第9話 理想の避難所

 第一倉庫はあっという間に避難所仕様になった。倉庫の設計者は繁野太三郎だった。善次郎のバンガローも施工した大工でもある太三郎は一級建築士の資格を持つ強者だった。太三郎は施設の責任者となった辻村美穂を伴って避難所仕様となった第一倉庫とその周辺を案内していた。

「…これは!」

 美穂は、鬼隠ヶ浜の避難者を受け入れる第一倉庫の設備を見て絶句した。様変わりした第一倉庫はかつての雉追平避難所とは比べ物にならない程の設備が整えられていた。男女離れた更衣室、トイレ、洗濯場、入浴施設、授乳スペース。隔離された喫煙所などは当たり前のように設置されていた。これだけの設備があれば避難弱者が忌まわしい恥辱を強いられることもなかったろうと美穂は唾棄の過去を打ち消した。更に美穂が驚いたのは、感染症予防対策の設備が施された救護室、トレーニングジム並みの化粧室、そしてホールの端にはプライバシー保護とソーシャル・ディスタンスを考慮した一人当たり幅奥行高さがそれぞれ2mある間仕切りパーテーションセットが積まれていたことだ。その上、建物の裏には車中泊用の駐車スペースがある。そればかりかペット用のゲージスペースや排泄場所、避難所のゴミ集積所、隣接する別当には盲導犬・聴導犬・介助犬を必要とする身体障害者用スペースまで用意されていた。とても俄か仕立てとは思えない太三郎の多目的仕様の設計が光り、学生専用の里山収容施設より設備が整っていた。ひととおり案内した太三郎は傍らを指差した。

「あそこは年寄りのリハビリ場だ」

 そう言ってその作業畑に案内した。そこは避難者のエコノミークラス症候群対策として自給自足の作業をする場所だった。かつて権田原が養鶏場かと腹が立った仮設住宅での思いが作業畑の設置に駆り立てた結果である。災害救助法では避難所開設期間は原則7日間であり、応急仮設住宅の着工は1ヶ月以内とされているが、そんな決まりなど机上の戯言であることは先の震災で経験済みである。震災の復興までは作業畑で自給自足による収穫の喜びを味わう避難期間は、残念ながら充分にあると考えて用意された。

 権田原は畑で作業しながら、美穂が里山の避難所を一回りするのを待っていた。

「お久しぶりです。10年前の避難所以来ですね」

 美穂は警戒した。10年前の高校生時代の恥辱の事件を知っている人には出来る限り会いたくなかった。

「担当の権田原です。お互い坂巻さんにはすっかりお世話になりましたね」

「ああ、あの時の…」

 美穂はやっと警戒を解いた。レイプ被害の後、坂巻や権田原には何かと力になってもらった記憶が蘇った。

「その節は…」

「いえ、お互い様です」

 権田原は敢えて美穂の言葉を遮った。

「この避難所の管理は、避難民のつらさを誰よりも知っている美穂さんにお願いしたいんです。ここの避難所では避難民自身に運営してもらいますが、規則を守れない方には即強制退去してもらいます。美穂さんにはどんな小さなことでも逐一報告していただきたいんです」

「私一人では…」

「お手伝いの方が必要であれば美穂さんに教えていただければ私から話します」

 権田原は避難所責任者となる美穂を避難所事務所に案内し、避難所生活ルール・避難所業務日誌・避難所状況報告書・避難者名簿の世帯個票などの書類を渡した。

「必要なら聴覚障碍者のヘルパーなども呼べますから…大丈夫です。全面フォローします」

 権田原がなぜ忌まわしい過去の呪縛から未だに逃れられないでいる自分を責任者に指名して来たのか…しかし、美穂には何やら温かいものに思えた。

「分かりました」

 美穂が前向きになった様子に安堵した権田原は、太三郎と共にその場を辞した。


 鬼隠ヶ浜市の避難所から選ばれた避難民が続々とやって来た。美穂の友人の上原久代と香山マリ、そして看護婦長の梶田広江が運営スタッフに加わって避難民の受け入れに当たっていた。

 風間と権田原はバンガローのモニターでその様子を監視していた。その目が光った。避難民の中に里山反対派の滝口弘毅や長田八郎、末次舜二らと動物愛護団体のメンバー、鹿嶋園江、沖栄、岡野友則らが顔を揃えているのを見逃さなかった。

「案の定、飛んで火に居る何とやらだな」

 強行な避難所要請は反主流派の思惑であることが証明された。及川が市長として微妙な位置に立たされていることはほぼ間違いなかった。

「ゴミだらけですね」

 ともにモニターを見ていた沙月の表情がきつくなった。北村文治の顔があったからだ。北村は沙月の母校である鬼隠ヶ浜小学校の元教頭で、決断ミスで大勢の生徒たちに犠牲を強いながら、避難途中で逃げ伸びた生き残りだった。木澤の情報どおり、北村は滝口ら反主流派を束ねている主犯に間違いなかった。猪上らはいきり立っていた。

「やつら完全に里山の破壊工作を企ててやがる」

「ゴミの大掃除には絶好の機会だな」

 善次郎の呟きに風間が笑った。

「そういうことだ。一日置きに里山を出て行ってもらう人間を小刻みに発表して甚振るか」

「廊下の足音にビクつく死刑執行人の恐怖を味わってもらおうというわけか」

 風間は彼らの破壊工作を早めるために、早速三日目の午後に里山を出て行ってもらう第一陣6名を発表した。その中に滝口弘毅と鹿嶋園江、そして北村文治の名があった。その夜、風間の思惑は的中した。滝口と園江が辺りを警戒しながら避難所を脱走した。木澤が繁みで合図した。

「こっち、こっち」

 木澤の誘導に滝口と園江が近付いて来た。

「熊は大丈夫なの?」

「今はおねんねの時間だよ。中に入ったら急いで小屋に入れば大丈夫だ。小屋は真っ直ぐ50メートル程先にある。そこに保護区の重要な防犯計器が集中してるんだ」

 一間遅れて北村が現れた。

「先生、遅いじゃありませんか!」

「これを捜してたんだ」

 北村は爆破用の遠隔装置を出した。

「私が置いてあったところになくてね。誰か移動したかい?」

「知りませんよ。爆破は先生の役割でしょ」

「…ま、見つかったからいいんですが」

「じゃ、行きましょうか」

 北村は動かなかった。

「先生、どうしたんです?」

「私はここで待たしてもらうよ」

「怖気づいたんですか?」

「私は若くない。足手まといにはなりたくないんでね」

 滝口は北村への不信感を露わにした。木澤が急かした。

「次の見回りまで時間がないっすよ」

「仕方がない、私らだけで行きましょ」

 滝口は園江の言葉に従うしかなかった。

「…そうだな」

「すまんな」

 北村は安堵して爆破用具一式を園江に渡した。それを確認した木澤は鉄柵の鍵を開けた。

「真っ直ぐ小屋に向かってくださいよ。保護区への侵入セキュリテイが作動する前に入らないと大騒ぎになりますから!」

 滝口と園江が鉄柵の中に入ると、木澤は急いで施錠した。ふたりが保護区の奥へ分け入って見えなくなって間もなく、獣の気配が騒がしくなった。突然、滝口が血相変えて鉄柵にしがみ付いて来た。

「出してくれ!」

「どうしたんすか?」

「小屋はほんとにあるのか! 兎に角ここから出してくれ!」

 見ると狼が滝口の足に噛み付いていた。

「早く助けてくれ!」

「だから私は入りたくなかったんだ!」

 北村は既に逃げ腰だった。必死の形相で鉄柵を握った滝口の手が、狼に引き摺られて一気に引き離された。

「助けてくれーっ!」

 隠れていた園江が繁みの奥から現れた。

「何してるの、早く鉄柵を開けて!」

 木澤は急いで鉄柵の鍵を開けると、出て来ようとする園江を蹴り返し、傍にいる北村の襟首を掴んで保護区の中に突き飛ばして鍵を掛けた。

「何すんだ!」

「仲間を助けてやれよ、先生!」

「ここを開けるんだ!」

 鉄柵にしがみ付いて来る北村をもう一頭の狼が襲って来た。寸でのところでかわした北村と園江は互いを楯にし合いながら必死に小屋を探した。やっと小屋を見付けたふたりは中に転がり込むと、園江は急いで爆破用具一式を北村に押し付けた。

「あんたの役割でしょ、早く設置して!」

「計器はどこにあるんだ? ただの休憩所じゃないか! 我々は木島の野郎に騙されたんだ! 計器なんかどこにもないじゃないか!」

「どこでもいいから早く設置して! もたもたしてたら見つかるでしょ!」

 北村は手際よくプラスチック爆弾を設置して、遠隔装置を握り締めた。

「何してるんですか、逃げますよ先生!」

「しかし、外には狼が…」

「ここを出なきゃ爆破できないでしょ! 遠隔装置をよこして!」

「これは渡せません!」

「何言ってるんです! 早くここを出て小屋を爆破しないと」

 しかし、北村は園江の要求を強く拒んだまま、小屋を出ようとしなかった。


 暗がりから猪上が現れた。

「2人は小屋に入ったようだな」

 猪上は徐にポケットから遠隔装置を出した。北村の持って行った遠隔装置は昨日のうちにすり替えた偽者だった。

「引き上げだ」

 猪上は遠隔操作のスイッチを押した。保護区の中で鈍い爆破音が轟き、再び静寂が訪れたかに見えたが、間もなくして獰猛な獣の唸り声が響いて来た。

「細切れは喰いやすいだろ」

 ほどなく月夜の空にはおこぼれに与ろうとする猛禽類が一羽また一羽と弧を描き出した。


 里山の反主流派が避難所を出される朝がやって来た。

「最初のお約束どおり、昨日お名前を発表した皆さんには里山避難所のルールを守っていただけませんでしたので、ここを出て行っていただきます」

「たった三日しか経っていないじゃないか!」

「三日も猶予を与えたのに改善していただけませんでした。あなたも出て行きますか?」

 反論した避難者は黙った。第一陣はとぼとぼと一列に市の送迎車に向かった。その中のひとりに東京で殺害された寿三郎の妻・弘子が居て、権田原に気付いた。

「あんた、晴美を知ってる人だよね! 親がこんな目に合っていると、嫁に伝えてもらいたい」

 権田原は噛んで含めるように答えた。

「晴美さんはお宅の嫁ではありませんよ」

「死んだ息子の嫁だ!」

「いいえ、今はあなたとは縁もゆかりもない人なんです。あなたのような人のために姻戚関係終了届というものがあるんですよ」

「隕石 !?」

「10年以上前に届け出が成されています。既にあなたとは赤の他人になっています。おとなしく里山から出て行ってください」

「私はあんたになんか聞いてない! 晴美を呼んでくれ! 一緒に帰るんだよ!」

「片桐弘子さん…他の方のご迷惑になりますから、静かにお帰りください」

「なんてことを言うんだよ、年寄りに!」

「お気を付けて。さようなら」

「三人はどうした!」

「三人?」

「私は知ってるよ! あんたら三人を殺したな」

「どなたをです?」

「鹿嶋園江…滝口弘毅…北村文治…」

「お知り合いですか?」

「あの三人を殺したろ」

「今日退所していただかなければならないんですが、今朝から行方不明なんです。もしかして弘子さんは彼らの居場所を知ってるんですか?」

「恍けるんじゃない、このひと殺し!」

「さあさ、市のお迎えが来ますから」

 強面の太三郎と良平が立ち塞がった。

「死んだら祟って出てやるからね!」

「じゃ、早く死なないとね。天国に行けたら息子さんに会えるし、地獄に堕ちたらご主人に会えるじゃねえか」

「こんな年寄りを捉まえて何てことを…」

「ご主人が何をしたか…お忘れじゃありませんよね」

 権田原の冷徹な言葉に弘子は絶句して、へなへなとその場にへたり込んだ。市の職員が駆けて来たので権田原はきつく問い質した。

「避難人員の選択をきちんとやったんですか? 初日から規則を守れない人を人選するなんて担当者は何をしてるんですか!」

「すみません」

「責任者の説明を聞きたい。急いで来るように伝えてください。納得のいく説明がなされなければ、明日にでも全員出て行っていただくしかありません」

「承知しました!」

 職員は恐縮しながら弘子を二人掛かりで送迎車に連れて行った。避難民を装って里山避難所に送られて来た里山反対派は、その後も3日置きに数人づつ強制退去させられていった。入れ替わりで入って来た避難民は里山反対派を押し出す形になり、半月も経たないうちに当初の人数の半分ほどに減った。既にこの世にない北村の思惑は皮肉にも完全に崩壊し、市長の及川の立場は回復して行った。


 里山監視のバンガローは瀟洒なロッジ形態に様変わりしていた。善次郎は明け方のテラスの椅子に腰掛けて空を見上げて微笑んでいた。

「…順番待ちか」

 夜が明けても猛禽類がゆっくりと弧を描いて回っていた。息子の猪上浩太が顔を出した。

「今朝は “きばり” と “のた” の子どもたちが喰ってる」

「腐った犬はまずかろうが、育ち盛りだからな」

 “きばり” と “のた” とは、かつて密猟で親熊を失った二頭の熊である。善次郎が引き取って一人前に育てていたが、動物愛護団体を騙る園江らの難癖で保護区に放つのが少し早まった熊たちだ。彼らの餌のおこぼれを大空で猛禽類が待っている。小一時間もして骨だけになった “餌” は狼が片付ける。人間生活で邪魔になった者を、彼らは綺麗さっぱり掃除してくれていた。風間はこの保護区で日本狼を復活させる試みも続けていた。現在、雌雄のペアを中心とする群れは三つに増えていた。従って、餌となった生き物は骨すら残らなくなって久しい。


 善次郎の飼い犬が異常を嗅ぎ付けて寄って来た…犬ではない。日本狼である。彼もまた、幼い時に空で舞う天敵に襲われて親に逸れてしまったところを保護区を巡回していた善次郎に救われた狼だ。見るとモニターには正面出入口に刑事の柳沼岳春が立って居た。傍には興奮気味の片桐弘子が同行していた。善次郎は飼い狼の“カムイ”に語り掛けた。

「おまえの出番が来たようだな」

 “カムイ” はバンガローのテラスに出て保護区の仲間に遠吠えを始めると、保護区の仲間もそれに応える遠吠えが響いて来た。鉄柵の外の柳沼は20人程の捜索隊を引き連れていたが、狼たちの遠吠えに幾許かの危機感を抱いた。

「開けろ、警察だ!」

「あの婆さん、元気だな。無理すると頭の血管が切れんじゃねえか?」

 柳沼は家宅捜査令状を提示した。善次郎はマイクで応えた。

「今、開けます」

 鉄柵が開いた。柳沼以下捜索隊は里山の入口までの長い鉄柵通路を物々しく入って来た。風間と権田原が出迎えた。

「お久しぶりです、柳沼さん」

「家宅捜査させていただきます。お電話でも話しましたが…」

「窺っています。行方不明者である北村文治さん、滝口弘毅さん、鹿嶋園江さんの三人が保護区に入ったのを見たという人がおられたんですね」

「目撃者は片桐の婆さんだったのかい?」

「この人殺しが! おまえら、気に入らん者は保護区の獣に食わしてんだろ!」

「片桐の婆さん、認知症にはまだ早いだろ」

「何抜かすか! 保護区にはあの三人の食い荒らされた死体が転がっていよう! これ以上、おめえらの好きにはさせねえからな!」

「兎に角、ここを開けてくれませんか?」

「分かりました。気の住むまで捜索してください」

 里山への鉄柵を開け、一同を保護区の鉄柵の入口まで案内した。

「保護区の中を案内してもらおうか」

「皆さんが保護区に入るのを拒みはしませんが、我々が入るのは辞退させていただきます。中は食物連鎖の野生の保護区です。危険でもあるんです」

 柳沼の想像した答えが返り、案内を諦めるしかなかった。

「では、保護区の鍵を開けてもらおうか」

「保護区では全域が特定猟具使用禁止区域なので、武器の携帯はお断りします」

「武器携帯は警察官等けん銃使用及び取扱い規範第14条に基いている」

「そうですか。ではご忠告申し上げます。一度でも発砲したら、あなたたちは動物たちに敵と見做されて大変な事態になるかもしれません。そうなったら我々にはどうすることも出来ません。そのことをお含み置きください」

「我々は身を守ることは訓練されている。緊急避難の場合にのみ、そうなるかもしれないということだ」

「保護区の生物たちには一切の法は通用しません。勝手に彼らのテリトリーを侵す行為と見なせば危害を加えてきます。最悪、全員が命を落とすことになるかもしれません、片桐弘子さんの証言に因ってね」

 権田原は弘子を見た。弘子は事態の深刻さに目を背けた。

「承知している。保護区の鉄柵を開けなさい」

「中で何があっても一切の責任は負えませんので、これにサインしてください」

 権田原は捜査に於ける事故に対する自己責任の承諾書にサインさせた。

「皆さんが中に入ったら、安全上すぐに閉めます。緊急事態に於いて助けを求められても、里山の住人の安全を確認できない限り、施錠したままになります。宜しいですね」

「いいから早く開けろ!」

 説明にいらいらしてつい怒鳴った柳原は、権田原の冷めた視線に目を逸らした。保護区の出入り口には猪上が待機していた。

「地獄へようこそ」

 そう呟いて鉄柵の鍵を開けた。捜索隊は一瞬の躊躇の後、柳沼と弘子を残して一気に保護区の中に入って行った。

「では、捜査が済んだら呼んでください。入口のバンガローに居りますので」

 権田原らは鉄柵を離れた。保護区に入って行った捜索隊は獣道を伝い樹木の奥の草叢に消えて行った。不気味な静けさだった。


 小一時間程経った頃、柳沼は弘子の様子に違和感を覚えた。弘子が何かを言おうとしているが舌がもつれて聞き取れない。

「どうしました、片桐さん?」

 弘子は突然その場に倒れ、動かなくなって大いびきをかき出し、それも止まった。柳沼が慌ててバンガローに走った。

「片桐の婆さんが倒れた!」

 権田原の手配で嫁入峠病院の医師・坂下学と看護師の吉野若菜が駆け付けて来た。

「脳卒中ですね」

「助かるのか!」

 坂下が呼吸停止している弘子に心臓マッサージを施す間、若菜はAEDを準備した。

「離れて!」

 何度か蘇生を試みたが、弘子は息を吹き返さなかった。柳沼は愕然とした。唯一の証言者が死亡してしまった。突然、若菜が悲鳴を上げた。捜索隊のひとりが鉄柵に凄い勢いで体当たりして来たのだ。いや、体当たりではなく、強い力に投げ飛ばされたのだ。鉄柵に擦れるように崩れ落ちたその隊員は血だらけのまま既に息絶えていた。柳沼は権田原に怒鳴った。

「ここを開けろ!」

「私は鍵を持っていません」

「なら鍵を持っているやつを呼んで早くここを開けさせろ! 何をモタモタしてるんだ!」

「言ったはずですよ、柳沼さん。緊急事態に於いて助けを求められても、里山の住人の安全を確認できない限り、ここは施錠したままになりますと」

「そんなことを言ってる場合じゃないだろ! 早く開けろ!」

「里山の住人を危険に晒すことはできません」

 程無くして善次郎は“カムイ”を伴って現れたその時、銃声がした。一間あって一斉に獣たちの残虐な唸り声とともに、人間の呻き声が入り乱れた。

「早く開けろ!」

「断る」

 そう言った善次郎の喉元に、柳沼は銃を突き付けた。

「開けろ!」

 “カムイ”が唸って臨戦態勢になった。権田原が “カムイ” を制した。

「あなたは大きな間違いをしている。捜査令状を越える職権を乱用している」

「いいから開けろ! 緊急事態なんだ!」

 善次郎の目が光った。突然、“カムイ” が柳沼の手首に飛び付いた。空に向かい発砲音が轟いた。地面に落ちた銃を権田原が蹴り飛ばし、駆け付けた猪上浩太は鉄柵を開けて柳沼を保護区の中に突き飛ばして鍵を閉めた。

「何をする!」

「あんたの言うとおり、鍵を開けたろ。部下を助けに行きなよ」

「銃をよこしなさい!」

「銃ね」

 猪上は銃を拾った。そしてその銃口をゆっくりと柳沼に向けた。

「祖父ちゃんに突き付けた危険な銃ですよ。渡せるわけがないじゃないですか」

「君がそれを持ったら拳銃等の不法所持で懲役刑は免れない。早くこっちに渡しなさい」

「これは正当防衛又は緊急避難じゃないすか?」

 突然、柳沼の背に血だらけの隊員が投げ飛ばされた。その隊員も既に息絶えていた。柳沼は初めて恐怖を覚えた。

「開けろ! 早くここを開けろ!」

「今の立場が分かってんのか、てめえは。いつまで上目線なんだ。オレはおまえの部下じゃねえんだ!」

「…開けてくれ…頼む!」

 善次郎が柳沼に鋭い視線を浴びせた。

「部下を見捨てて自分だけ逃げるのか?」 

「助けてくれ! オレが間違ってた! ここを開けてくれ!」

 千田良平が一同を迎えに来た。

「皆さん、お昼です。病院のセンセ方も食べて行きなよ」

「お婆ちゃんを運ばないと」

「あと、あと。死体は逃げないよ」

「そうも行かないですから」

 坂下医師と看護師の若菜は千田に手伝ってもらい、弘子の遺体を里山の出口まで運んで行った。権田原らは柳沼を無視しバンガローに向かった。

「おい! おまえら! …くそっ!」

 柳沼は仕方なく保護区の奥に向かおうとするが、その足を止めて振り返り、無残な隊員らの腕から銃を取り、気を取り直して再び奥に向かって行った。


 柳沼は目を疑った。及び腰で近付いた繁みの奥には地獄が広がっていた。獣に襲われた隊員たちの死体が様々な肉食動物たちに食い散らされていた。そこまでは柳沼の想定内だったかも知れないが、事態は異常だった。隊員同士が殺し合いをしている。

それはひとりの隊員の発砲が仲間に当たってしまったことから端を発した。倒れた隊員に獣が殺到したことで命を長らえる手段を学んだ彼らは、仲間を殺すことで自分の身の安全を謀ろうとしていた。柳沼は最早隊員たちには自分の指揮が通用しない危険を悟り、その場に身を潜めて監視するしかなかった。

 大きい個体の肉食獣は、餌を独占するために死体ごと銜えてそれぞれの棲家に引き摺って行った。喰い散らされた死体には、二番手三番手の小型肉食獣たちが群がっていた。しかし、次から次から大型の個体が隊員たちに迫った。蜂の巣を突いたように散らばった隊員たちは、それぞれに獣と隊員から身を守るために孤立し、完全に常軌を逸していた。

 一人の隊員が柳沼に発砲した。柳沼の耳が千切れた。機動隊で慣らした柳沼は本能的に銃を放っていた。繁みの奥に手応えがあった。少しして獣らの陰惨な唸り声が迸り、柳沼の弾に倒れた隊員の断末魔が響いた。柳沼は自分の手で部下を犠牲にしたことで、今まで張り詰めていた何かの糸が切れた。


 木漏れ日が傾き、気温がぐんと冷え、保護区に静けさが戻った。どうやってあの地獄からここまで逃げ延びて来れたのだろう。疲労困憊の柳沼は、出口に戻ろうと振り向いて凍り付いた。二頭の熊が自分を睨み据え、臨戦態勢で構えている。“きばり” と “のた” である。

「オレはおまえらの犠牲にはならない」

 柳沼が銃を構えると、“きばり” がゆっくりと “のた” の前に出た。

「うせろ!」

 そして引き金を引いた。手応えがあった…はずなのに “きばり” は微動だにせず、今にも飛び掛かろうとゆっくりと体制を低くした。柳沼は続けざまに引き金を引いた。カチッと音がした。これまでに味わったこともないような恐怖が柳沼の背筋を撫で上げた。もう二丁とも弾は残っていない。 “きばり” と “のた” はゆっくりと柳沼に近付いて行った。


 昼食を済ませ、善次郎はカムイを連れて保護区に入った。そこには喉を一噛みされて息絶えた柳沼が目を剥いていた。

「 “きばり”…“のた”…よくやった」

 “きばり” は足から血を流して倒れていた。柳沼の発砲から “のた” を守るために受けた弾だ。

 善次郎に呼ばれた風間が現れ “きばり” を撃った。“のた” が戦闘態勢に入ったが、善次郎が制するとおとなしくなった。麻酔銃である。“きばり” が意識を失う頃、権田原と時世が現れた。時世が “きばり” の足の弾を手際よく抜くのを権田原が手伝った。ふたりの姿に風間と善次郎は満足げだった。


 陽はすっかり傾き、里山を美しい夕景が覆っていた。善次郎は “きばり” が覚醒するまで傍に付いていた。“きばり” が目を覚まして起き上がると “のた” が寄って来た。二頭は死体の柳沼に目もくれず、仲良く塒へと消えて行った。

 善次郎が鉄柵の外へ出るや、影を潜めていた獣たちだが、柳沼の死体に群がって奪い合いが始まった。獣に喰い千切られながら、柳沼の目は空に向かって見開かれていた。恐らく、あの悲惨な大震災で黒い津波に呑まれた犠牲者も、自分の体がどうなってしまったかも知らず無残に瓦礫と荒波の藻屑となってしまったのだろう。自然への畏敬を忘れた者たちへの報いかもしれない。そこには不条理への後悔しかない。そしてまた自然の猛威に一時身を引き締めても、時が来れば人間は忘れる。忘れてはならないと石に刻んでも、人間はその石を忘れる。


〈第10話「送り人」につづく〉

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