第8話 守るべきもの
千年に一度の大震災と呼ばれる根拠はどこにあるのか…今から千年余前(平安時代)にその根拠となった貞観地震が起こった。東北地方沿岸を大津波が襲い、多くの人々が命を失ったことが記録されている。被害を体験した彼らは後世に “ここより下に住むな” という目印の石碑を残した。
東北地方にはこうした石碑が数多く残っている。貞観地震以降にも東北地方で起こった地震や津波はいくつかあるが、明治以降でも三大津波である明治三陸地震、昭和三陸地震、チリ地震での津波が起き、千年どころか150年以内に大きな傷跡を残している。その度に先人はその恐怖の教訓を石碑に刻んで後世に伝えた。その数、東北3県だけで約300基確認されている。その内、3分の2には何らかの教訓が彫られ、石碑より高いところでは殆ど被害がなかったのだ。しかし、永い年月を経る中で、利便性が優先され、次第に石碑は雑草に覆われて苔生し、人々の生活基盤は石碑より低い地に移って行った。鬼隠神社の長い石段の入口にある鳥居横にもそうした石碑は残っていたが、その教えを無視し、麓の鬼隠ヶ浜には宅地が広がっていった。
里山計画の反対派だった滝口弘毅以下十数人が一転、低姿勢で里山居住を申し出て来たが、風間は断りの姿勢を崩さなかった。その後も滝口は執拗に里山計画への支持を訴えながら居住を願い出て来た。
「先祖が建てた家だ。わしらに責任はねえ。責任は宅地の許可を出した市にあるべ」
「なら、市に掛け合ったらどうなんです?」
「市は相手にしねえ」
「そんな理由でここに来られても応対しかねます。それはあんたと市の問題だ」
「俺たちは里山計画にこれほど賛成してるでねえか…一体これ以上どうすればここに住まわしてくれるんだ」
「それはあんたらの胸に手を当てて考えたらどうです?」
「俺たちを見殺しにするのか?」
「何度も言わせないでもらいたいな。あんたの腹は分かっている。このまま帰ってくれ」
「頼む! 助けてくれ!」
「市に助けてもらえ。里山はこれ以上の所帯人口は増やせねえんだ」
「わしらだって鬼隠ヶ浜の人間だろ!」
「里山計画に先陣切って猛反対したのは誰だったかね。あんたらの反対のために里山計画は何年も遅れたんだ」
「騙されたんだよ、オレたちは! すっかり市を信用し切ってたんだ」
「それはあんたらの問題だ。我々には関係ない」
「これほど頼んでも駄目か?」
「駄目だ」
「このままでは済まさねえぞ!」
「騙るに落ちたな。その考え方が駄目なんだよ!」
風間の大声で猪上以下が間に入った。
「滝口さん、あんたの魂胆はバレバレなんだよ。おとなしく出てってもらおうか」
「おまえなんかに用はない! オレらは風間さんと話してるんだ!」
「ここの警備は我々が任されているんだよ。これ以上風間さんに言い掛かりを付けるなら我々が相手になる」
「チンピラのくせにいい気になるな!」
「チンピラは何するか分からないよ。この土地から早く出て行ったほうがあんたのためだと思いますよ、滝口さん」
「おまえに何の権利がある!」
「土地の所有者が退去を命じてるんです。これ以上ここに居ると不法侵入になりますよ」
「偉そうに…」
「出て行かなければ実力行使します」
「やれるものならやってみろ!」
「分かりました」
猪上ら一気に刺股で里山の入口の県道まで滝口らを押し出した。
「暴力だ! 訴えるぞ!」
「あんたらは私有地に不法侵入している。訴える権利はこちらにある」
中心核の滝口が座り込むと仲間の長田八郎や末次舜二ら全員がそれに倣った。入口のバンガローのテラスで寛いで見ていた善次郎が見張りに立って居た太三郎に目配せした。太三郎はバンガローの裏に行って三頭の飼い熊を連れ出し、滝口らが座り込んでいる入口に向かった。
「さあ、餌の時間だよ」
三太郎に連れられて涎を垂らした三頭の熊たちが近付いていくと、滝口らは蜂の巣を突いたように立ち上がり、入口の外に立ち退いた。太三郎は三頭の飼い熊を連れて悠然と彼らの前を通り過ぎて散歩に向かった。猪上らが入口に鍵を掛けた。
「運が良かったな。あの熊たちは知らない人間の肉が好きでな」
「脅すのか!」
滝口の声に太三郎が立ち止まって振り向いた。
「なんか言ったか?」
涎を垂らして振り向いている三頭の熊を見て、怯んだ滝口らはそそくさと逃げ去って行った。
翌日、動物愛護団体の鹿嶋園江と沖栄、岡野友則の三人がやって来た。
「自然の中に居る動物たちが、開発の犠牲になっているという通報がありましたので参りました」
権田原が応対に出た。
「誰の通報ですか?」
「鬼隠ヶ浜の市民です」
「市民のどなたのどんな調査による通報でしょうか?」
「個人情報なので詳しくは申し上げられませんが、里山計画を滞りなく遂行するために市民の疑念を晴らした方が宜しいんじゃありませんか?」
「で? どんな調査を?」
「動物に対する虐待の有無や、保護区内の実態を調査させていただきたいと思います」
「動物の習性を把握していない方の調査は極めて危険ですよ」
「私どもは動物愛護団体です」
「獣医師免許など有りますか?」
「動物愛護に獣医師免許は必要ありません」
「瀕死の動物が目の前に居たらどうなさいます?」
「勿論、獣医師を手配します」
「動物習性学は?」
「経験を積んでおりますので…」
権田原は鼻で笑った。
「何がおかしいのですか?」
「それだけご熱心ならご案内しましょう、保護区の入口まで」
権田原は風間との打ち合わせ通り、里山が入山規制をしている鳥獣保護区に鹿嶋らを連れて行くことにした。
「その前に…入口のバンガローに住んでいる方が動物を虐待しているという通報もありましたが、本当でしょうか?」
「里山に不法侵入した違法狩猟の方に親熊を殺された小熊たちを山に離すまで一時保護している方はいますが、ご覧になりますか?」
「そうですね」
「善次郎さん! 保護熊を見せてもらえます!」
バンガローに叫ぶと、中に居た善次郎は三頭の熊を連れて出て来た。
「そろそろ山に離そうと思うが、ついでだから、動物愛護精神に溢れたあんたらに山に連れて行ってもらおうかな」
「大丈夫なんですか?」
「何がです?」
「危害を加えられませんか?」
「あんたら動物愛護の人なんだろ? 敵意がない人には噛み付かないから大丈夫だよ」
三頭の熊は涎を垂らして園江らを睨んで唸った。
「いえ、私たちは調査に来ただけですから…」
「そうかい? 残念だなあ、こんなにあんたらに懐いているみたいなのに。じゃ、権ちゃん、こいつらを頼んだよ」
そう言って善次郎は熊たちを権田原に任せてバンガローに戻って行った。
「この一帯は私有地なんで所有者に調査の許可を取って来ますので、少しここでお待ちください。おまえらもここで待ってな」
権田原は三頭の熊たちを残して、その場を去った。入口に残された園江らは三頭の熊に睨まれて動けなくなったまま待たされることになった。熊が少しでも動くたびに園江らは寿命が縮む思いで緊張の時間を余儀なくされた。権田原は10分ほどして戻って来たが、園江らには1時間にも感じられた。
「許可が出ましたので参りましょう。おまえたちも空腹なのにいい子にしてたな」
「空腹だったんですか?」
「もうすぐ餌の時間でね。でも保護区に離すから食べさせてなかったんだよ。保護区には餌が豊富にあるから」
その言葉に園江らはゾッとした。権田原が案内した鳥獣保護区は、高い頑丈な鉄柵で里山の周囲を囲っていることが分かった。
「樹林の緩衝地の代わりに、こうした鉄柵で里山との境を作っているんです」
権田原は鉄柵の鍵を開け、三頭の熊を保護区に放した。
「元気で暮らすんだよ!」
三頭の熊たちは嬉しそうに山の中へと消えて行った。
「この中に入れば熊や猪、鹿やリスなどが活き活き暮らしているのが分かります。皆さんも入ってみますか?」
「動物に襲われることはないんですか?」
「あなたたちは動物愛護団体でしょ? もしそのようなことがあっても本望じゃないんですか?」
権田原は冗談を言って笑った。
「まあ、野生動物の事ですから、中で何が起こっても手助けも保証も出来ませんから充分にお気を付け下さい。用が済んだら呼んでください。聞こえたら来ます」
「聞こえたらって…一緒に入ってくれないんですか?」
「飛んでもない! 私らはあんたらほど動物愛護の精神は有りませんから遠慮させていただきます。さあ、どうぞ気が済むまで鳥獣保護区内を調査してみてください。元気に走り回っている様子が分かると思いますよ。最近、マムシや山ヒルも増えてきましたので噛まれないように気を付けてください。ご存じでしょうけど、彼らは体温に反応しますから素肌は出さないほうがいいと思います。そうそう、厄介なのはスズメバチですね。巣には近付かないように」
三人とも半袖だったため、動揺していた。
「どうぞ、お入りください」
「いえ、問題がないようですので帰ります」
「調査は?」
「いえ、充分です」
「そうですか? 流石だなあ、境界を見ただけで調査終了とは凄い観察力です。もうすぐ食事時ですから生々しい弱肉強食の生態も見れたと思うんですけどね。餌の取り合いの荒まじさには感動しますよね。動物園の閉園後には獣たちが一般の人たちの見たこともない獰猛な姿を晒すんですが、当然動物愛護団体の皆さんなら見たことありますよね」
園江たちは権田原に出口まで送られながら終始無言だった。時計は午後4時を過ぎた頃だった。
「丁度、今頃ですね。獣たちの餌の時間ですよ。さっき鳥獣保護区に入っていたら餌かと思われたかもしれませんね」
そう言って権田原はまた笑った。
「今度来たら実際に鳥獣保護区の中に入って調査してみてください、美しく逞しい自然に感動しますよ。我々が10年がかりで復活させた山々なんです。是非お待ちしてます」
園江たちはバツが悪そうに里山を後にした。千田良平が里山の入口の監視係に出て来ていた。千田は虚無的なスタンスの権田原が大のお気に入りだった。
「権ちゃん、脅し具合は流石だね」
「千田さんを見習っただけですよ」
「またまた」
千田はどことなく嬉しげだった。
「今日はもう終わりだろ、お茶飲んでいきなよ。マムシの焼酎漬けが飲み頃なんだよ」
「いいすね!」
権田原はテラスに上がって椅子に腰を下ろすと善次郎も出て来た。
「時ちゃんは元気かい?」
「ええ」
権田原は時世と晃一の三人ですっかり里山の住人になっていた。時世の両親は病院に隣接している里山住宅別棟の老人施設に住んでいた。老夫婦に取って住み慣れた家を離れるのは抵抗があったが、時世の意に応じ、鬼隠ヶ浜の自宅を離れ、同じ里山内に居を構えることになった。時世たちと一緒に住むことも進められたが、権田原に対する気兼ねもあり、気ままな老夫婦の二人暮らしを選んで所帯は別棟にした。同居となれば、どうしても双方に何らかの負担が掛かる。先々、一人暮らしや認知症の心配はあるが、今はそれがベストと考えた。時世と晃一の死は時間の歪で、なかったことになっていたが、権田原にも時世にも、そして時世の両親にも、その不思議な記憶は刻まれていた。
権田原は東京を離れ、この雉追平の地に根を下ろして三年になる。息子の晃一も里山の中学校に通うようになった。久しくワープすることもなくなった。権田原には守るべき家族、守るべき里山が出来ていた。
動物愛護団体を名乗る園江たちが帰って一週間も経たないうちに、善次郎のバンガローは里山の出入口から100メートル程内側に移築され、出入口までは10メートル幅の長い通路となった。その両側は鉄柵で仕切られ、保護区側は鉄柵に並行してブナが植林された。善次郎のバンガローは従来どおり里山への人の出入の監視所だが、出入口は自動開閉になり、監視カメラも増設された。里山と鬼隠ヶ浜地区の境界は凡そ100メートル幅の鳥獣保護区で仕切られ、高い鉄格子が張り巡らされており、予め許可を得なければ出入り出来なくなっていた。
山々の枯れた地域を潜在自然植生に基いて主軸に植林していたブナは順調に根付き、若い森と化した山々には一度山を離れたであろう生物たちも観測されるようになっていった。
鉄柵の外には注意事項が掲げられた。
『 ここは私有地に付き無断立入禁止並びに全域が特定猟具使用禁止区域。許可を得て里山地区内に入った場合、次に掲げる行為をしてはならない。違反した者は里山の規則に基いて罰則を受け入れることを承諾したものとする。
(1)地形の損傷及び汚損
(2)許可のない車両での進入(自転車含む)
(3)動植物の持ち込み、持ち出し
(4)たき火その他の銃火気の無断使用
(5)はり紙、はり札及び広告の表示
(6)物品の販売、宣伝、勧誘、寄付の募集その他これらに類する行為の禁止
(7)廃棄物の無断放棄や類する行為をした者はその場で厳罰に処す
(8)鳥獣保護区や建物等の立入禁止区域への無断立ち入り
(9)不法侵入したものの安全はその責を負わない
(10)その他管理上支障があると認められる行為 』 里山管理組合
鳥獣保護区と鉄柵に囲まれた里山は、更に近代的なセキュリティシステムで侵入者対策を徹底していた。既に鉄柵を越えて鳥獣保護区に無断侵入した者が何名か居たが、行方不明のままであり、里山では違反者の捜索に関しては与り知らぬ事項として市に委ねた。しかし、市や警察には行方不明者の捜索願もなく、私有地の所有者からの要請もないので動く根拠がなかった。
コロナ禍で在宅勤務が増え、テレワークが主流になったことで全国的に地方移住がブームとなった。度重なる震災により、居住者が激減した鬼隠ヶ浜市の自治体や不動産会社は雉追平に焦点を当て、風間の私有地には移住や土地売買の話が殺到した。しかし、風間は頑として受け付けなかった。それは里山居住者のためではなく、移住を希望する人のためだった。新天地に夢を膨らませて来る移住者には、想像だにしない過酷な現実が待っているからである。
自治体の地域振興課は “夢の移住生活” のパンフレットを用意しているが、そこに表記されない現実がある。例えば自治体の収支で運営されている健康保険の徴収額の上限は全国一律80万円であるが、地方では年収が300万円に満たなくても支払額がその額に達する可能性がある。年金生活者の平均をざっと見てみると、第1号被保険者が159万円、第2号被保険者等が426万円、第3号被保険者が55万円とされている。健康保険支払いだけでも希望者の多くは預貯金の切り崩しに頼る選択を迫られる。地方では職場がなく年金以外での収入は限られる。さらに意味不明の度重なる寄付の強要も家計を圧迫する。生活コストに関しても未だ農協中心の消費スタイルを強要される。運よく安売り大型量販店があったとしても“安易に”利用するや、地元主流派の突き上げを喰らうことになろう。都会に住み慣れた者には理解し難い不条理であるが、それがプライバシーを剝き出しにされる近所付き合いの実態である。地元民は80歳を越えてもその厳しさの中で喘いでいるのだ。免許返上などは自殺行為に等しい。風光明媚な里山生活を送るのはいいが、都会で合理的に過ごして来た移住者は、そうした厳しさに馴染むことが出来るだろうか。Uターンで実家に“寄生”出来る者たちとは根本的に事情が違うのである。
風間は無責任な拝金主義の不動産業者らを里山に寄せ付けなかった。そのため様々な風評や嫌がらせや妨害行為があったが、里山は金城鉄壁だった。
里山に不法侵入する行方不明者が後を絶たず、やむなく市警察は視察という名目で里山の調査に入った。居住区には異常があるわけもなく、結局、鳥獣保護区内を重点的に調査することになった。風間は動物愛護と自然保護上、安全な範囲での定期的な森の手入れに留めた介入をしていたが、調査には危険を理由に一切の協力を辞退した。案の定、一回目の警察の調査は熊などの危険動物の縄張りに入ったことで、命の危険に晒され、準備不足の調査隊はやむなく一時退去せざるを得なくなった。里山の鳥獣保護区調査の話題は一気に鬼隠ヶ浜に拡がり、以後、外部の者が不用意に里山に侵入を試みるのは激減した。
里山の運営は基本的に自給自足にあった。実際、里山生活は自律できない人間には厳しいものとなる。生活コストの面を考えても、例えば一年中、寒暖差が大きいため、電気や燃料費の使用量は高い。間伐材は豊富だが、ガスはプロパンなので都市ガスより数倍高くなる。また、山間部の移動は車だが、傾斜が多く、ガソリンの燃費も上がる。更に、人口の少ない自治体は国民健康保険料が都市より遥かに高額になる。制度がその自治体の収益で運営されているためである。里山のような過疎地域では、高齢者にとって厳しい環境となる。買い物は自給自足で補えるとしても、医療機関に掛かることは難しい。
風間はそのためにあらゆる手を尽くしている。学校や病院は勿論の事、保育園から老人施設まで里山内に住む住民で管理運営している。利益を生む起業に関しても、例えば晴美の運営する里山の地形を利用した陸上養殖は坂巻や春代、そして峻斗、沙月が片腕となってすっかり軌道に乗り、雉追平の名産になっていた。その他に嫁入峠の頂上に建設した長城型の宿泊施設は安全と眺望と地産販売が人気の宿泊スポットとなっていた。養殖場近くの老人施設周辺には鳥獣保護区から隔離された広範な草花園があり、市場では高値で取引される様々な草木が入所者や就学生たちの手入れで育てられ、その出荷で施設の運営が賄われていた。認知症患者の服薬管理・金銭管理などは介護指導者の元、授業の一環として就学生の義務としたことで彼らは社会に出てから目には見えない意外な面で恩恵に与る実感を覚えていた。何より、里山を出て学んだ学生は高い確率で里山に帰ってその学びを還元した。
里山がここまで充実した日を迎えられるとは、風間の賛同者の殆どが考えてはいなかった。東日本大震災の後、やっと避難所から解き放たれ、仮設住宅に移ったが、劣悪な環境の中で、瓦礫の浜の復興工事が開始されるまで更に待たされた。工事が始まるまでには半数の住民が浜を去った。風間に賛同した者たちが里山計画に汗している頃、復興が急ピッチで進んでいた。
しかし、浜は再び震災に襲われた。復興を信じた住民たちが、荒唐無稽と批判した里山を見上げながら、また黒い津波に呑まれて行った。彼らは何故先人の警告の石碑を黙認してしまったのか…一、二代前の先祖の選択に縛られた帰巣本能に、石碑の教えは及ばず、鬼隠ヶ浜市の復興を信じた住民にはまた甚大な被害が出てしまった。里山計画反対の姿勢は崩せなかった悪しき官僚の自縄自縛である。
市の避難所に避難して来る住民からは日を追ってかつての避難所である中学体育館を解体した風間に批判の目が向けられた。あの避難所生活は決して快適ではなかったはずである。寧ろ、同調圧力による地獄ではなかったか…しかし、彼らは度重なる被災のため攻撃の的を探し、それが風間の里山計画に向けられたのだ。何の被害も受けなかった里山の住民は悪で、被災した自分たちは善というのが避難民の身勝手な論理となった。
日毎、鬼隠ヶ浜市の避難所民が、里山の入口の鉄格子の外からの “里山明け渡せ!” のシュプレヒコールが激しくなった。それは次第にエスカレートし、汚物や火炎瓶が投げ込まれた。中心人物にはあの動物愛護団体の鹿嶋園江や里山に抗議してきた滝口弘毅らが居た。
善次郎のバンガローでは風間や猪上らがその様子をモニター越しに見ながら苦虫を噛んでいた。
「どうしてです、風間さん? このまま何の手も打たないで森林火災とかが起こったらどうします!」
「・・・」
「鉄格子だっていつまで持つか分かりません!」
風間は意を決した。
「善次郎さん、入口を開けてください」
善次郎は舎弟の浅野に指示した。浅野が操作すると、入口の鉄柵が開き、園江や滝口ら抗議の一同が柵内の通路に傾れ込んで来たのがモニターで確認された。まるで一向一揆の如き勢いである。園江たちはバンガローの見える入口の鉄格子まで来て、再び “里山明け渡せ!” のシュプレヒコールを怒鳴り始めた。すると風間が溜息まじりに呟いた。
「善次郎さん、入口を閉めてください」
善次郎は冷笑しながら再び浅野に指示して入口の鉄格子を閉めさせた。シュプレヒコールが一瞬静まり、一同は鉄格子の閉まった出口を振り返った。すると入口通路のスピーカーから権田原の声が響いた。
「里山に不法侵入した現行犯であなたたちを逮捕する」
「警察でもないのに逮捕なんか出来るか!」
「刑事訴訟法213条、現行犯人の逮捕は、
滝口らは焦って反対の出口に走ったが、鉄格子を開けようにも固く閉ざされていることを確認し、閉じ込められたことに初めて愕然とした。
里山の日暮れは早い。薄暗くなると獣の唸り声がしてきた。滝口ら一行の臭いを嗅ぎ付けた肉食獣たちが柵越しに寄って来た。空腹に飢えた猪や熊が唸り始め、鉄格子に体当たりするようになった。一同は経験したことのない危機感で通路の中央に長い列を成して固まり、柵から出来る限りの距離を取った。獣の吐く白い息とその体臭が一同を更に恐怖で包み込んだ。
「雨だ!」
標高の高い里山の春の夜の雨は冷たい。山風も降りて来て通路を舐め、次第に雨脚も強くなっていった。
「警察はまだか! 何をしてるんだ!」
滝口の叫びを笑うかのように真上から雨脚が一層勢い付いてきた。里山入口の鉄柵通路で園江や滝口らは土砂降りと山風と腹を空かせた獣の威嚇に晒されて一夜を明かすことになった。
朝になって雨脚が治まる頃、やっと県警のパトカーが護送車を伴ってやって来た。県道側の入口の鉄柵が開いてやっと園江らは安堵した。担当刑事の柳沼岳春は入るなり精根尽き果てた園江ら一同の悪習に顔を顰めた。彼らは警察官の誘導のまま亡霊のように護送車に吸われて行った。里山側の鉄柵越しに風間らが柳沼刑事を出迎えて待っていた。
「遅くなりました」
権田原が応対した。
「彼らに一晩、反省の時間を与えられたんだと思っています」
柳沼は微笑んだ。権田原は更に付け加えた。
「ご覧のとおり、保護区の損傷が甚大です。彼らがやったという証拠の映像ももありますが、どうするかは処分次第で考えさせていただきます」
「その映像を今ご提出いただけませんか?」
「我々は先入観なく彼らの聴取を取っていただきたいのです。その上でなら…」
「成程…まず嘘を突くだろう彼らの本性を見ろということですね? 映像との齟齬がある分、彼らの姿勢が分かると…」
「はい」
「分かりました。では、また参ります」
「お待ちしてます」
柳沼刑事が通路を出ると鉄柵はすぐに閉まった。非情とも思えるタイミングの金属音に振り向くと、100メートル奥の里山入口で風間たちは深くお辞儀をしていた。柳沼は高い鉄柵に隔絶された里山を遠く別世界のように思いながら、精根尽き果てた園江らを連行して行った。
里山の長城型宿泊施設のある嫁入峠の中腹には、森林に囲まれた一角に晴美が社長を務める海水と淡水魚の陸上養殖場がある。隣接した建物は、そこで育った数種の淡水魚を加工する工場である。全国に地産販売して人気商品となった『雉追平の柔らか燻製』などは里山通販の人気名産品のひとつだ。不定期ではあるが、月に2度ほど出荷業者がトラックで製品の受け取りにやって来ていた。
一週間も経たずに釈放された園江や滝口らは執拗だった。今度は積載を終えた出荷業者のトラックを襲おうと周到な計画を練って待ち伏せていた。里山からトラックが出て鉄柵が閉まったのを確認すると、工事作業員姿の滝口は車の前に立ちはだかった。
「止まれ!」
運転手はこの先に何かあったのだろうと素直に従った。車窓を開けさせた滝口は運転手をナイフで脅し、引き摺り出して運転席に乗り込んだ。助手席に乗ろうと長田八郎と末次舜二が出て来て、ふと対向車に気付いた。狭い道路である。擦れ違うためにはこっちがバックするか、対向車にバックしてもらって広くなった場所まで出るしかなかった。
「滝口さん!」
対向車はバックする気配もなく向かって来た。滝口は抗議のクラクションを鳴らすと、対向車両が赤色回転灯を点灯させたので、やっと警察車両だと気付いた。
「やべえ!」
引き摺り降されていた運転手は助けを求めて脱兎のごとく警察車両に走って行った。滝口らは仕方なく強行突破を図った。
「早く乗れ!」
滝口は警察車両に激突して行った。道路横の崖に吐き落とそうとしたが警察車両は頑丈なクロカン4WDでビクともしなかった。仕方なく車から降りて逃げようと走り出す間もなく、殺気立った猪上らがすぐ先に佇んでいた。
「ゲームセットだな…それともオレたちとじゃれるか?」
「おめえらよっぽど留置所が気に入った見てえだな」
柳沼の一言で闘争心を失った滝口らはその場にフリーズして逮捕された。
「お待ちしてました」
権田原が何事もなかったように柳沼刑事に近付いて来た。
「このために呼んだんですか、権田原さん?」
「まさか! お客さんが来てるとは思いませんでしたよ…柳沼刑事が見えてて運が良かった」
権田原は嘯いたが、柳沼の言葉は図星だった。滝口らが出荷トラックを襲撃する計画があるという情報は、猪上の仲間から入ってきていた。そして、次の出荷を狙って来るという事は既に想定済みだった。なにしろ、配下の木澤浩太が仲間を偽装して猪上に情報を送っていたのだ。木澤は猪上と同じ字の名前だったこともあり、特に猪上に可愛がられ心酔している男だった。
「お約束の…」
そう言って権田原は証拠のUSBメモリを柳沼に渡した。
「これはコピーです」
「捏造はしませんよ」
柳沼は微笑んだ。
「そういう意味ではありませんよ」
権田原も微笑んだが、そういう意味だった。
「木澤、お手柄だったな」
猪上に声を掛けられた木澤ははにかんだ。
「こっち側だってことはバレてねえだろうな」
「大丈夫っす」
「警察にもバレんなよ」
「はい」
「大事を取って暫くおとなしくしてろ」
「木澤さん、行きましょうか!」
峻斗が迎えに来た。鬼隠ヶ浜市には木澤のように、様々な場に里山メンバーが入り込んで情報を得ていた。彼らは万一を考え、不定期に姿を消してほとぼりを冷ます場が、陸上養殖の作業場だ。深い森林に囲まれて人の出入りもない養殖場は絶好の隠れスポットになっていた。
養殖場では大勢の高齢者らが活気良く働いていた。その中に時世もいた。時世は高齢者の世話係だった。かつての職業である監察医の眼力が活きて、高齢者らの病気の予兆を読むので、何故か “陰陽ちゃん” と呼ばれて親しまれていた。傍らでは小学生から高校生まで何らかの作業を手伝っていた。
「はーい、今日はそこまで!」
声を掛けたのは作業責任者の中川恒夫だった。彼は峻斗や沙月の小学時代の担任だった。東日本大震災で峻斗ら数人の生徒が列を離れたのを追って、結果的に津波から逃れていた。以来、震災に於ける小学校の責任を問い、仲間と教員を辞めて裁判を起こし、被害者遺族勝訴に導くまで10年の歳月を費やした。今はその教員仲間と里山の学校の管理会社を任されている。管理は多方面に渡り、設備から生徒の心身のケアまでを一括し、教員の適性も厳しくチェックしていた。要するに、日教組や教育委員会とは距離を置いた生徒目線を徹底的に重視した管理である。
数日後、坂巻太三からの情報が入って来た。太三は慎介の一番下の弟である。現在役場に勤め、その動向を逐一里山に流していた。情報によれば、鬼隠ヶ浜市の避難所運営が崩壊寸前で、市長の及川がそのことで辞任に追い込まれているとの事だった。そして事態を収拾するために元役場の上司だった慎介を頼った。慎介は弟の太三を通し、里山で避難所を提供してくれないかと風間に願い出たのだ。
「反対だな」
猪上は強く拒否した。
「今や鬼隠ヶ浜の住民はろくでもないやつらが多い。やっと里山への侵入者が減ったというのに、あいつらを受け入れたらまた里山のセキュリティ上のリスクが高くなる」
風間の腹心である菅井も同意見だった。権田原が提案した。
「条件を出せばいいのではないでしょうか。規則を守らない者は強制退去。従って、人を厳選してよこせと…」
「それでも規則を破る者が続いたらどうします? その度に強制退去ですか?」
無言だった善次郎が徐に呟いた。
「鳥獣保護区に脱走させればいい。ゴミ掃除には丁度いい」
一同は驚いたが、風間は微笑んだ。
「第一倉庫を解放しよう。現在の避難所は就学生たち専用だ。そこに合流させるわけには行かない」
第一倉庫とは、里山北側の外れに位置する多目的ホール仕様に設計された建物で、鬼隠ヶ浜市の避難所に一番近い倉庫である。近いと言っても、境には100m幅の鳥獣保護区がある。現在は里山の建設資材の倉庫になっているが、陸上養殖の加工場の規模を広げるために資材を運び出すタイミングだった。
「権ちゃん、任せてもいいか?」
風間は権田原に白羽の矢を立てた。
「風間さん…」
「なんだ?」
「遠山美穂さんに手伝ってもらっていいでしょうか?」
「美穂さんに !?」
風間は権田原の考えを探ったが、分からなかった。
「人選は任せる」
そう言って風間は去っていた。善次郎が微笑んで近付いて来た。
「オレに用があったら声を掛けろよ」
善次郎には権田原の腹積りが読めていた。
〈第9話「理想の避難所」につづく〉
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