里山の住民と共存する橋渡し役にあるがためだった。そして今、カムイは森に帰る。その代りに、この里の守役に権田原の抱いている赤子を指名し託したのだ。

「我々はこのをレラ(風)と名付けて育てる。今後はわしに代わって、この父児が保護区を見まわる」

 カムイは善次郎の言葉を聞き終えると、家族を連れて保護区の森の奥へと消えて行った。それを見送ると善次郎は北出入口の鉄柵の鍵を権田原に渡した。権田原は風間の顔を見た。風間は微笑みながら頷いた。

「頼んだぞ」

 この世に時世はいない。もうワープで戻れない気がした。権田原は鉄柵の鍵を閉めた。

「晃一、面倒見てやってくれるか」

 そう言って、権田原は赤子を晃一に抱かせた。晃一は嬉しそうに微笑み大きく頷いた。権田原が三人で生き抜く決意をした瞬間だった。権田原は足下のレラをそっと抱き上げた。

「…レラか」

 レラのあどけない目を見ながら、我が子には “風華” と名付けることにした。


〈最終話「避難所」につづく〉

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