第4話 報復同盟

 避難所生活も二ヶ月に入ったある日、晴美は思い切ってバッグの片隅にあった検査キッドを手にした。やはり妊娠していた。義父の寿三郎と家の片付けに行った忌々しいあの日、“悪く思うな、震災がさせたことだ” と逸らかして義父は去って行った。姑に言えば “おまえが不注意だったからだ” と言われるのが落ちだ。そして、嫉妬と蔑みの日が続くのは目に見えている。屈辱的な妊娠をしてしまったと自分を責めたところで、晴美にはもう生きる気力が失せていた。夫と共に津波に呑まれて死ねばよかったという思いに苛まれた。今のつらさを背負って生きるには荷が重過ぎる。帰京して中絶し、美弥との新しい道もあろうが、その後も一生汚らわしい義父との幻影に追われて生き恥を晒し続けるのは耐えられそうもない。ここで穢れた命はここで絶ち、早く楽になりたい。辛うじて自分を生かしているのは何か…舅への復讐心でしかなかった。


 結婚前、寿也の両親に会うために初めて鬼隠ヶ浜市を訪れた時のことを思い出していた。急勾配の長い石段を登って今の避難所のある雉追平を過ぎ、嫁入峠の頂上に連れて行ってもらったことがあった。嫁入峠よめいりとうげの頂上への道すがら、寿也と語り合った他愛もない会話。あの頃は幸せの絶頂にあった。

 寿也とは海洋大学で出会った。地元の漁業の将来性に限界を感じた寿也は、山からの豊富な水を利用した陸上養殖の研究をしていた。一方、海が好きだった晴美は、潜水調査の仕事に就きたいとこの大学に入った。ふたりは在学中に恋に落ち、結局、晴美は寿也の陸上養殖という新規事業を手伝う道を選んだ。頂上の片側は切り立った崖で、そこからの見晴らしは忘れられない。あの日の綺麗な記憶の風景に、自分と美弥の命を投じようと思った。

 嫁入峠の頂上に立った晴美は美弥を抱き締め、寿也を奪って行った遠くの海に心を馳せた。

「寿也…すぐに美弥と行くからね」

 晴美はやっと苦痛から解放されるんだと思うと涙が溢れて来た。突然、背中からその高揚した感情を断ち切る声がした。

「その児が許すと思っているの?」

 晴美のただならぬ様子に、後を付けて来た凜子がそこに居た。

「凜子さん!」

「身勝手よね。それじゃあなたの舅と同じじゃないの?」

「・・・」

「死ぬのは止めないわ。でも、けじめを付けてからにしなさいよ!」

「けじめ?」

「犬死するの?」

「・・・」

「舅をこのまま生かしておくの?」

 晴美は凜子の言葉に、決意したはずの舅への復讐心すら失っていたことに気付いた。つらい現実から早く逃れたいという思いに呪縛されていた。このまま死ぬことは、凜子の言うように、ただ犬死を容認するという事だ。

「私…記憶を失っていたけど、ゆうべ全て戻ったの」

「・・・」

「私は凜子という名前じゃない。凜子さんという名は、私を助けてくれた坂巻さんの娘さんの名前。私は記憶が戻るまで娘さんの名前で呼ばれることになっていたの。坂巻さんの娘さんは…昔…亡くなったの。私の名前は小柳操…」

「小柳操さん!?」

「私もレイプされたの」

「・・・!」

「阪神大震災の時、私は初めてのボランティアで…相手もボランティアに来ていた。でも、彼らの目的はレイプ…」

「彼ら !?」

「複数の男たちに襲われたの」

「操さん…」

「私も死のうと思った。でも、悔しくて…死んだら私に起こった忌まわしい事実は消されてしまう。そしたら、やつらの思うツボなの。このままでいいはずがない。法に訴えても、やつらの罪に見合った刑が下されるわけではない。誰も手助けなんてしてくれない。被害者が自ら報復するしかないの。やつらは震災をレイプのチャンスだと思っている。火事場泥棒とレイプをするために、被災地を渡り歩いているクズなの! 誰かが抹殺しなければ被害を受けて泣き寝入りする人が次から次と増えるの! やつらを抹殺するのは被害者の義務なの!」

「・・・」

「あなたがここで命を絶って楽になりたい気持ちは分かる。さっきも言ったように命を絶つのを止めやしないわ。でも、そうしたら、それはあなたをレイプした舅と同じよ。いや、舅以下だわ」

「私が舅以下 !?」

「そうよ。あなたはその子を殺そうとしているのよ。その子に何の罪があるの!」

「でもこの子はきっと…」

「きっと、何?」

「・・・」

「きっと分かってくれるとでも思っているの? ひとり取り残されたその子が路頭に迷うとでも? 随分甘い考えで人一人殺すのね」

「この子は私の子なの!」

「違うわ! あなたが産んだ子ではあっても、あなたの所有物じゃないわ! あなたが産んだ以上、少なくともその子が成人するまで育てる義務があなたにはあるのよ!」

「でも…置き去りには出来ない!」

「順番が違うわ」

「順番?」

「あなたには、死ぬ前にやらなければならないことがあるでしょ」

「・・・?」

「駆除よ、この世のゴミの駆除。死ぬ前に舅を抹殺しなさい! 死ぬ前にその子を成人させなさい! あなたが死んでいいのはその後よ!」

 晴美には返す言葉が無かった。操の言うとおりだった。美弥の事を考えていなかった。

「私一人の力で何が…」

「ゴミは駆除業社に依頼するのよ」

「・・・?」

「避難所はどこも同じ。日が経つに連れて避難者の理性が崩壊して段々狂っていくの。そして弱い者から順に犠牲になって行くの。被害者はあなただけじゃないのよ。私は絶対に加害者を逃がさない。今夜、被害者たちや賛同者の秘密の集まりがあるの。私が依頼した駆除業者も来る。無責任に死にたいなら仕方がないけど、考えが代わったら出席して」

 凜子こと小柳操は、そう言うなり嫁入峠を下りて行った。

「駆除業社 !?」


 その日の深夜、避難所はいつものように人いきれの闇の中に沈殿していた。権田原はいつもの一角から響く耳障りないびきに殺意を覚えながら眠れずにいたが、その夜はいびきが急におとなしくなった。何となく違和感を覚え、周囲に目を凝らすと、影が一人、また一人と立ち上がり気配を殺して一方向に向かって行くシルエットが見えた。権田原は何の根拠もなかったが、もしかすると時世に会えるかもしれないと、気付かれないように最後尾に付いて後を付けることにした。

 一行は深夜だというのに明かりの点いた集会所に入って行った。中を覗くと、凜子こと小柳操・風間謙作・菅井登喜雄・重森百合・川島茜・上原久代、遠山美穂、香山マリ・佐山恭子・菅井武治、美知夫妻・足立美紀子らが集まっていた。突然、権田原は後ろから声を掛けられた。

「権田原さんも来てくれたんですか! さあ、中へお入りください」

 坂巻慎介と芳乃夫妻が立って居た。外から覗くだけにしておこうと思っていた権田原は、坂巻に促されるまま中に入った。すぐに時世の姿を捜したが居なかった。

「そうだ!」

 権田原は坂巻に伝えなければならないことを思い出した。避難所で震災後に起こる様々なことを…特に脳卒中や肺炎のリスクが高まる深刻な事態が間もなくやって来ることを伝えなければならない。

「あの…」

 とは言ったものの、どう話せばいいのだ。10年未来からやって来て、震災後に起こった事をこうだああだとでもレクチャーするつもりなのかと、次に発する言葉が見つからないまま権田原は止まってしまった。

「兎に角、奥へ入って、入って!」

 坂巻に促された権田原は奥に進むしかなかった。空いている席に着くと、美弥を抱いた片桐晴美も現れた。

「晴美ちゃん、よく来てくれたね」

 坂巻は優しく受け入れた。晴美は操に目を合わせて丁寧に一礼すると、操は微笑んで頷いた。集会室ではすぐに操の説明が始まった。

「私はフリーのジャーナリスト・小柳操と申します。ここにはボランティアで来ましたが、真の目的は捜している人間への報復です」

 “報復” という言葉は強い言葉である。しかし、会場に集まった被害者たちは誰もがその言葉に縋る事情があった。

「私は過去に、同じボランティアで来ていた人間にレイプされました。妊娠が分かり、やむを得ず中絶しましたが、運悪く、以来子どもを産めない体になってしまいました。」

 会場の空気は一段と張り詰めた。

「私の一生に大きな枷を負わせた加害者は立件されましたが、判決は懲役5年、執行猶予3年。到底納得のいくものではありませんでした。震災から免れた人が集まる避難所でのトラブルは “同調圧力” というやつで、意識的に黙認され、日を追うごとに無法地帯になっていくのは皆さんも周知の事と思います。震災の惨禍の被災地では避難所での被害に声を上げても届きません。避難所という隔離された場所では、その中での被害より、震災で被災した悲しみの優劣で全てが判断されます。避難所での被害は、加害者より被害者自身の責任であり、自らの不注意が招いた不運だとしか避難所の人々は考えなくなります。そして一番の問題は、仮設住宅に移動になったら、避難所での忌まわしいことは全てなかったことにされます。それが今まで私が各地でボランティアをして体験し、この目で見て来た避難所の公にならざる現実です」

 小学6年生の娘を失った菅井武治が堪らず核心に触れて来た。

「加害者に報復するにはどうすればいいんですか!」

「何もせず、何も言わず、任せてくれればいい」

 途中から避難所に入って来た男が口を挟んだ。“あの男 !? ”…権田原の顔が厳しくなった。ふと坂巻夫妻に目をやると一瞬驚いたようだがすぐに平静を装った。そして無表情のまま次第にその視線は厳しくなっていった。坂巻は娘の凜子を死に追いやった鷲見貞夫の片割れが現れたことに歓喜し、抹殺の時を窺って息を殺すことに徹しているかに見えた。権田原には坂巻の心の動きが手に取るように分かる。十年後に坂巻が埠頭で轢き殺した “あの男” に間違いないと確信したが、住民たちは見知らぬ男の登場に警戒感を持った。土地の有力者の風間のドスの利いた声が響いた。

「あんたは誰だ」

 緊張した会場の空気を察した説明係の “凜子” こと小柳操が間に入った。

「彼は熊代善治さんと言って、私とは過去に避難所での実態レポートの取材を通じて知り合いました。震災のボランティア経験と傭兵経験を活かし、現在、震災被害者に安全な私営避難所の提供などをする民間軍事会社を経営している方です」

「熊代です。今回、私は避難所での様々な被害を受けた方々のために “報復同盟” を作るという小柳さんの考えに賛同してここに参りました」

「先程も触れましたが、私は阪神大震災でボランテァを騙る外国人犯罪グループのレイプ被害に遭いましたが、そればかりではなく、家族全員が彼らに命を奪われました。震災が起こる度に彼らを追ってあちこちボランティア要員として入っていたんです。そしてここに来た夜にやっと彼らを見付けました。しかし、結局彼らの返り討ちに遭って瓦礫に捨てられてしまいました。命からがら避難所に辿り着いて坂巻さんご夫妻に助けられましたが、ずっと記憶を失っていました。でも坂巻さんのお陰で奇跡的に回復出来たんです。皆さんもそれぞれにこの避難所で取り返しの付かない深い傷を負っておられると思います。避難所という所は安全な筈なのに、実は女子供にとっては恐ろしい所なのです。皆さんがよくお分かりの事です。しかし、報復するとしても、私たちだけでは絶対に無理です。専門家に頼るしかないんです。記憶の戻った私は、以前に取材協力してもらった熊代善治さんに協力を求めました」

 “坂巻”という名を出され、“凜子”の一件を熊代に気付かれないか心配だったが、熊代は全く反応しなかったことに、坂巻夫妻は怒りと安堵が入り混じった。

「専門家だか何だか知らないが、金が掛かるんだろ。そんな金、どうするんだよ。震災に遭って我々には一円の金もないんだ」

 菅井登喜雄が憮然と吐き捨てた。

「費用の面で皆さんにご負担は掛けることは一切ありません。その代り、被害の情報を出来る限り教えて欲しいんです。避難所でのレイプ被害の実態を記事にしてシリーズで全国に伝えて行きたいんです。勿論、被害者の名前は絶対に公表しません。そしてその記事が風化するまでの間に報復を完結させたいと思っています」

「その人に出来るのか?」

「民間軍事会社とは、そういう会社なんですよ。言葉は悪いが、後腐れなく解決するには、狂人は抹殺以外にないんです」

 “抹殺” という言葉に、室内の空気が一気に張り詰めた。しかし、誰も反論する者は居なかった。寧ろ “抹殺” という究極の響きは被害に遭って打ちのめされている心に一点の光だけか風穴をあけてくれた。

「皆さんの手は汚させません。恐らく記事がシリーズで連載され、大震災のほとぼりが冷める十年後、短期間の間に次々に皆さんの憎き加害者たちに天罰が下ります。但し、ここで話し合ったことは今からなかったことにしてください。もし、話を他に洩らそうとすれば、その方にも天罰が下ります」

「穏やかじゃねえな」

 菅井が吐き捨てた。重森百合が力なく発言した。

「でも、私はお願いしたいです! 匿名にしてくれたら取材にも応じます!」

 川島茜も続いた。

「私も!」

 上原久代が立ち上がった。

「私はこの手で…でも、悔しいけどそんな力なんてない」

 遠山美穂と香山マリも立ち上がった。そこに風間が分け入った。

「ちょっと待ってくれ。気持ちは分かったが…ここは一旦地元の者だけで話した方がいいんじゃないのか?」

 そう言って風間は操を窺った。操も熊代も無理強いの姿勢はなかった。

「そうですね」

「私は居ない方が良さそうだ。必要なければ、明日帰ります」

「それまでに決めろという事か」

 風間の言葉に、熊代は微笑みながらその場を去った。


 熊代は坂巻との過去の一件は疾うに気付いていた。法廷では2度あっているがそれだけではなかった。坂巻の予想どおり、鷲見とはこの避難所で合流予定だった。鷲見も熊代の経営する民間軍事会社を通してジャーナリストの操と顔見知りだった。一足先に着いた鷲見は久し振りに操に合った。しかし彼女は記憶喪失となっていた。そんな操に鷲見は元来の病気が出た。そして坂巻に現場を発見され、死の鉄槌を受ける羽目になったのだ。

 避難所に鷲見の姿がないことに熊代は違和感を覚えた。さらに避難所にはあの坂巻がいた。集会所を出た熊代はまさかとは思ったが遺体安置所に向かった。そして鷲見の遺体を発見した。熊代は坂巻に依頼された風間一派の仕業と睨んで身の危険を感じた。しかし、操から提示された好条件の報酬には魅力があったため、仕事を請け負う約束をしてそのまま避難所を去った。


 権田原は十年後に復讐が実際に起こった事も、熊代の運命も知っている。熊代は危険を察知したとはいえ、まさか十年後に坂巻に殺されようとは思ってもいなかったろう。予知夢で見せられた一連の連続殺人事件の真相が明らかになったとはいえ、鑑識であろうと警察官の立場として十年後に起こる事件を未然に防ぐ手立てを考えなければならないかもしれないが、権田原にはそうした行動を起こす気は一切起こらなかった。


 熊代が集会所を去ってから、会場には暫く張り詰めた空気が漂った。

「大丈夫なのかね、あの人は?」

「私は他人を信用しません。でも、あの人は約束を守る人です。報復の決行は、震災の恐怖が風化し始める十年後という約束をしました」

「十年後か…随分遠い話だな。本当に信用できるのか?」

「信用できます。皆さんは何か要求されましたか? 敢えて要求されたとすれば、何もアクションを起こさないでくれという事です。もし約束が履行されなければ私に覚悟があります」

 小柳操は断言した。坂巻は静かに話し出した。

「我々にとってあまりに虫のいい話だ。信用できない…が、私は操さんを信用します」

 10年後の結果を知っている権田原も何とかしなければと思った。

「皆さん、メリットを考えましょう。皆さんは報復実行までの十年間、立ち上がる事だけを考えて生きられるということではないでしょうか? 彼が行動することを信じれば、十年間耐える意味がある。被災すると突然日常が消える。それまで愛想良く暮らしていた隣人が急に獣に変わる。普段の常識が通用しなくなる。人前で平気で女を犯すやつがいても、みんな見て見ぬ振りだった。避難所から仮設住宅に移ったら、それらの事は全てチャラになる…そう思っているやつらがいても不思議はない。しかし、十年後に復讐劇が起こると信じれば、それらの憤りに堪えて行くことが出来ます」

 娘を失った菅井武治の妻・美知は涙ながらに訴えた。

「私は信じる! なかったことには絶対に出来ない! 十年後に “楽しいこと” が起こるとすれば、つらくても私は生きられる! 十年間あいだを置くということはそういう意味もある。十年経っても何も起きなければ、私は自分で立ち上がる。十年間、娘の復讐の準備だって出来るわ!」

 声を絞り出した美知の訴えには、集まった誰もが納得した。操は大きく頷いた。

「皆さんには信じて耐えて生きて欲しいの。彼は必ず約束は守ります!」

 再び会場の空気が動き出した。操は徐に話し始めた。

「皆さんはショックを受けるかもしれませんが、70代の高齢女性もここで性被害を受けています。彼女は自身が若い女性でないことが恥ずかしくて誰にも言えず、被害届も出せずにいました。それも一人や二人じゃありません。私が記憶喪失で部屋に閉じ籠っていた時、そのお婆さんたちがこっそり励ましに来て、独り言のように呟いて行きました。避難所では理性を狂わされるんです。かといって、絶対にそれを見過ごしてはならないんです。この事実は全国の人たちに知ってもらわなければならないんです。10年後の“抹殺”事件によって風化は悉く蘇ります」

 そしてまた重い空気が流れた。風間は出席者たちに促した。

「この避難所で強いられたことは忘れてはならない。やはり、彼を信じて見よう。それまでの十年間、一所懸命生きて見ようじゃないか!」

 出席者たちは全員、生き続けるために賛同した。秘密の集会は終わった。それぞれがそろそろと避難所の中に散って行くと、あちこちから好き放題響いていたいびきが静まりかえった。

 権田原は坂巻に呼び止められた。

「まだ見つかりませんか?」

「…はい」

「なぜ時世さんをお捜しなんですか?」

 権田原はまた言葉に詰まった。どう話していいのか迷った。

「ここでの暮らしは今日で最後ですが、仮設住宅に移ってからも捜されるんですね」

「ええ、そのつもりです」

「早く見つかるといいですね」

「見つかるまで捜します…妻になる人なので…」

 そうなのだ。時世は掛け替えのない妻になる人なのだ。

「そうですか、婚約者さんだったんですか」

 お互いに会話がつらくなった。今まで見つからないという事は、生存の可能性は極めて低いということを意味している。権田原が心に抱いていた最悪の覚悟だったが、坂巻の懸念はそれとは少し違っているように見えた。

 権田原は坂巻と別れて就寝前のトイレに向かった。そして目を疑うような光景に出くわした。そこで時世が何者かに強引にトイレに引き入れられるのを目撃してしまったのだ。権田原は急いで後を追った。ドアが閉まった。

「開けろ!」

 何度もドアを叩いたが埒が空かないので、ドアを思い切り蹴破って入ると、そこは元の世界だった。

「いかん! 今はこっちの世界に戻ってる場合じゃない!」

 咄嗟に振り向いたが、自分の意志ではどうにもならないことだった。権田原は自分の部屋に立ったまま、茫然となった。


 心に大きな棘が引っ掛かったままの日常が過ぎて行った。事件もなく、携帯電話で呼び出されることもない9時5時の生活が続いた。


〈第5話「復興」につづく〉

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