第6話 里山計画
時間が消えることもあるのだろう。線香の臭いだけが権田原の記憶に残っていた。気が付けば、目の前に角田が居る。
「…た、助けてくれ…昔のことだ」
出刃包丁で角田の鳩尾を抉っていた。
「おまえにとっては昔のことでも、被害者にとっては今のことなんだよ」
出刃を抜くと角田の目はもうこの世のものではなかった。傍で愛人の田川律子が不様に気を失っている。
「人は絶望で死ぬんだ。おまえは生き恥を曝せ」
そう言って角田の股間を切り取って律子の卑猥な口にぶっこみ、出刃の柄の指紋を拭き取って律子の手に握らせた。
「…まるで阿部定だな」
阿部定事件とは1936年(昭和11年)5月18日に東京市荒川区尾久の待合で起こった猟奇殺人である。芸者や娼婦として各地を転々としていた阿部定は親密になった石田吉蔵を性交中に扼殺した後、局部を切り取り、流れ出た血で “定吉二人キリ” とシーツに書いた。鑑識の権田原にとって興味深い歴史の1ページだった。まさか自分がそれに近い猟奇的犯行に至るとは思っても見なかったろう。
証拠を消し、無理心中に偽装しながら、権田原は避難所で時世を捜し続けていた頃のことを思い出していた。あの頃は苦悩の最中でもまだ幸せだった。もう “元の世界” へは戻れない。例えワープしたとしても行方不明に徹する覚悟だった。一切の証拠を残さない…出来れば、過去に存在した証拠すら消したかった。
最後に見た時世の記憶に会いたくて、雉追平の避難所跡に何度目かの足を運んだ頃、その日は突然体育館が大爆破を起こし、見る見る崩れ落ちた。
「…また今日も来たのか」
振り向くと風間謙作が慈しみの表情で立っていた。
「時世は気の毒だったな」
「・・・」
「この山を買ったんだ。この山は村長の山だった。ぶっちゃけ、時世の事を出汁に二束三文で脅し取ったと言ったほうがいいかな」
風間は笑って嘯いた。
「前にも言ったと思うが、被害のどん底にある我々には、正義など何の役にも立たんのだよ。今必要なのは害になるものを封じ込める力だ。害になる者…我々にとってそれは今、杓子定規の押し付けだ」
権田原は村長とその愛人の一件を話そうか迷っていた。
「仮設住宅を見たろ」
「…ええ」
「あそこは人の住むところじゃない。豚小屋より劣る」
権田原が初めて仮設住宅を見た時はショックだった。鶏舎かと怒りを覚えた。風間は豚小屋だという。権田原の張り詰めていた心が一気に緩み、不思議にも込み上げて来るものがあった。
「ここに里山を作って村の住人を住まわせる。政府や市の能無しどもは津波に遭った土地に、また家を建てるつもりだ。何が復興だ。何が絆だ。全く懲りない連中だ。あんな馬鹿どもに任せていたらまた大勢の死人が出る」
「風間さん、実は…」
「何も言うな」
「・・・」
「村長は我々が片付けた」
「え !?」
「尻軽の律子もな。権田原さん、今この鬼隠ヶ浜は一日も早く瓦礫を撤去して山を復活させなきゃならんのだよ」
いつの間にか横に菅井登喜雄が来ていた。
「これからこの一帯に新しい村を作る。里山だな。村長はこの土地にとって真っ先に撤去しなければならない瓦礫だったんだよ」
崩れ落ちた体育館には爆破後に重機が入っていた。5人組の外国人窃盗団をリンチした猪上浩太ら雉追平のワルたちの面々が今は作業員として汗を流していた。
「役立たずらの復興計画でここの中学も高校も交通に便利な浜に新設しやがった。ここまで叩きのめされても自然の驚異に学べんやつらだ。いくら堤防を高くしたところで五十歩100歩。てめえらの思い込みで勝手に津波の高さを決めてやがる。どこにその根拠があるというのだ。いつかまた元の木阿弥になるのが落ちだ。自分らの命は自分らで守るしかねえということだ。それに…見ろ、嫁入峠の山々を。村長の瓦礫野郎が世話をしねえから荒れ放題だ。山は手入れしなければ朽ちて行く。麓の水は枯れ始め、山々を棲家にしている生き物たちの飢えが始まっている。餌を求めて人間の居住区に紛れ込んだ獣の被害が出ても、動物愛護団体の御託の所為で手出しひとつ出来ねえ。山は急いで手入れをすれば数年で豊かな自然を取り戻すことができる。そうすれば獣たちだって民家に下りて来ることも無くなる。」
風間は復興工事中の浜を見下ろしていた。
「あの工事の様は驕りだ。今以上の津波が来ないと誰が保証できる。恵みを受けたければ自然を尊厳するしかない。あの浜はいくら手入れしようが、また津波が襲えば住民を巻き込んだ瓦礫の山だ」
「心地好く住まわせてもらうために、人間が地形に見合った手入れをして土地と共存するのが里山なんだ。そしてそれが一番安全な避難所になるんだよ。そうは思わないか、権田原さん」
「…そんなことは…オレには分からん。分からんが、同じ過ちは…繰り返したくはない」
風間は権田原を見て微笑んだ。
「あんたも手伝う気はないか」
権田原は、いつワープさせられるか分からない身の上だったが、もう戻ったところで自分のいる場所は放棄した。風間たちと一緒にこの里山開発の未来を見てみるのも悪くはないと思った。
風間の里山開発を手伝うことになった権田原は、菅井登喜雄と行動を共にすることになった。荒れた山は獣たちの緊迫した食物連鎖の真っ只中にある。浩太の祖父・猪上善次郎が猟銃を携え彼らの護衛にあたった。菅井は植林技術の匠だった。山を歩き、枯渇した傷跡を修復すべく、潜在自然植生とやらで嫁入峠に分布する複数種の木の苗を植え続ける毎日となった。
「見るなよ…この先の藪の中に熊がいる」
善次郎の言葉に権田原は固まった。
「心配いらねえ。オレが飼ってる “きばり” というおとなしいやつだ。知らんぷりしてればいい」
そうして山に通ううち、権田原も獣たちの厳しい食物連鎖の危険からすっかり除外してもらったようだ。数カ月もすると、その日の作業後に時世の身投げしたダムの建設現場で缶ビールを飲み干すのが権田原の日課になっていた。時世の幻影を追い、権田原は完全に未来を見失っていた。
ワープすることもなくなった暑い夏の夜、権田原はいつものように、もうすぐ完成するダムの建設現場で星を眺めて缶ビールを傾けながら夕涼みをしていた。いつの間にか眠ったようだ。冷気に目を覚ますと東の空が夜明けを待っていた。月はまだ煌々としている。飯場に戻ろうと気怠く立ち上がり、ダム沿いの作業路をとぼとぼと歩き始めると、向こうから誰かがやって来た。ここはダム関係者以外立ち入り禁止になっている。咎められるのを覚悟で歩いていくと、近付いてくる人間の顔を見て驚いた。時世が幼い晃一を抱いていた。
「時世 !? 」
「…あなた!」
権田原に気が付くと時世はとっさに背を向けて離れて行った。権田原は夢で見た光景を思い出した。これはまた夢の中でのデジャビュー…あの時、時世は深い霧に包まれて瓦礫の向こうに立って居た。あの時もこうして三歳になった息子の晃一を抱いて現れた。“時世! 無事だったのか!”と叫んだが、時世は微笑んで何かを言っていた。ところが何故かその声が聞こえて来ない。“え? なんだって?”って聞き返すと、時世はその度に繰り返し答えてくれたが、やはり聞こえて来なかった。そして言い終えると時世はまた霧の中に消えて行った。権田原は追い駆けたが、そこで携帯の音で目が覚めてしまったんだった。
あの時と同じような状況の今、携帯で目を覚まされる前に、何とかしなければならない。時世はここで身を投げるつもりで来たのかもしれない。どうすればいいのか…急いで時世を追った。今時世が身投げするのを止めれば、未来は変わるかもしれない。もし携帯の音が聞こえても無視し続ければいい。起きてはならない。
霧の中を必死に追うと、薄らと時世の後ろ姿を捉えた。
「時世!」
権田原は大声で叫んだ。
「この時を待っていたんだ!」
時世は立ち止まり、振り向いた。
「時世! …ひとりはつら過ぎるよ…オレも一緒に…」
そう言いながら、権田原は自問自答した。本当にこれでいいのか…その覚悟はあるのか…しかし、権田原は時世と一緒が一番幸せだと思った。
「あなたは駄目よ。終えるのは今じゃない。でも、私もこの子も、ここで終わるのが一番幸せなの」
やはり身投げする気だったんだ…時世の声は何年ぶりなんだろう。やっと聞けた愛しい声に権田原は胸が詰った。
「オレもだよ! ここから逝くんだろ、止めないよ…オレも逝くから…」
「駄目!」
権田原は何故毎晩ここに自分の足が向いていたのかやっと分かったような気がした。時世を待っていたんだ。そして今、時世は目の前に現れた。このチャンスは絶対に逃せない。
「おまえは避難所を求めていたんだよね、心の休まる避難所を。でも結局、オレはおまえの避難所にはなれなかった。捜したんだよ、あれからずっと…でももう、捜す事には疲れた。だから先に行くね」
権田原は穏やかな表情のまま、まだ工事中のダム天端の通路から飛び降りた。恐怖はなかった。これが夢であろうと現実であろうとどうでもよかった。こうすることを望んでいた。急勾配の導流壁を落ちて行く先に時世との彼岸がある。時世と晃一の傍に行ける安堵の方が大きかった。
権田原は目を覚ました。風間の里山計画の工事現場の一角に座り、うたた寝をしていた。自分が一大決心して選択した運命に弾き返された面持ちで、不機嫌に眼下の海に目をやった。
「時世さんが来たよ」
風間が晃一を抱いた時世を連れて来ていた。 “ここはあの世か” と思ったが、あの世なら風間が居るはずもなかった。息を吸うと鬼隠ヶ浜の潮風が喉を過った。やはり、あの世らしからぬ現実感がある。
「いつここに来たの?」
時世の何気ない言葉に権田原は困惑した。
「昨日…かな」
「もっと前でしょ?」
「そうだったかな」
目の前に現れた時世をうつつに見ながら、権田原は半ば自分を失っていた。
「風間さんが毎日ここに通って来てるって教えてくれたわ」
「じゃ、オレは工事に戻るからふたりでゆっくりな」
風間は気を利かせて去って行った。ふたりは暫く無言だった。
「一月ほど前…霧の朝…ダムから飛降りるあなたを見た気がしたの」
「やはりダムに行ったのか?」
「夢での話よ」
「夢…」
「朝…散歩に…そしたら風間さんと擦れ違って声を掛けられたの」
「風間さんに?」
「朝のランニングコースだって言ってた」
「・・・」
「風間さんは天端にあなたがいるって教えてくれたの…確かに居たわ。でも、帰ろうとしたの。そしたらあなたに呼び止められた」
「…時世はダムから飛降りようとして来たんだろ」
「・・・」
「あの時もう、おまえを捜す事に疲れていた」
ふたりとも一ヶ月前に同じ夢を見ていたというのか…
「私が飛び降りた後、おまえはどうしたんだ?」
「風間さんを追い掛けた…あなたを助けなければと…風間さんはもう助からないだろうと…」
「・・・」
「…夢で良かった」
「・・・」
「私はダムに飛び降りようとした時…これは現実の話ね。その時、風間さんに止められたの。風間さんは、飛び降りたことにして暫く身を隠したらと…」
「・・・!?」
「私の噂はこの村中に広がっている。あなたももう知ってるでしょ。この村では生きづらいのよ。それを察して風間さんは里山が完成したらそこでひっそりと暮らせばって匿ってくれたの」
時世はダムから飛降りたことにして風間宅に身を隠していたのか…時世を追ってこの村に来た日、彼女の葬式だった。坂巻も多野も時世の死に疑いは持っていなかった。この村の住人は両親を含めて皆、時世がダムに身投げして死んだと思っていたのだろうか…
「不思議ね…ふたりとも同じ夢を見ていたなんて…」
一ヶ月前、権田原は東京で普通に鑑識の仕事をしていた筈である。自分の生霊だけがこの村に来ていたのか…東京に居た自分はただの抜け殻だったのか…
その時、激しい揺れが起こった。余震にしては大きかった。揺れは益々大きくなり、立って居られない程の状況になった。権田原は時世と晃一を抱き寄せていた。長い揺れだった。風間が駆け付けて来た。
「大丈夫か!」
サイレンが鳴り、鬼隠ヶ浜市の自治体が管理する防災行政無線のスピーカーから早くも警報が流れた。
「大津波警報が発令されました。早く高台へ避難してください!」
あの時と同じだ。、東日本大震災に見舞われたばかりの鬼隠ヶ浜にその教訓は活かされるのか…風間も権田原も時世も否定的だった。
「前回より大きい津波が来るぞ!」
嫁入峠の頂上から帰って来た猪上浩太が風間に報告に来た。
「あと30分か40分ってとこのようです」
「前回より時間が無い…子どもたちは!」
「峻斗と沙月はもう高校生らを迎えに行きました。オレらもすぐに小中学校に向かいます!」
猪上は坂本らを従えて、緊急時の手筈どおりにそれぞれの工事用送迎バスに飛び乗り、往復30分足らずの避難の勝負にタイヤを軋ませた。
〈第7話「震災再び!」につづく〉
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