第5話 復興

 権田原は浜辺に座って海を見つめていた。肌を撫でる湿った潮風が心地好かった。遠くから重機の音、そしてどこか懐かしい空気…はたと周囲を見回すと、あの世界に戻っている。いつの間にワープしたのだろう。

 すぐに避難所に行かねばと思ったが、周囲の様子が豪く違っていた。見渡す限り瓦礫は殆ど片付けられ、突貫工事らしき整地の跡には仮設住宅らしきものが立ち並んでいる。権田原が “らしきもの” と思ったのは、その態様があまりにも整然と密に建ち並んだやっつけ仕事に見えたからだ。あれが仮設住宅だとしたら、人間に対する冒涜に近い扱いだと思えた。鶏舎とどこが違うのか…塒にあぶれた旅人が仕方なく寝起きしそうな佇まいである。鶏舎の方がまだ空間がある。どこぞの強制労働者の収容所じゃあるまいに、この密集した場所に放り込まれた避難民は、ここから毎日 “ストレスと不幸” の卵を生み続けることになろう。向かい合ったバラックとバラックの間は、車が一台通れるかどうかの狭さである。火災が発生したら消火作業が遅れ、一気に広がる恐れすらある。避難民のこれまでの生活を鑑みれば、狭い部屋はやむなしとしても、家の前に土いじり程度のスペースがあれば、その場しのぎにしろ、僅かばかりの癒しにはなろう。土地がないというなら二階建てバラックにすれば一棟分のスペースが空く話である。権田原は人間の心を無視した机上の設計に腹が立った。工事現場の一時休憩所ならまだ解る。これだけ設計技術が進んでいる世の中で、恐怖と不安を抱えた人間が日々救いを求めて暮らす仮住まいに対して、例え “応急” 仮設所であろうと何と無神経な対処であろう。


 あれからどのくらい経ったのだろう。『災害救助法』では避難所開設期間は原則「7日間」、そして応急仮設住宅の着工は1ヶ月以内と設定されている。ということは、トイレで時世を見掛けてから少なくとも1ヶ月は経ってしまったのか…実際には既に半年が経って、鬼隠ヶ浜市の空気はすっかり秋めいていた。

 思えば、自分は随分と先延ばしの生活を送って来た。仕事に感けて今やれることも後でやろうとルーズに生きて来た。自分に何が起こっているか分からないが、そんな自堕落な生活をしていたら、何もかもが出来ないまま、悪戯に時が過ぎ去ってしまう。今出来ることを今やらなければ永久に出来なくなってしまうかもしれない。ワープと現実との境にすら鈍感になっていた権田原は、大きなため息を吐いた。


 閑散とした仮設住宅 “らしきもの” の前で立ち話をしている人たちが見えた。よく見ると坂巻夫妻と凜子こと小柳操だった。

「操さんもここに住んでくれることになって本当に良かった。出来ればこのまま私たちの子どもになってくれたら…」

「あなた! 操さんが困ってるでしょ…でも、もう暫くは一緒に居て貰えるわよね」

「まだ取材が終わったわけじゃないので、もう少しお世話になります」

「よかった!」

 妻の芳乃は嬉しそうに夫の顔を見た。権田原は坂巻たちのもとに近付いた。

「権田原さん! 捜していたんですよ。やっと仮設所が完成しましたよ。権田原さんの住む場所も割振りしておきましたから」

「ありがとうございます」

 この鶏舎はやはり仮設所だったか…明日からここで鶏舎生活をするのかと思うと、気が滅入った。

「避難所はどうなりました?」

「避難所はもう撤収されましたよ」

「撤収 !?」

 『災害救助法』の原則7日間という縛りが、こうしたやっつけ仕事に繋がっているのだ。権田原はよそよそしげに立ち並ぶ鶏舎に改めて怒りが込み上げて来た。

「今はまた元の体育館です。ガランとしたものだよ。避難者でごった返している頃は、あんなに広いとは思えなかったけどね。遺体収容所になった高校と廃校の小学校の体育館も県警の遺体収容を待ってもうすぐ撤収ですよ」

 坂巻の任が全て解かれたわけではなかった。雉追平の避難所及び遺体収容所撤収の目途が付いて、やっと坂巻は仮設住宅に移ることになったばかりで、今日は割り当てられた場所の確認に来ていたようだ。

「…そうですか。私が消えた…いや、時世を捜しに出た後、何か事件は有りませんでしたか?」

「事件?」

「例えば…レイプとか…」

「レイプは多かったね。雉追平の避難所の恥だよ」

「レイプは他の地区の避難所でも頻繁に起こっていたようです」

「そうかね! ああ…そうか! あんたは時世さんを捜して随分遠くの避難所も回っておられたわけだものね」

「え…ええ、まあ…」

 十年後の情報だとは言えるわけもない。それに避難所でのそうした恥となる情報は数年間開示されないままだった。小柳操の取材レポートが連載されるや衝撃的なスクープとして情報開示の一翼を担ったことは確かである。さらに震災の翌日に隣県の原子炉が水素爆発を起こし、時の政権の無様が露呈し、これから何年にも渡って福島が風評被害で苦難を強いられることなど言えるわけもなかった。

「最後にあんたが時世さんを捜しに避難所を出たのはいつだったかね?」

「集会のあった夜です。私は集会の後に…」

「もうそんなに経ったのか。集会の日の夜ならよく覚えているよ。特に何もなかったね」

「彼女の…阿部時世さんの姿は見かけませんでしたか?」

「見かけなかったね」

「…そうですか」

 権田原は確かにトイレに連れ込まれる時世の姿を見掛けた。ドアに体当たりして中に入ると現実の世界だった。そうだ…自分はトイレのドアに体当たりして壊したことを思い出した。

「あの…あの夜にトイレのドアが壊れていませんでしたか?」

「いや、私は集会の帰りにトイレに寄ったんだが、どこも壊れている所はなかったね」

「…そうですか」

 それもそのはずである。坂巻が入ったのは男子用トイレだろう。男子用トイレと女子用トイレは離れている。これ以上聞いても仕方がない。

「兎に角、仮設住宅に入って明日からの準備をしましょう!」

 坂巻に促されて、自分に割り当てられた仮設住宅に向かった。バラックの平屋が軒を並べて建っている様は遠くで見た時より無機質だった。権田原には坂巻らと棟続きのバラックの一室が割り当てられていたが、案の定、海上コンテナを積み上げて作った3階建ての仮設集合住宅もいくつかあった。詰めるだけ詰めやがってと思いつつ、過去に鑑識現場でコンテナの中が冷え冷えとしていたのを経験していた権田原は、割り当てられたこの部屋の方がまだマシかと溜息を吐いた。お互いに一礼して、受け取った鍵をドアに刺した…が、権田原はこの中に入るとまたワープするかもしれないと警戒し、鍵を抜いて先に雉追平の避難所に向かうことにした。


 避難所だった中学校の体育館は坂巻の言ったとおりガランとしていた。きちんと片付けられて元どおりになった体育館を見て、坂巻の人柄を感じた。権田原は真っ直ぐ女子トイレに向かった。壊れいるてドアはなかった。仕方なく帰ろうとした権田原は何か違和感を覚えた。振り返ってもう一度女子トイレを見てハッとなった。権田原が体当たりして壊したドアは他のドアと若干ではあるが何かが違う。色が真新しい。修理の後だ。記憶違いではなかった。集会の後、トイレで何が起こったのかを坂巻は知っていたのかもしれない。坂巻は何故、何もなかったと答えたのかと考えながらトイレの外に出ると、そこは夜の埠頭だった。

「しまった! 今はまだ帰れないんだ!」

 そう叫んでトイレに振り返ったが、一帯は埠頭の倉庫群が立ち並んでいるだけだった。

「…元の世界に戻ってしまった」

 結局、時世には会えなかった。いや、夢だったんだ…権田原は半ば混乱しながら、そう思うしかなかった。


 “ワープに慣れた” 権田原は、意味なくワープしているわけではないのかもしれないとも思うようになっていた。じっくり夜の埠頭の倉庫群を眺めていると、人のシルエットが見えた。よく見ると男が女に何かを渡した。女の顔が見えて権田原は、ハッとした。記憶喪失で避難所に現れた凜子こと小柳操だった。権田原は相手の男にも心当たりがあった。男は熊代善治。避難所でレイプ被害者のために立ち上がった “元レイプ犯” だ。これは正夢のデジャビューの情景だ。権田原は確かにこの展開に見覚えがあった。

「約束を果たしてくれてありがとう。これが最後ね」

「…そのうち、また頼むよ」

「・・・!?」

「こういう金には有効期限ってものがあるんだよ。あんたたちとの約束は果たした。オレの行く末をもう少しだけ保証してもらわんとな」

「約束の報酬はお支払いしました」

「そうなんだが…十年も経つと少し事情が変わってね。避難所被害者の報復という偽善で、オレは経営を外され、会社を追われたんだよ。この先日本ではもう食っていけねえんだ」

「・・・」

「あんたはよくオレとの契約を全うしてくれた。だからオレの十年はあんたたちの報復に捧げたんだ。ただ、オレの十年のリスクは思ったより重くなった。あんたにも責任はあるだろ」

「そうね…万が一の場合の弁護士は手配してあるけど、この先も暫くは生活の保障も考えるわ」

「勘違いするな。オレは集り屋じゃねえ。海外で軍事会社を開いてる仲間が待ってるんだ。何れ高跳びの金が要る」

「分かったわ」

「後で連絡する」

 熊代はそう言って立ち去った。曲がりなりにも報復同盟の立ち上げに十年間協力し、約束どおり最後の標的を断ってくれた男だ。操は、熊代の最後の要求を受け入れるしかないと思った。

 その時、車が急加速で操を避け、勢いよく熊代を撥ねて停まった。車はUターンし、撥ねた男にゆっくりと近付いて来た。運転していた男が車から降りて来た。

「…坂巻さん」

 物陰の権田原の呟いたとおり、坂巻慎介だった。操は車から下りてきた坂巻の姿に驚いた。

「おとうさん !?」

 坂巻は熊代が息絶えていることを確認し、星空に呟いた。

「凜子、仇は討ったよ!」

 助手席から妻の芳乃が降りて来た。

「…あなた、ありがとう! やっと…やっと」

 芳乃は泣き崩れた。操は混乱していた。

「なぜ !? 」

 そして思い出した。熊代は、避難所レイプ被害者報復同盟のリーダーとして活動して来た。しかし、阪神大震災の避難所では坂巻夫妻の実子・凜子を共犯者の鷲見貞夫とレイプした過去がある。雉追平の避難所で坂巻夫妻と共に殺害したのはその鷲見だったことに操は初めて気付いた。当時、、記憶を失っていたとは言え、厚い霞で覆われたままの記憶でしかなかった。今やっとその霞が晴れた。鷲見と共犯の熊代に報復同盟の協力を仰ぐなどと、坂巻夫妻に何という無神経なことをしてしまったのだろうと、操は後悔で全身から力が抜けて行った。

 避難所で報復同盟が立ち上がり、操が熊代に報復を依頼していることに愕然とした坂巻夫妻は、最後の報復を終えるこの日を迎えるまで耐え続けて来たのだ。

 権田原はその一部始終を見ていたが、静かにその場を離れて歩き出した。夢のとおりの展開だった。途中で止めに入ることも出来たかもしれない。しかし、坂巻夫妻の十年越しの本望を思うと、警察の人間であることを忘れたかった。冷たい月に背中を咎められているような気さえしたが、反面心地好くその場を後にした。その夜、権田原は久しぶりに満たされた眠りに就いた。


 権田原は深い霧に包まれ、震災後の瓦礫の中に立っていた。霧の向こうから三歳になった息子の晃一を抱いた時世が現れた。

「時世! 無事だったのか!」

 時世は微笑んで何かを言っているが、権田原にその声は聞こえて来なかった。

「え? なんだって?」

 時世は言葉を繰り返したが、やはり聞こえて来なかった。そして言い終えると再び霧の中に消えて行った。権田原は追い駆けた。後ろで携帯の音がしてハッと振り向いた。


 携帯電話が自分の部屋で響いていることに気が付くまで時間を要した。徐に取り上げて電話に出た。事件現場への呼び出しだった。急に胸騒ぎがした。

 現場に到着した権田原は殺気立っていた。犠牲者は女性と幼児だった。

「時世!」

「え、権田原さんの知り合い !?」

 冷静さを失った権田原は死体に駆け寄った。血の気の失せた権田原はその場にへたり込んだ。時世ではなかった。

「権田原さん、大丈夫ですか !?」

「…そんなことは、オレには分からん」

「ですよね…で…この人はお知り合いですか?」

 部下の袴田はまた “…そんなことは、オレには分からん” と突っぱねられるのを覚悟したが、力なく素直に首を横に振った権田原に狼狽えた。


 権田原は監察を終えた後のことを袴田に任せ、ひとり列車に飛び乗っていた。直接時世に会って話を聞きたい衝動を抑えられなかった。鬼隠ヶ浜駅に着くなり、タクシーで真っ直ぐ時世の実家に向かった。途中、鬼隠ヶ浜市の街並みの復興は更に進んでいた。解体された鶏舎のような仮設住宅跡では、大掛かりな建設工事が始まっていた。堤防を高くしたとは言え、ここも少なからず津波の被害が及んだ場所である。そこに仮設住宅を建て、解体後は何らかのビルを建てる…また同じ過ちを繰り返すつもりなのか…権田原には理解しかねる再開発だった。

 時間のロスを考え、レンタカーを借りたが、実家のある街並みの様相はがらりと変わっていて、かつてあった時世の実家を捜しあぐねていた。何度も同じところを迷い、いい加減帰ろうかと考えていると、地元民らしき人が声を掛けて来た。

「どっか捜してるのかい?」

 見ると、かつて避難所で見掛けた多野信治だった。

「多野さんですよね!」

「…ああ、ぐるぐる回ってるんで誰かと思ったら、あんたが運転してるじゃないか」

 多野の老い方は震災後の過酷な生活を物語っていた。そして権田原を見る目は複雑な表情だった。

「あの…阿部勝五郎さんのお宅はこの辺ですよね」

「ああ、勝五郎さんなら、あそこの家だよ」

 多野の差した先には白提灯に鯨幕の家があった。

「勝五郎さんは亡くなられたんですか !?」

 多野は一瞬返答に躊躇したが、話すしかないと思った。

「時ちゃんだよ…息子さんと復興中のダムに身投げしてねえ」

「え…」

 ハンマーで頭を殴られたような衝撃だった。あの夢が示していたのはこの事だったのか…来るのが遅かった…しかしなぜそこまで…それだけ自分との生活が嫌だったのか…と顧みても、どうしても権田原には思い当たることがなかった。多野に礼を言って、喪中の安倍家の前で車を停めたが、権田原は降りる気にならなかった。そのまま車を出した権田原は、雉追平の避難所に向かった。


 ガランと片付けられている体育館を通り過ぎて真っ直ぐトイレに向かった。時世はあの後、レイプされたのか…しかし、坂巻は何事もなかったと言っていたが、10年経ったとは言え、やはりドアには修理の痕跡が残っている。あの時は、振り返ったら埠頭の夜にワープしてしまった。権田原はここに来る途中に坂巻の勤務する役場に向かおうと思ったが、十年前の避難所での坂巻は既に定年間近だった。今は役場に居るはずもなく、かと言って仮設住宅は解体されてもうない。体育館を出た権田原は、仕方なくまた時世の実家に戻ることにした。


 阿部家に向かう道すがら、権田原は時世との新婚生活を思い出していた。実家で出産を終えた時世は半年ほどしてから東京の新居に引っ越して来た。権田原に取って人生最高の日々が始まった。しかし、それは一年も続かなかった。或る日、時世は “どうしてもやりたいことがある” と言って乳呑児の晃一を連れて家を出た。すぐに帰って来るだろうと思って寛大さを装ったが、そうはならなかった。テーブルの上の置手紙に気付き、時世との終わりを悟った。或る日、時世から実家に帰ると連絡があった。数日後、記入済の離婚届用紙が届いた。権田原はその離婚届を机の中にしまったままだった。


 権田原は勝五郎夫妻と会っていた。勝五郎は無言だったが妻のセツが重い口を開いた。

「晃さん、申しわけないことです!」

 セツは突然泣き崩れた。勝五郎が腹を決めて話し始めた。

「…晃一はあんたの子じゃねえんだ」

「…え」

「私の家の事業が傾いてしまった時、村長が金を出してくれたんだ。時世はその金を受け取りに行った」

 権田原は勝五郎の一言で全てを察した。そして “あの時” の勝五郎の言葉がはっきり蘇った。

 権田原が石段で正に津波に浚われようとした “あの時”、勝五郎は必死に権田原の手を握り締めた。

「あんたに謝るまでは死なせねえ!」

 そう唸って津波から救ってくれた勝五郎の必死の形相を思い出した。坂巻が思わず彼女のことを “時ちゃん” と言ったのも、隣区画の多野が自分を見る目に感じた違和感も、これで納得がいった。彼らは知っていたのだ。いや、この集落で時世と村長の事を知らない者はいなかったに違いない。狭い集落である。そうした噂はあっという間に広がるだろう。そして皆、何も無かった態を装うのであろうが、記憶から消したわけじゃない。寧ろ深く刻み、その事こそがその後の交流の羅針盤となるのだ。まるで、避難所と同じである。だから時世はこの集落に居続けることは出来なかった。そして忌まわしい出来事を忘れて、東京で権田原と新生活を送る決意をしたが、結局、良心の呵責には耐えられなかった。

「時世はあんたを裏切り続けた…一縷の望みを掛けて昔の同僚にDNA鑑定を頼んだらしい。現実がはっきりして、もう限界になって帰って来た。様子がおかしかった。三次の邸に金を受け取りに行った日の自分の行動がどうしても許せないと泣かれた」

 勝五郎はやるせなさに憔悴していた。

「…打ち明けた翌朝…息子を道連れにしてダムに身投げしやがった。この私こそダムに身投げして時世に詫びるべきだった。その勇気すらないクズ親父だ」

 妻のセツは畳に這いつくばって泣き悶えた。権田原は掛ける言葉を失い、静かに阿部家を辞した。


 坂巻が外で待っていた。多野が権田原の事を知らせたのだ。ふたりは造成中の海岸を歩いた。坂巻は話し出した。

「そうでしたか…あの夜、集会が終わってトイレに寄ると、女子トイレで女の悲鳴がしてね。ドスンという音がした。駆け付けると壊れたドアの向こうで三次と時ちゃんが揉み合ってた。三次は昔から女にだらしなかった。でも、幼馴染のあいつの親父には恩があってね。うちも貧しかったから…」

「・・・」

「時ちゃんと三次のことは、地元では知らない者は居なかった。狭い集落ではあっと言う間に噂が広がる。あんたが現れたんで時ちゃんは避難所を去った。しかし、集会のあったあの夜は、三次に強引に呼び出されて来たらしい。あの時私に出来ることと言えば、“時世はオレの女だ!” と暴れ捲る三次をねじ伏せて時ちゃんを逃がすことぐらいしか…」

 坂巻が歩きを止めた。

「…あそこだよ、ダムは」

 造成中の海岸から、坂巻が送る視線の先の山間には、幾何学的な石積みが覗いていた。坂巻の話では一月前のことで、母子の遺体はまだ発見されていないという。権田原はダムに向かって手を合わせた。


 雉追平の避難所に十年後に殺害される人間たちが溜まっていた。権田原にとって、震災後の避難所というものに対する認識が変わった。被災した人間の集まる避難所は、震災の次に襲い掛かるかもしれない人災の危険が渦巻いている。避難所では人間の理性を破壊され、コントロールを失い、強い者の欲望が黙認される異常な同調圧力が生まれる。被災した不幸が言い訳の印籠になって何でも許容される。しかし、どんな事情があるにせよ犯罪は犯罪である。避難所での被害を泣き寝入りさせることは理に叶うはずがない。しかし、法の裁きには限界がある。被害者の納得のいく裁きなんてこの世に有りはしない。

 権田原はワープされる度に震災後の避難所に於ける加害者への殺意が積み重なっていたが、彼らはどうせ十年後には報復されることになっている。自分が関わるべきことではないと自制して来た。そして時世の死を知った今、権田原の懊悩は切れた。


〈第6話「里山計画」につづく〉

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